昨夜の追憶 ~記憶は私に嘘をつくから~

 食器洗剤の泡を落としていく水流の音の向こうから、点けっぱなしのテレビの音声が、とぎれとぎれ耳に届く。大雪警報に関するニュースを読み上げる女性キャスターの声に耳を澄ませながら、私は音を立てないように洗い終えた食器を水切りの付いたカゴに並べていった。

「上越新幹線は上下線ともに運転を取りやめ――復旧の目途は――十四時から運休を続けている在来線は現在――停電している世帯は十万戸を――」

 布巾で手を拭いてから私はダイニングのテーブルに戻り、仕事帰りに買ってきた手袋の入った紙袋を隅に追いやると、さっきまでの続きを求めて本に手を伸ばした。テレビに映し出された平野の真ん中で走行不能になった電車の中継映像を少し眺めてから、しおりを挟んでいたページを――

 部屋中に響いたインターホンの音に顔を上げると、真っ黒な小窓の外では粉を落とすように、無感情に降り続ける細かな雪が見え――

 もう一度インターホンが鳴った。私は開きかけていた小説に栞を戻すとカーディガンを羽織って玄関に向かう。音を吸い込む雪の性質のせいで、外の気配はわからない代わりに廊下に擦れるスリッパの音が良く響く。スイッチを入れて玄関の明かりを点けてから、カギのかかったドアの前で声を出した。

 どちらさま?

「……僕だよ」

 若い、男の声。聞き覚えがないわけではない。どこか遠くの雲が、低く、くぐもったゴロゴロという音で空を揺らし、その圧迫感がドア越しに届く。

 だから、どちらさま?

「僕だって。秋ひ――

 屋根の上から落ちてきた雪の、ドサドサという物音が客人の声を打ち消した。私の手はドアにかかったチェーンを外そうと取り掛かる。そうしているうちに指はかじかんできて、ドアノブに手を掛けた時には芯まで冷え切ってい――

「……やあ」

 ドアの先には、はにかむ顔。

 ……うん。ひさしぶり

「元気してた?」

 ま、それなり……?

 秋人あきひとの着ている黒いコートは夜の暗闇に溶けている。色白な彼の顔と、コートの袖からはみ出した手、肩や黒髪の上に積もった粉雪が相反する白さを際立たせていた。

 ……あがる?

「良い? 助かるよ」

 そう言ってから秋人はレインブーツの踵を鳴らして底に着いた雪を落とすと、コートを脱ぎ、外へ雪を払ってから玄関に上がった。玄関のドアが閉じる間際、一瞬、遠くの空の中が黄色く輝く。

 彼のコートの下は赤色の厚手のセーター。袖から見える彼の手は、寒さで赤く染まっている。

 暴風のようにゴロゴロ鳴り響く雷の音が家を揺らした。

 どうやってうちまできたの?

 秋人が玄関に腰を下ろしてレインブーツを脱いでいる間、コートは私が預かっていた。外の空気が固形化したように冷たいコートは思いのほか薄手で、私は彼の頭を軽く叩いて、そこに積もった雪を払い落した。

「近いし、歩いてきたよ。普通より三倍は時間がかかったけど」

 こんなコートじゃ、寒くない?

「オシャレは我慢ってね」


 石油ストーブの前に椅子を運んで、背凭せもたれに秋人のコートを掛けてから、私はキッチンに立ち、マグカップを準備した。テレビは雪の中に閉じ込められた電車の中継を続けている。本来なら一面、田んぼだけの、だだっ広い土地。街路灯一つない暗闇の中、青黒く佇む雪に囲われた電車の窓から黄色っぽい明かり漏れている。

「まるでおりだ」

 テレビを見ながら秋人が小さく呟いた。彼は冷えた指を石油ストーブの前で擦り合わせている。ストーブの上に置いた薬缶が、カタカタと音を立てて湯気を吹き上げていた。

 それは私も、よく思う

 マグカップにココアパウダーを入れながら、私は秋人の独り言を奪った。

 ココアは薄目が好きだったよね?

「うん。ありがと」

 マグカップにスプーンを入れてから、キッチンの換気扇を回した。空気を吸い込む音と一緒に、また空がゴロゴロと雷鳴を――


 タァァン!


 轟音とほぼ同時に一瞬、目の前が白く光ったかと思うと、目が眩んだかのように視界が真っ暗になって、

 秋人? 大丈夫?

「大丈夫だよ。ただの停電だね」

 かえってきた声の可笑しそうな含みに私はどこか安心した。目が慣れてくると、真っ先に小窓の外でレンガのように積み重なる雪の白さが見えてくる。私はその儚い明かりを感じながら、ココアの粉とスプーンが入ったマグカップを手に、暗闇の中を摺り足でダイニングのテーブルまで歩いた。停電と共に夜が沈黙する。私たちの気配が際立つ。

 薬缶、持ってきて

 石油ストーブの赤々した光が秋人の顔を照らしている。暗がりで目を細めながら薬缶を傾ける秋人の横顔が――

 いつ戻ってきたの?

 私は椅子に座りながら訪ねた。秋人がストーブの上に薬缶を戻すと、沈黙していた夜に湯気の上がる音が戻ってきた。

「今日の朝。ぎりぎり新幹線が動いてたから」

 椅子に座りながら秋人が言った。マグカップをスプーンでかき混ぜる指は、最後に会った時と変わらず女性的。今でも手を繋ぐ女の子を躊躇ためらわせるんだろう。石油ストーブの赤い輝きが私たちを照らしていて、暗がりの中でスプーンを躍らせる秋人の細い人差し指の第一関節に小さなあかぎれを見つけた。気に留める様子のない彼は人差し指でスプーンを抑えたままマグカップを口に近づけると、唇につける前に「熱い」と言ってテーブルに戻した。

 猫舌のクセに

 私はテーブルの端に置いていたタバコに手を伸ばした。ピアニッシモ、一本唇に挟んで、使い捨てライターで火をつけると、巻き紙がチリチリと小さく音をたてた。

 吸わないの?

「辞めたんだ」

 へぇ。今、何日目?

「ホントに辞めたんだって」

 持ってないの? タバコ?

「ないよ」

 ふーん

 タバコの箱に手を伸ばして一本、巻紙を取り出す。フィルター側を秋人の鼻先に向ける。私の手は一般的な女性に比べると少し大きい。秋人の手と同じくらい。洗い物の後、ハンドクリームを塗るのを忘れていたから少しカサついている。

「なに?」

 私にタバコ教えといて、それはないんじゃない?

 少し困った顔をしつつ、秋人は一度手を伸ばすんだけど、その手は迷ったように一度宙に留まり、それから観念したのだろう、万引きするみたいに巻紙を受け取った。

「僕が教えたんだっけ?」

 秋人は見た事のない代物しろものを手にした子供みたいに、指でつまんだタバコを眺めまわして――

 閃光が掃出し窓に掛かるカーテンを貫いた直後、再び轟音が家を揺らした。

 そうだよ

「そっか」

 私の口元から昇る煙が部屋に籠るから、少しだけ窓を開けようかと迷ったけれど、外の雪が躊躇させた。ホント、檻みたいな雪。

「いつ、教えたんだっけ?」

 秋人はピアニッシモを鼻先に近づけて香りを吸い込んでいた。私は使い捨てライターを彼の方に向けながら、

 なにが?

「タバコだよ。タバコ」

 秋人が出ていった日の前日。そういえば、あの日も停電してたね

「あー、思い出した。犯人、僕だ」

 観念した?

「うん。降参。美冬も辞めた方が良いよ」

 はいはい。火、点けたげるから

 ピアニッシモを挟んだ、細い人差し指と中指の第一関節に開いたあかぎれの傷が痛々しい。ライターの先で揺れる小さな灯に照らされて、艶めかしく輝いた傷口が、しょっぱいような、鉄っぽいような味を想起させたから私は煙を吸い込む。

 揺れる炎がピアニッシモの先端を照らすのだけど、秋人は口からタバコを放したままで、逃げるように――

「もう十分かな」

 そう言ってタバコを私に返した。私は一つ、煙を吐き出してから、

 本当に、いらないの?

「うん、いらない。もう十分」

 秋人からタバコを受け取ったとき、彼の指に少しだけ触れた。すこしカサついていたけれど、昔、私が初めて吸ったタバコを差し出した時と同じ手をしていた。

「今はこっちの方が良い」

 マグカップに手を伸ばして、恐る恐るココアの飲んでいる姿も最後に会った日と同じ。タバコが吸えるようになったばかりの頃から何年も経っているのにそう感じるのは、私も同じだけ歳を取ったからかもしれない。私たちは違う場所で、同じように歳を重ねていくみたい。

……いつまで、こっちに?

「明日の新幹線で戻る予定。電車が動けば」

 そうなんだ……向こうは忙しい?

「それなりに、けど悪くないよ」

 へぇ

 私はタバコの火種を灰皿に押し付けてから、小窓の外で静かに積み上がっていく雪に目を向けた。

 檻を出た感想は?

 ちょっと嫌味っぽく、笑いかけてしまったと思う。直後に閃光。

「雪が無ければ、別の問題が気になるだけだよ」

 秋人は何かを待つように静かに小窓の外を見つめて、ゴロゴロ音がしてから

「光ってから八秒だったね」

 え?

「雷、離れてってるみたい」

 それから秋人はさっきまで舐めるようにしてたマグカップから、落ち着いた様子でココアを飲んだ。小窓の外では雷の瞬きの度、膨れ上がるように雪が積もっていく。

「子供の頃、雪ってもっと近い存在だと思ってたんだけどね」

 秋人が小さく呟いた。その言葉を繋ぐように”まるでおりみたい”って言ったのは私と秋人、どっちだっただろう。

 それから石油ストーブの上の薬缶と雷鳴以外、誰も夜の沈黙を邪魔してくれないから、私はマグカップに添えられた秋人の指先を眺めていた。


 ※ ※ ※


「美冬は出て行こうと思ったことはないの?」

 石油ストーブに温められたコートを羽織ると、玄関先に腰を下ろしてレインブーツを履きながら秋人が言った。私は自嘲気味な笑みをこぼしながら、

 ……私はこのおりが好きだから

 秋人の背中に言った。彼は私に何か言おうとしていたみたいで、ズボンの裾をレインブーツの中に押し込む手を止めたのだけれど、少しのの後、彼はゆっくり立ち上がりながら、

「そっか」

 呟いてから小さく咳をする。ゆっくり立ち上がった背中が少しずつ離れていき、ドアを開けると踵を鳴らして振り返った秋人が私に向けた笑顔が――

 ……餞別

 私はテーブルから持ってきていた紙袋を秋人に突き出した。

「なに?」

 手袋、あげる

「いいの?」

 いいよ。サイズ、私と同じだったでしょ?

「……そっか」

 秋人は紙袋を開けると私の目の前でディープグリーンの手袋を着けた。それから付け心地を確かめるように手をグー、パーさせてから、開いた掌を見つめていた。

「ありがと、大事に使うよ」

 せいぜい、そうして

 ドアの外では雷が収まった後も休むことを知らないように降り続ける雪が、砂糖を散らすように落ちていた粉雪から、湿り気を帯びた大玉へ変化していた。

「それじゃあね」

 うん、気を付けて

 ディープグリーンの手を振って秋人は夜の雪の中に消えていった。彼の姿が見えなくなった後も、しばらくの間は雪を踏み潰す足音がだけが沈黙した夜に響く。その音が聞こえなくなると、私は静かにドアを閉めてから、もう一度、小さな声で呟いた。

 ……私はこのおりが好きだから

 震えていたのは寒かったからだと思う。


                    完

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