『子供の恋人』


『お礼』だと彼女は言った。

 キスをするのが、彼女のファーストキスをすることがお礼だと。

 そこにどんな意味があるかをさっさと気づけてもよかったのかもしれない。

 知れば知るほどに最初の印象と異なる姿を見せる彼女。

 人との距離を理解しておらず、時には中学生くらいかと思ってしまうような初心なところも見せる。

 どんな人生を送ってきたのかはわからないが、ずっと他者には仮の姿を見せてきたのではないかと思う。

 メッキのように自分を取り繕い、これまでの人生でそれを剥がしてくれる友人もいなかったのだろう。

 少しずつ知っていく彼女の姿。

 私はたぶんそれを好意的には思っている。

 でも……いえ、だからこそなのかもしれない。

 彼女の『恋人』であろうとしないのは


 ◆


 すみれの『お礼』から少し経って、季節は本格的に夏へと移ろうとしていた。

 外はギラついた日差しが容赦なく、歩いているだけでも汗をかいてしまう気温。

 一日を過ごすだけでも消耗してしまいそうな時期だが、

(こういうときは図書館勤めでよかったと思うわね)

 空調はもちろんのこと、基本的にあまり日差しを取り入れないつくりになっているため一日を快適に過ごすことができる。

 とはいえ

(……これは、寒すぎね)

 いつもの場所。すみれと待ち合わせをしていた私は、背筋も凍るようないたたまれない思いをしていた。

「………………」

 もともと眼光は鋭いほうだが、今のすみれは明らかに不機嫌をにじませ瞳に力を込めている。

 端正な顔立ちはここでは迫力を増す材料にしかならず、身のすくむ思いだ。

 しかもやっかいなのは

「すみれ、そろそろなんで怒ってるのか教えて欲しいんだけど」

「…………」

 理由を言ってくれないところだ。

 すみれは先に待ち合わせ場所に来ていて、その時から全身に不満をにじませていた。

 機嫌が悪いのは一目でわかったからもちろんこれまでも聞いては見たけど、唯一手掛かりになるのは「……自分の胸に聞きなさい」という暗く圧するように言ってきたその一言のみ。

 私には当然心あたりはなくこうして困り果てているというわけ。

(昨日は普通だったくせに)

 最近では毎日のように夜電話をするようになっていて、その時は今日会いに来ることを楽しそうに話していた。

 朝だって、わざわざ忘れないようにしろとメッセージだって送ってきたというのに。

(つまり機嫌が悪くなったのはそれ以降?)

 そう考えたいところだけど、その後はメッセージのやりとりすらしていなくて。

「降参よ、すみれ。私が悪いのなら謝るからわけを教えて。ずっとここにいるわけにはいかないのはすみれだってわかってるでしょ」

 私にとっても「恋人」との時間は貴重だ。無駄なことで時間を使いたくはないからそういったのだけど。

「……………」

 返答はなく、余計ににらまれただけ。

 肩をすくめるが

「……文葉は」

 時間がないというのは理解してくれているのかようやく重い口を開いてくれた。

「文葉は女ならだれでもいいの?」

 ………ただし、理解不能なことを。

「いきなり何を言ってるのかわけわからないんだけど?」

「わからなくはないでしょ。文葉は女ならだれでもいいのかって聞いてるんだから答えればいいだけ」

「だから、なんでそんなことを聞かれるのかわからないって言ってるの」

「あの女と……付き合ってたことがあるんでしょ」

「早瀬とはそういうんじゃないって言ったはずよ」

 早瀬との関係を「恋愛関係」ではなかったとは明確に伝えてはいるのに、今更何を蒸し返しているのか。

 その疑問はすみれの次の言葉である程度の答えを見出すことになる。

「……あの子にも手をだしているんじゃないの? バーの女の子」

「っあおいちゃん? そんなわ……」

 言いかけてすみれの理由を得心する。

 相変わらず面倒な女ね。すみれは。

「昼頃、あの子のことを抱きしめてたでしょ」

「……なるほど、一応すみれが何を怒っているのかは理解した」

「……浮気しておいてよくそんな態度がとれるわね」

「浮気じゃないからね。とりあえず「言い訳」くらいは聞いて欲しいんだけど」

「それで私が納得するのなら」

 子供っぽい嫉妬。

 でも、友人を持ってこなかったすみれには仕方のないことかもしれないなと思いながら、私はすみれへの言い訳を始めていくのだった。


 ◆


 話は数時間前にさかのぼる。

 通常通り業務を行っていた私は中庭近くを通りかかって足を止めた。

 大きなガラス窓からは中庭が一望でき、この季節では普通であればそんなに人も近づかないのだが。

(珍しい人がいるわね)

 見知った相手を見かけて、中庭へと出ていく。

 気休め程度の緑の中この時間は建物の影となっているベンチについて

「あおいちゃん」

 数少ない友人に声をかけた。

「文葉さん、こんにちは」

「何やってるかと思えば、デューイに会いに来てたの?」

 館内から見たときには日陰だったこともあり、黒猫の存在に気付かなかったがベンチにはあおいのほかに先客がおり、文葉のことに興味を示すこともなくあくびをしていた。

「はい。今日は仕事も休みなので。久しぶりに」

 そうと短く答えてデューイの隣に座りあおいのさらに隣へと腰を下ろす。

「猫、好きね。そういえば、早瀬と知り合ったのもデューイに会いに来たからだっけ」

「そうですねー。懐かしいです」

 二人のなれそめはいつだったか聞いたことがある。デューイが住み着くようになってから、地方紙に取り上げられたりもして一時的に少し話題になったことがあり、あおいちゃんもそれに惹かれてやってきた一人。

 そこで早瀬の毒牙にかかった、という言い方は悪いけれど、とにかく早瀬に声をかけられて交流を持つようになったということらしい。

「それと、ちょっと文葉さんとも話したくて」

「っ、私に?」

 それは予想外の理由だ。確かに友人ではあるけれど、わざわざ会いに来られる理由に心当たりはなかった。

「雪乃、さんと付き合っていたんですか」

「…………」

 なるほど、と得心をした。

(ったく。早瀬が余計なことをいうから)

 あまりあけすけに話すことではない過去を問われるのはあまり面白い気分ではない。

 すみれには体の関係があったということを認めるだけで済ませたけど、あおいちゃん相手にはそうもいかないかもしれない。

「………あの」

 お店にいるときは明るく快活な彼女だが、今は少女のような不安をにじませている。

(……そうかもしれないわね)

 何せ、好きな人の話なのだから。

「付き合っていたわけじゃない。それは本当」

「でも」

 当然そう続くでしょう。すみれが不満だったように、あおいちゃんにも同じ不満を抱くだけの理由がある。

「エッチする関係だったのも本当」

「……そうですか」

 ここはすみれとは違う反応ね。あおいちゃんは早瀬がどんな人間かはわかっているのだから。

 不特定多数の女性と関係を持っているということを知っている。

 本人から聞いたわけじゃないけどあおいちゃん自身もその不特定多数の一人なはずだから。

「私に聞くよりも早瀬から聞いたほうがいいんじゃない?」

 それができないから私に会いに来たんでしょうけど。

「そう、なんですけど」

 気まずそうに眼をそらし、隣のデューイを撫でる。その無関係の行動がこの話を続けたくも打ち切りたくもあるように見えた。

 それを見て再び惑う。

 すみれにはこれ以上を話さなかった。話したくないのもそうなら、すみれに対してはあくまで私の問題で、話さなければいけない理由はなかった。

 しかし、あおいちゃん相手では事情が異なる。

 あおいちゃんは早瀬のことを好きで、でも早瀬にとって自分が一番でないことは知っている。

 というより、早瀬に「一番」はいない。

 安易に手は出して、時には夜を過ごしてもいるでしょうけど、特定の誰かと付き合ったりはしていない。

 あおいちゃんは自分が悪く言うなら都合のいい一人だとしても、物足りなさはあってもある程度は納得していただろうに。

(私相手じゃ納得できないか)

 それともライバルとでも思われているのかしら?

「あおいちゃん、一つはっきり言っておくけど私は早瀬とは友達よ。恋愛感情がないのは本当」

「…………はい」

 頷くも表情は晴れていない。

(……ったく、早瀬は)

 心で再び悪態をつく。

 嘘は何も言っていないし、これ以上は本人に聞くか自分で納得するしかない。

 ここでできることはほとんどないと言っていい。

 だからこれ以上はもう話すことはないと打ち切ってもいいかもしれないけど。

(…………)

 頭の中に早瀬のことを思い浮かべる。それは今の姿じゃなくて、五年ほど前、一緒に働き始めてからすぐの時の姿。

 関係があったときの。

 早瀬のことには全く責任がないわけじゃないっていうのは歯がゆいところ。

 少なくても今の早瀬になる一因を作ったのは私なのは間違いないから、その早瀬の目の前の友人の心をかき乱している根本の原因の一つになっている。

「ねぇ、あおいちゃん。早瀬については、やっぱり私から言えることはほとんどない。私と関係があったのは過去のことだけど、なんでそうなったとかどうしてわかれ……今は一緒じゃないのかとかそんなことは私から無断では言えない」

「わかってる、つもりです」

 ここで正しいのは私。機微にかかわることを勝手にいうような人間は信頼には値しない。あおいちゃん相手にもだし、なにより早瀬に申し訳がない。

「ただ、一つ言えるとしたら今の早瀬は特別を作らない。だから私が早瀬の一番だとかそんなことにはなりえないの」

「それって……」

 困った顔になっている。こんな意味深な言い方じゃそうでしょうね。

 だからこそ

「これ以上は本人に聞きなさいな」

 一人で勇気が出ないのなら、その理由を作ってあげることくらいはできる。

 結局、自分で動かなければ何も変えられないのだから。

「……はいっ」

 そんなことはこの子もわかっているわよね。

「あの、ありがとうございました」

「ふふ、ようやく笑ってくれたわね。やっぱりあなたには笑顔のほうが似合ってるわ」

 早瀬ではないけど、女の子は笑っている顔のほうがいいに決まっているのだから。

「さて、それじゃ私はそろそろ戻るわ」

「あ、私も雪乃さんに挨拶したいので」

「そう、それじゃ一緒にいく?」

 ようやくいつもの調子を取り戻して私たちは二人で立ち上がり、館内へと戻ろうとした私たち。

 その瞬間に

「きゃっ」

 私たちにつられたのかデューイが起きてベンチから飛び降りると、あおいちゃんの足元にまとわりついて、急なことに踏みそうになってしまって……

「お、っと」

 そんなあおいちゃんの腰を抱いてバランスを崩さないようにした。

 柔らかな体をこちらへと引き寄せると

「ん? あおいちゃん、シャンプー変えた?」

 ふと鼻腔をついた匂いが気になって

「……ん、いい匂いね」

 髪へと鼻を近づけてすんすんと香り嗅いだ。

「あ、ありがとうございます。でも、よくきづきましたね」

「そういうの気づいてあげるようにし……いえ、なんでもない。たまたまよ」

 早瀬の過去を想ったからか、一緒に暮らしていた時代のことを思い出して今の自分とはかけ離れたことをいうところだった。

「そう、ですか。あ、あのところで」

 目の前であおいちゃんは困ったような、照れたような顔を浮かべて……

(目の前で……?)

「い、いつまで……その」

 頬を染めたあおいちゃんいつまでもあおいちゃんを抱いていることに気づいてしまうのだった。


 ◆


(しまった)

 一通り話し終えた私はそう思う。

 すみれがどこをどう見ていたのかは知らないけど、よく考えるとやましい気持ちはなくてもあおいちゃんを抱きしめたばかりかそのまま髪の匂いまで嗅いでいる。

 果たして言い訳になっているのか疑問極まりない。

 本棚に囲まれた静かな空間は空気が固まったかのようで息苦しく、

「やましい気持ちはなかったわ」

 あまりに陳腐な言い訳を続けてしまう。

 当然、目の前の「彼女」は納得しているわけはなく。

「つまり文葉が女ならだれでもいいって話をされたの?」

 冷たく呆れたように言い放たれた。

(不機嫌になられたほうがましだわ)

 すみれに呆れられるというのは早瀬やあおいちゃんにそうされるよりもはるかに重い。

(どうするべきかしら)

 すみれを知っていくうちに最初の印象とはだいぶ変わっては来ているけど、嫉妬深いというのは見たまま、思ったまま。

 対応を誤ると面倒なことになりかねない。

「……………」

 氷のように冷たい瞳って表現が似合いそうなすみれ。特に見た目が美しいせいで余計に静かな迫力を感じさせ……ん?

 急に厳しい視線が和らぎ、今度は別の不機嫌さが宿る。

「……私には何もしないくせに」

 今度はいじけるような言い方だ。

(すみれらしい、かな)

 少し前までなら思いもしなかったことを頭によぎらせる。

「何もって、キスはしたでしょ。それも二回も」

「それは私からでしょう。文葉からは何も恋人らしいことされてないわ」

「そういえば………そうかもね」

「かもじゃなくて、そうよ」

「………裸なら見たし、触ったけど?」

「っ! それは、違うでしょう!」

(赤くなっちゃって、ほんと初心で純真な子ね)

 心の中で微笑ましく思うものの、頭の別の部分で確かにとも思いなおす。

 手をつないだこともなければ、腕を組んだことも、抱きしめたこともない。

 キスもすみれからしてきた二回だけ。それも同意の上ではなく、不意打ちでのこと。

 私からすみれへの好意を確かめられるようなものにはなっていない。

 恋人だと思っているわけじゃないって伝えるのは……さすがにまずいわよね。

 そんな悪手を取りはしないけど、

「……なによ」

 いつの間にかまじまじとすみれを見てしまっていて、いぶかしげな顔をされる。

(綺麗なのは認める)

 ある程度は慣れてきたけれど、それでも人生の中で一番だと間違いなく言えるほどすみれは美しい。

 すみれの好意が本当に「恋人」というものなのかというのは疑問はあっても、好きと思われていることは間違いないらしくそのことには悪い気はしないどころか、むしろ優越感すらある。

 その優越感が、口を滑らせたのかもしれない。

「すみれは、私に恋人らしいことをして欲しいの?」

「っ……そう、よ」

 素直に認めるのは少しらしくはなく、すみれの気持ちを考えてしまう。

(子供のくせにね)

 それとも子供だから、好意を隠せずに伝えることができるのかしら。

(………………)

 多分私はすみれから見たらいい恋人ではないんだろうなと思いながら、胸に沸いた邪な気持ちに動かされて、距離を詰めると本棚を背にさせた。

「ふみ、は?」

 突然のことに心がおいつかないすみれは固まったまま、私を避けようとするもすでに後ろは本棚で横は

「そう。なら」

 本棚へと突いた私の手がふさいでいた。

 壁ではないけど、壁ドンに近い形。

 品を感じさせるすみれの香りが私の鼻腔を満たす距離で彼女を見つめる。

「何驚いているの? こういうことされたかったんじゃないの?」

 ふさいでいた手を彼女の頬にあてて、頬を滑らせた。

「っぁ……」

 メッキがはがれたように私から顔を背け、頬を染めるすみれ。

 その姿を可愛らしい、とは言えるけれど。

(アンバランスね)

 少女のような反応にそう思う。

 見た目に反して心は幼く、先ほどまでは虚勢を張っていたのもわかってしまう。

 ここでキスでもするのがもしかしたらすみれの望みなのかもしれないけど……

「すみれ」

 私は柔らかく呼ぶと頬にあてた手を顎へと持って行って、クイっとこちらへと向かせた。

「っ………」

 わかりやすく緊張を走らせるすみれ。表情はどうにか保とうとしているが、それも体が震えてることが直に伝わっては形無し。

 私はそんなお子様なすみれとの距離を少しずつ詰めていき、

「ふ、ふみ…あっ」

 わずかにあった空間をゼロにした。

「? 文葉?」

 ただしすみれの想像とは異なる形。

「これで満足かしら?」

 その美しい背中と腰に手をまわしてこちらへと引き寄せながら抱きしめる。

 体温は私より少し低いのかそのぬるさが生々しい肌を感じさせる。

 わずかに触れた髪はさらさらと指にあたる感覚は心地よく、強まった香りは私の心を穏やかにさせる。

「っ……」

 顔は見てないけれど、今どんな表情なのかはなんとなく想像がつく。

 肩透かしを食らって半ばからかわれたことを怒り、けれど少し安堵もしている。

 そんな自分では表現しにくい感情を抱いているんでしょうね。

 それこそ中学生か下手したら、思春期に入った小学生のように。

(…そんな貴女だから)

 ………続ける言葉は見つけられなくて。

「あんたにはまだ早いわ。ハグで我慢しておきなさい」

 あえてすみれの感情がわかりやすい方向に行く言葉を投げるのだった。


 あとから思うのならこの時に私は線を引いていたのかもしれない。


 ◆


 あのハグの一件以来、私たちの交際は順調だったと言える。

 二人の時間は増え、すみれからだけでなく私からも意識的に連絡を取るようにはしたし、二人で会っても早瀬やあおいちゃんと同じようにとまではいかなくても、気兼ねなく話すこともできるようになった。

 たまにあの場所で話が長くなり休憩が長すぎるとあの早瀬に注意をされたこともあるくらい。

 相変わらずすみれのことは聞かなくて私が最近読んだ本のことや私自身の昔のことを話すことが多く、すみれの謎についてはほとんどわかっていないままだが、今はそれもそれほどは気にしないことにした。

 食事や買い物程度だけど、「デート」もこの一か月、一週間に一度はいくようなペースで順調なのは間違いないでしょう。

 ただ、それは成人女性同士のお付き合いとしては健全すぎるものだった。

 図書館で初めて私からハグはした。デートの中で指を絡め手をつないだこともある。別れ際に抱きしめてあげることもあった。

 だが、そこまで。

 友人と思っていなかった時も含めればもう数か月交際をしているのに、私からはそこまで。

 キスすらできていない。

 私の感覚でいうのなら、見た目はともかく中学生くらいと付き合っているような気分。

(……今のはなし)

 早瀬でもあるまいし、そんな若い子になんて話せもしないわ。ただ、恋愛や性についてすみれはその程度ってことよ。

 その理由を私は自覚していて、すみれがそれに不満を持っていることも私はわかっていたはずなのだけど……


 ◆


 八月もお盆を過ぎたが、まだまだ「夏」の終わりの気配が見えないような時期。

 日が沈んでも蒸し暑さは変わらず、相変わらずじめじめとした夏の夜の街を私たちは二人で歩く。

 以前も来たショッピングモールの中にある映画館で過ごした後、軽く食事をして帰りのバス停へと向かう途中で。

「あぁ、これ今週だったわね」

 私は掲示板に張られた一枚のポスターを見て足を止める。

「花火大会?」

 つられて足を止めたすみれが興味なさげにつぶやく。

 それは地方都市にありがちな夏の風物詩。隣の市に大きな川があり、そこの河原を開放し大々的に行われるもの。

 土手には屋台が広がり、イベントの少ないこの近辺では人が集まりごった返す。

 もっとも私が大学で東京にいたときには繁華街は常にその程度の人はいたけれど。

 それはともかく

「行ってみる?」

 花火大会と言えばデートの定番ということで、誘いはしたが

「嫌。人混みは嫌い」

「そういうと思った」

 すみれの過去や背景はよく知らなくてもどんな性格かはわかっている。もともと人付き合いも得意ではないし、喧騒も好まない。

 それは私もおな……

「文葉だってこういうの好きじゃないでしょ」

(やれやれ)

 すみれにもその程度わかるか。

「まぁ、そうね。前に行ったときもそれほど楽しくなかったし」

「前……?」

 ……やれやれと心の中で繰り返す。

 うかつなことを言ってしまったようだわ。

 自慢ではないけれど、私は友人が少ないし花火大会になんていく相手は限られて、しかも悪いことにすみれの想像通りで。

「早瀬と行った」

 先回りに答えた。

「……………」

 顔をしかめるすみれはそれでも綺麗だなと思う余裕くらいはある。

 一応、早瀬とは恋仲じゃないことは理解してもらっているし、何度か一緒に食事をしたりして早瀬にもその気がないというのは一応、本当に一応納得はしているのだけど。

(意地になっていくとか言い出すのかしら)

 二人して人込みは苦手だとわかっているのに、ろくなことにならないからなんとか説得を……

「この日、部屋に来なさい」

「……っ?」

「私の部屋から見れるわ。花火」

 出てきたすみれの提案は私の予想を超えてしまうもの。

 ……避けようとしていた方向だ。

 デートは重ねても、家に行ったのはあの看病の時だけ。結局私の部屋にも招いてはいない。

 高校生か中学生と付き合っているような距離感と、それに不満を抱いているすみれ。

 そのすみれからの家への誘い。

(……考えすぎと思いたいところだけど)

 可能性を考えれば遠慮したいというのも本当だ。

 ただ、断るだけの理由はなく

「お邪魔させてもらうわ」

 そう答えるしかなかった。


 ◆


 あっという間に時間は過ぎて週末の花火大会の日になる。

 人波が会場へと向かう駅やバス停に向かう頃、私は駅とは別方向のバスへと乗り恋人の部屋へと向かう。

「相変わらず大きいわね」

 彼女のマンションを見上げてつぶやく。

 私の薄給では家賃を賄うことすらできなさそうな建物、私よりも下の年齢でここに住んでいるというだけでも彼女の特異さがわかり気後れをしてしまいそうだ。

 とはいえ、今気後れしそうな理由は別にあるのだが。

(何も用意しなくていいとは言っていたけど)

 もてなしは自分でするからとすみれは言っていた。しかし、本当にそうするわけにもいかず一応、ケーキとあおいちゃんのお店でよく飲んでいるお酒はもってきた。

 それらがこのマンションに住む人間にふさわしいかというとわからなくて多少不安にもなる。

 すみれだって私とおなじ人間なのだから何も問題はないはずだけど、まぁ気分の問題ねと庶民の卑屈さをにじませながら入り口につくと彼女へと連絡をし、最上階へと上がり、

「待っていたわ」

 エレベーターを降りた瞬間に迎えられる。

「お出迎えありがとう。まさかここにいるとは思わなかったけど」

「恋人には一秒でも早く会いたいものでしょう」

「……ふふ」

 虚勢を張って。その恋人らしいことをすれば初心になるくせに。

「何?」

「なんでも。らしいと思っただけ」

「? まぁ、いいわ」

 意味を掴み切れない反応には鈍いと言いたい。それとも弱みを見せられないってことなのかしらね。

 ひとまずは普段通りのやり取りをしてすみれの部屋へと入っていく。

 とりあえず持ってきたケーキを冷蔵庫にでも入れさせてもらおうとした私はキッチンに入ったところで足を止めた。

 一人には十分に広いその場所に様々な食材、食器、調理道具が置かれており、それらはまとまりを欠いている。

 平たく言うのなら料理の初心者が張り切って失敗しようとする前の状態に思えた。

「ごはんは今作ってるから少し待ってなさい」

「一応聞いておくけど、すみれは自炊するの?」

「ほとんどしないわ。でもまったくできないわけではないわよ」

「よくそれで手料理をごちそうしようと思えるわね」

「だからできないわけではないわ」

 その言葉がウソというわけではないのでしょう。だけど、人にふるまえるほどの腕とは思えない。

(手伝うと言っても、面倒にはなりそうね)

 すみれの性格からしてここは素直に饗応を受けるべきかしら。

「わかったわ。楽しみにしている」

「そうなさいな」

 その言葉を信じることにして私はダイニングでお茶をいただく。

 そろそろ時間も迫ってるなとなれない高層からの夕陽を眺めながら、すみれの様子をうかがうことも忘れない。

(やっぱりなれてなさそう)

 包丁は使えるようだし、器具の扱いも思ったよりはできている。

 しかし、複数のことをできもしないのにやろうとしているようにも見える。おそらく、自分の頭の中での想像通りにいっていなくて焦っているのだろう。

 普段から料理をするわけではないくせに、「恋人のため」に頑張っている。

(……本当に私が好きってことよね)

 最初は何の冗談かと思ったけど、今はすみれの好意を本気だと理解している。

 私のなにがそんなにいいのかは知らないけれど、私のために一生懸命になってくれるところを見て何も思わないほど冷酷でもない。

 嬉しいとは思うわ。

 こちらが抱える様々な葛藤は別にして、すみれといることが嫌ではないし、好意も受け入れてはいる。

(葛藤、か)

 恋人の家にまで来て、そんなことを考えている時点ですみれに礼を失しているのかもしれない。

 でも……私は、すみれに性的な目でみては……

 ガッシャァン!

 大きな音がした。

 その音からして何が起きたかは大体わかり、目を向けてみるとその通りすみれが食器を落としていた。

 幸いにして食材を乗せたものではないらしいけど、今のすみれにはそんなことを考える余裕もないでしょうね。

「すみれ、私も手伝うわ」

「……………」

 不満げな顔を見せるが、一人でやった結果は今の轟音だ。

「恋人と一緒に料理をするのも悪くないでしょ」

「だから、文葉は便利に恋人って使いすぎなのよ」

 憎まれ口が了承の合図だと察し、席を立ってすみれの料理を手伝うことにした。

(今は、素直にすみれの好意を受け入れるために協力してあげましょうか)

 この見た目以外は未熟な恋人のためにね。


 ◆


 それから二人で料理をしてどうにか花火の開始には間に合って、それほど花火に集中したわけじゃないけど、他愛もない話をしながら初めて共同作業をして作った料理を味わった。

 結果は上々、というまではいかないが私は手伝いをメインですみれが主体にできたのは良かったことだろう。

 意外にも素直にアドバイスを聞いてくれもして、うまくいったときには嬉しそうに笑ったのも少し驚いた。

 できなかったことができるようになる喜びはすみれのような人間にも当てはまるということかしらね。

(恋人というよりは姉みたいな気持ちになったけれど)

 気をよくしたのか上機嫌で、今度はもっとうまくやるなんて言ったりもしてきて、ほんとに出会ったときとは違うんだなとそれを肯定的に受け取れていた。

 そして、今はテラス(これも普通のアパート、マンションなら考えられない場所だ)に出て、隣り合いながら花火を眺めている。

 ここからでは音は小さいが闇夜の中に光の花を遠く眺めるというのは間近で感じるのとはまた別の趣がある気がした。

「こういうのも悪くないわね」

「花火?」

「音を感じるものって言ったりもするけど、こうして静かなところで眺めるほうが私は好き」

「なら……」

「『私に感謝するのね?』」

「っ……」

 なんとなくいうことがわかる気がして先回りすると、すみれは驚いたように黙った。

「すみれって結構わかりやすいわよね。少しわかってきた」

 アルコールも入っているせいか、らしくもなく得意気にわらってしまう。

「文葉はよくわからなくなってくるわ」

「そりゃ、知り合ったばかりの時は余所行きの顔をみせるでしょう。印象が変わってきたのは信頼してる証って受け取ってもらいたいわね」

 ……そんなに酔っているわけじゃないはずだけど。

 なんでか軽口をたたいてしまう。これが本来の姿と言えばその通りではあるが。

「たった三か月やそこらで本心を見せるなんて、早瀬にすらなかったことよ」

「……二人きりなのにすぐ他の女の名前を出さないで」

「はいはい」

 ほんとこういうところはわかりやすいと思いながら、再び正面を向いて花火を眺める。

(そういえばムードという面でいえば、そういう場面ね)

 恋人の家を訪れて、花火を眺めながら相手への親愛を明かしている。

 すみれ相手では『ムード』といってもそういうことにはならないでしょうけれど。

「まだ、三か月なのね」

 ポツリとつぶやくすみれを私は横目をうかがうだけ。

「文葉と知り合ってたった三か月」

 繰り返すそれにも特別な興味は示さず

「……たった三か月だけど、最近少し楽しいわ」

 声色が変わった気がして、ようやくすみれを見た。

 星明りと部屋から漏れる光だけでは表情はわかっても、そこに併せ持つ機微を感じるまでにはいかず、雰囲気にのまれたようにすみれを注視する。

「文葉と一緒にいられるのが一番好きだけど、そうじゃないときも文葉のことを考えると一人でもあまりつまらないって思わなくなった。感謝してあげるわ」

 最後に、すみれのすみれらしさを感じさせたもののそれ以上に

 遠くで大きく打ちあがった花火の光がすみれの顔を照らして……

(赤く、なっているの?)

 あのすみれがしおらしく感謝を述べて頬を染めて、いる?

 それはアルコールのせいかもしれないしそもそも勘違いだったのかもしれないけれど、私の中では事実になっていて。

(………ムードは抜群ね)

 夏の夜。花火の下、恋人の家で食事をして少しだけ酔っぱらっていて、互いに心を打ち明けて。

 過剰なほどに条件がそろいすぎている。

 アルコールにだけじゃなくて、雰囲気にも酔ってしまいそう。

(……酔っても、いいのだけど)

 私たちは付き合っているのよ。もう三か月も。

 この空気に流されて、恋人としての先に進むことの何が悪いのか。

 何も悪くはない。

 私の意志一つで二人の間にある距離をゼロにすることはできるはずだ。

 すみれもそれを拒絶することはないはず。

(キスくらいはしてもいいのかもしれない)

 心によぎったのは、いつかは超えるはずの一線のことで。

(このまま付き合っていくのなら、早いか遅いか、でしょう)

 いくら私が子供だと思っていても、すみれは肉体的には大人だしそういうことを望む心もあるはずだ。

 清いだけの交際をいつまでも続けるわけではないだろう。

 すみれと一緒にいるには前進するしかないはずで。

「…………」

 腕が彼女へと伸びる。背後から腰を抱ける位置に持っていき……一瞬止まった後にすみれへと触れてこちらへと引き寄せた。

「っ! 文葉?」

「私もあんたには感謝してるわ。前にも言ったけど、私も退屈だったから。今はすみれのおかげで少しは楽しく過ごせてる」

 腰に回した手で、すみれをこちらへと向かせ正面から見つめあい

「ありがとう」

 親愛を伝えて

「っ」

 なれない私からの好意に少女のように照れるすみれをこちらへと引き寄せる。

 お腹と胸が重なることですみれの体温を感じて、私はさらに別の部分でもすみれを感じようと距離を詰めると。

「ぁ………」

 目を閉じるすみれが映り、すみれの覚悟を自覚する。

 あの図書館の時とは違う、何をされるのかを分かった上での決意。

(何も悪いことなんてしていないでしょう)

 妙に動悸のする心をなだめるように呼びかけ、打ちあがった花火の音を聞きながら私は……

 すみれとの距離をゼロにした。

 ただし、頬との距離を、だ。

「あ………」

 声を上げたのはすみれのほうで。

 戸惑いと喜びを同居させたような顔の中にわずかな空虚も感じさせた。

 私はそれから目をそらして。

「これは感謝の気持ちよ」

 偽りの笑顔を張り付けていた。

「さて、少し飲みなおしましょうか」

 そして、すみれを見ることなく安易な理由をつけて部屋へと戻っていくのだった。

(……くそ)

 ふがいない自分に憤りながら。


 ◆


 結局何もなかった。

 いえ、すみれからしたら私から頬とはいえキスをされたということは大きなことのはずだから何もないという言い方は悪いかもしれないけれど、私からすれば何もなかったといってもいい。

 花火は九時前には終わり、片づけをしてすみれの家を出て家路へと向かう。

 まずはバス停へと向かう途中までずっとすみれにキスをしなかったことを考えていて、自分に嫌気がさす。

(していいところだったでしょう)

 それどころかその先にだって進んでもおかしくない場面だった。

 というより、

(……すみれじゃなかったらしてただろうな)

 そもそもすみれじゃなければここまで興味を持たなかったかもしれないが、今の親密度で相手がすみれじゃなければ部屋で一夜を過ごしたと思う。

 だが、実際にできたのは頬への口づけなんていうそれこそ中学生かと言いたくなる。

 自分の中に渦巻く感情をうまく処理しきれない。

 誰かにここまで感情を乱されるなんて早瀬以来だ。

(飲みなおそう)

 酒に頼るなんて情けない話だけど、まともな精神状態でいたくない。

 そう思いながら早足になった私は。

「……ん」

 バッグの中でケータイが鳴っているのに気付いた。

 状況的にすみれからかもしれないと、一瞬びくつくも画面には

「…………」

 『雪乃』と表示されていて、

「……はい」

「あ、よかった繋がったー」

「どうかしたの?」

「今日さー、泊りにいってもいい?」

「あんた、花火に行ってるんじゃなかったの?」

「いったけどさー」

「あぁ、振られたの」

「はっきり言わないでよ。とにかくそんなんだから、行ってもいい? つか近くまで来ちゃったんだけど」

「………」

 回答は初めから決まっているはずなのに一瞬間を置く。

 今早瀬とは会いたいような会いたくないようなそんな矛盾した気持ちだから。

「かまわないわよ。今帰ってる途中だから少し待ってて」

「おけ、じゃ先に入ってるね。なんか適当に買ってくー」

「はぁ……いい加減鍵、返しなさいよ」

「いいじゃん。こういう時便利だし」

 その後も遠慮のないやり取りをして通話を終える。

 ……会いたくない気分と言ったけれど、

 一番気の置けない相手である早瀬とは会うことは悪くないかもしれないと、少し気持ちを持ち直して帰路を急ぐことにした。


 ◆


 部屋に戻ると、クーラーの冷たい空気が迎えてくれてそれだけでも早瀬を家に入れた甲斐があったと遠慮のないやり取りをして、早瀬の用意してくれた軽食とつまみ、お酒で軽く宴席を設ける。

 すみれの部屋でしていたようにお上品に、ではなく床に座りミニテーブルに雑多なものを広げて明け透けに話をするのが、私たちの時間だが今日は早瀬からの話を早々に済ませて自分の話をした。

「ふーーーん」

 私が話を聞き終えると、早瀬は興味あるのかないのか判断つきづらい言いざまをする。

「文葉がそんなこと悩んでるんだ」

「悩んでるわけじゃ……いや、悩んでるわね」

「しょーじき、さっさとやっちゃえばいいんじゃないのって言いたいんだけど」

「……………」

 早瀬の品のない言い草に閉口し、缶に口をつける。

 その言い方はともかく、

「その通り……なのよね」

 本当に下世話なことになってしまうけど、そういう話だ。

 別にそういうことをしなければ恋人でないとは言わないが、そもそもすみれはそういうことを私に求めていると考えている。

 それを私が踏み込まずに躊躇しているだけ。

「私だったらあんな可愛い彼女がいたらさっさと手をだしちゃうけどね」

「あんたはすぐそういうことしよとするからふられるんでしょ」

「………まぁ、こっちの話はともかく、あの人は文葉のこと好きなんでしょ。なら悩まなくていいじゃん」

「あんたは、すみれのこと知らないからそんなこと言えるのよ」

「知らないのはそうだけど、文葉はなんで手を出さないわけ?」

 そう問われれば、いろいろなものが思い浮かぶ。

 外見、高飛車な割に世間知らずで初心なところ、普通の人間ではすむことすらできない住居。

 ……私への好意。

「多分、責任を取る勇気がないんでしょうね」

「責任?」

「すみれは、普通じゃない。そんなあの子に初めてになる勇気になんてないわよ。まして、あんな夢見る乙女じゃなおさらね。一生引きずることになられても……」

 困る、とでも言いたいんだろうか。

 なら、我ながら最悪だと言ってやりたい。

「さいてー」

 代わりに言ってくれる人間がいるけれど。

「確かに私は何も知らないけど、結局は文葉が受け止める勇気がないだけじゃん。あと自意識過剰」

 こういうことをずけずけと言える友人がいるのは幸運、なんだろうか。

「わかってる。……わかってるわよ」

 早瀬の言い分のほうがこの場では正しい。私は臆病なだけだ。

(せめて割り切れればよかったんだろうけど)

 そういう非情さも持ち合わせてはいない身勝手な自分。

 あのお子様は本気で覚悟をしているわけじゃないと決めつけて、傷つけてしまうかもしれないことを恐れている。

 それはつまりはすみれのことを子供だと軽く見ているだけのこと。

 ……私に受け止める勇気がないから。

「……っ」

 胸の奥が痛んで、それをごまかすかのように缶に残っていたビールを飲み干そうとして、それを早瀬に取り上げられる。

 何をするのかと抗議しようとする前に早瀬はそれを自分で飲み干すと、

「っ……何、するのよ」

 私を抱きしめてきた。

「久しぶりに、シない? 慰めてあげる」

 背中に腕を回され耳元で甘くささやかれる。

 アルコールの匂いと、よく知る早瀬の香りまざって鼻腔をつく。

 クーラーの効いた部屋で感じるぬくもりはこの世の誰よりも知っていて、慣れているもので。

 つい、私も早瀬の体を抱くように腕を回して

(………)

 その瞬間に、目の前の相手じゃない人物を思い浮かべた。

「………やめておく。もうあんたとはそういうんじゃないでしょ」

「一緒に住まなくなったあとだって結構したじゃん」

「そうじゃなくて、今の私はすみれの恋人なのよ」

「都合よく使ってるよね、それ」

「……………うるさい」

「ま、いーや。ちょっと残念だけど」

 あっさりと体を放し、私に背中を見せる早瀬。どこまで本気だったのかはわからないし、たぶん無理にわからなくてもいいのだろう。

「とりあえず、泊めさてよね。シャワー浴びてくる」

「……うん」

 そうして私の懊悩は何も解決しないまま時間だけが過ぎていく。


 ◆


 あの日は結局すみれとも早瀬とも何事もなく終えた。

 本音を言えば少しだけ、早瀬に甘えたくなったのはある。考えることに疲れていて、すべてを忘れて溶け合うのも悪くはないとそうも思った。

 昔、早瀬にそうしてあげたように。

 その時だけでも楽になれるのなら一夜の過ちを犯すのも悪くない。

 だが、代わりに私はすみれと一緒にいる資格を失うだろう。たとえすみれにそのことがばれなくとも。

 ……そんなことを考えるくらいならさっさと手を出せと早瀬に言われてしまいそうだ。

 その通りだが。

 恋人という言葉を便利に使いながらその実子供扱いをして

 私は臆病で身勝手で、自意識過剰で……自分のことしか考えていない。

 その私の迷いはおそらくすみれにも伝わっていたのだろう。

 多分、この前の花火の日以前から。

 そしてそれは花火の日のキスで明確なものになって。

「……はぁ」

 夏休みもあけた平日のある日、私はカウンターで書架の貸し出し業務をしながらため息をついていた。

 日記にもなっていない日々をつづる手帳を眺め、これまでのすみれの記載を何となしにたどる。

 いつの間にかすみれのことを書くことが多くなっているものの、こんなものを眺めても私からみたすみれのことが書かれているだけで今を打開するようなものは何もない。

(……いえ、すみれのことを書くことが多いというのは……)

 つまり、すみれの比重が高まっているということかもしれないけれど。どちらにせよその程度ではすみれへと踏み込む理由にはなってくれなくて。

「……ふぅ」

 再びため息をついた。

「なーにため息ついてんの?」

 そこへのこのことやってくる親友。

 開館直後でほとんど人もいなく、多少の雑談はしてもいいところなのだが今はあまり話す気にもなれずに「なんでもない」と答える。

「何でもない人間はため息つかないと思うけどねぇ。あ、また『恋人』に手を出すかどうかで悩んでるわけ?」

 「どんな人間よ」と返したいが、ほぼ事実でありそれを早瀬に知られるのはあまりいい気はしなくて。

「最近、すみれの反応が少し悪くなったなって思ってただけ」

 代わりに嘘ではないことを答える。

「ふーん? 文葉が手を出さないから呆れられちゃったとか?」

「……さぁ、ね」

 話題を間違えたと悔恨する。

 なぜなら今の悩みの根幹でなくても、それは事実だったから。

 花火の日以来、すみれからの連絡は減りあれから会ったのも図書館で一度だけだ。

 その時にも妙な距離を感じてはいて、会わない期間が延びるたびにすみれのことを考えることが多くなっている。

「デートにでも誘ったらー?」

「…………」

 相変わらず早瀬の言うことは的を射ている。気になるくらいなら会えばいいのだ。

 だが、そんなことを考えながらもなかなか行動には移せず、今こうして悩んでいる。

(ったく。デートの約束くらい考えないですればいいでしょうに)

「…みは。文葉ってば」

 いつの間にか自分の思考に潜っていた早瀬の声に我を取り戻して

「な……っ!?」

 何? と問う前に早瀬が呼んでいた理由を察して、過剰に反応した。

 過剰にもなる。

「文葉、話があるわ」

 なんせ絶賛私を悩ませている最中の恋人がカウンターの前に立っていたのだから。

「話?」

 急にきて何? とか、来るなら連絡を頂戴とか、言うことがあったがすみれとしては珍しい行動でもなくとりあえず早瀬にどこか行けと目配せをしたが、すみれは早瀬を一瞥しただけで


「私と旅行に行きなさい」


 この物語の大きな転機を迎えるデートの誘いをかけてくるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る