六.邂逅あるいは再会

   六.邂逅あるいは再会


 レイジは今までにない感情に見舞われていた。それを自覚したのは、昨晩死亡した女の娘が、早くも毅然とした態度で弟妹たちの世話に奔走している姿を見た時だった。


 彼女は決して強いとは言い難い見た目をしていた。か細い声で助けを求めていた初対面の時など、触れれば折れそうなほどに華奢な体格は、性格と一致しているように思えた。しかし、今はどうだ。誰かの指示を待つでもなく、役割を担ってそれに従事している。


 レイジは何事かを話しかけようとしたが、彼女は涙を堪えて頭を下げ、すぐに仕事に戻っていった。今は昼食の分配に当たっている。つい一日前にはソラの後を追いかけて笑い声を上げていたのが、まるで嘘だったかのように。


「意外かい?」


 マスクをしていないカルミアが、私室でレイジに問う。


「妹たちは強いだろう。ここではみんなそうさ。そうして生き抜いている。そうやって生き抜いていかないといけないんだよ」


「何故、と訊いてもいいか」


「また、あるいは、まだ、クスリを使って蘇生させなかった理由について訊きたいのかい?」


 首を横に振るレイジ。


「その考えに至った理由だ」


「それは、まあ、いくらでも言葉にできる。それが真実かどうかは置いておけば、星の数ほど口にすることができる」


 爪の先を気にしながら、レイジの目を見ずにカルミアは続ける。


「つまらない話さ。そうだね……」


 カルミアが遠くを見据えるように目を細めると、少しの間、考え込む素振りをした。


「そう、話はこうだ。あるところに仲の良い少年少女がいた。少年が突然、少女の前で捕まった。『こいつはなんらかの役に立ちそうがから、俺が預かる』なんて言う男がそうしたんだ。少年は抵抗したが、力の差は歴然だった。それでも抵抗するから少年は胸を斬られた。少女はそれを見ているしかなかった」


 おしまい、とカルミアは両手を広げて見せる。それに対してレイジは首を小さく傾げる。


「男はどうしたんだ」


「少年の体を持って、どこかへ消えていきました、とさ。どうだい、面白くない話だろう。まあ、そんなわけで、少女は諦めがついたのさ。色んなことへの執着がね」


「その行き着いた先が、人が死ぬべきだというあれか」


「ちょっと誤解があるけれど、まあ、そうだね。人は普通、大怪我をすれば死ぬ。治療が施せる土地であれば、そうすればいい。それで助かるなら万々歳さ。でもね、いつまでも蘇生できることが当たり前だと思っていれば、いつか足元を掬われる。それがここの、東京の当たり前であるべきだと、あたしは思っているのさ」


「それでも救える命が、シリンジ一本で救える命があれば、救うべきではないのか。あの女は非戦闘民だった。死ぬ理由はないはずだ」


 は! といつものようにカルミアは一笑に付す。


「二度も言わせないで欲しいね。『ここの』当たり前だ。『ここの』ルールだ。少なくとも、あたしらガーデンはそうしている。ガーデンの人間として動くつもりがあるなら、青臭いことは言いっこなしだ」


「俺は……お前らのやり方には賛同しかねる」


 鋭い視線がレイジを射抜く。


「ならあんたは今までに殺してきたgarbageたちの命の責任を取れるかい? 言うまでもなく、彼らはほとんどが非戦闘民だったはずだけどね」


 沈黙が部屋に充満した。質問に対する答えはノーだ。失われた命に対して相応の対価を支払い、責任を取るということなど、決してできはしない。だからこそ、レイジは言葉を失ったその表情に、自己を論理で守れないということを滲ませてしまう。


 カルミアが視線を切った瞬間、レイジはいくらか安堵していることを自覚した。自身の弱さを後押ししてしまうことに気付き、顔が曇っていく。


「さあ、この話はお終いだ。約束は約束。カグラザカへの仲介をしよう」


 マスクを両手で弄びながら、カルミアがそう言う。それから壁に貼られた紙面の地図を剥がすと、作戦行動を指示する時のように机上に広げた。


「まだ興味があれば、だけどね」


 カルミアの挑戦的な目つきに、レイジは立ち上がり、当初の目的を心に留め「当然だ」と言い放った。今、彼が思い巡らせるべきは、ホームにある、護るべき存在のことだ。そうやって、彼は自分の中にある問題意識を心の奥底に仕舞い込んだ。


「カグラザカとは、この交差点で横断歩道の信号機越しにコミュニケーションを取っている。一週間の内、日曜の晩は青信号が点滅し続ける。その時に代価を隠しておけば、翌日にはそれに応じた銃器や弾薬が変わりに置いてあるって寸法さ」


「本人と直接交渉するにはどうしたらいい」


「前例がないからね。なんとも言えないよ。真夜中に見張っていたこともあるが、当然のごとく、その日は取引不成立だった」


 出会った経緯について訊ねても、取引方法の簡素なメッセージが物資と共に渋谷駅に忽然と姿を現しただけだ、と伝えられる。


「……とにかく、現地に行かないことには、ということだな」


 そういうことだね、とカルミアは言い、スーツを着込んだ。


「さて、忙しいことに今日は日曜だ。弾薬の補給もしたい。あんたも準備をしておくんだね」


 地下鉄のホームに戻ると、昼食を済ませた面々が食器を集めていた。その中には、件の少女の姿もあった。表情は固く、動きにも強張りがある。ふと、彼女に近づく人物があった。コルチカムだ。


 コルチカムは少女の両肩を掴み、膝をついて目線を同じ高さに揃えると、強く抱擁した。少女が食いしばった歯の間から嗚咽を漏らすまで、五秒もかからなかった。


「ふっ、うっううう……あああ……」


「強い子だ。強い子。大丈夫、皆があんたを護るから。大丈夫」


 呆然と立ち尽くすしかない自身を、レイジは、無力だ、と思った。コルチカムの発したような言葉を、レイジは持たなかった。エマに対してでさえ、ここまで安堵を与える言葉を用いられたかわからない。自分には関係のない場所だと思っていた、その実、確実に地続きであったこの世界で、彼にはできないことが眼前で行われている。


「にあ」


 ソラが一つ鳴き声を上げた。慰めのようなその声は、自身に向けられているようだ、とレイジは思った。



 その晩、カルミアとレイジは、ソラを伴い交差点に立っていた。一ヶ所、朽ちていない青信号が点滅している。


「今回の代価はリクエストのあったものだ」


「リクエスト?」


 かたわらには、人がゆうに一人入るだけの金属製ケースが置かれている。それを顎で示し、カルミアが言う。


「男の体を一つ、ということでね。丁度いいところに新鮮なのが手に入ったから、それを使うことにしたよ」


 ぎらりとした視線を感じ、レイジは死角となった位置でナイフの柄を探った。


「……ぷっ、ふははは。安心しなよ。あんたじゃない。昨晩の男の死体さ。まあ、もっとも」カルミアがなおも目元を光らせながら「あんたが立候補するならそれもまた面白いことになりそうだけどね」と続けた。


 レイジがナイフから手を離して、これが魔女と呼ばれる所以であるのかもしれない、と想像する。死体をなんら忌避しない、あるいは、尊重していないような素振り。


 それから、レイジは言葉を促した。


「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ? 代価を置いてここに棒立ちとなるのは賢い手だとは思えないが。防毒フィルタも無駄に消耗してしまう」


「あんた、トン・ツーには詳しいかい?」


「モールス信号なら一通り記憶素子に記録してあるが」


「なら、あれが何を示しているか、わかるんじゃないのかい」


 言われて初めて気付く。青信号が一定のパターンで点滅を繰り返していた。


「スイッチ、四……?」


「へえ! そういう意味だったのかい! あんたはやっぱり、いくらかは役に立つね」


 侮るような言い方に、しかし、レイジは反応せず、スイッチなるものを探した。カルミアと手分けするまでもなく、それはすぐに目に付いた。錆びつき、塗装の剥げ切った小箱が信号機の根元に付いている。


「渋谷の中に、歩行者用の横断補助ボタンがある信号機など、記録がないが」


「カグラザカの用意した物ってことだろうね」


 なるほど、外装こそ年季が入っているように見受けられるが、スイッチ自体はまだ真新しい。指示の通りにするべきか、レイジは一瞬カルミアの表情を伺うが、マスク越しではそれも叶わないということを思い出し、一息に四度、スイッチを押した。すると信号の点滅パターンが変化した。今度は「信号、中央」と表示される。


「中央っていうと、この辺かい?」


 カルミアが瓦礫の合間にゆっくりと歩み進むと、彼女はなにかを見つけた。


「ここ、踏み込めるようになってるね……」


 カルミアが足元のスイッチを入れると、今度は離れた信号機が点滅し、二箇所がさらにいくつかの指示を寄越してきた。始めに、近くの店舗跡で鍵を探してくること。次に、鍵に合うシャッターを見つけ出し、端末を探し出すこと。そして、最後に端末を拾得すると、表示された指定座標まで訪れることを求められた。


 男の死体が入った箱をそのままに、二人と一体は目的地まで歩いていく。


「なかなかこういうのは楽しくなってくるね」


 本心からか、カルミアの声は軽く弾んでいた。


「カグラザカは遊び心があるのか、それとも暇なのか。いずれにしてもふざけたやつだ」


 座標は意外にも、ガーデン本拠地からさほど遠くない位置を示していた。目的地は、排水のうまくいっていない、ライブハウスのような地下室だった。長年の雨で、入り口ぎりぎりまで有毒雨に浸水されている。


「さて、どうするね」


「この中を泳いで探索、というわけにもいかないな。お前の得物も遠くない将来に錆びつくだろう」


「そうだね。デバイスには何か表示されてるかい」


「【Wait a moment.】と」


 端末はかなりの旧式で、ソラに対応している端子が付いていなかったこともあり、それ以上の情報を得ることはできなかった。指示の通り、しばし待っていると、哨戒に当たっていたガーデンの女が通りかかる。マスク越しでは誰だか分からなかったが、声を聞いて判別ができた。


「姐様、何を?」


 スバルはレイジがカルミアに同行しているのに対して驚愕したように声を上げた。簡易的な防毒マスクの向こうから送られる抜け目ない視線は、レイジを見張っているように、彼には思えた。


「ああ、スバルかい。なに、ちょっとしたデートさ」


「デッ!? 姐様、やっぱり私はこの男のことを信用なんて……!」


「それはお前の感覚だよ。こいつはもうあたしのもんだ。心配などいらないよ」


 その言葉がむしろ不服であったようで、何かを言おうとしているのがわかったが、背を向けたカルミアがそれ以上口を開く余地を与えなかった。スバルはそれからコートのフードを目深に被り直し、そのまま踵を返す。


「デートね」


「デートさ」


 深く追及はせず、レイジは女の背中を見送った。


 ソラの耳がぴくりと動く。ほどなくして、レイジもその音を聴いた。ポンプの作動音だ。


「面白い仕掛けだね」


 地下室への入り口の水位がみるみる内に下がっていき、腐蝕された階段が明らかになる。そして、その先に扉が一つ。防音扉と呼ぶには大仰なハンドル付きの水密扉だ。


「レディ・ファースト」


「それには及ばないよ。淑女である自分はもう捨てた」


「そうか」


 ソラがレイジの肩に飛び乗る。どうやら、浸水域であった階段の汚染度がソラの防汚コーティングを上回ると判断したようだ。


「その猫、よくできているね」


「ナガレという男の趣味だ。無駄によくできている」


「一度会ってみたいもんだ」


「随分な変わり者だがな」


「なおん」


 創造主への言葉に対し、不服そうな声を上げるソラを肩にしっかりと掴むと、レイジは階段を降り、ハンドルに手をかけた。


「こいつは、なかなか面白いことになったね。地下にこんな場所があるなんて知らなかったよ」


 地下室は、果たして、部屋ではなかった。完全に乾き、電灯のついた地下通路に、レイジはソラを下ろす。難なくソラはそれに従ったため、マスクを外してもよいものだと判断した。ケープのフードを下ろし、彼はカルミアになんとはなしに言う。


「お前もそれを外したらどうだ」


「外ではこれがあたしの正装でね。無防備に素顔を晒さないのがあたしの姿勢さ」


 通路は真っ直ぐ続いている。数百メートルはくだらない通路の向こうには、もう一つ水密扉が見えた。


 空気はいくらかのカビ臭さを含んでいたが、打ちっぱなしのコンクリートで造られた壁面にはシミ一つない。しばらく誰にも使われていなかったようだ。だが、床には排水口が等間隔に並び、維持のために必要な設備は揃っているように見えた。


 道すがら、カルミアが口を開く。


「あんた、女はいるのかい」


「それを訊いてどうする。お前になびかない理由でも知りたいのか」


「ただの興味さ。他意はないよ」


 並び歩きながら、レイジは端末を覗き込んだままの視線を動かさず、答える。


「一人、護ると決めた女がいる」


「どんな女だい?」


 エマの体内にある再生臓器のことを思いながら、レイジが次のように口にした。


「お前の信条を粉々に打ち壊す女だよ」


 それがどういう意味なのか思案するカルミアを無視していると、二人は最奥部へと到達していた。


 突如、ぎゅる、と音を立てながらハンドルは独りでに動く。それに、二人は身構えた。ハンドルが回りきると、水密扉が軋みながら開いた。


 ドアの向こうから青白い光が差す。


 カルミアとレイジはどちらからともなく目配せをして、その先へと歩を進めた。


『こんばんは、二人とも。遠慮なく上がってくるといい』


 どこからともなく響く男の声が言う通り、そこには螺旋階段が設えられていた。


「カグラザカ、か」


『そう、私がカグラザカだ。故あって私からそちらへ出向くことができない非礼を詫びよう。さあ』


「……ソラ」


 ソラにトラップを探知させるが、一切が反応せずに、しばらくしてから、いつものように一声鳴いて危険が無いことを知らせてくるのみだった。


「行こうか、レイジ」


「ああ」


 螺旋階段は二階層分ほど続いた。そして、階段が終わる頃には、青白い光は一層強くなっていた。


 登りきった先の、モニタのみが並ぶ一室に、男はいた。


『来たね、クリーナー。そして、ガーデンの首魁』


 ノイズ混じりの音声を発する機械が喉元に装着された、初老の男。長く伸びきった白髪頭から覗く皺の刻まれた顔。レイジの記憶素子に記録されたデータが瞬時に目的の人物との類似点を洗い出す。老化による経年変化こそあれ、それは、ハセクラに相違ないのだった。


 レイジは予断なく周辺の様子を探りながら、即時攻撃も辞さない構えを取る。


『レイジくん、と言ったね』


「名乗ったつもりはないんだがな」


 モニタには東京都の各地が表示されている都合上、それは不要な言葉であると思えたが、そうでもしない限り、レイジは自分の動きを律することができなかった。殺すことはまずい。その知識が必要だ。しかし、逃すこともしてはならない。


 だが、その折衷案として、脚を文字通り削ぐこともできなかった。何故か。それは、ハセクラには既に脚がなかったからだ。それでも、どうにかしてこの男を捕えてしまうことが肝要であった。


『驚いたかね? 思ったような姿ではなかったようだからね。しかし、驚きは人生に彩りを添えると、私は思うんだが』


「……?」


 何かが、引っかかった。


「カグラザカ、まずは礼を言うよ。これまでの銃火器の配給、助かった」


 レイジの違和感を知ることもなく、カルミアは親しげに声をかける。


「男の死体はいつものところに置いてある。いつもの品も一緒だ」


『さすがだ。魔女の異名は伊達じゃない』


「よしてくれ。そう呼ぶのは敵だけだ。あんたはそうじゃないと期待してるんだよ」


 くく、と喉を鳴らすカルミアに、同じくしてハセクラも電子音声で応じる。


「それで、研究の経過はどうなんだい」


『サンプルは充分に揃ったと言える。もう少しで抗血清が完成する。そうすれば君の願いは叶う』


 抗血清とは、ある種の抗原に対応する抗体を含んだ、他の動物種の体内で作られる血液成分の一部だ。いくつかの病原体への有効な治療手段として、抗血清は薬品として扱われることが多い。


 その知識を、記憶素子のデータベースから引き出したレイジだったが、着目すべきはそれが何であるかではなかった。それが一体、何の抗原に対するものなのか、ということだった。彼の記憶の中には、東京都に蔓延する病など一つもなかったのだ。


『非常に困難な実験の数々だったよ。なにせ、あれは他者の中にあってもそれと認識されず、抗原としては特徴がないのが特徴だった』


「生物にはさほど明るくないけど、まあ、あんたならなんとかすると思っていたよ」


『分子生物学や生化学が近しい分野だと思う。信頼してもらえて光栄だよ』


「お前らは一体、何の話をしている?」


 本来の目的を保留し、レイジがついに切り込んだ。


「抗血清とは何かを治すためのものだろうが、東京には何かの病原体が蔓延しているのか」


『君は』ハセクラの目がレイジを貫くように定まり『少し黙っていようか』と締めた。


 思わず、ぐ、と息を詰まらせてしまう。身動きが取れない身体の老いた男が、身を竦ませるに充分な眼光を放っている。レイジは自身の動きに自信があった。想像の中だけでも、ハセクラを既に三回は殺せているはずだった。ナイフの投擲、接近しての首の切断、殴打。殺害の機会は数え切れないだけあった。


 しかし、それができない。何かがそれを押し留めている。まるで、誰かが身体を縛っているかのような感覚があった。目標の首はすぐ眼前にあるというのに。


「して、レイジ。あんたの目的は? 呆けているだけで時間がもったいない」


『ほう? 何を求めてここに来たんだね?』


 呪縛が解け、レイジの身体に自由が戻る。そして、驚いたことに、口が勝手に動き出した。


「ハセクラ、お前の首を貰い受ける」


 しまった、と思うのと同時に、カルミアが笑い出した。


「あっははは。藪から棒に面白いことを言うね! 誰の何を貰うって?」


『ふむ、そうか。レイジくん。君は、私を殺したいんだね?』


 ハセクラはカグラザカの名をすんなりと捨てて、なんと、笑った。笑みは柔らかく、しかし、目は笑っていない。だが、レイジは、作られたそれを心地良く感じていた。まるで父親に向けられたもののように。


 おかしい、おかしい、と内心で繰り返す。確実にレイジは自分の意思が揺らいでいることを不可思議に思う。


 自分は、何をしようとしている?


「ハセクラを、ころ、ころ、す……?」


 目眩がする。世界が揺れる。


 自分が誰をどうするんだ? 誰をどうするって?


 まとまらない思考の内にあって、レイジは嘔吐した。


「レイジ!? あんたどうしたんだい!?」


 カルミアの声を遠く聞く。


『どうも、まだきちんと機能しているようだね。レイジくん。安心したよ』


「おまえ。なにを、した」


 口元を拭うことすらできず、膝をつく。


 苦痛が襲いかかり、吐瀉物の中に倒れ込みそうになる。


『君はおかしいんじゃない。君はそうなるようになっているんだ。正常なんだよ、レイジくん』


 頭が割れそうに痛む。


 カルミアが何か言っている。しかし、それらは全てぼやけた雑音になる。


 反して、ハセクラの声は澄んで脳髄に響いていた。


『君は全くおかしくない。どこもおかしくない。そのように調整されているからね。君はここに来るべくして来た。そうするべくしてここまで生き抜いてきてくれた。いや、助かったよ、レイジくん。これで私の思惑通りに物事が進む』


「なん、だと……?」


 自らの吐き出した胃液に片手を突いて、睨み付ける。


『カルミア、君との話は少し後にしよう。今は私が話しているんだ』


 電光が走り、レイジの横にカルミアが横たわる。


『静かにしていてくれるかな。大切な話なんだ』


「ソ……ラ……なんとか、しろ……!」


 身体が動けばなんとかできる。このままいるのは明らかにまずい。絶対にこのままであってはいけない。


『ソラ? そこのアニマロイドかな? ほう、よくできている。作った人間と会ってみたいものが、それも今は後回しだ。さて話を続けよう。君の存在についてだが……む?』 


『レイ……。……ジ……レイジ! 君はそこにいるのか!?』


 ソラの首元から発せられたノイズの乗った声。ハセクラのものではない。だが、この声には聞き覚えがある。


「ナガ……レ?」


『レイジ! 見つけた、ニカイドウ! あの建造物だ! 突っ込め!』


『ふむ、残念ながら邪魔が入ったね。君もまた私の話が聞きたくなることがあるだろう。別の拠点で待っているよ。それでは、また会おう────』


「おい、待て。今、なんと……?」


 がごん、という轟音とともに、砂埃が部屋中に舞う。レイジが目を閉じた瞬間、ハセクラの姿は消えていた。そして、その行方を探っていると、そばに男が駆け寄ってきた。ナガレだ。


「レイジ! 無事かい!?」


 壁を抜いて現れたのは、装甲車両だった。それを認めた時、レイジはようやく自身の肉体が自由を取り戻したことを知る。


「ナガレ、お前、どうやってここに」


「ご挨拶だァな! 助けてやった礼もねェたァ、名前の上に『ブ』を付けとけよ、無礼児よう!」


「ニカイドウ」


 目をやると、運転席から体を乗り出してニカイドウがいつものように、にしし、と笑っている。


「ソラの信号を辿ってきたんだ。君が危険に陥った時、それを察知して発信するように設定しておいた。よかったよ、予想通り渋谷近辺にいてくれて」


「ナガレ、ハセクラを追え。まだ近くに、いるはずだ」


「この施設……! ハセクラの拠点か!」


「そりゃ無理だ、レイジ。そんな悠長なことしてたら外の連中にぶっ殺されっちまわァ」


 ニカイドウの言葉通り、二人が車で破った壁の外では騒ぎが起きていた。深夜の渋谷を歩いていた哨戒が、装甲車両の到来をガーデンに知らせたらしい。あるいは、彼女たちにすれば襲来だ。冷静ではいられないだろう。 


 レイジは室内の様子を見て、カルミアの無事を確かめたが、その状況と新たに現れたナガレとニカイドウの存在が、彼女に危害を加えた者たちだと誤解されることは容易に想像できた。


「そこに転がっているのは、まさかカルミアかい? 確かgarbageの中でも要注意人物の一人じゃあないか」


「ああ、俺の一時的なボスだった」


「ボス? それは一体どういう」


「兄さん、話は後回しってなァ! 乗んな二人とも、ズラかんぞ!」


 カルミアをそのままに、レイジは二人が乗ってきた車両に満身創痍の体をねじ込む。 そして、ナガレがソラを抱きかかえると助手席に飛び乗った。


 後部空間にはモニタと、レイジが愛用していたフルフェイスの防毒マスク、また、いくらかの装備品が搭載されているのが確認できた。


「さァてさてさてさて! ちィと飛ばすかんな! 舌ァ噛まねェようにしてろよ!」 


 わきわきと指を動かしてから、ニカイドウはハンドルを握りしめ、アクセルをベタ踏みした。そして、車両はレイジたちのいた建造物からバックで抜け出す。


「ニカイドウ、頼むからちょっとは安全運転、を、を、を!」


 真新しい瓦礫の山を乗り越える振動で、ナガレが言葉を途切らせる。


「オレっちがレーシングゲームで兄さんに負けたことねえことぐらい覚えてんだ、ろ、っとォ!」


 車両が全速力で百八十度ターンをすると、進行方向にガーデンの女たちが実弾銃を構えているのが見えた。


「ニカイドウ、できるだけ彼女らを轢くな。できるな」


「あァん!? できるかできねえか言やあできるけど、なんでだァ!?」


 放たれた銃弾が装甲車両の外装を打つ。


「できるな」


「ったくよう! わァったよ!」


 人と瓦礫の合間を縫って走る車両から後方を確認すると、早くもカルミアがガーデンの女たちに救い出されているのが見えた。それだけ認めると、レイジはモニタ前の椅子に腰掛け、嘆息した。そして、ハセクラの最後の言葉を思い出すのだった。


 ナンバー・ゼロツー、という言葉を。

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