第20話 本当に、もう高校はいらない?

 よくよく考えてみれば、この「大検(現在の「高認」も含む)」という制度、上手く使えば高校など行かなくてもいいし、かなり効率的な勉強もでき、無駄な人付き合いもしなくて済む。

 要は試験さえ合格すればいいのだから、「いいことづくめ」とさえ思えてくる。

 

 もちろん、制度も知らず、その実態も内容も知らない者が好き勝手な憶測でものを言うのは問題だ。だが、その制度を知って、活用できるものだと分かったからといって、そうそう極端な手を打てるだろうか?

 人間は、そう簡単に割り切れるものでもない。それもまた、真実だ。


 勤労学生の範疇にいて高校に通えない人ならまだしも、できれば「高校」で、そうでなくても「居場所」となる場所を確保し、そこを足場として勉強をした方がいいのではないか。誰もが、そう考えるだろう。1年ぐらい遅れたって、高校で学んで普通に卒業した方が楽ではないか。そういう選択も、私は否定しない。現に私の住んでいる岡山県でも、高校入試に失敗して翌年再受験して高校卒業後大学に進んだ人は、年配者を中心に少なからずいる。私の先輩にも、そういう人は何人かおられる。

 だが、「高校」にまったくの価値を見出せず、他のルートを使わざるを得ない者の救済には、高校再受験は、残念ながらなりえない。


 それでは「大検」はどうかというと、確かに効率的な手段だが、他者とのつながりを持つ場が確保できないことによる精神的デメリットをどう解消していけばいいかという問題が、常に付きまとう。実は、大検を利用して進路を切り開くことを勧める人たちが最も苦心したのが、その部分であった。彼らは、様々な手法を使ってその道を切り開き、青少年たちに提示し、救済してきた。真鍋氏の「大検と(転編入を絡めた)通信制の併用」という手法もまた、その一つの方法論となり得るものであった。


 大学に行く手段としてなら、確かに、「高校」はなくてもよい。だが、先の内山氏のように「全人教育の場」などとまで言わずとも(氏は高校教師であったから、自己否定的なことは言えなかったのだろう。そういう表現が随所に見受けられる)、せめて、その代わりとなる精神的な「足場」であり、同時に人との接点となる場所が作られたことで、大検だけでなく、通信制高校もまた発展を遂げられた。もともと大検は、定時制・通信制過程に在籍する生徒に対しても、受検を認めていた。

 「高認」と名称を変え、試験回数の年2回化と英検のような外部資格の活用による免除要件の拡張、合格要件となる科目数の削減などによって、ますます間口を広げているが、今や、通信制高校と高認は、切っても切れない関係にさえある。


 どの高校とは名指ししないが、ひところ、大検による大学進学を目指す生徒は受け入れないなどと自校のホームページに公言して物議をかもした公立の通信制高校もあるようだが、そんな学校はむしろ例外だ。

 「足場」にされるのを嫌う気持ちはわからないではないが、法令上、通信制高校在学中の者には昔から大検受験資格が与えられている。

 その通信制高校、しかも公立の学校がそんなことを公言するのは、多様な進路の保証という観点からも問題である。

 元文部事務次官の前川喜平氏が出会い系バーに頻繁に通っていたという事件があったが、そんなものより、私に言わせればこちらの方が大問題だ。

 もちろん、前川氏がそのような店に出入りしていたことを免罪する気も、まして称賛する気も、まったくないことは言うまでもない。


 現在、かくも「広域型の通信制高校」が力をつけているのは、この40年間の間に大検が大いに普及して大学進学における全日制高校以外のルートが普及していく中で、「通信制高校」の持つ「高校卒業資格」を付与する機能が、高学力層以外の層にも利用しうることが世上に大いに広まったことに加え、学力層の上下はもとより、中学まで登校したか否かなども一切問わず、高校を「降りる」すべての生徒たちの受け皿としての役割を果たしうる場所であることが、世上にはっきりと認識されたからに他ならないだろう。

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