異島奏芽の最期 2

「お前は狂っている。青山によい病院があるからそこへ行け!」

 奏芽の狂気の愛の告白を受けた蓬莱は怒鳴り返した。暗闇の中に見えるのは、遠い街の光をかすかに反射する奏芽の白い肌と狂気を宿して光る黒目のみ。雨と風に寒さが加わり、肌の感覚も失われつつある。奏芽と触れているところだけが温かく、感覚が残っている。

「帝国脳病院でしょう。存じております。あそこは素敵な場所です。まるで欧州のお屋敷のようにハイカラでした。あまりに素敵だったので、忍び込んで患者の首を絞めてしまったんです。思い出してもぞくぞくする」

 奏芽は笑った。狂っている。蓬莱も他人のことは言えないが、奏芽の昏い欲望には底がない。

「この鉛の袖にはこんな使い方もあるんです。ほら腕が動かないでしょう。私に好き勝手されるがまま」

 奏芽はそう言うと、ぼろぼろになった蓬莱の袴の隙間から手を入れ、蓬莱の身体をまさぐり、肌に噛みついた。蓬莱は両腕に何度も力を込めるが、鉛入りの袖をどかせない。風に流されないように重りをつけるには道理に合っているが、こんな重さのものを身につけて走っていたとは信じられない。おそらく錐刀で突いても刃を通さなかっただろう。これが鬼の力なのか。

「おいしい。あなたの血も肉も私のもの。なぜあなたは醒めているのです? わかっています。冷静になろうとしている。でも犯されながら死ぬことを想像してください。狂気の淵で私を犯したことを思い出してください。狂気と快楽の果てで死にたくはないのですか?」

 「犯されながら死ぬ」という言葉に蓬莱の身体が反応した。理性では必死に抑えようとしたが、無理だった。奏芽はそれに気がつくとすぐに手で確認した。温かい手に包まれて蓬莱は恥辱にうめく。

「やはりあなたは私の愛した人だ。光もない暴風雨の真っただ中で欲情している。さあ、絶望の嬌声をあげてください」

 身体に力が入らない。死への甘い誘惑が全身を痺れさせ、快楽を求める。内腿に熱いものが触れた。奏芽の肉体だと思う間もなく、その肉の狭間に蓬莱の興奮が包み込まれた。全身が痺れるような快感が襲い、風も雨も感じなくなる。ただ奏芽の身体からほとばしる熱いものだけを感じる。

「わかりますか? 思い出しましたか? これが私です。私の内臓を犯してください。命の限り精を吐き出してください」

 蓬莱の上で奏芽の腰が動き出す。同時に肩と首に甘い痛みを感じた。蓬莱はなにも考えることができなくなった。肉欲に支配され、貪るように奏芽を求める。

 奏芽に胸の肉を食いちぎられた時、近くで波が砕け、降り注ぐ潮とともに蓬莱は達した。股間から太腿に生暖かいものが垂れてくる。

「蓬莱さま、まだです。まだですよ」

 奏芽はそう言うと、蓬莱に接吻する。舌で腔内を犯し、蓬莱の舌に噛みつき、唾液をすすった。蓬莱は自分が再び奏芽の中で硬くなったことを感じた。狂っている。自分も奏芽もいかれている。ここでこのまま共に果てるのがお似合いの狂人同士なのかもしれない。そんな思いが頭をよぎった。

 しかし突如として片目の顔が胸の奥に浮かんできて、その思いを砕いた。片目にもう一度会いたい。黄泉路への道行きは片目とでなければならない。必死にもがき、奏芽を離そうと試みるが、身動き取れない。

「蓬莱さま、無駄です。あなたはここで私と死ぬのです。ともに永遠の闇の中で終わらぬ悪夢を見ましょう。私たちは絶望のつがいです」

 その時、高波が襲ってきた。一瞬で蓬莱の視界は暗転し、全身が水の底に沈んだ。すぐに潮が引くのがわかった。全身が引きずられる。息が苦しい。

 腹部にかかっていた奏芽の重さが消えた。目を開けても真っ暗で何も見えないが、腕をつかまれているのはわかる。奏芽が流されそうになって蓬莱の腕にすがりついてくるのだ。皮肉なことに奏芽におもりをつけられた蓬莱は引き潮にも流されずに済んでいる。

 聞こえるはずのない奏芽の声が聞こえた。

「ありがとうございます。蓬莱さま、私は思いを遂げることができました。あなたも早くいらしてください。地獄で愛し合い、殺し合いましょう」

 腕をつかんでいた奏芽の手の感覚がなくなった。潮が完全に引き、蓬莱が目を開けると、そこには誰もいなかった。ただ獣の胃液に溶かされた肉片のような無惨な景色が広がっているだけだ。小屋も木も草もない。ただの残骸が泥のような砂にまみれて転がっている。奏芽は引き潮に連れ去られてしまった。並の人間では助からないだろう。しかし目と耳を失った世界で生きるあいつなら生き延び、また現れるかもしれない。

 だが、奏芽も相当傷を負っているはずだ。すぐに戻ってくることはないだろう。ややあって雨と風は止んだ。蓬莱は全身の力を込めて、腕を抑えていた奏芽の袖をずらしてはずすと、ふらつく足で立ち上がった。身体が冷える。身につけていた袴はもはやぼろぼろだった。両手で身体を隠し、急いで隠れ家に戻る。

「蓬莱さま!」

 扉を開けたとたんに全員に迎えられた。無理もない。「外の様子を見に行ってくる」とだけ言って出てきたのだ。そのすぐ後に突然の暴風雨だ。残された方は気が気でなかっただろう。

「奏芽が来た」

 どこから説明すればよいのかわからない。しかし説明しなければならない。約定が解かれた以上、すぐにでも動くべきなのだ。さもないと片目は本屋に殺されるか、どこかに姿を隠してしまう。

「まさかゲヒルンからの刺客ですか?」

「違う。花鳥が死に、鬼たちと朝廷の約定は解かれ、ゲヒルンは崩壊したも同然だ」

「なんですって? では奏芽はなぜここに?」

「私への恋心を告白して殺すために来た」

 その言葉で全員の視線が自分に集まるのを蓬莱は感じた。

「蓬莱さま、お身体に面妖な傷が……」

 そう言われて自分の身体を見ると、腕や脚のいたるところに噛み痕がある。中には肉を食いちぎられているところもある。

数名が蓬莱に近づき、愛おしむように傷や噛み痕を撫でる。

「まるで、自分と殺し合っているようだった」

「え?」

「なんでもない。異島の連中はどいつもこいつもまともじゃない」

 身体がうずく。このままでは仲間を襲ってしまいそうで怖い。それに自分に向けられた全員の視線が、肉欲にあふれているように思えて仕方がない。この状態ではあらがえない。全員に襲われ、犯されるかもしれない。想像するとますます興奮が収まらなくなってきた。呼応するかのように蓬莱の身体を撫でる手が腿から上に上がってくる。

 その時、蓬莱は気がついた。片目衆に参加した者はみんなあの時、自分と肌を重ねた者なのだ。蓬莱自身は覚えていないが、そうに違いないという気がした。ここにいる全員に自分の痴態を見られて、犯されていたのかと思うと恥ずかしくて身が縮まる。同時に、すでにもう関係を結んでいるなら今さら恥ずかしがることもないだろうという気もしてくる。肉欲への甘いうずきが体内に蘇ってくる。

 その時、脳裏に籐子の顔が浮かんできて、正気に戻った。

「団長のことを思い出した。肉体の死よりも魂の死を畏れよ、と団長はおっしゃった。矜持をなくしたら我らは人でなくなる」

 その言葉に全員がはっとする。

「最後の瞬間まで矜持をなくしたくないものだな」

 蓬莱の言葉に全員がうつむく。さきほどまで満ちていた淫猥な空気が消える。

「はい」

 ひとりがそう言うと、こだまのように全員が答えた。電話がかかってきた。近くにいた者がすぐに受話器を取る。

「例の方から知らせが来ました。現在、本屋の仕掛けで霞ヶ関を中心に暴動が発生しております。内務省はすでに本屋の手に落ちました。明朝には暴動は収まり、本屋はゲヒルンの掃討作戦を行います。氏家翔太は人形屋籐子さまと入鹿山碧さまの手にかかって明朝までに死ぬとのことです。片目金之助は花鳥風月の死を看取った後、暴動でゲヒルンには戻れなかったはずですので、やはり明朝ゲヒルンに向かうと考えられます。片目さまを討つならこれが最後の機会とのことです」

「わかった。しかし片目さまが明朝ゲヒルンに戻るのは確かなのか? 用心深い方だ。どこかに隠れているかもしれない」

「例の方によると、片目永遠がゲヒルンにいる以上、必ず行くそうです。この暴動で内務省が本屋に乗っ取られたため、片目永遠はゲヒルンから出られなくなっていると思われます。明朝、内務省で待つと伝えるように言われました」

 蓬莱は腕組みしてうなずいた。いよいよ最後の時が来たのだ。

「身体を清め、着替える。その後、出立しよう。この機を逃すわけにはいかない」

 蓬莱はそう言うと風呂場に向かった。

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