第六話 肯定という赦し

「最近、芭蕉に避けられてる気がするの」

 日曜日の昼間。五戸家客間のソファーに座っている楓さんが、沈痛な面持ちで言った。

 同じように座っている私は、カチャと音を立てながら、飲んでいた紅茶のカップをテーブルの上に置く。テーブルを挟んで私の眼前に居る楓さんへ視線を向ける。

「芭蕉さんに、ですか?」

 そういえば、と。昨日の出来事を思い出す。色んな事があったなあ……猫のぬいぐるみが動いたり、皆さんがそのぬいぐるみと戦っていたり……ってそうではなくて。楓さんと芭蕉さんに関してだ。お二人はいつも仲が良さそうに会話しているのに、昨日は話している所を一度も目にしなかった。たまにはそんな日もあるだろうと、そこまで気にしていなかったが。

「何か悪いことしちゃったのかなって思ったんだけど、考えても思い当たることが無くて……直接訊こうとしても、芭蕉に声を掛けようとしたら避けられちゃうし、スマホにメッセージ送っても電話をしても無視されるしで」

「それは……困りましたね」

 メッセージや電話も無視、となると、楓さんの勘違いという線は無さそうだ。

「うん……だからね、色々考えたんだ。どうしたら芭蕉に私を避けている理由を訊けるのか。で、一つ良い考えを思い付いたんだよ。今日栞を呼んだのは、その良い考えを実行するのに栞の力が必要だからなんだ」

「私の?」

 なんだろう。今の私に出来る事なんて、ごく限られているけど。

 楓さんは私の瞳をじっと見つめ、珍しく怖ず怖ずと口を開く。

「……あのね。もし栞が迷惑じゃなかったらなんだけど、栞が芭蕉に訊いてみてくれないかな? どうして私を避けてるのか」

「えっ。わ、私がですか?」

 まさかそんなことを頼まれるとは想像もしていなかった私は、面食らってしまう。

「構いませんけど……私が尋ねて芭蕉さんが答えてくださるのでしょうか?」

 そもそも、私は楓さんとも芭蕉さんとも出逢ってからまだ一ヶ月程しか経っていない。なのに何故楓さんは私にそんな大事な相談を? 相談をしてくれるのは、信頼されているということだろうから、嬉しくない訳ではないが……不思議だ。

「芭蕉が答えてくれるかは、正直分からない。今までこんなこと無かったし……でも、頼める人が栞しか居ないんだ」

「私しかって……他にも居るでしょう? 例えば、サンちゃんさんや幸恵さん、知加子さんとか。それに、芭蕉さんのご家族も」

「サンちゃんはいつも忙しいし、幸恵先輩と知加子先輩は学年が違うし会う機会もちょっと限られてるし。芭蕉の家族に話して大事おおごとにもしたくなくて。だから、そうなると栞ぐらいしか居ないかなって思ったの」

「ああ……確かに、暇で大体いつでも会える人と言うと私ぐらいしか該当しませんね」

「ちっ、違うんだよ!? 別に栞がその、ニートっぽいからとかそういう風に言ってるんじゃなくて! 違うから! ね!」

 楓さんは両手を左右に振って必死に否定する。

 悪気は無いのだろうが、はっきりと「ニートっぽい」と言葉にされてしまい、私の心にその六文字がぐさりと突き刺さる。

「あ、あははは……」

 返す言葉が見つからず、殆ど無意識に私の口から乾いた笑いがこぼれた。……やっぱり、皆さんからニートだと認識されているのだろうか、私。間違ってはいないのだけど……こうして面と向かって言われると予想以上にダメージが大きい。

「と、とりあえず、お話は分かりました。私から芭蕉さんにお訊きすれば宜しいのですね?」

「うん。ありがとう。それとごめんね、急に頼んじゃって……」

「お気になさらないでください。……いつも、暇ですから……」

「あ、えーっと……ご、ごめんなさい」

 項垂れる私に、楓さんは申し訳なさそうに謝罪の六文字を口にしたのだった。



 楓さんの相談に乗った翌日。月曜日、つまり平日の夕方。私は、今日は芭蕉さんと一緒に客間に居た。

 なんと夕方になって、突然学校帰りの芭蕉さんが五戸家を訪ねてやってきたのだ。小鈴さんが「栞様に御用があるそうですぅ」と自室で休んでいた私に伝えてくれて、芭蕉さんを客間にお通ししてもらった。そして今に至る……という訳だ。

 テーブルを隔てて目の前に座っている制服姿の芭蕉さん。いつも通りの、ほんわかとした雰囲気を身に纏った芭蕉さん。一見、何も変わった所は無いように感じた。

「それで、御用というのは何でしょうか?」

「う~ん。ご用よりも、お願いって言った方が近いかも~? ……そう。今日はしおりんにお願いがあって来たんだ~」

「お願い、ですか」

「そうだよ~しおりんにしか頼めない、大事なお願い~」

 にこにこと笑いながら、芭蕉さんは言った。その笑顔は……失礼だけど、ちょっと不気味な笑顔だった。

「大事なお願い、とは……?」

「えーっとね~いきなりこんなお願いされても迷惑だとは思うんだけど~……もし私が死んだら、かえかえのことを頼まれてほしいんだ~」

「…………え?」

 何も変わっていない。客間の空気も、窓から覗く橙色の空も、眼前の芭蕉さんの笑顔も。芭蕉さんの唇から流れたその言葉も無かったことにしてしまえるくらい、何もかも通常とは変化していない。でも無かったことになんて出来なかった。私には。

 芭蕉さんはと言うと、やっぱりにこにこと笑い続けている。芭蕉さんの表情と、先程の芭蕉さんの言葉がとても不釣り合いで、理解が追い付いていかない。

 そして、数秒遅れて。

「ば、芭蕉さんが死んだらって、どういう意味ですか?」

 私はやっと、芭蕉さんへ質問を投げ掛けられるまでに平静を取り戻した。

「どういう意味って、言った通りだよ~」

「で、ですから。どうして芭蕉さんが死ぬだなんて、そんな話になるんですか?」

「……別に、不思議な話じゃないでしょ~? 私たちは仮にも“戦い”をしてるんだよ? 怪我だってするし、命を落とす確率だってゼロじゃない。もしも──私が命を落としたら、多分かえかえは悲しんでくれると思う。だからもしそうなったら、しおりんにかえかえの側に居てほしいな……ってこと~」

 真剣な眼差しで、私を見据える芭蕉さん。芭蕉さんの言葉が冗談では無いことは、芭蕉さんの目を確かめればすぐに分かった。

 芭蕉さんのお願いは理解出来たけれど、でも──どうして? どうして楓さんも芭蕉さんも、私に大事なお願いをするのか? それがどうにも解せなかった。

「……何故、私なんですか? 私は楓さんとも芭蕉さんとも、出逢ってからまだ日が浅いはずです。そんな私よりも、他の方に言った方が良いのではないですか?」

「私も、しおりんが来るまでは他の人に頼もうと思ってたよ~? でもしおりんが来てからは、しおりんしか頼める人は居ないって思った。……しおりんはさ~不思議に感じた時はない? 知り合ってからまだ少ししか経ってないのに、かえかえが好意的に接してくることに~」

「それは……」

 私も、不思議に感じた時は、ある。咲耶市の街を案内してくれたり、サンちゃんさんを紹介してくれたり、家に泊めてくれたり、別れを惜しんでくれたり……大事な相談をしてきたり。とても私のことを信頼してくれているなあとは思っていたが……。

「その顔は、思い当たる節があるって顔だね~」

「……ええ」

「……ね、しおりん。どうしてかえかえがしおりんへ好意的なのか、知りたい~?」

「芭蕉さんは知っているんですか?」

「うん。まあ、予想なんだけど~……九十パーセントくらいの確率で当たってるんじゃないかな~」

「それを……教えていただけますか?」

「いいけど~……もしかしたら、もう今までと同じ目でかえかえのことを見れなくなっちゃうかもしれないよ~? それでも~?」

 普段よりも低い、落ち着いた声音で芭蕉さんは警告する。まるで私を脅すように。

 真実を知るのが怖くないと言えば嘘になる。だが、これは私に関わってくる問題だ。今聞かなくても、きっといつか知ることになる。そんな予感がする。

 ──私は、意志を固める。

「はい。たとえ、楓さんが私に親しくしてくれることにどんな理由があっても……知っておいた方が良いと思いますから」

「……分かったよ~そこまで言うなら、教えてあげる。かえかえがしおりんをあそこまで好きなのはね~」

 芭蕉さんはそこで言葉を切る。一呼吸置いてから、ゆっくりと、芭蕉さんの口が動き始める。

「──しおりんがかえかえのお母さんに似てるから、なんだと思うよ」

 告げられた真実は、想像もしていないものだった。

「私が……楓さんの、お母様に…………」

「似てるって言っても容姿がすごく似てる訳じゃないんだけどね~雰囲気は、すごく似てる。かえかえのお母さんが家に居る時が少ないのは、知ってる?」

「は、はい。お父様も、もう亡くなっていると聞きました」

「そう。私の所にご飯を食べに来てはいるけど、基本家にはかえかえ一人だからね~かえかえは口にはあんまり出さないけど、きっと寂しいんだと思う。だから多分……無意識なのかどうかは分からないけど、かえかえのお母さんをしおりんに重ねちゃってるんだよ~」

「楓さんが、私に……」

「悪い言い方をすると、かえかえはしおりんのことを──かえかえのお母さんが居ない時の、お母さんの代わりのように見ているのかもしれないね」

「…………」

 私は、何も言葉を返せなかった。

 ショックを受けているのだろうか。それとも、ただ驚いているだけなのだろうか。……いや、違う。“これ”を、私は知っている。この、身体の奥から込み上げる“感情”の正体を、知っている。……忌まわしい程に、よく知っているのだ。

「……ごめんね。今のは言いすぎだった」

 その声で、私は我に返る。芭蕉さんの方を見ると、芭蕉さんは申し訳なさそうな顔をしていた。

「い、いえ。大丈夫です。教えてくださってありがとうございます。少し、すっきりしました」

 慌てて、私は返事をする。

 今は、“まだ”大丈夫だ。耐えられる。大丈夫。そう、自分に言い聞かせながら、唾を飲み込んだ。

「そっか~ならよかったあ」

 安堵したように、芭蕉さんは微笑む。

 芭蕉さんが私に頼む理由は、理解した。だが、私もいつまでここに居候する事になるかは分からないし、安請け合いは出来ない。それに……やっぱり私は、芭蕉さんが楓さんの側に居るべきだと思うのだ。

「……芭蕉さんは、私が楓さんのお母様に似ているから、楓さんのことを私に頼もうと思ったんですか?」

「うん。やっぱり駄目かな?」

「駄目と言いますか……それで、芭蕉さんは本当にいいんですか?」

「何が~?」

 いつものように、飄々とした様子で首を傾げる芭蕉さん。私は芭蕉さんのペースに呑まれまいと、身を引き締める。

「私が……楓さんのお母様に似ていて、だから楓さんが私にあそこまで親しくしてくれていて。それが事実だとしても、私が楓さんと出逢ってから日が浅いという事実は変わりません」

 話す私に、芭蕉さんは冷たい視線を返す。私は少し物怖じしてしまうが、負けじと話を続けていく。

「それに、です。楓さんと一緒に居た時間は、芭蕉さんの方が私よりもずっと長いでしょう? もし死んだら、なんて悲しいことを仰らずに、これからも芭蕉さんが、楓さんの側に居て差し上げれば宜しいのではないですか?」

「…………」

 芭蕉さんは、ゆっくりとした動作で俯き、沈黙してしまう。そんなつもりは無かったが、何か悪いことを言ってしまっただろうか……?

「ば、芭蕉さん……?」

 私は恐る恐る声を掛ける。

「…………駄目だよ」

「え?」

 ぼそりと、芭蕉さんが呟く。急に、芭蕉さんはソファーから立ち上がった。

「だってかえかえには……楓には、私はもう必要の無い存在だもの!!!」

 客間に芭蕉さんの大きな声が響き渡る。大きな声を出したからだろうか。芭蕉さんは息を荒くしていた。

「芭蕉、さん?」

 初めて見る芭蕉さんの姿に、私は驚きの余り呆然としてしまう。表情は、淡黄色の髪に隠れて判然としない。

 芭蕉さんは私には目もくれず、徐にソファーに置いていた鞄へ手を伸ばし、肩に掛けた。

「ごめん。私、帰るね。……今日はありがとう」

 顔を伏せたまま私にそう告げる芭蕉さん。足早に客間から出ていく後ろ姿を私は目で追う。すたすた、パタン……。開いて、またすぐに閉まった客間の扉。動きの無い扉を、ただ見つめる。

「…………」

 気付くと、自分が時間を移動したような感覚に襲われた。目の前のソファーに芭蕉さんはもう居ない。あるのはテーブル上の、手の付けられなかった一杯の紅茶と、私の紅茶だけ。……そういえば。私もまだ飲んでいなかった。折角淹れてくれたのに勿体無いな、と自分のカップを手に取り、口の中へ紅茶を流し込んでいく。やっと飲めた紅茶は、すっかり温かさを失っていた。



 芭蕉さんが帰った後。私は五戸家の廊下で、窓から夕方の空を眺めていた。考えるのは、芭蕉さんのことだ。

『だってかえかえには……楓には、私はもう必要の無い存在だもの!!!』

 あれは、どういう意味だったのだろう。楓さんにとって芭蕉さんが必要の無い存在? そんなことある訳が無い。私は楓さんではないから百パーセントそうだとは言えないが……九十九パーセントくらいそうだとは言える。芭蕉さんは、楓さんにとって必要な存在だ。芭蕉さんと一緒に居る時の楓さんはとても楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうな顔をしている。それなのに……どうして芭蕉さんは、自分が楓さんに必要の無い存在だなんて思ったのだろうか。もしかしたら、芭蕉さんが楓さんを避けている件に関係があるのかもしれない。

「……あ」

 そこで私は、楓さんに「芭蕉が自分を避けている理由を訊いてきてほしい」と頼まれていたことを思い出した。芭蕉さんの話が終わってから訊こうと考えていたが、芭蕉さんの話が衝撃的すぎて失念していた。でも芭蕉さんは話の途中で客間から退室してしまったし……忘れていなくても訊けなかったかも。いや、だとしても私が楓さんからの頼みを忘れていたのは事実だ。後で正直に楓さんに謝ろう。

「ん……?」

 急に、どこからか何かの音楽が聞こえてきた。不思議に感じ耳を澄ませてみる。なんとなく聴き覚えがあるメロディ。何日か前に聴いたような…………あ、そうか。私は服の腰ポケットに入れているスマホを片手に持つ。予想通り、音楽は私のスマホから流れていた。

 画面へ視線を向ける。サンちゃんさんからの電話だ。私はすぐに応対のボタンを押下する。

「はい、桜川です」

「栞さん? サンですわ。申し訳ないのですけど、敵が出現したので今から五戸家の地下室にいらしていただけるかしら?」

「えっ!? 敵がですか……!?」

 無意識に大きな声を発してしまい、咄嗟に周りを見回す。誰も居ない。私はほっと胸を撫で下ろした。戦いに関しては他の使用人さんには秘密なので、バレてしまうとまずいのだ。

「まさか、こんな短期間に何体も現れるとは……私も予想外でしたわ。栞さんへのサポートについての説明もまだですのに……」

 耳に届いた電話越しのサンちゃんさんの声からは、動揺が滲み出ていた。どうやらこの事態はただ事ではないらしい。

「それでお願いなのですが、私の部屋に到着したらまた私へ電話をしてください。万鈴か小鈴に地下室の扉を開けさせますので」

「わ、分かりました。すぐに向かいますね」

「お待ちしておりますわ」

 その言葉の後、間を置かずに電話が切れた。緊迫した空気がこちらにまで伝わってくるようだ。

 急いでスマホを服の腰ポケットに戻し、廊下を走り始める。普段は廊下を走るだなんて駄目だけど、今は緊急事態なので許してくれるだろう。私は罪悪感を抱きながらも一直線に地下室を目指すのだった。



 地下室に行き着いた私は「とにかく、栞さんはあのディスプレーの前に座ってください。私が色々説明しますので」と制服姿のサンちゃんさんに指示され、直ぐ様椅子に座らせられた。

 眼前の薄型ディスプレーを見つめる。並べられたディスプレーには楓さん達が映っていた。恐らくあの小型カメラからの映像だ。

「先程皆さんが敵の出現場所に到着しましたの。場所は咲耶中学校のグラウンド。今回は、人が宝石に取り憑かれているようですわ。あちらが取り憑かれた人ですわね」

 サンちゃんさんが、ある一つのディスプレーを指差す。

 そこには、およそ人とは思えない姿が映し出されていた。両手両足からは鋭く長い爪が生えていて、肉が盛り上がり、目は獣のように爛々としている。──化物。私の頭の中に、その文字が浮かんだ。

「これが……人間、なんですか……?」

「宝石に取り憑かれた人間はあのような姿になってしまうのです。宝石を取り外せば本来の人間の姿に戻りますから、ご心配なく」

「そう、ですか……よかったです」

 私はほっと胸を撫で下ろす。

「さてと。栞さんにはまず指輪を身に着けてもらいますわ。小鈴」

「は~い。どうぞ、栞様ぁ」

 近くに立っていた小鈴さんが、一つの指輪が入った、手の平サイズのケースを両手で持って差し出してくる。私は突然の事に理解が及ばず、ぽかん……とケースの中にある指輪へ視線を送る。

「この指輪はぁ、サポートのお仕事に必要なんですよぉ。とりあえずどの指でも大丈夫なので、いっちょ嵌めてみてください~」

「わ、分かりました……」

 片手の人差し指と親指で指輪を取り、小鈴さんに言われた通りに指へと嵌めていく。そして、指輪が装着された右手を見遣る。人差し指の付け根辺りにはキラキラとした乳白色の宝石の輝きが、宝石の周りにはリングの銀色の輝きがある。

「その宝石は月長石。ムーンストーンとも呼ばれますわね。対して私の宝石は日長石……サンストーン、またはヘリオライトという名もあります。折角なので対になるようにしてみましたの。ああ、勿論これはプレシアの宝石ではありませんわ」

 サンちゃんさんの片手の中指を見てみると、いつもは無い橙赤色の瞬きが確認出来た。

「使い方は……やってみせた方が早いですわね」

「…………?」

 私は不思議に思いながらサンちゃんさんの動きを注視する。すると、何やら小さな音が脳裏を掠めた気がした。

《皆さん。聞こえていますかしら?》

「……!?」

 急に、私の脳内にサンちゃんさんの声が響く。

《聞こえていましたら、返事をしてくださいな》

 またサンちゃんさんの声がした。信じ難い事に、隣のサンちゃんさんの口は一つも動いていない。

《異常ありません》

《聞こえてまーす!》

《ちゃんと聞こえますよ~》

《だ、大丈夫です》

 今度は知加子さん、楓さん、芭蕉さん、幸恵さんの声が順番に響いてくる。目の前のディスプレーに映る皆さんは、変わらず物陰から敵の様子を窺っている。

 ……間違いない。私の頭の中で起こっているこの現象は、恐らくテレパシー。直接話さずとも心で思うだけで相手と会話が可能になるというものだ。そのテレパシーを可能にしているのが、多分この指輪なのだろう。

《皆さん問題無いようで何よりですわ。それでは、今回からサポートの任に就く栞さんから、一言貰いましょうか》

「えっ!? あ、あの、サンちゃんさん……?」

 予想していなかった発言に、私は恐る恐るサンちゃんさんへ尋ねる。サンちゃんさんは、にっこりと微笑んでいた。

「今私たちがやってみせたように、伝えたい言葉を念じてください。そうすれば皆さんに届くはずですわ。さあ」

「さ、さあと言われましても……」

 私なんかにテレパシーが出来るのだろうか。いや、この指輪の力をお借りすれば出来るのだろうけど。……とにかく、テレパシーはサポートのお仕事にも必要だ。やってみるしかない。

 両手を祈るようにゆっくりと握り、指輪を見つめて私は念じる。

《……え、えっと。は、初めまして……ではなくて。こ、今回から皆さんのサポートをさせていただきます桜川栞です。よろしくお願い致します》

 で、出来た…………と、安堵する私。思わず握っていた両手の力も緩む。緊張して早口になってしまったし、普段よりも少し固い言葉遣いにはなってしまったけど、なんとかテレパシーを成功させられた。

 私の自己紹介が終わると、皆さんが「よろしくお願いします」と歓迎の言葉を返してくれる。見れば隣のサンちゃんさんも私へ笑顔を向けてくれていた。それは一昨日、サポートをする事に決まった私を歓迎してくれた皆さんの言葉と同じ温かさだった。

 その後、サンちゃんさんと戦いのリーダーである知加子さんを中心に今日の作戦などが伝えられ、サンちゃんさんから私へは私の担当するお仕事の詳細が伝えられ、皆さんの装備に関するデータが手渡された。

 装備のデータが表示されたタブレットを両手に持ち、ざっと目を通してみると、幸恵さんは英雄の武器である杖を使用した魔法で戦っている事を知った。一昨日のショッピングモールでの戦闘で盾を出せたのは魔法のおかげだったのだと合点がいく。あと、皆さんは私とサンちゃんさんの指輪とは違い、宝石の付いたイヤリングでテレパシーを可能としている事が記載されていた。指輪もイヤリングも五戸家製らしく、益々五戸家の技術に対しての謎が深まった。

 それから私の担当するお仕事は、敵の行動を観察しメモすること。後程サンちゃんさんが私の取ったメモからどのような攻撃をしてくるかなどの情報を集め、敵の行動パターンを予測するらしい。サンちゃんさんはそのお仕事に加えて、ディスプレーで戦闘状況を確認し、必要であれば皆さんへ指示を出す。これまで私のメモするお仕事もサンちゃんさんが受け持っていた事を考えると、確かに手が足りないのも頷けるなあ……と思った。

《では作戦、スタートですわ! 皆さん、お気を付けて!》

 そしてついに、戦闘が始まった。

 私は敵を観察するため真剣にディスプレーの映像を見入る。丁度、芭蕉さんが映った。芭蕉さんは後方で弓を使って敵の足止めをしている。今回は弓での攻撃も敵に効果がある様子だった。……いけない。先程あんな出来事があったので、ついつい芭蕉さんばかりを目で追ってしまっていた。私が今、目で追うべきなのは芭蕉さんではなく、敵だ。集中しなければ。



 戦闘開始から十分は経過しただろうか。皆さんは、前に私がショッピングモールで見た時よりも苦戦していた。不安に襲われつつも、私は敵を観察しながら皆さんを見守る。

「ん……?」

 ふと、映像の端に大きな犬が映った。目がギラギラと光っており、唸っているような動作をしている。……何かおかしい。私はより一層犬を注意して見る。すると、犬の足辺りにキラキラと光っている何かを発見した。様子のおかしい犬、キラキラと光る何か。──まさか。

 そう思い至った時、もう犬は──いや、敵は物凄い速さで後方に居る芭蕉さんへと向かっていく。芭蕉さんは後ろに来ている敵の存在に気付いていない。まずい。咄嗟に私は強く念じる。

《芭蕉さん!! 背後に敵が来てます!!!》

 私は大きな声で、芭蕉さんに二体目の敵の存在を伝える。

 しかし、何故か芭蕉さんはすぐに動かなかった。

 ディスプレーの中の芭蕉さんが鈍い動きで敵の方に振り向く。その瞬間、敵の犬が勢いを付けて、芭蕉さんに跳び掛かった。

《…………あ》

 とても短く、どこか落ち着いた芭蕉さんの声が聞こえた。

 それと、ほぼ同時だった。芭蕉さんは、敵に片腕を噛み付かれた。宝石により凶暴化している影響か、その牙は犬とは思えぬ程に大きく鋭く、芭蕉さんの片腕からは大量の血が流れ出していた。犬は噛み付いたまま離れようとせず、芭蕉さんは苦痛に顔を歪めている。

「芭蕉から、離れろおおおおぉおおおおッッ!!!!!」

 叫び声が聞こえた。楓さんの声だ。テレパシーではない、ディスプレーからの音声だった。私は楓さんの声がしたディスプレーを見る。

 芭蕉さんのもとへと走ってきた楓さんが、敵を大剣で斬り付ける。敵が大きく吠え、慌てて芭蕉さんから離れる。余程ダメージがあったのか、犬はその場の地面に倒れた。

「芭蕉!!!」

 楓さんが、同じく倒れている芭蕉さんの側に駆け寄る。芭蕉さんは目を閉じていて、気を失っているようだった。

「芭蕉……芭蕉!!!」

 芭蕉さんの名前を必死に呼ぶ楓さん。だが、芭蕉さんはぴくりとも動かない。片腕からは依然として大量の血が流れ、周りの地面を赤に染めていた。

 私は、どうしていいのか分からず、映像を見つめたまま動けずに居た。

 隣に座っていたサンちゃんさんが、ガタンという椅子の音を立てて席を立つ。

「万鈴! すぐに車の手配と病院への連絡を!」

 サンちゃんさんは近くで立ったまま待機していた万鈴さんに指示を出す。

「かしこまりました」

 万鈴さんは冷静に答え、エプロンのポケットから素早くスマホを取り出し、スマホを手に持ったまま地下室から退室していく。

《知加子さんは落ち着いて、まずは目の前の敵に集中して! 幸恵さんは芭蕉さんの治療を!》

《……了解!》

《はっ、はい……っ!》

 テレパシーによる三人の会話が脳内に届く。

 サンちゃんさんの指示通りに、知加子さんは人間の敵と戦闘を続け、幸恵さんは芭蕉さんの側に走ってゆくのがディスプレーから視認出来た。幸恵さんは芭蕉さんに回復魔法らしき魔法をかけるが、流石に傷が大きいため、すぐには出血が止まらない。

「芭蕉……! 芭蕉!! 死なないで、芭蕉!!! 芭蕉ぉ……っ!!!」

 楓さんは、芭蕉さんにずっと寄り添ったまま、泣きながら芭蕉さんの名前を呼ぶ。ディスプレーから地下室へ響くその声はあまりにも悲痛で、私は耳を塞ぎたくなってしまう。

「栞様ぁ! 車の手配が完了したので、皆さんの所へ向かいますよぉ!」

 背中からの小鈴さんの言葉で、はっとする。振り向くと、私の側に居たはずの小鈴さんは、いつの間にか地下室の自動ドア付近で私を待っていた。サンちゃんさんも既に姿を消している。

「す、すみません……! 今行きます!」

 慌てて返事をする。私は並べられたディスプレーから離れ、自動ドアの方へと走ってゆく。地下室から去るまでの短い間にも、楓さんの「芭蕉」という四文字の音は鳴り止まなかった。



 私達が咲耶中学校に駆け付けた時には、敵は全て倒されていた。

 知加子さんが相当頑張ってくれたらしく、消耗し切った様子で、体には小さな切り傷や擦り傷が沢山出来ていた。知加子さんは宝石を二個持っていたので、やはりあの犬は宝石に取り憑かれていたみたいだ。

 取り憑かれていた人と犬は意識を失っており、手配した病院へと運ばれた。どちらもそこまで重症ではないためきっと大丈夫だろうとサンちゃんさんが仰っていた。

 芭蕉さんは幸恵さんが治療してくれたおかげで傷は大分治っていたが、目は覚まさなかった。念の為、芭蕉さんも手配した病院へと運ばれ、入院する事に決まった。楓さんは芭蕉さんに付き添って一緒に病院へと向かっていった。色々な事情は、病院の方にサンちゃんさんが上手く説明しておいてくれる。

 残った私達は、後日ミーティングをするという事にして、今日は解散。幸恵さんは疲労からかとても眠そうで、小鈴さんの支えが無いと歩くのもやっとな状態だった。サンちゃんさんと万鈴さんは五戸家としてのお仕事が終わり次第、病院に行くらしい。私も行こうかと思ったが、サンちゃんさんから地下室の片付けと戸締まりを任されたため今日は無理そうだ。入院したばかりだし、あまり大人数で押し掛けるのも悪いので、芭蕉さんへのお見舞いは日を改める事にした。

 それから……皆さんが芭蕉さんの心配をする中──私は芭蕉さんや疲労している皆さんの心配をしつつも、先刻芭蕉さんが敵に噛み付かれた時に抱いた疑問について思考していた。

 どうして、芭蕉さんは“あんなこと”をしたのか。色々な可能性を考えてみたが、どれだけ考えても芭蕉さんが“あんなこと”をした理由は、私には分からなかった。



 お昼過ぎの病院の廊下を歩く。一つの扉の前で歩を止める。プレートを見て、病室の番号を確認する。番号はサンちゃんさんに教えてもらった番号と同じ、個室の病室。ここだ。

 コンコンと、病室の扉をノックする。

「はーい」

 中から応えてくれたのは楓さんの声だった。楓さんも芭蕉さんのお見舞いに来ていたのか。

「栞です。すみません、ちょっと両手が塞がっていて……開けてくださいますか?」

「あ、はーい!」

 足音がした後、眼前の扉──引き戸がすうっと横に動いてゆき開いた。そこには、いつもと変わらない明るい雰囲気の楓さんが立っていた。

「栞、いらっしゃい~……って、すごい荷物だね」

「さ、サンちゃんさんに色々持たされてしまいまして……」

「な、なるほどー……」

 私の両手は造花で作られた花束と、本などが入った袋で塞がっていた。サンちゃんさんは「芭蕉さんに怪我をさせてしまった責任がありますもの、これくらいはしなくては……!」と言っていたが……病室まで運ぶ私の身にもなってほしいと思ってしまう。昔から力持ちな方なのでそこまで重さは感じなかったが、おかげでノックするのも一苦労だった。

「荷物、持とうか?」

「お願いします……」

 私は楓さんに花束を渡す。漸く片手が空き、ほんの少しの解放感を味わう。

「芭蕉~栞が花束とか、沢山持ってきてくれたよ」

「わあ、ほんとだ~綺麗~」

 芭蕉さんは、起き上がってベッドの上に居た。いつもと変わらない、私のよく知るほんわかとした芭蕉さんが居た。

 私は芭蕉さんの元気そうな姿を見てほっとする。サンちゃんさんから意識が戻った旨は教えてもらっていたが、こうして直接芭蕉さんの姿を確認しないと不安だったのだ。

「芭蕉さん」

 声を掛けると、芭蕉さんは私の方へ目線を移動させ、普段通りの穏やかな笑顔を向けてくれた。

「あ、しおりん。来てくれたんだね~嬉しいよ~」

「私も、芭蕉さんが元気になってくださって嬉しいです。それと、本とかも持ってきたので置いておきますね」

「わわ、こんなに沢山~本当にありがとう~」

 流石に芭蕉さんもお見舞いの品の多さに目を丸くする。私は持っている袋を、一旦椅子の上に載せた。

「お礼ならサンちゃんさんに言ってあげてください。全部サンちゃんさんが用意した物ですから。サンちゃんさん、芭蕉さんのことすごく心配なさってましたよ」

「そっかあ……さっちゃん先輩に後でありがとうって言わないと~でも、しおりんもお見舞いに来てくれてありがとうね~」

「どういたしまして。……ところで、怪我の具合はどうですか?」

 芭蕉さんの片腕には、包帯が巻かれていた。あの敵に噛み付かれた所だ。

「ちょっとズキズキとは痛むけど、そこまで酷くはないかな~ゆっきー先輩の魔法のおかげだね~」

「そうですか……! よかった……でも、あまり無理はなさらないでくださいね」

「そうだよ! 一週間は安静だからねー!」

 楓さんが花束を棚の上に飾りながら、私達に背中を見せたまま言った。

「分かってるよ~一週間は安静って、もう十回は聞いた気がするんだけど~……」

「それぐらい言わないと芭蕉は分からないでしょ」

「そ、そんなことないよ~もう、かえかえは心配性だなあ」

「……ふふ」

 楓さんと芭蕉さんの仲の良い姿に、無意識に頬が緩んでしまう。もうお二人は仲直りしたのだろうか。

「よし、これで綺麗に飾れたかな。二人ともーちょっといい?」

 楓さんが振り返り、私達へと体を向ける。

「はい」

「なあに~?」

「さっき冷蔵庫見たら飲み物があんまり無いから、下の売店で買ってこようと思うんだけど……悪いけど栞、私が戻ってくるまで芭蕉の監視をお願いしてもいいかな?」

「か、監視ですか? 構いませんけど……」

「ちょっと~監視ってどういうことかな~?」

 芭蕉さんが頬を膨らませて怒ったように口にする。

「もしかしたら誰も居ない間に病室を抜け出したりするかもしれないでしょ? だから、栞に監視役をしてもらうの」

「抜け出したりなんてしないよお。多分~」

「多分って、安心出来ないなあ……ま、怪我してるからまだ動けないだろうけどね。じゃあ栞。芭蕉の監視、よろしくね!」

「は、はい。行ってらっしゃいませ」

「行ってきます!」

 楓さんは元気良く返事をして、病室から出ていった。

 室内には、私と芭蕉さんの二人が残される。

「もう~かえかえってば、失礼しちゃうよね~」

「あはは……でもお二人とも、仲直りなさったみたいでよかったです」

「仲直り~? 別に喧嘩なんてしてないよ~?」

「でも……芭蕉さん、楓さんを避けてたって、楓さんから聞きましたけど……」

「最近忙しかったからね~それでだよ~」

 芭蕉さんはいつもの声の調子で、そう答える。

 いくら忙しくても、電話やメッセージも無視するだろうか……? 私は、芭蕉さんの発言に違和感を感じた。

 やっぱり、最近の芭蕉さんは様子がおかしい。三日前の戦闘の時だって……。芭蕉さんが“あんなこと”をした理由。楓さんが居なくなった今が、それを訊くチャンスだろう。私は、芭蕉さんが居るベッド近くにあった椅子に座る。

「しおりん? どうしたの~? 急に黙って~」

「……芭蕉さん。私、芭蕉さんにお訊きしたいことがあるんです」

「え? なんだろう~?」

 心当たりが無さそうに、きょとんとした表情をする芭蕉さん。

 もしかしたら、私の勘違いかもしれない。勘違いならそれでいい。でも、もし勘違いじゃなかったとしたら──

 私は芭蕉さんの瞳をしっかりと見つめて、言う。

「芭蕉さん、敵の攻撃をわざと受けませんでしたか?」

「え……」

 芭蕉さんが固まる。焦っている訳でもなく、ただ「なんで分かったの?」という、出題した問題があっさり解かれてしまったような、そんな顔をしていた。だが、芭蕉さんはすぐに先程までの和やかな表情に戻る。

「どうして、そう思ったのかな~?」

 私を見据える芭蕉さんの目は、笑っていなかった。口元は笑っているのに。失礼だけど、少し薄気味悪い笑顔だった。

「……私は、芭蕉さんが敵に噛み付かれる前の瞬間を、小型カメラからの映像で見ていました。私が芭蕉さんに敵が来ている事を教えた後、敵の攻撃を避けるぐらいの時間はあったように感じます。でも、芭蕉さんは敵の攻撃を避けなかった。避けるどころか、自ら攻撃を受けていた。……私の目には、そう映りました」

「……なるほどね~」

 芭蕉さんは、俯いてため息を一つ吐く。ベッドの上で起き上がったまま、そのままの体勢で芭蕉さんは動かなくなる。

 数秒の間の後。芭蕉さんが顔を上げる。その顔は、もう口元さえも笑っていなかった。ただ無表情で私を見据えていた。

「当たりだよ。私は、敵の攻撃をわざと受けた」

 芭蕉さんの単調な声が静かな病室に響く。

 私は、驚く。目先に居る人は、本当に芭蕉さんなのだろうかと思った。私の知る彼女とはかけ離れている。しかし、じっと見てみても、間違いなく芭蕉さんだった。

「……どうして、あんなことをしたんですか?」

「う~ん、そうだなあ……ねえ。ちょっと長い話になっても、いい?」

 そう訊かれて、私は近くの棚の上に置かれた小さめのデジタル時計を見遣り、時間を確認する。まだ楓さんが戻ってくるまでには時間はあるだろうが……大丈夫かな。

「芭蕉さんが宜しいのでしたら、私は構いません」

「そう。じゃあ、話すね」

 一呼吸置いてから、芭蕉さんは再度唇を動かす。

「……私と楓は、幼なじみっていうのは知ってるよね。楓は……私が小学校二年生くらいの時に私の家の隣に引っ越してきたんだけど、その頃の楓は、ずっと暗い顔をしてたんだ」

「楓さんが……?」

「信じられないでしょ? でもね、本当なの。多分、お父さんが亡くなったのがショックだったんだろうね。私が話し掛けてみても何も返事はしないし、いつも俯いてばかりで。でも、私は楓とどうしても仲良くなりたかった。今でもはっきりとした理由は分からないんだけど、直感的に楓と仲良くなりたいなって……そう思ったの」

 はにかんだ表情になって昔話を語る芭蕉さん。その姿はまるで、童話に登場するお姫様みたいだった。

「だからね、色んなことをしてみたの。面白い本を持ってきたり、面白い話をしたり……だけど、楓は笑ってくれなかった。流石に私もお手上げ状態で、どうしたら楓が笑ってくれるのかなって何日も悩んだよ。そんな時、テレビでやってるアニメに、普段の私みたいなふわ~っとした雰囲気のキャラが登場してたの。そのキャラが笑うと他のキャラも自然と笑顔になって……すごいなあって思った。で、これだ! ってぴんと来たんだよ」

「幼い頃の芭蕉さんは普段のような……そのアニメのキャラのような方ではなかったんですか?」

「うん。昔の私は、語尾を伸ばしたり、無駄にふざけてみたりもしなかった。今話してる、私みたいな感じ」

 ……確かに、今話している芭蕉さんは普段とは明らかに違う。語尾も伸ばしていないし、無駄にふざけてみたりもしていないし、人をあだ名で呼んだりもしていない。

「ちょっと話がずれちゃったかな。だから、ぴんと来た私は、そのキャラになりきって楓に話し掛けてみた。そしたらね、やっと、楓が笑ってくれたんだ。ほんの少しだけだったけど、私はとっても嬉しかった。それから……私はしばらくそのキャラになりきることを続けて、楓と仲良くなっていった。……そのキャラになりきることをずっと続けてたから、癖になっちゃって。今もこうして、そのキャラになりきってるって訳なんだよ」

「そう、だったんですか……」

「勘違いしないでほしいんだけど、キャラになりきるのが嫌な訳じゃないの。あのキャラのことは今でも好きだし、キャラになりきってる自分のことも好き。もう何年もあのキャラになりきるのを続けてるから、あのキャラになりきる私も本当の私で、今話してる私も本当の私で、どっちが本物の私か偽物の私かなんてものはなくて。どっちも、本当の私なの」

「……えっと。つまり、そのアニメのキャラになりきっている私たちがよく知る芭蕉さんも、今話している私たちがよく知らない芭蕉さんも、どちらも本当の芭蕉さん、という意味でしょうか?」

「そうだよ。分かってもらえて嬉しいな」

 言って、芭蕉さんは笑みを浮かべる。

「……私は、楓が笑顔になってくれて、楓が喜んでくれたから、楓のためにあのキャラになりきるのを続けてきた。楓は……最初に私が笑わせた時からどんどん元気になっていって、私以外の友達も出来て、私が笑顔にしなくても笑顔になってた。始めは私もそれで満足してた。……でも、いつからかな。それが嫌だなんて感じるようになったのは」

「……芭蕉さん?」

 芭蕉さんの声が、低くなった気がした。芭蕉さんは低い声のまま話を進める。

「私はこんなにも楓を笑顔にしようと頑張ってるのに、楓はそんな私の想いも知らずに他の子と話して笑顔になって……それが嫌だった。なら、楓が他の子と話さないようにすればいいんだって考えて、楓が私だけを見るように必死に努力してきた。学校での移動も登下校も毎日一緒にした、お弁当も楓が好きな物を毎日作ってきた、戦いでは楓に傷一つ付けないつもりで出来る限り楓を守ってきた。勿論戦いじゃない時も私が楓を守らなきゃって。私が楓にしてあげられることがあれば何だってやってきたつもり。それなのに、楓は私だけを見てくれない……!」

 怒りと悲しみが混ざっているような声で言葉を紡ぎながら、芭蕉さんは掛けている布団をぎゅっと握り締める。項垂れる芭蕉さんの表情はよく分からない。だけど、布団を握り締める片手が震えているのに心付き、ただ事ではないのだと悟った。

「ば、芭蕉さん。落ち着いてください……」

 私はとりあえず芭蕉さんの気持ちを静めようとする。こういう時は、どうすればいいのだろう。

「……あなたが来てから」

「え?」

 ぼそりと、芭蕉さんがそう呟いた。次の瞬間、芭蕉さんはいきなり私の肩に掴み掛かってくる。

「……っ」

 椅子ごと後ろに倒れるかと身構えたが、幸い少しよろけただけで済んだ。理由は片手だけで掴まれたのもあるけど、病み上がりでまだ体に力が入らないのもあるだろう。

 芭蕉さんへ視線を向ける。芭蕉さんは、俯いたままだ。

「芭蕉さん……一体、どうしたんですか?」

 恐る恐る、私は問う。

「……あなたが来てから、楓はもっと私を見なくなった」

「そう、なんですか?」

「そうだよ……あなたが楓のお母さんに似てるから、楓はあなたばかり見て……そんな楓の姿を見て、きっともう私は楓にとって必要の無い存在なんだって、気付いちゃった」

 ──必要の無い存在。前にも、芭蕉さんが発していた言葉。客間で会話した時の芭蕉さんの姿。ゆっくり、欠けていたピースが埋まっていく。

「でも、そう理解しても私、楓に必要とされたくて。敵の攻撃をわざと受けて大怪我すれば、楓は私の方だけを見て、私のことを必要としてくれるかなって……」

 カチッ、と最後のピースが嵌まった音がした。……そういうこと、か。

「……芭蕉さんの仰る通りですよ。楓さんはあんなにも心配して、芭蕉さんのことを想ってくださっているじゃないですか。芭蕉さんが楓さんにとって必要の無い存在だなんて、そんなこと絶対にありませんよ」

「分かってるよ。……分かってる。でも、楓に自分だけを見てもらいたいからって、必要とされたいからって、楓にあんな顔させて……私は、楓を笑顔にするために、頑張ってきたはずなのに……変だよね。嫌な子だよね、私……」

 芭蕉さんが顔を上げて、私を瞳に映す。その瞳からは涙が溢れていた。頬を伝い、ぽたぽたと、芭蕉さんの涙がベッドの布団に落ちる。真っ白な布団に次々と丸い模様が生まれる。

 私は、ずっと肩に掛けたままだったショルダーバッグからハンカチを手に取り、芭蕉さんへ差し出す。戸惑いの色を宿した瞳がハンカチへと向けられる。

 少しの沈黙が訪れて。それから芭蕉さんは私の肩から片手を離し、ハンカチを受け取ってくれた。ハンカチで涙を拭う芭蕉さんを見ながら、口を開く。

「私は、芭蕉さんは変な子でも、嫌な子でもないと思いますよ」

「……どう、して……?」

 私の言葉を聞いた芭蕉さんは、涙声でそう尋ねた。

「人間、嫉妬なんて誰でもするものです。誰かを自分に振り向かせるためにあえて自分を傷付けたりするのも、よくあることですよ」

「そうなの……?」

「はい。芭蕉さんが変で嫌な子だったら、この世界の人みんな、それこそ人間全員、変で嫌な人になっちゃいます。ですから」

 優しく触れるように心掛けて、芭蕉さんの片手を両手で握る。芭蕉さんはびくりと体を僅かに震わせた。

 私は、言う。

「芭蕉さんは変な子でも嫌な子でもありません。なので、そんなに深く悩まなくてもいいんですよ」

「…………」

 芭蕉さんはまた俯いてしまう。

「しおりんは、優しいね」

 突然、俯いたままの芭蕉さんがそんなことを言い出すので、私は戸惑う。

「そう、ですか? 普通だと思いますけど……」

「優しいよ。私の話を真剣に聞いてくれて、私の話を聞いても引いたりしないで、ハンカチを貸してくれて、こうして励ましてくれて。しおりんにも、嫌なこと言ったのに……」

「嫌なこと……ああ、いいんですよ。全然気にしてませんから」

 桜川家で“あの女”に浴びせられた罵詈雑言に比べれば、芭蕉さんの語る「嫌なこと」なんて私にとっては単なる日常会話程度のものだ。

「それならいいけど……でも、ごめんね。色々と……」

「いいえ。むしろ、私なんかでも芭蕉さんの話を聞くことが出来て嬉しいです」

「あはは……ほんと、優しいね。ところで、その。手、離してもらっても大丈夫かな? ちょっと熱くて」

「えっ? あっ、ご、ごめんなさい……! つい……」

 慌てて芭蕉さんの片手から自分の両手を離す。芭蕉さんの片手はほんのり赤くなっていた。長く握りすぎてしまったようだ。

「謝らなくていいよ。しおりんが手を握ってくれたおかげで、少し落ち着いたから」

「そ、それなら、良いのですが……」

「うん。ありがとうね。……そういえば。かえかえ、遅いね」

「……確かに、そうですね……」

 もう一度、棚の上のデジタル時計を視認する。楓さんが買い物に行ってからもう三十分は経っていた。飲み物を買うだけにしては遅い。何かあったのだろうか。

 様子を見に行こうかと考えた、その時。病室の引き戸が開いた。

「ただいま~……」

 ぐったりとした様子で、楓さんが一つのビニール袋を携えて帰ってきた。

「か、かえかえ~おかえり~」

「お帰りなさい、楓さん。……お疲れのご様子ですけど、何かあったんですか?」

「……じ、実は飲み物を買った後、病室に戻ろうとしたらおばあさんたちに捕まっちゃって。世間話を聞かされてたらこんな時間に……」

 顛末を語るその声からも疲労が滲んでいる。病室内を歩く足取りも力無い。

「お、お疲れ様です……」

「大変だったね~」

「本当だよ~……あ、飲み物今から冷蔵庫に入れるからね」

「は~い。ありがとう~」

「どういたしまして」

 楓さんは冷蔵庫を開け、買ってきた飲み物を入れ始める。今、楓さんは私達に背を向けている。チャンスだと考え、私は芭蕉さんに小声で話し掛ける。

「芭蕉さん」

「ん、何~?」

 察したのか、芭蕉さんも私と同じくらいの小さな声で返事をした。

「さっきの話、楓さんにもしてみた方がいいんじゃないでしょうか」

「えっ。そ、そんなの無理だよ……絶対嫌われちゃうだろうし……」

 私達は小声のまま会話を続ける。楓さんは気付いていない。

「ですが、このまま悩んでいるより、楓さん本人に言ってみた方が宜しいかと思いますよ……?」

「それは……そうだけど。なんて言えば」

「芭蕉さんの気持ちを正直に伝えれば大丈夫ですよ。その後に、楓さんの気持ちを聞けばいいのではないかと」

「私の気持ちを正直に伝えて、楓の気持ちを聞く……」

「そうです。きっと、楓さんなら答えてくれますよ。お二人が話している間は病室に誰も入ってこないよう私が見張っておきますし、万が一芭蕉さんが楓さんに嫌われてしまった場合は、私がどんなことをしてでも責任を取りますから」

「ほ、本当? 約束だよ?」

「はい。約束です」

「……二人とも、こそこそ何喋ってるの?」

 その声で私ははっとする。私の隣を見れば、楓さんが私と芭蕉さんへ怪訝な表情を向けていた。どうやら私達が内緒話をしている間に、飲み物を冷蔵庫に入れ終わったようだ。

「え、えっと……か、楓さん! 芭蕉さんが、楓さんと二人で大事なお話があるそうです」

「へ? そうなの?」

「あっ、う、うん。そうなんだ~」

 芭蕉さんは狼狽した様子で答えた。いきなり話を進めすぎてしまっただろうか。しかし、私が見張りをする事が出来て楓さんと芭蕉さんの他に人が居ない今が、きっと二人っきりで話をする好機だ。

 私は、そっと椅子から腰を上げる。

「それでは、私は病室の外で待っていますので、お話が終わったら呼んでください」

「分かった。終わったら栞を呼ぶね」

「…………」

 芭蕉さんが不安そうな表情で私を見つめている。

 私は「ファイトです」という気持ちを込めて芭蕉さんに視線を送る。芭蕉さんはまだ不安そうではあったが、こくりと頷いてくれた。これ以上出来ることは無いと感じた私は、一礼してから病室を出ていく。

 外の廊下には誰も居ない。私は芭蕉さんの病室の引き戸付近の壁に寄り掛かる。

 私の行いは正しかったのか。分からないけど、でもきっと、芭蕉さんと楓さんなら仲直りできると信じている。私は静かに見張りをしていよう。



 見張りを始めて数分後、病室から二人の声が聞こえてきた。先程までは聞こえていなかったのだが。二人の声が大きくなったのか。

 盗み聞きするのは悪いと思ったが、大体の話の内容はさっき芭蕉さんから聞いているし、見張りもしなければならないので、申し訳ない気持ちを抱きながらもそのまま盗み聞きする事にした。

「…………そう。だから芭蕉は敵の攻撃をわざと受けたんだ」

「う、うん……本当に、反省してる。……ごめんなさい」

「…………」

「…………」

 楓さんと芭蕉さんの間に長い沈黙が続く。その長い沈黙に、会話に参加していない私まで息が詰まりそうになってしまう。

「芭蕉はさ、私に必要とされたくて、敵の攻撃をわざと受けたりしたんだよね?」

 沈黙を破ったのは、楓さんだった。

「……うん」

「まず、そこから間違ってるよね」

「え……?」

「私は友達って、その人が必要かどうかで判断してなってる訳じゃないし……ただ、芭蕉と仲良くしたいって思ったから友達になったんだもん。だから、そんなこと考える必要なんて無いし。それに……私は芭蕉が必要じゃないなんて考えたこと、一度も無いよ」

「……そうなの……?」

「そうだよ。芭蕉も、他のみんなも、私にとってはとっても大切な存在だよ。それ以上でもそれ以下でもない。……だからさ」

 軽く何かを叩いた音がした。もしかして、楓さんが芭蕉さんの頬でも叩いたのだろうか。……ど、どうしよう。私が出ていった方がいいかな。でも頬を叩いたんじゃないかもしれないし……。

 そんな風に私が頭を悩ませていると、再び病室から声がした。

「か、かえかえ……?」

「芭蕉」

「は、はい」

 何時になく真剣に名前を呼ばれ、芭蕉さんが戸惑っているのが分かった。

「……もう二度と、あんなことしないでね」

「え……?」

「私、本気で、心配、したんだから……っ。芭蕉まで、私のことを置いていっちゃうのかと思って、私を一人にしちゃうのかなって、私……っ」

 涙声で、楓さんが必死に言葉を紡ぐ。

 私は、胸を撫で下ろした。……私の予想は、当たっていた。やっぱり、芭蕉さんが楓さんにとって必要の無い存在だなんて、そんなことある訳が無かったんだ。

「……うん。ごめんね、楓……」

「あ、久しぶりにちゃんと名前で呼んだ」

「へっ、あっ、これは、その……」

「えへへ。いつものほわ~っとした芭蕉も私は好きだけど、昔みたいな芭蕉も私は好きだよ」

「……き、気付いてたの?」

「当たり前でしょ。何年一緒に居ると思ってるの。芭蕉のこと、ずっと近くで見てきたんだから」

「…………なんだ、そっか……なんだ……」

「ちょっ、なんで芭蕉まで泣くの!? ほ、ほら、ティッシュで拭いて」

「あはは……うん。ありがとう、楓」

 そこまで聞いてから、私は病室の側から少し離れ、二人の会話が耳へ届かない距離の所に移動した。

 もう、二人は大丈夫そうだ。私はほっと息を吐く。

 ショルダーバッグに入れておいたスマホを取り出して時間を確認すれば、既に十五時を過ぎていた。



「それじゃあ二人とも、またね!」

「またね~」

「はい。また今度」

 病室から退室していく楓さんを、私と芭蕉さんは手を振りながら見送った。引き戸が閉まるのを視認してから、椅子に座ったまま体を動かし、ベッド上の芭蕉さんを視界に入れる。

「では、私ももう少し経ったら御暇しますね」

「しおりんも帰っちゃうの~? 寂しいな……また来てね~?」

 楓さんときちんと話をしたからか、目の前の芭蕉さんはなんだか吹っ切れた印象だった。私はそんな芭蕉さんの姿に嬉しい気持ちになる。

「ええ。また来ます」

「ほんと? 嬉しい~待ってるね~……ところで、さ」

 芭蕉さんが遠慮がちに言う。

「はい、何でしょう」

「他のみんなにも謝った方が、いいよね。心配かけちゃったし」

「そうですね。それが宜しいかと思います」

「……全部、話した方がいいかな? わざと敵の攻撃を受けたこと、とか」

 口にしながら、伏し目になる芭蕉さん。少考して、私は答える。

「それは……芭蕉さんが決めることですので。ですが私は、芭蕉さんが言いたくないのであれば、無理に言う必要は無いと思いますよ」

「……そう、だね。うん。ちょっと考えてみる」

「はい。……それでは、私はこれで失礼します」

 私は椅子から立ち、近くの机上に置いてあった荷物を持つ。荷物と言っても、お見舞いの品を入れてきた袋ぐらいなのだが。机上には、私が芭蕉さんに貸したハンカチもある。「そのままで大丈夫ですよ」と断ったのだが芭蕉さんが「どうしても洗って返したいの」と仰ったため、今日は持ち帰らない事に決めたのだ。

「またね~」

「はい。ごきげんよう。芭蕉さん」

 私は別れの挨拶をしてから、お辞儀をする。芭蕉さんに背を向ける。引き戸の前に行き、開けようと取っ手に片手を掛ける。

「し……しおりん」

 その時。後ろから、芭蕉さんに名前を呼ばれた。

 なんだろう。私は振り返り、芭蕉さんを見る。

「──ありがとう」

 芭蕉さんは笑顔で、私にお礼の言葉を言ってくれた。

「どういたしまして」

 私も、笑顔でそう返した。



 外に出て、病院に送り届けてくれた五戸家の運転手さんに電話をし、迎えを待つ。待つ間に、私は先刻の芭蕉さんの言葉を反芻する。

『しおりんは、優しいね』

 そう、芭蕉さんは口にした。芭蕉さんに優しいと思われたことはとても喜ばしい。私はずっと、あの四人の女の子たちみたいに優しくあろうとしてきたから。でも、私は知っている。桜川栞は本当は優しくなんてない、最低の奴なのだ。どんなに優しくあろうとしたって私は本当の意味で優しくなんてなれない。それは、過去の出来事が証明している。

 今だってそうだ。芭蕉さんが五戸家に訪ねてきた日から私は──楓さんのことを疎ましく感じ始めている。今まで私に親しくしてくれていたのは、私が楓さんのお母様に似ていた事が理由。じゃあ、楓さんは博物館で出逢った時から私にお母様を重ねていたって事じゃないか。……気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……ッ!!!!

 今まで無視してきた嫌な感情が、抑えていた感情が一気に私の心へ雪崩れ込んでくる。私の敵が攻め込んでくる。ああ、そうだ。私は最低の奴だ。あんなに親しくしてくれた楓さんに対してこんなに酷いことを思ってしまっている。他の皆さんにだって、きっと。

 誰にだって嫌な感情はある。けど私にはずっと嫌な感情が付き纏っている。ずっと嫌な感情が付き纏うのは、私が性格の悪い最低な奴だからだ。私は穢い。皆さんみたいに綺麗じゃない。

 気付けば、私は胸を押さえていた。嫌な感情が雪崩れ込み攻め込んでくる時、私はいつも無意識に胸を押さえてしまう。

 苦しい。嫌な感情はまるで吐瀉物だ。もう喉のすぐそこまで来ていて、吐き出してしまいたくなる。……駄目だ。吐き出したら、また罪を犯してしまう。“あの時”のように。

「……っ……はあ……」

 なんとか吐き出さずに飲み込み、ため息をつく。近くの壁に寄り掛かる。

 “あの時”からずっと私はこうしてきた。だけど、嫌な感情を飲み込み続けるのにも限界を感じていた。……いつかまた誰かに吐き出してしまうんじゃないかと、その光景を想像するだけで恐ろしい。こんな私を知ったら、皆さんは私を嫌いになるだろう。嫌われるのは嫌だ。それに吐き出したら、あの四人の女の子たちから私はもっと遠ざかってしまう。

 だから──私はこの吐瀉物のように穢らわしい感情を溜め続ける。たとえそのせいで自分の身を滅ぼす末路に至っても構わない。皆さんから嫌われて、あの四人の女の子たちから遠ざかるくらいなら、私はその方がずっとマシだった。



(六話完)

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