赤いキッチンタイマーが私を翻弄する

垣内玲

【1】

 その人のことを、私は「村瀬先生」と呼んでいた。高校の教師である村瀬先生が村瀬先生と呼ばれるのは当たり前ではないかと思われるかも知れないけれど、これは少なくとも私にとって、もしくは私たちにとって当たり前のこととは言えない。

 教師のことを「先生」なんて呼ぶのは、すごく違和感がある。うちの学校では、生徒に嫌われてる教師は、本人を前にしたときはともかく、生徒しかいないところでは「島田」とか「内村」とか呼び捨てにされるし、好かれていれば、それはそれで、親しみを込めて「ヨシカワ」とか「アサノ」とか(この場合は本人に対しても)呼ばれるし、「ナオちゃん」とか「スーさん」とか、あだ名で呼ばれる先生も多い。近くに大人がいるわけでもないのに「村瀬先生」と漢字四文字のイメージで語られる教員なんてうちの学校には他にいない。

 村瀬先生がこの上なく模範的な教師で、自然と敬意を込めて「先生」という敬称をつけてしまうのだ、という話であればそれも不思議ではない。だけど、村瀬先生はちっとも教師らしくない。

 高校1年、冬の定期試験。学校生活にも慣れて、試験勉強のペースもつかめるようになってきた頃。数学の試験監督だったのが村瀬先生だった。

 第一印象からして強烈だった。腰にウエストポーチをつけている。そして、そのウエストポーチには何かのゆるキャラのストラップが付いている。私はそのとき前の席に座っていたので、試験監督として教室に入ってきた知らない教員の身につけているクマのキャラクターが気になって仕方がなかった。

 クマのストラップなんかぶら下げてるくせに、その先生は妙に神経質だった。

 学校の試験では、筆記用具以外の荷物はすべて鞄の中に入れて、鞄を椅子の下にしまうことになっている。机の上には筆記用具だけで、筆箱も出してはいけないし、ティッシュや時計を出すときには、試験監督の先生に試験が始まる前に申し出て許可を得なければならない。そのルールは黒板に張り出されているのだけど、ほとんどの先生はそんなに細かいことを言わない。生徒指導部の教師なんかは違ったけど、若い先生は概ね適当だ。それなのに、20代そこそこと思われる村瀬先生は、そんな誰もろくに守ってないようなルールに恐ろしく厳格だった。試験開始の5分以上前にクラス全員を着席させ、荷物を鞄の中に入れさせ、全員の鞄の口が閉じているかをひとりずつ確認してから問題を配付する。生徒指導主任のババアと良い勝負だ。クマのゆるキャラを身につけてやってきた人間がなんでこんなどうでもいいような規則には厳しいのか。

 その日は、何かの理由で、チャイムが鳴らなかった。そういうときは、試験監督の先生が自分の時計で時間を計ることになっている。

 村瀬先生は最初教室の時計を見ていたけれど、そのことを思い出した様子で「そうか、今日チャイムならないのか」とつぶやき、クマがぶら下がってるウエストポーチに手を突っ込んだかと思うと、中から赤いキッチンタイマーを取り出した。

 16年生きてきて、ウエストポーチから赤いキッチンタイマーをとりだす大人の男性の姿を私は一度も見たことがない。何なんだこの人は。


 「これで50分計ります。5分前と10分前にピピって音が鳴るけど気にしないでください」

 ピピって音が鳴るけど、じゃないんだよ。あまりの動揺で試験どころではなかった。なんでキッチンタイマー持ち歩いてるんだこの人。

 うちの学校はこれと言って特徴のない中堅の私立高校で、生徒も教員も、良くも悪くも平凡な人たちの集まりだった。もちろん、平凡なりに変わった人も面白い人もいたけれど、クマのストラップをつけて校舎内をうろつき(校長とかに見られても平気なんだろうか)、キッチンタイマーを持ち歩き、そのくせ教務が大昔に決めたまま改訂もされず、誰も守らなくなってるような試験のルールを遵守させる先生なんて見たことがない。

 後になってよく考えてみれば、試験のときにチャイムが鳴らないという状況で、試験監督の教員が手時計で試験時間を計るのは合理的ではない。いつ電池を交換したかもわからないようなアナログの腕時計よりは、キッチンタイマーを使った方が正確に時間を計れるに違いないし、チャイムが鳴らないのでうっかり時間をオーバーしてしまうというミスも避けられる(実際、たまにそういうことは起こるらしい)。手時計で試験時間を計るというのは妙な習慣だと思うし、正しいか間違っているかで言えば、村瀬先生は正しい。

 でも、これはそういう問題ではないと思う。学校という場所では、とりわけうちのような「協調性」の名の下に出る杭を打つ人間が生徒にも教師にも大勢集まっているような学校では、やってることが合理的か非合理的かというのはあまり大事なことではない。他の先生がどうしているかの方が圧倒的に大事であるはずだ。周りの先生がみんな手時計で試験時間を計っているのに、ひとりだけ赤いキッチンタイマーを持ち歩くような人が、どうしてうちの学校の先生でいられるのか全く理解できない。

 何なんだこの人は。

 赤いキッチンタイマーから鳴る音は、想像していたよりも甲高く、耳障りだったし、数学の点数は最悪だった。元々苦手であることを差し引いても酷かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る