永遠の呪いと祝福を


 結婚する。

 恋人の口から出てきたのは確かにそんな言葉で。

「意味が、分からないんだけど」

 頭が真っ白になるというのはこういうことを言うのだろうか。

 現実感なく、しかしその場に崩れ落ちてしまいそうなほどに心は揺れていて。

「だから、そのままの意味よ。結婚するからもう文葉とはいられないっていったの」

 無機質に響く『恋人』からの二度目のそれに

「それがわけわからないって言ってんのよ!」

 私はすみれの前で初めて声を荒げていた。

(なん……なのよ!)

 頭が真っ白で目の前は真っ赤だ。

 自分でも驚くほどに怒りがこみあげている。

「あんたは私の……っ」

 言ってやりたいことはあるのに、その先には何も続かない。

 胸の中で様々な感情が渦巻き、言語化できず唇を戦慄かせた。

「私の、何? 恋人だとでもいうの?」

「っ!」

 すみれの声が、私と違う冷徹な態度が今は癇に障り冷静さを奪う。

「もともと文葉とは自由時間での『暇つぶし』だったのよ。最初のころにいったでしょ。退屈だったからって」

 少しでも落ち着けていれば今のすみれが私の知るすみれではないと、わかったはずなのに。

「何よ、それ」

 この時の私はただただ翻弄されていて、乾いた声を出すしかできない。

「文葉と出会ったときには結婚するのは決まってたってこと。まぁ、確かに予定よりは早まったけど」

 すみれの言葉には虚実が混じっているはずだ。

 たった数か月の「交際」とはいえ、すみれを知っている。

 はず、なのだから。

「だから、今日で「遊び」はおしまい。今までのことは感謝するわ」

「そんなので納得しろっての?」

「納得してもらう必要はないわよ。なんなら手切れ金でも払う?」

(あぁ……こいつはっ…!)

 今のは『冷静』になれたからこその心でつけた悪態で。

 胸の中には乾いた風が吹く。むなしさという言葉が多分一番ふさわしくて、私は

「っ……!」

 すみれへと手を振りかざして。

 多分、その瞬間には本気でたたくつもりだった。

 でも、

 一瞬びくついたすみれと、私が手を止めた次の瞬間には覚悟ができているというような顔をするのが気に喰わなくて。

 いや、何よりこんなきれいな顔を傷つけたくなくて、振り下ろした手を力なく下ろした。

 それがせめてもの抵抗だったのかもしれない。

「……言いたいことはそれだけ?」

 この場でこれ以上何をするべきかわからなくて、そんな問いをする自分が滑稽だった。

 せめて必要以上にすみれに会えることに浮かれたりしてなければまた違った対応ができていたかもしれないが、そんな仮定はもう無意味で。

「……それだけよ」

 終始感情を乱すことのないすみれは抑揚なく言い放つ。

「……………」

 今すみれの仮面を外させるほどの余裕は私にはなくて

「……そう。なら……もう行って」

 今すみれが言われたくなくて言われたいだろう言葉を告げていた。

「ふみ……」

 と言ったのは気のせいだったか、少なくても私の耳にはっきりと届いたのは、

「……そうするわ」

 別れを肯定する言葉で、すみれはそのまま踵を返した。

 その背中が寂しそうに見えるのは……たぶん私の心がそう見せていて、そのまますみれの背中が見えなくなってもその場で唇をかみしめていた。


 ◆


 その後のことはあまり覚えてはいない。

 覚えていない、というよりも思考を止めて仕事を務めた。

 いつもよりも一生懸命に。

 考える余裕なんてあったら、何もできなくなってしまいそうだったから。

 怒り、悲しみ、無力感、喪失感、後悔、憎しみ、懺悔。

 いくらでも湧いてくる負の感情に押しつぶされてしまいそう。

 無視し続けることはできなくてどこかでは向き合わないといけないのもわかっている。すみれと相対した時に答えが、選択が正しいのか整理もしたい。

 だが、一人になってすみれのことを思ったらとても平静ではいられなくなるのも間違いなくて。

 私は。

「あのさー、文葉」

 目の前で早瀬が呆れ顔で呼びかけてくる。

「……………」

 私はそれを無視して、酒をあおり思考の森へと迷い込む。

「はぁ……ったく」

 不誠実な態度の私に早瀬は怒りを示すこともなく、目の前の料理をたべる。

「……………」

 私がすみれのことを考えるのに使った手段は人として褒められたものではない。

 一人になることを避けるために早瀬を店につき合わせた。

 唐突の誘いにも早瀬はひとまずは深く尋ねることなく、あおいちゃんのお店へと向かうとわざわざ奥まった場所を指定して気を使って見せた。

 早瀬としては相談してもらえるという目論見もあったのだろうが、私は何も語ることなくお酒に少しずつ口をつけながらすみれを思うのみ。

(……馬鹿みたいね)

 この一件に対する自分への結論はそこに結び付く。

 一度寝たからと恋人になったと浮かれ、この一週間大したこともせずに今日を招いた。

 すみれのいうことを全て鵜呑みにするのならそれこそ滑稽だがそこまで単純じゃないだろう。

「……ふ」

 自嘲し、再びグラスに口をつける。

「…………」

 早瀬は何も言ってはこずにそのまま思考の中をさまよえる。

 浮かれていた自分が情けなく、憎い。

 旅行を終えての一週間、会えばどうにかなると思っていた。あいつが抱えているものを一緒に背負ってあげられるのだが自惚れていた。

 恋は盲目、ではないがそんな近視眼的にしか考えられずに都合のいいことが起きるのだと思い込んでいた。

(そんな簡単なもののはずはないのに)

 もはや想像しかできないが、私がいたくらいで簡単にどうにかなるような問題ならすみれはあんなことにはなっていないはずだ。

 もっというのなら、すみれは問題を抱えていたからこそ「退屈」で私と出会ったんだろう。

(きちんとすみれに向き合ってれば……)

 そんな悔恨は無意味だ。

 出会った当時のすみれは変な奴くらいの認識しかできなかったのだから。あの時の私に、すみれにさほど興味のなかった時の私にすみれの「問題」を意識しろなんていうことは無理な話なのだから。

(……なのに、考えてる、か)

 どうしようもないことをどうにかしたいと考えている。

 未練の強さを物語るそれに

「は、…はは」

 再び自分を嗤う。

(無駄、なのに)

 もうあいつは決めたのだろうから。

 私に相談することもなく。

(……っ)

 思考がどんどんと暗い方向へと変わっていき涙がこぼれそうになる。

 泣いてもいいのだろうが、ただの意地だろうと泣いてしまったら何かが崩れてしまいそうで。

「……んっ」

 涙を推しとどめるかのようにグラスを飲み越した。

(あぁ……らしくない)

 酒に溺れて逃げるなど無意味だと思っている。そもそも考え事をしようとしているのにわざわざ自分で思考を鈍らせるようなことをするなど悪手でしかない。

 それでも止められないのは、他にどうしようもないと思っているからか。

「文葉さー、話してくれないのはともかく飲みすぎじゃない?」

 早瀬としては事情を話そうとしない私にかけられる数少ない意味ある言葉なだけだったのだろう。

 それだけなら気にも留めなかったが。

「そろそろやめときなよ」

「ぁっ……」

 勝手にグラスを取り上げられたことが、すみれと肌を重ねた時のことを思い出させて

「っ……く」

「っ、文葉!?」

 止めようとしていた涙を流させた。

 あの時、すみれはどんな気持ちだったのだろう。避けられない結婚を前に、何を思い一人酒をあおり、私と肌を重ねたのだろう。

 そして、どんな気持ちで私の前から去ったのだろうか。

「あ、は……」

 私の考えている理由はあくまで私が想像しただけで真実とはかけ離れているかもしれない。しかし、もしその一端でも捉えているのなら……

 愚かな自分を許せなくなりそうだった。

「文葉……大丈夫……なわけないか」

「…………」

 答えられる余裕はなく、さりとて人目をはばかって大きく泣くこともせずに数分気まずい空気が流れ、

「送ってってあげるから、帰ろ」

 早瀬に言われるままに店を出ることになった。


 ◆


 ついてきてとも、ついていくとも口にすることなく早瀬は私を家まで送ると部屋まで入ってくる。

 着替えるのも億劫で何をすることもなくベッドに腰掛けた私に、服を緩めるようにいい水を運んでくる早瀬。

(……これもあの時を思い出すわね)

 酔ってはいても思考を失ってはいなく、甘くて苦い思い出に再び心を痛める。

「文葉がこんな弱ってるのって初めて見るかも」

「……そう、ね」

 この歳にもなれば人前で弱った姿を見せることなんてめったにない。

 早瀬には比較的、いろんな姿を見せてきたしこうして今を見せられるのも他にはない。

 そんな相手がいるのは多分恵まれているんだろう。

「で、聞くまでもないかもだけど、振られたの?」

 ……ずけずけと人の機微に踏み込むところも含めて。

「そのくらいは聞かせてよね」

「…………」

 早瀬にもらったペットボトルを眺めながらどうするかを考える。

 こんな言い方だがこいつは私を心配している。これから私と接する上で何が起きたのかを把握しておきたいのだろう。

「結婚、するんだって」

「…お、ぅ……」

 できるだけ無感情になるように努めたそれに早瀬は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

「へぇ~、遊ばれ、ちゃったんだ……」

 結婚、という単語が出てくるのは想像の外だったのか聞いてきたくせに呆気に取られて何も考えてないような言葉が出てくる。

 その取り乱しに逆に私の方が冷静になってしまう。

「本人はそう言ってたわね」

 それが事実なのかは確かめていないが。

「私と会う前から結婚するのは決まってたらしいわよ」

 これはおそらく事実だろう。

「へぇ……そりゃ随分ひどいっていうか、あんまりな話だね」

「……ほんとうにね」

「そういうことする人には見えなかったけど、それがほんとならちょっと許せないかな」

 気づけばきちんと早瀬を見ていた私は、そこに含まれる本気を感じた。

 早瀬が私の立場になるのは半ば当然のことで、怒ってくれるのは早瀬が私を大切に思っている証でもある。

「……許せない、か」

 その感情はわたしの中にもあるけれど。

 早瀬と同じ意味ではない。

 単純にすみれだけを憎めたら楽だっただろうが、怒りは自分にも向けられてしまう。

(やっぱり……ひっぱたいとくべきだったかな)

 手を挙げたいわけじゃないが、激情を抱いていたことは伝えることができたはずだ。

「文葉?」

(それに……)

 もしあそこで感情の堰を切り吐き出せれば今とは違う心境になれていただろう。

 やっぱりあの時は突然の衝撃に頭が現実を受け入れるのを拒絶していたのかもしれない。

「……ちょっと、文葉?」

(あぁ、けれど……)

 もしかしたら二度と会わないのかもしれない。

 なら下手な勘繰りなどせずに自分の気持ちを言うべきだった。みっともなく心を露わにすべきだった。

 でも……結果は変わらなかっただろうと諦観する自分もいて。

(ぐちゃぐちゃだ)

 心の乱れを自覚してしまう。

 後悔は際限なく膨らみ、このままどうにかなってしまいそうだった。

 もしかしたら自覚なく涙でも流していたのだろうか。

「……文葉」

 耳に優しい響きが届いて。

「ゆき……早瀬」

 体を包むのは誰よりも身体のぬくもりを知っている相手で。

「…………」

「…………」

 背中に回る早瀬の腕、正面で感じる柔らかな肢体と嗅ぎなれた香り。

 ……何も考えずにいさせてくれる早瀬の優しさ。

 もし、もし今早瀬が「慰めてあげようか」とでも口にしたら甘えていたかもしれない。

 もしかしたら、心のどこかではそれを期待して早瀬を誘ったのかもしれない。

 でも、それはきっといけないことだ。

 早瀬に甘えるのならいい。そのまま早瀬に傾倒できるのならそれもまだましだ。

 私が今そういうことをするのならそれは、自慰であり自傷になってしまう。

 早瀬を、親友をそんな風に利用してはいけないから。

(今は、何も言わないで)

 それを願い、早瀬の抱擁を受け止めていた。


 ◆


 早瀬はあの日、それ以上は聞かずに朝になると帰っていった。

 親友の領分を超えなかった早瀬に心からの感謝を抱いたが、早瀬が何も感じなかったかと言えばそんなはずはないのだ。

 それを思い知るのは数日後のこと。

 悲しいことに心が傷ついてても仕事には出なきゃいけないもので、その日も普段通りに出勤をしていた。

 もちろん頭の中にはすみれのことはある。しかし、どう向き合うべきかも何をすべきかも見えてはおらず、何もできないでいるのが現状。

(……せめてちゃんと話したいと思うけれど)

 それが無駄なことだとしても、あのまま終わりになるのは嫌だから。

「……ふ。余計に傷つくだけかしら」

 結果が変わらないのなら、互いに傷を確認するだけになる可能性もあると訴える自分もいる。

さらにはこのまま会わずに終わりにした方がいいという自分すらいて、自己嫌悪にもなる。

 今は辛く悲しい。

 だが、それが一生続くかと言えばそうではないだろう。

 怒りも悲しみも永遠に抱き続けるなんてできはしない。時間が経てば大きな感情だろうとも少しずつ削れ、薄れ、小さくなっていくもの。

 ましてすみれとなんてたかだか数か月の付き合いだ。この気持ちを一生引きずるなんてないはずだ。

 って、納得できるほど聞き分けもよくないが。

(堂々巡りね)

 余計なことを考えてしまっている。

 仕事に集中していればそんなこともないっていうのに。

「ったく、早瀬のやつ」

 私は図書館のある一角で毒づく。

 仕事をしていればさっきみたいなことを考えずに済むと業務中はなるべく真面目に働いていたが、少し前早瀬に呼び出されて今の場所。……すみれとよく待ち合わせをした本棚の間。

 ここがどういう場所か早瀬だって知ってるくせにここに呼び出すとは悪趣味なことだ。

 それとも「すみれ」のことを話させる気だろうか。あの日こそ、私を抱き留めるだけで済ませたが早瀬としても完全に納得はしてないだろうし、「これから」についても早瀬は気にしてくれてるんだろう。

 どこかでは話をしたいと思っててもおかしくはない。

 が

(……早瀬のやつ)

 先ほど口にしたことを今後は心の中で呟く。

 それも苦々しく。

「文葉が話あるんじゃなかったの?」

 それはそうだろう、なんせ予想外で安易にはして欲しくなかったことをしたのだから。

 通路から隣の本棚の間へとやってきた人の気配。そこから聞こえてきたのは耳なじみのある声。

「あ、それは嘘。あたしの大事な文葉のことを傷つけたおねーさんとあたしが話したかったから来てもらっただけ」

 今の二言で何となくの状況は飲み込む。

 仔細は不明だが早瀬がすみれを呼び出したのだろう。

 「私の為」に。

 私への気持ちも恩もある早瀬としてはその行動はわからないでもないが

「っていうか、文葉が話したいことがあるって言ったらのこのこ来ちゃうんだ」

(…………)

 私の疑問だったことをちょうど口にしてくれるやつだ。

「文葉のこと、遊んで捨てたくせに」

 ……こっちは言わなくてもいい。

「っ……」

 私の知るすみれならわかりやすく悔しそうに顔を歪めるはずだが。

「あはは、おねーさん。文葉の言った通りわかりやすい」

 どうやらこの前の「白姫文葉用」のすみれではなく素の状態らしい。

「……文葉がいないなら帰るわ」

「えー、少しは話させてくれてもいいと思うけどなぁ。文葉が傷ついてるのはほんとだし。何よりあたしの文葉を傷つけて黙ったままじゃあたしの気が済まないし」

「……その言い方やめて」

(あからさまな挑発でしょうに)

 私の時にはそれこそ何回もシミュレートをし、メッキを張っていたんだろう。

「その言い方って? あたしの文葉、ってこ……あれ」

 この後、早瀬がどんな展開を考えていたのかは知らないが、さっさと出てやるべきだ。

 すみれが早瀬に勝てるとも思えないし。

「文葉~、ちょっと出てくるの早いんだけど~」

 二人のいる本棚の間に来ると、私の姿を確認した早瀬に邪険にされるがそれを無視しすみれを視界に捉える。

「言っておくけど、早瀬が勝手にやったことよ。私ならこんな回りくどいことはしない。すみれならわかるわよね?」

「……知らないわよ。文葉のことなんて」

 不意を打たれてはこの前のようにはいかないらしい。

 それを確認したのち、早瀬へと視線を送り、どっか行けと伝える。

「えーと、あとは若いお二人で……」

 下らない捨て台詞には怒りを感じないでもないけれど、今は目の前のことだ。

(心の準備なんてできてない)

 それが正直な気持ち。

 話したいという感情はあれど、その気持ちがどこに向かうかなんて自分でもわからない。

 問い詰めて、本音を聞きだしたところでそれが何になるのか。

「……………」

 だが、こうなってしまった以上何も言わないわけにはいかない。

(まずは)

 こいつの薄っぺらい仮面を引っぺがすところから始めよう。

「……この前のが演技だったってくらいわかってるわよ」

「っ……」

「結婚は、ほんとなんでしょうけどね」

 あの日のすみれの心は大体推測できているつもりだ。

 必要以上に使っていた強い言葉、冷静すぎる態度。

 それと、私を侮辱しながら手を挙げられることには覚悟している矛盾。

 あの場ですら私はそれを理解し、すみれの身勝手な結論に私は絶望したんだ。

「自分が悪者になれば後腐れなく終われるとでも思ったの?」

 すみれの態度の理由は大方こんな所だろう。

「あんたはそんなに器用な人間じゃないわよ」

 余計なことを強気に言う必要なんてないはずだが、つい言葉が抑えられなかった。

「……仕方ない、じゃない」

 ようやく私に向けた言葉は不安を滲ませたもの。

 そこにいたのはこの前とは似ても似つかない少女だ。

「…家庭の事情、ってやつよ」

(くっだらない)

 そこの詳細は聞きたくもないが、あれだけ傍若無人に振舞っておいていざとなったら家族を理由に恋人を捨てるという。

「……そう」

 私の家族とはたぶん重さが違うのだろうからそれを切って捨てろなんていう資格は……ない。

(あぁ……駄目だ)

 最初からこの話の向かう先は決まっていて、その予感に心が乱れる。

 話を進めていけば必ず「そこ」にたどりついてしまう気がしていて。それもそうなった時の自分の感情までも予測できてしまうから。

「……なんで、私に興味を持ったの」

 引き延ばすためなのか、それとも別の理由かそんなことを尋ねていた。

「あんたが私の「知らない」人間だったからよ。私には人の為、なんていう感覚は理解できないものだったもの」

 それは今なら少しだけ理解できる。

「私にはないことができる文葉が気になって、もしかしたらそれで私も自分のため以外に何かをするって気持ちが理解できるかもとか期待したのかもね」

 それは嘘ではないのだろうが、本当に嘘ではない程度の意味合いに聞こえる。

 その私の考えを証明するかのようにすみれは「でも、一番は」と続けた。

「文葉が……むかつくやつだったからよ」

「…ずいぶんな言いざまね」

「むかつくに決まってるでしょ。私は自分のためじゃない結婚をしなきゃいけないのに、あんたは自由なくせに他人を喜ばせるのはやりがいだなんていうんだから」

 それは……反論できないかもしれない。責任を感じるつもりはないが。

「そんなことができる文葉に興味を持って……一緒にいるのが楽しくて、嬉しくて…」

 好きになった。

(…『お姫様』って感じね)

 私への好意は最初は逃避も含んでいたのだろう、だがそんな理由から始まり少しずつ惹かれ好きになっていく。

 そして私はそんなことにも気づかないままで。

(聞くべきじゃなかったかもしれない)

 すみれの想いが心に重くのしかかる。

 恋人としての先を求めたすみれ。

 旅行へと誘った時には、きっともう逃れられなくて私に縋り、求めたのだろう。

だからこその「好きだったら来なさい」

 そして、すみれと肌を重ねたあの日。

(……すみれの気持ちなんて知らなかった)

 そんな言い訳はあの時点ではできない。知ろうとしなかったのだから。

 自分の重荷になることを恐れ、避けすみれを追い込んだ。

(……くそっ)

 自責に心がつぶれてしまいそうだ。すみれから結婚という言葉を聞いた時以来、胸に巣くう無力感が大きく広がっていく。

「……………」

(何を、言えばいいのよ)

 謝ればいい? それとも結婚するなとでも? 無責任になにを言うの? 私はすみれの悩み苦しんでいる時にも自分の都合だけを考え、追い込んだのに?

「すみれ……」

 多分今は私の方が何もできない少女のように見えるだろう。

 何を言うべきかもわからずただ名前を呼ぶことしかできなくて……

 こんな不安定な姿は今まですみれに見せられたことはない。

「………ほんとに、結婚するの?」

 その不安な中で私はいうつもりのなかったことを言っていた。

「嘘だったら、こんなことになってないでしょ」

「……いつ?」

 だから、聞いてどうするのよ!

「さぁ? ……年明けくらいじゃない?」

 諦めたように淡々と告げるすみれ。

 その態度が嫌でたまらない。

 だってそれはつまり。

「……でも、決まって……決めたんでしょ」

 あえて言いなおした。

 その態度がとれるのはそういうことだ。

 こいつは私に内緒で決めた。どうしようもないことだからと理由付けはできても、頼ってもらえなかったという事実は変わりない。

「……………………そういうこと、よ」

 長い沈黙のあとすみれは諦観と安堵を混ぜたかのように笑った。

「………」

 対照的に私は臍を嚙む。

 これを聞きたくなかったからすみれと話せないと思っていたのに。

「あ、は。まぁ、でもよかったわ」

「え?」

「あんたの言う通り、私はそんなに器用じゃないわ。この前はうまくやれたとは思ってたけど、文葉に恨まれて終わるなんて嫌だって後悔もした」

 雰囲気と話の方向を変えすみれは続けていく。

「大体……本当に言いたいことだって言えないで終わっちゃうなんて絶対に嫌」

「言いたい、こと?」

「そ。…文葉へのお礼」

 言ってすみれは私へと近づくと、至近距離で顔を見つめてくる。

 しっかりと私を捉えるその瞳には哀切よりも、もっと暖かな感情が宿っているようで。

 ……目を、背けたくなる。

「文葉、私のために本を探してくれてありがとう。あの時文葉が私のために一生懸命になってくれたから私は文葉と繋がれた。文葉とは初めてのことばっかりで、文葉とすること全部が楽しくて、嬉しくて毎日が輝いてた。大切な思い出がたくさんできた。だから、ありがとう」

 吹っ切れたような表情で暖かく、同時に心を突き刺すようなありがとうを告げる。

「本当に感謝してるわ。初めて好きって思えたの。人を好きになれるなんて思ってなかった私がよ」

 やめろと言いたかった。

 自分の中で区切りをつけてしまったすみれの言葉をこれ以上……聞いていたら、私はっ

「恋ができた……本当にありがとう」

 これほど残酷な感謝の言葉があるだろうか。

「大好きよ、文葉」

「すみれっ……!」

 奪いたい。この子供のくせに大人の判断をしてしまっている私の好きな人を奪ってしまいたい。

 だけど、でも……

 その一時の感情ですみれの決意は覆るのだろうか。いや、覆していいものかもわからない。

(結局、同じだ)

 すみれは一人で決めて、私は無力なままで……

 いや……無力だとしても。

「すみれ」

 もう一度名を呼び、抱き寄せようとした私に先んじて

「……ん」

 唇を奪われていた。

 いつも唐突なすみれのキス。

 反射的に抱こうとした腕を中途半端にとどめたまますみれは一歩下がり私の腕から逃れて。

「……ありがとう」

 顔を見せずにもう一度それをつぶやいて

「すみれっ!」

 名前を呼ぶだけで何もできなかった私の前から去っていった。


 ◆


 この日は酒に逃げることさえできなかった。

 部屋に帰った私は呆然とベッドに横たわった。

 天井を見つめてはいるが、見ているのは見えないすみれのことだ。

 心の中には際限なくすみれが浮かび、様々な表情を見せては最後の俯いたありがとうを響かせて消える。

 そのたびに胸が痛む。

(……この終わりは、予想通りじゃない)

 どうしようもないからすみれは決めた。

 私があの場で何を言っても覚悟を済ませたすみれの心を無駄にかき回すだけになる。

 余計にすみれを苦しませることになる。

 だから何も言えなくて、こうして無力感に苛まれる。

 結局はすみれと話す前と心のあり様は変わっていない。

「いや……」

 無意味ではなかった。

 すみれはありがとうと言ったんだから。

 それは余計に私を傷つけ心を深い所に落とすものだが、すみれの終わりとしては前よりはましだろう。

 もっとも私にこの思いをさせたくないとすみれは悪役になろうとしたのだろうが。

「まぁ、いっか」

 早瀬のやつに文句でも言いたいところだが、すみれにとっては意味のあるものになったのならよかった。

 そう思っている自分がいて。

「……私はちゃんとすみれのことが好きだったのね」

 そのことを改めて思い知っていた。

 自分を犠牲にしてすみれが少しでも救われるのならいいと考えられる。

「そんなにいい子ちゃんじゃないはずだったんだけど」

 それともどうしようもなくなったことに意味をつけたいだけだろうか。

 だとしたらむなしいことだ。

「は、あ、はは」

 何が何だかわからず自虐的に笑う私は、寝返りを打ち視線の先にあるものを見つける。

「ぁ………」

 それは手帳だった。

 いつも持ち歩き、今日も無意識にか部屋での定位置である枕元に置いていたらしい。

 何故だろうか。それに手を伸ばすと心臓が逸った。

 ドクンドクンと動悸が激しく、しかし自分を止められずにその手帳を開く。

「…………」

 日記替わりの日々をつづったメモ帳。

 そこにはすみれのことも書かれている。


 綺麗だけど変な人に面白い本を探してと変なことを頼まれた。

 森さん、退屈と言ってた。私と同じだ。

 恋人になれと、キスをされた。早瀬以来のキス。

 初めてのデートで、無理やり服をプレゼントしてきた。

 友達にならなれるかもしれない。

 やっぱりお金持ちですごい所に住んでいる。

 裸は綺麗だけど、思った以上にお子様だ。

 早瀬との昔のことを話してしまった。

 恋人として本気で求められてるんだろう。

 応えるべきか否か。

 花火大会にかこつけ部屋に誘われてしまった。手を出すべき?

 結局、キスすらできない。私はいくじなしで最低だろう。

 すみれとどうなりたいんだろうか。このまま一緒に居続けるつもりはそもそもあるの?

 綺麗だけど、可愛いって感じ。でもたぶん今は私に不満を持ってる。やっぱりキスくらいはする?

 旅行に来てしまった。結論を出さなきゃいけないんだろう。

 二日目。馬は嫌い。マウントを取ってくるすみれが子供っぽく、可愛い。

 明日の夜には答えを出さなきゃ。


「……ヤったとは書かなかったのね」

 手帳に書かれたすみれとの思い出。そのためのモノではなかったのに。いつしかこれはすみれのことばかりが書かれていて。

「あ、はは……はは……ふ、あははは」

 なぜか笑いが止まらなかった。

 いや笑いだけじゃなくて

「ほんと、すみれのことばかりじゃない」

 涙まで流れていた。

 意味があって書いていた手帳じゃない。ただ何となくだ。確か中学の頃からの癖。

 小説か何かに影響されて始めた些細な癖。

 これまではほとんど機能することもなかったのに。

 すみれのことがこんなにも書かれている。

「どれだけ、あいつのこと考えてたのよ」

 涙に震えるその声は今更ながら心を揺らして。

「私……こんなにあいつが好きだったの?」

 手遅れとなってから気づいてしまったその感情に

「あ、は……はは……ふ、あ……ぁ……あっ……ぁ、あ。ひ……く……ぅあ……あぁあああぁあああ」

 声にならない叫びをあげ私は泣くことが出来た。


 ◆


 気づけば深夜だった。

 泣きはらした目でいまだに手帳を眺めている。

 涙は枯れることなく、今でもこうしていると胸が締め付けられるが取り乱したりはしない。

「……そういえば、好きって言ったっけ」

 想いを自覚してしまった私はふとそれを考える。

 旅行の初日には告げたが、あれは恋としての意味ではない。

 明確に恋人として好きだったと伝えたことはないのだ。

 だからって今更言えるわけないが。

 いつ、何を目的に言うのか。わざわざまた呼び出して好きだなんて言えるわけない。

 そこで駆け落ちでもするのなら話は別だろうが。

(それも、いいかもしれないけど)

 私はその選択をしないだろう。

 夢見る少女じゃないんだ。現実を見てしまう。

「………………」

 でもこのまま好きすら伝えないで終わらせる物分かりのよさがあるだろうか。

 考えのまとまらないままぺらぺらと何度も何度も見返した手帳の中ですみれとの出会いの日を開き、

「………あ、は」

 乾いた笑いを零した。

 駆け落ちと今頭をよぎったことどっちが現実的で、どっちが夢見る少女だか。

 それにこれはすみれの為なんかじゃなくて、きっと私の自己満足でそれどころか……すみれの為にならないものかもしれない。

 ためにならないどころか……重荷になるだろう。

 だが、いやだからこそ。

「……まぁ、私にそんなこと出来るかわからないけど」

 私はすみれに「呪い」をかけることを決めた。


 ◆


 結局すみれとは連絡を取らないままにしばらくして。

「さて、と」

 仕事を終え、家に帰った私は一通りのことを済ませると机の前に座り、パソコンを立ち上げる。

 これまでパソコンをそれほど活用してきたわけではなく、つけない日も珍しくはなかったがここ最近は毎日電源を入れ、それどころか家にいる時のほとんどをパソコンの前で過ごしている。

「今日はどれくらい進められるかしらね」

 呟き、手帳を眺める。すみれのことを書いた手帳を。

 当時よりもメモ書きや捕捉が多くなったそれを時折確認しながらパソコンに文字を打ち込んでいく。

 何をしているか、と問われれば回答はいくつかある。

 その中で一つに絞るとしたら、ラブレターを書いているということになるだろうか。

 普通のラブレターではないが。

 他の回答をするのなら、本を書いているともいえる。

 まぁ、つまりはそういうことをしてる。

 あいつと私のことを綴った小説を書いている。

 手帳はその参考ということだ。

 冷静に見るのならこれは異常な行動だろう。私を捨て、結婚するという彼女にあてた本を書くなんて。

 まして自分とその恋人を題材にした話など正気の沙汰じゃない。

 だけど私はそれを選んだ。

 すみれとお別れをしたあの日に、頭をよぎった馬鹿らしい行為。

 失恋の勢いで思いついてしまったことで、一度は手紙でもいいかと思いなおしはした。

 ちゃんと好きだったと伝えるための手紙。言葉だけじゃなくて形に残るものなら手紙でも役目は果たせると。

 それでもやはり本にしようと思ったのは……私の性格が悪いからだ。

 小説なんて高校のところに一度書こうとして挫折して以来で、まともにかきあげられたこともない。

 無知で無茶で無謀な選択だが、目的のためには手紙よりもこちらの方がいい。

 この無謀な行為の目的はすみれに「呪い」をかけるという自己満足。

 私がこんなにもすみれが好きだという証を手紙ではなくて、もっと重く刻みたいと思ってしまった。

 それは好きな人の為ではなくて自分のためなのだ。

 あいつの幸せを願うような生易しいものではなくて、私の好きという重さを押し付けるためのもの。

 これがすみれの今後に重荷になっても構わない。むしろ、重荷を背負わせるためのもの。

 今後の人生で私に縛られて欲しいとそう本気で思っている。

 言い訳をすると、好きだという気持ちを形にしたいというのも本気ではあるわ。

 好きとすらまともに伝えなかったけれど、こんなにも貴女が好きだったとそれを伝えたい。

 まぁ、何にせよ。

「……ここまで重い女だとは思わなかったわね」

 実現するかもわからない、まして完成したとして手紙ならいざ知らずすみれが本を読むとは限らないのに。

 それとも私の動機は全て自分を納得させるための理由でしかなく、本当は自分がこれから引きずらないための区切りとしての行為なのだろうか。

 自分の心すらよくわからないけれど。

 すみれに「呪い」をかけたいと願う気持ちは本物だと信じられるから。

「…読んだらあいつは怒りそうよね」

 なんて軽口をたたきながら今日も悪戦苦闘して私とすみれの物語を紡いでいく。


 ◆


 素人が本を書くだなんて無謀なことだ。

 本は人に比べれば読んでいる方だろうが、勝手や作法などはわからない。

 書いていてこれは本当に物語と呼べるのか、同じ言い回しばかりをつかってしまうなとか、必要なことは書けなく、必要じゃない描写ばかりが増えていくなとか、こんなことなら今からでも手紙にした方がいいかもしれないなとか、そもそもまともに本を読まないというすみれがいくら私からのものだとしてもこんなつたない文章を読むのかとか、不安も障害もいくらでも生まれて。

 それでも私は筆を止めることなく、物語を進めていった。

 …話は佳境へと近づき、結婚を告げられる場面だ。

「っ……はぁ」

 すでに一か月以上も前のことだが、最初の頃の感情は覚えている。

 腸が煮えくり返るようなあの不快感、すみれが「独り」で決めてしまったのだろ気づいた時の無力感、喪失感。

 一人で別れを決めたことについては、すみれにはすみれの苦しみがあったと頭ではわかっていても、やっぱり許せてはいない。

「だから……あんたを後悔させてやる」

 私の気持ちも確認せず、私を頼りにせず別れを決めたことを後悔しろ。

 私の気持ちを知って、私の望みを知って、私がどれだけあんたに焦がれているか、求めているのかを知って後悔しろ。

 そして、一生私を引きずればいい。

 当てつけで復讐で、告白で。

 歪んでしまった愛なのだろう。

 ここからは未知の物語。手帳には記されていない物語。

 すみれを後悔させるための話。

 花嫁を奪うそんな都合のいい話を書く自分が何より滑稽だが、そうだとしても。

(……あんたを好きだから。私が好きだったって知っててもらいたいから)

 自己満足の行為を続けていくのだ。


 ◆


 そして、未知の物語を書き始めてわずか数日。

 心のままに筆が乗ったのは、この部分こそが書きたかったからか。

 一日に何時間でも集中できてしまい、ついに私は。

「……ふ、ぅ」

 最後の一文を結び、背もたれに体重をかけて天井を見上げた。

「一応完成、か」

 人生で初めて小説をかきあげた私の胸には確かに達成感は湧き上がって入る。

 それ以上に負の感情もあるが。

「……ほんと、私は勝手なやつね」

 きっと後から見返したらとても恥ずかしくて見ていられない。私こそ、何年か後にでもこの本を読んだら恥ずかしすぎて死にたくすらなるかもしれない。

 それほどに稚拙で自己中心的な物語。

 未練を残し意にそぐわぬ結婚をする恋人を取り戻す話。

 決めたことだと拒絶する花嫁に思いの丈をぶつけ自分を選ばせるなんて、今どき二流もいいところだ。

 ……そうしたかったのだという身勝手で浅ましい願望。それを形にしてしまったことに未練とすみれへの想いの大きさを知る。

「……バカみたい」

 自嘲がこぼれ、瞳の奥がじんわりと熱くなる。

 すみれを奪いたかったのならそうすればよかった。こんな自分に都合のいい妄想を形にして何の意味があるんだか。

「妄想、だから……意味があるのかしら」

 現実ではどうにもならないとしてもお話の中でなら望む結末を迎えられる。

 すみれと未来を一緒に歩きたかった。

 その想いを形にして残す。

 今となってはその程度が私にできる数少ない抵抗。

 あいつがこの本を見るたびに私のことを思い出してくれるのなら……心に残れるのならそれで……それだけでいい。

 その切なさは私も同じだから。

「……このくらいは、許しなさいよ」

 何の涙が自分でもわからないが一筋涙をこぼし、区切りをつける。

「と、感傷的になってばかりもいられないわよね」

 そんなことになったら何もできなくなってしまいそうだ。

 まだまだすみれにこれを渡すまでには段階がある。

 自費出版等の手続きなどもあるが、何より

「どうやって渡すべきかしらね」

 すみれの中ではあの時の「ありがとう」で別れは済んでいる。

 そもそも結婚は年明けくらいと言ってもそれまでまだこの街に住んでいるかも知らない。

 でも、と。

 私はあの場所を頭によぎらせる。

 すみれを奪う機会を逸したあの場所。私たちにとっての特別な場所を。

「……まぁ、応えなかったらそこまでってことね」

 あの場所に呼び出したとして応じないのだとしたら、それで終わりだ。

 どんな理由だったとしても直接会ってもくれないのだとしたら「呪い」などかからないだろう。

「さすがに結婚祝いを渡したいって誘うのは、度が過ぎるかしらね」

 方向性を定め、どう挑発してやろうかと思いながら運命の日は迫っていく。


 ◆


 迎えたその日。

 よく逢引をしていたお昼時。

 図書館の奥まった一角。

 思えばここで過ごした時間がそれほど多いわけではない。

 二回目のキスや結婚を告げられたこと、この前の別れなど印象的なことは多いがすみれとの時間の大半はこの場所以外で過ごしてきた。

 それでも当初はすみれと会うと言えばこの場所で、その時間の印象が少しずつ薄くなったのは私がすみれと仲を深めていた証なんだろう。

 でも特別な場所だ。

 そして……恋人を失った場所でもある。

 もしあの時に行かないでと言えていたら私たちには別の未来があったのだろうか。

 それこそ、この本に書いたような望む未来が。

 ……詮無いことだ。

 こうしていることが私たちの現実なのだから。

 今気にしなきゃいけないのは目下、あいつがちゃんと来てくれるかだ。

 メッセージに返信はあえて求めなかった。

 話したいことがあるから、この日この時間に来てと伝えただけ。それもまたあまり現実的なものではない。

 勝手に指定したって先に予定があるかもしれないし、そもそもまだこの街にいるのかすら私は知らない。

 だが、会うつもりがあって予定が合わないのならこちらが返信を求めなくても伝えては来るだろう。

 会うつもりがないならこのまま待ちぼうけし、私たちの関係は終わりだ。

 ある意味その方がお互いにとっても幸せかもしれない。

 いや、むしろこれからの何十年という人生を考えればその方がおそらくいいのだろうが

「文葉」

 耳に響いた久しぶりの好きな人の声に、人生はままならないことを感じていた。

「……話、ってなによ」

(悔しいけど、ほんと綺麗なやつ)

 整った顔立ちに、切れ長の瞳。流れるような髪は繊細で美しい。

 久しぶりの相対で初めて会ったときのような衝撃を受けたが、その時とは異なり一筋縄ではいかない面倒な性格も知っている。

 すみれは私に出会えてよかったと言ってくれたが……私はこの先すみれとの出会いをどう思うのだろうか。

「ぁ……」

 声が上手く出なかった。

 ここが私とすみれの最後の場所になるかもしれない。呼び出した時にはそれを考えたはずなのにいざその時が来ると心が竦む。

(……しっかりしなさいよ私)

 別れが惜しいということは伝わってもいいが、最後になるかもしれないからこそ取り乱した姿は見せたくなかった。

「あんたに結婚祝い渡そうかと思って」

 攻撃的な言葉だ。

 虚勢を張っていなければ、感情の仮面が外れてしまいそうだから。

 それに、意趣返しでもあるわ。性格の悪いことにね。

「それ冗談なら最悪だけど、冗談じゃないならもっと最悪ね」

「冗談でもあって冗談じゃないわね。じゃあ言い方を変えるわ。最初に会った時の約束でも果たそうかと思って」

「約束?」

「あんたが気に入る本を紹介するっていったでしょ」

 今考えても奇妙な話だ。でもそれがここにつながっている。

 もっとも、あまりに皮肉が過ぎる展開だが。

「今更何なのよ、そんなの……」

 いらだっているのは当たり前ね。

 一か月以上も連絡はなく、すみれとしてはもう終わっているはずの元恋人から呼び出され、挙句こんなことを言われているのだから。

 これ以上怒らせる前にと私は持っていたカバンからそれを取り出して。

「はい、これ」

 私の想いの塊を差し出した。

「だから、何よこれは」

「私が書いた本」

「は?」

 ふふ、驚いている。すみれからしたらそんな姿見せるつもりなかっただろうに。

「だから私が書いたのよ。それを餞別にあげるっていってるの」

「意味が、わからないんだけど」

「読んでもらえればわかるはずだから読みなさいな」

 やれやれなんとも妙な雰囲気ね。

 まぁ、でもそれでいいわ。「ここでは」それでいい。

 私の気持ちを知るのは対面じゃない方がきっといいわ。

(だって、ここで私が告白でもしたら、もう平静を保てない)

 本当は泣きわめきたいし、やっぱりビンタの一発でもお見舞いした後、こんなにも好きだったと告白したい。

 私もすみれに会えてよかったと伝えたい。

 でも……それは選ばない。

 すみれに呪いをかけたい気持ちとは矛盾するが、今告白をしてしまったら、すみれの意思も覚悟も無視して私だけのものにしてしまいたくなるから。

(それに、本で気持ちを知った方がロマンチックでしょ)

 そんなふざけたような理由で自分をごまかし

「それじゃあ」

「え、ちょっと文葉」

 状況を呑み込めずにこの場を去ろうとする私にすみれは狼狽する。

(当然よね)

 今更呼び出されてたのにいきなり素人の本を渡されておしまいなのだから。

 それこそ私がさっき考えたような、『告白』でもされるのかと身構えていたのかもしれない。

(…告白を期待したって考えたいのは自惚れが過ぎるわよね)

 もうすみれは決めているのだ。すみれの目的がどんなだったかなんて、妄想しても意味はないから

「本、ちゃんと読んでね」

 私はそれだけを告げて、すみれの前から去っていった

 今度こそ別れになることを覚悟して。


 ◆


 不思議な心境だった。

 家に戻った私はすみれの本当の気持ちを聞いて別れた日のようにベッドへと横たわり天井を眺めていた。

「…………」

 今何を考えているのか自分でもよくわからない。

 やり切ったという感覚がないわけではないけど、実感がわかないというのが本音。

(それもそうか)

 本を渡すというのは私としては意味あることだったけど、すみれからしたらわけがわからないもので、本当に読んでくれるかも不明だ。

 何より読んだ後のすみれの反応がみれないのだから、実感を持てというのも無理な話だ。

(すみれは……どう思うのかしらね)

 私の気持ちを知って、何を思ってくれるだろう。

 感動で泣いてくれるか、私の気持ちの大きさを知って私を捨てたことを後悔してくれるか、それとも直接伝えろと怒るか、今更こんなものを渡されても意味はないと切り捨てるか。

「あぁ…でも…やっぱり、怒りそうよね」

 私がしたことは本当にろくでもないことなのだから。

 あいつが不本意な結婚をしなければならないと知っていて、あいつがまだ私を好きだと知っていて、あいつのせいで「自由」になった私が不自由なあいつの心を縛るようなものを渡したのだから。

 人としては褒められたことをしてはいない。

 機微のことで正解はないとしても、私のしたことは私が満足するためが第一でやはりいいこととは言えないだろう。

 でも

「……思い知りなさいよ」

 人の道を違えたとしてもあんたの心に残っておきたかった私の気持ちを。

 本当に性格の悪いことだと自分を滑稽に思いながら私はいつまでもすみれのことを考えるのだった。


 ◆


「……………」

 すみれのことを頭から離せないまま気づけば西日が差し込んでくる時間で、数時間も経ってのかと呆然と思った。

 心が抜け落ちたような感覚はいまだに変わりない。大げさに言えば今は生きる目的を失ったような状態だ。

 すみれと決定的な別れをしてから今日までこの日のために励んできた。この先のことなんて何も考えていない。

 すみれに想いを伝えた後のこと、なんて何も……

「…考えられないわよ」

 そんな落ち込むしかない私の耳にスマホの振動音が聞こえてきた。

「……っさい」

 誰からだろうととても話すつもりはなく面倒だと着信を切ろうとして

「っ」

 ディスプレイに表示されている名前に心を震わせた。

「すみれ……っ」

 その名を呼び、迷ったのちに通話ボタンを押す。

「……はい」

「開けて」

「は?」

「今、あんたの部屋の前にいるわ」

「ちょ、え?」

 何が何だかわからないまま、身体を起こしてドアの前を確認できるモニターをつけると本当にすみれの姿があって。

「な、んでここにいるのよ。大体どうやって知ったのよ」

「あんたのお友達に聞いたのよ。いいから開けなさいよ」

 何が起きているのか理解はできていない。しかし、実際にすぐそこにいるすみれを無視なんてできなくて慌ててドアを開けると。

「文葉!」

 ほとんど視界に捉える間もなく感情のつまった声で名前を呼ばれて

「すみ、れっ!?」

 力いっぱいに抱き着かれた。

 久しぶりに意識をするすみれの香り……セックスした時以来のぬくもり。

「キス……」

「え?」

 まだ私は何が起きたのかわかってはいなくて、ただただ久方ぶりのすみれを感じるしかできていなかったが

「キス、しなさい」

 甘えたような、拗ねたようなその声にすみれの気持ちを悟り。

「……えぇ」

 すみれの体を抱き返すと顔を見ることもなく唇を重ねた。

 行為の流れでなければこれが私からの初めてのキス。

「っ……ん、ふ…ぁ」

 ただ相手を感じ合う口づけはそれほど長くはなく、一度距離をとるとようやくすみれの顔が見れて。

「………文葉」

 情愛を感じさせる声と私を求めるその表情に。

「んっ……」

 再びすみれと一つになった。

「ん、ちゅ……ぷ。くちゅ……ちゅ、チュぱ、ん」

 迷いなく舌を突き入れ、貪るようにすみれを奪う。

 腰と背中を抱き、これ以上ないほどに密着する。

「ふ、ぁ……ん、ぷぁ……ん、んっんっ」

 すみれのすべてを味わうかのように舌を絡め、すみれを舐る。

「っふ、はっ……んっ! くちゅ、じゅ、ぷ……ぴちゅ、……んっぁ…」

 一度離れても、再び求めあい深くつながり合う。

(すみれ……すみれ……っ)

 この手の中にすみれのいる喜びに目がしらが熱くしながら、熱烈に口づけを交わし、

「……はぁ……ふ、ぁ……」

 激しく息を整えるすみれは

「バカ文葉……」

 泣き笑い顔で嫌味の込められた愛の言葉を伝えてくれていた。


 ◆


 いつまでも玄関口で愛を語るわけにもいかず初めてすみれを部屋へと招き入れる。

 普通なら好きな人を初めて部屋に招き入れるということを意識するところだろうが、私たちにはそんな段階になく、もてなしをすることもなく寝室へ向かって。

「で、どういうことよこれは」

 勝手にベッドへと腰かけ、私の本を突き付けてくるすみれ。

 少し頭が冷えているのか、その表情にはすみれらしい勝気が見て取れる。

「……………」

 私も冷静になってしまってはいるが、それ故にこの場でどう振舞うべきかが見えていない。

 わからないからこそ、心に素直になるべきか。

「読んだのならわかるでしょ。それが私の気持ちよ」

 言いながらすみれとわずかに距離を開けて私も腰を下ろす。

 そう、読んだなら伝わっているはず。

 これは私の都合いい物語、私が求めた物語。

「これが文葉の気持ちだとして、なんでこんなやり方なのよ。しかも……今更」

「…………」

 面と向かって言えることではないけれど、言い訳なんてもうしない。

「……あんたへの当てつけよ。復讐、っていってもいいかもしれないわね」

「…………」

 何も返さないが視線だけは鋭く私を捉えている。

「あんたは私に何も話さないで結婚するって決めた。私に話してもしょうがなかったとしても、私は……むなしかった」

 あの時、力になろうと息巻いていた。自分がすみれを支えてあげられると勝手に思い込んでいただけだとしても。

「あの無力感はあんたにはわからないわよ。好きな人に頼ってもらえない寂しさは」

「……勝手な言い分ね」

「知ってるわよ。私はあんたのこと今だって全然わからない……これまで踏み込まなかったのも私だってわかってる。でも、それでも……あんたに結婚を告げられた時の私は、抱えてるものを一緒に背負ってあげたいって思ってたのよ」

「だから、『当てつけ』ってわけ」

「そうよ。私は、私の隣にいないすみれの幸せなんて願えない。……だから……」

 呪いをかけたという趣旨の伝えようとして……と軽く首をふる。

「……ごめん、今のは嘘。嘘じゃないけど……嘘」

 当てつけで、復讐で、呪いだけど。

「すみれに、私がすみれを好きだったっていう証を持っててほしかったのよ。一緒になれないのならせめてすみれの心に残りたかった」

自分の気持ちも把握しきれてはいないけどきっとこれが一番の気持ち。言葉で好きと伝えるだけじゃなくて、この本を見た時に白姫文葉という存在が森すみれを愛していたと思いだしてもらいたくて形にしたんだ。

「すみれ、貴女をあ……」

「私も、文葉に言わせてもらうわ」

 まだ続きのあった私の告解に割り込むように口を挟む。

「文葉がそうやって怒る気持ち、わからないわけじゃないわ。けど…そんなのは自業自得よ」

「…知ってる」

 その通りだ。すみれはずっと私を求めていた。恋人としての先を求めたのは単にそうなりたかったからだけじゃなくて、どうしようもない現実から救い出して欲しいという声にならない心の叫びだったのかもしれない。

「何が当てつけよ。悪いのは文葉じゃない。好きって言ってくれもしない、キスもしない。手も出さない。私は文葉の気持ちなんて知らなかった、わからなかったっ」

 最初は淡々としていたすみれだが、徐々に声が震えだし心の乱れが表情にも現れる。

「文葉こそわかるの? 私がどんな気持ちで文葉と一緒にいたか。文葉と会う日はいつもドキドキしてた。今日こそは何かあるかもしれないって期待してた。でも、あんたは私を子ども扱いばっかりで。私だけが恋をしてるんじゃないかって怖くなった時だってあるのよ」

 罪を突き付けられている。それでも耳を塞ぎたいなんて思いすらしない。

「勝手に決めた? 悩まなかったって思うの? 言いたかったわよっ。文葉に……助けて、って……言いたかった」

 声に宿る痛々しいほどの激情が私に突き刺さる。

「でも……言えなかった。…文葉の気持ちがわからなかったから。迷惑にしかならないんじゃないかって、拒絶されるんじゃないかって……怖かった」

 瞳を熱く濡らし、心を吐露するすみれの姿に胸が痛み、それ以上の気持ちが湧き上がる。

「だから……諦めようとしたんじゃない。あんたに嫌われて終わりにしようって思って……上手くはいかなかったけど……でも、本当に終わりになったって。最近はようやく自分に言い聞かせられていた……」

 上手く言葉を紡げないのか唇は戦慄き、それでも私を強く見つめて。

「なのに、何が好きだったよ……何が証よ…っ……何が私の心に残りたかったよっ。今更ふざけないでよっ!」

 言葉とは裏腹に涙に濡れる瞳には縋るような弱さが見て取れる気がして……

「私が欲しかったのはっ…!?」

 最後まで言い終える前にすみれを強く抱き、

「……好きよ、すみれ」

 遅すぎる愛の告白をした。

「馬鹿っ! ……馬鹿文葉。ほんとに……馬鹿」

(…語彙力のない子ね)

「もっと早く言いなさいよ。どれだけ待ってたって思うの? 今更そんなこと言って許してもらえると思ってるの? 勝手すぎるのよ文葉は」

「ごめん、好きよすみれ。大好き」

 許してもらいたいからじゃなくて、これが私の素直な気持ち。

 何度でも伝えるわ。

「……馬鹿」

 心が通じたのかすみれ抱擁を返し、爪を立てながら私の背中を力いっぱいにつかむ。

 そしてしばらくの沈黙の後、

「…………………文葉、もっと言いなさいよ。文葉の気持ち、もっと……聞かせて」

「好きよすみれ。初めて会ったときからなんて綺麗なんだろうって思ってた。少しずつ貴女を知って、可愛いって感じるようになって、一緒にいることが楽しくなった。貴女を失って、初めてこんなにも好きだったって気づいて……誰にも渡したくないって思った。ううん、誰にも渡さない。すみれは私のものだから。私は、すみれを愛しているから」

 それはすみれに渡した本の告白の場面。花嫁を奪う時の愛の告白。

「文葉っ……」

 求めた言葉にすみれは喜びを込め切なげに私を呼び、私の腕から逃れた。

 正面で相対し、一心に私を見つめるすみれ。

 そこに込められているのは思いを通じ合わせた喜びと、大きな愛と……いや、言葉にするのは無粋で。

「…私を奪って」

 その言葉と共に私はすみれと交わっていった。


 ◆


 そこからの記憶は少しあいまいだ。

 はっきりと覚えているのは。

 重ねた肌の熱と感触。

 私を求めるすみれの情熱的な声。

 激しくかわした口づけ。

 蕩けてしまいそうなほどに体を交わらせ幾度となく迎えた絶頂。

 想いを通じ合わせた多幸感。

 我に帰れたのはもうすっかり夜も深まっている時間だった。

「すみれ」

「文葉」

 一糸まとわぬ姿のままベッドで毛布にくるまり意味もなく名前を呼び、見つめ合う。

「んっ……」

 どちらともなく距離を詰めて、何度目かもわからないキスをした。

「……ふ、ぁ」

 長くはない口づけを終えると、毛布の下ですみれの手に自分の手を重ねた。

 力強く握ると共に、今度は硬質にすみれを呼ぶ。

 先ほどまでは本能のままに求め、愛を確かめ合ったが現実を向き合わないわけにはいかない。

「それで、これからどうすればすみれは私のものになるの?」

「……デリカシーのないやつね。今日くらいはこのまま寄り添い合って眠るとかじゃないの」

「それもいいけど、話せる時にちゃんと話したいのよ。もう後悔はしたくないから。絶対にすみれを失いたくないの」

「っ……馬鹿文葉」

 照れ隠しも可愛いやつだ。語彙力はないが。

「で、話戻すとどうするべき? このまま監禁でもする?」

「何馬鹿なこと言ってんのよ」

「そのくらいあんたを離したくないってことよ。冗談じゃないけど、冗談」

「まぁ……いいわ。で、現実的に、ね」

「定番ならこういう時は家と縁を切るってのが一般的かしら」

「それは、まぁ有効とは思うわ」

「そ、なら、どうしようもないならそうして」

「簡単に言うわね」

「悪いけど、言わせてもらうわよ。私はすみれに他の何を捨てても私を選んで欲しいって思ってるから」

 それははっきり言わせてもらう。円満に解決する手段があるならそれを取るべきだし、そのために尽力もする。だが、最終的には口にしたことが本音だ。

 家族やその他のものと私なら、私を取って欲しいというのが意志。

「……………」

 何を思っているのか私を見つめてくるすみれ。

 そこにどんな意味が込められていたとしても私が口にするのは決まっている。

「本気よ、すみれ。世界の誰よりも私を選んで」

 言葉と共にすみれへの視線に想いを乗せる。

「……………馬鹿」

 じんわりとすみれの瞳に涙が浮かび、小さくつぶやいたすみれは私の胸元に顔を寄せた。

「もっと早く言いなさいよ。そうしたら話は簡単だったのに」

「仕方ないじゃない。あんたに振られてからこんなにも好きって気づいたんだから。すみれこそ、最初に助けてって言ってくれてれば私だってこんなに重い女にならなくて済んだのよ」

「あれは文葉が私を好きって示してくれなかったからじゃない。知ってれば、ちゃんと言ったわよ」

 それを言われると立つ瀬はない。私たちは『ここ』にたどり着くためにわざわざ遠回りをしたのかもしれない。

「それは悪かったわよ。けどその分すみれを大切にする。だから答え、聞かせて」

 寄せて来た頭に軽く手を添える。

「馬鹿……選ぶわよ、文葉を。文葉が私を想ってくれるのと同じように私だって文葉を世界で一番愛してるんだから」

「ありがとう。愛してるわすみれ」

 体だけでなく心を預けてくれたすみれを優しく抱きとめ、私は……私たちはこれから当たり前となる二人の夜のその初めてを過ごしたのだった。


 ◆


 ここで「私の物語」は終わり。

 これは、退屈だった私はすみれというかけがえのない存在と出会い想いを通じ合わせるまでの始まりの物語。

 これからはもう私だけの物語ではない。

 私が紡ぎだすのは私とすみれ二人の物語。

 どうなっていくか未知の物語。

 この先には様々なことがあるだろう。

 喜びだけに満たされているとは限らない。苦難もあれば時には喧嘩をすることもあるかもしれない。

 それでも私たちは繋いだ手を離すことはない。

 たとえ何があろうとも、相手を信じ、自分を信じ、想いをさらけ出して何度でも手を取り合う。

 そんな私たちの長い長い物語。

 今から始まるのはそんな私たちの最初の頃の一幕。


 ◆


 すみれが私のものとなるにはそれから数か月が経ち、年も改まった頃。

 この数か月はそれこそ人生で最も多忙で、苦難に満ち、何より充実していた。

 愛する女の為の苦労だ。いくら大変でも心は満たされるというもの。

 結果としては、あの愛を確かめ合った日に宣言した通りになった。

 すみれが二十数年間積み重ねてきたものではなく、出会って一年にも満たない私を選んでもらった。

 まぁ、今回のことで知ったけど、そもそも家族とは法律上縁が切れるわけではなく、結局はすみれの親と話し合いの上、私たちの関係を認めてもらったということだ。

 すんなりいったというわけではないし、すみれと親との間には少なからず亀裂は残った。

 全ての事柄が解決したわけではなく、これから次第でよい方向にも悪い方向にも天秤は傾くのだろうがそれはまた別の話だ。

 私にとって大切なのはすみれが私の元にいること。

 それこそいつでも、ね。


 ◆


 すみれとのことがひと段落ついたということは日常が戻ってきたということでもある。

 この日も貸出カウンターで事務作業をしている私の耳になれた声が聞こえてくる。

「はーい。返却ありがとうございました。どうでしたか私のお勧め」

「あ、え、と……すごく、面白かった、です。続きが待ち遠しい、です」

「そっか。よかった。図書館で買うのは後になるかもだけど、続きは個人で買う予定だからよかったら貸してあげよっか?」

「…え、いいん、ですか?」

「うんうん。じゃ、連絡先教えてよ。買ったらすぐに教えてあげるから」

「は、はい」

 そこにあるのも日常の光景だ。

 早瀬が相変わらず女の子へのアプローチに精を出している。

 今日は高校生みたいだが……法に触れるようなことはしないで欲しいものだ。

「早瀬」

 話の区切りがついたのを見計らい、早瀬へと近づいて声をかける。

「悪いけど少し休憩してくるからここお願い」

「はいはーい。昼間っからお盛んなことだねぇ」

「……あほ」

 というものの、早瀬が女の人を漁りに図書館を廻るのとこれから私がすること、どちらが職務倫理に照らしてまずいかと言えば、一応仕事である早瀬よりも私の方がよくはないかもしれないが。

 休憩とは言え、恋人との逢引なのだから。

 階段を上り、本棚に囲まれた通路を歩いていく。少しずつ人気はなくなり静謐な空気に満たされていく。

 幾度となく通ってきた道程。

 ここに来るようになった当初は別に思い入れがあったわけでもなければ、それほど楽しみにもしていなかった。

 ただ、仕事中にも尋ねてくるすみれのために人目がない場所を探しただけの結果だ。

 すみれと仲を深めていくにつれ、少しずつ会うのも楽しみになった。図書館での内緒の逢引というまるで小説のようなシチュエーションにも少し昂っていたかもしれない。

 それと、一度は別れを告げられたこともあれば今の関係になるきっかけをくれた場所でもあり今では多くの思い入れがある場所となった。

 そしてそれは、これからも積み重なっていくのだろう。

「おまたせ」

「遅い」

 いつまでも慣れることなく美人だと思える恋人はその端正な顔に不満を滲ませ、開口一番に言ってくれる。

「休憩を合わせるっていっても、タイミングはあるでしょ」

「そんなことわかってるけど、こっちだって時間は決まってるんだからある程度自由の効く文葉が合わせなさいよ」

「はいはい。次からは善処するわよ」

 本棚に囲まれた奥にいるすみれへと近づきながら、他愛ない言葉を交わす。

 そう、これは私たちにとって何でもない会話。

 職場でこんな会話をするのが何でもないこと。

 つまりは一緒に働いているということだ。

 と言っても、すみれはバイトだけど。

 別にお金に困ってというわけではない。すみれが私が家にいない間時間を持て余すからと、一緒に働くことと相成ったわけだ。

 そして、すみれの休憩に合わせてこうして逢引をするのは私たちの間では常となっている。

「まぁいいわ。それで今日の晩御飯、何がいいか決めた?」

 逢引、と言っても本来の意味での逢引ではなくここでするのはただ二人の時間を持つだけ。

「……んー」

「昨日昼には決めるっていったでしょ」

「覚えてはいるわよ」

 料理は基本私がするが、すみれが作ることもある。その際には一丁前にリクエストを要求してくる時もあるのだ。

 私と暮らすようになり、すみれの料理は少しずつ良くなってはいるが出来ることは限られていて、顔をつぶさぬようにどう答えるべきかと逡巡する。

(この前はひどかったし)

 たまに力量にそぐわぬものに挑戦して、食べられないようなものも作るし安牌を選びたいところだ。

「ちょっと文葉?」

 どうやら沈黙が長くなってしまったらしい。料理を不安視していることが伝わると、面倒なことになるし。

「そうね、じゃあ。すみれ」

「は?」

「すみれが食べたい。ちょうど明日は休みだし。この前お揃いで買った下着で出迎えて」

「…なっ、~~」

 食べたいの意味を遅まきながら理解しすみれは頬を染めてわなわなと震えた。

「な、なに言ってるのよ! 今はそういう話はしてないでしょ」

(…可愛い)

 ちゃんと恋人になってからは数か月、同棲し始めてからは一か月程。もうそれなりに夜の営みはこなしてきているというのにこの慌てようだ。可愛いという以外に何があるというのか。

「ふ、文葉はいつもそういうこと考えすぎよ」

「そういうことって、どういうこと?」

「っ、馬鹿」

 茶化すのはよくない。

 頭ではわかっているんだけど。

 私は本棚を背にするすみれへと迫ると耳元に唇を寄せて囁き、指を彼女のお腹へと当て

「ひ、ぅ……ちょ、っと文葉っ」

 少しずつ、ゆっくりとすみれの体の上で指を躍らせて少しずつ胸の方へと指を進ませていく。

「こーいう、こと?」

 すみれの脚の間に片足を潜り込ませ、もう一度ねっとりと囁く。

「っ、ぁ……う」

 まるで生娘みたいに混乱しどうすればいいのかわからないといったすみれ。

 正直、ほんとにこのまましたいって気持ちすら湧き上がるが流石の私もその情動を抑えるくらいの理性は持ち合わせている。

「冗談よ、夕飯はそうねオムライスがいいかしら。この前美味しかったし」

 多少後ろ髪を引かれながらも、すみれから離れた。

「あ……う、ん。わかった……」

 まだ衝撃が抜けきっていない様子のすみれは空返事をして

「で、でも……文葉がしたいっていうなら、下着、くらい……この前のにしてあげてもいいわよ」

(可愛いなんてもんじゃないわ)

 自分の恋人があまりにも魅力的で、つい理性が崩れ

「……っん」

 キスをしてしまった。

 唇を優しく重ねる、淡い口づけ。

 柔らかなすみれの唇、お揃いのシャンプーとそれとは違うすみれの香り。

(すみれ……)

 この手にすみれを抱ける幸福に心を満たされる。

 幸せだと、ちょっとしたことでも思える。それが本当に幸せだ。

 これからもすみれとの幸せを積み重ねていくことができる。その喜びに胸を満たしながら私は

「愛してるわ、すみれ」

 これからも数えきれないほど告げるその言葉を噛みしめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る