隠された素顔

 霧香の部屋を出た後も、木場の頭からは彼女のことが離れなかった。清楚にして可憐。誰かが傍についていないとたちまち倒れてしまいそうな弱々しい姿。そんな彼女の姿が何度も頭に浮かび、そのたびに木場は胸をかきむしられるような思いがした。

「おい木場、あんまりあの娘に入れ込むんじゃねぇぞ。」木場の胸の内を見て取ったのか、ガマ警部が釘を刺すように言った。

「わかってますよ!でも何だかほっとけなくて。たった一人の肉親を亡くすことになって、霧香さん、本当に気の毒ですよね。」木場が同情するように眉を下げた。

「ふん、いくらしおらしく見せたところで、本当のところはわからんな。父親の介護から解放されたことを喜んでいる可能性だってある。」

「そんな!被害者は霧香さんの実のお父さん

なんですよ!父親の死を願うなんてあり得ません!」

「どうだかな。肉親だからこそ外からは見えん確執がある可能性もある。俺が言いたいのは、人間を見かけだけで簡単に信用するなってことだ。善良そうな人間が中身まで善良とは限らん。あの霧香とかいう娘だって、大人しい顔をした雌豹の可能性だってあるんだからな。」

木場は黙り込んだ。警部の言うことは正論だった。人を見た目で簡単に判断してはいけない。霧香が無実だと思うなら、まずは証拠を見つけなければ。木場はますます意気込んで次なる目的地に視線をやった。霧香の部屋とは廊下を挟んで向かい側にある、彼女の妹の部屋だ。扉をノックしてみたが中から返事はなく、木場が声を張り上げてみても結果は同じだった。

「いませんね。どこに行ったんでしょう?」

「ふん、おおかた部屋にいるのが退屈になって屋敷の中をふらついているんだろう。まぁいい、聞き込みをしているうちにどこかで会うだろう。先に家庭教師の部屋に行くぞ。」ガマ警部が言った。

「被害者と密談していた家庭教師ですね!確かに、現時点では最有力容疑者ですもんね!」

「そういう先入観を持つなと言ってるんだ。」ガマ警部が仁王のように凄みを利かせた。

「…はい、すみません。」木場が叱られた子どものように肩を竦めた。


 公子に教えられた道を辿り、二人は一階にある家庭教師の部屋の前に到着した。例によって木場がドアをノックし、大声で部屋の主を読んだ。やや間があって、がちゃりと鍵の開く音がして扉が開かれた。

「…何だよ、うるせーな。こっちは寝不足なんだ。ちょっとは静かに出来ねぇのかよ。」

そう言って中から顔を覗かせたのは、まだ三十代くらいの若い男だった。パーマのかかった黒髪に無精髭を生やし、胸をはだけさせた黒いシャツの腕をまくり上げ、ぴったりとした黒のパンツを履いている。身長は百八十センチはありそうだ。体型は細身ながら、ポケットに手を突っ込んでこちらを見下ろす姿には妙に威圧感があった。家庭教師というよりヤクザと言われたれた方が納得できそうだ。

「あ、すみません…。ついいつもの調子で。あの、灰塚先生ですよね?霧香さんの妹さんの家庭教師をしている。」

「そうだけど?」

「あの、よろしければ、事件についてお話を聞かせて頂きたいんですが…。」

「嫌だね。俺は疲れてるんだ。昨日たまたま居合わせたからって面倒なことに巻き込みやがって。ったく散々だぜ。」

「ですよね…。」

木場が尻すぼみに言った。灰塚の鋭い眼光を前にし、さっきまでの勢いがすっかり萎んでしまっている。見かねたガマ警部が口を挟んだ。

「残念だがそうはいかんな。事件当日ここに居合わせた以上、あんたも関係者の一人だ。話を聞かないわけにはいかん。」

灰塚がじろりとガマ警部を見やった。猟犬のような目がガマ警部を捉える。だが眼光の鋭さならガマ警部だって負けてはいない。しばらく無言の睨み合いが続いた。木場がはらはらしながらその様子を見守った。

「…ちっ、わかったよ。話しゃいいんだろ、話しゃあ。」

先に折れたのは灰塚の方だった。面倒くさそうに頭を掻くと、警部達を招き入れるように扉を開けた。ガマ警部は遠慮なくずんずんと中に入っていく。木場はそんな警部の背中を賞賛の眼差しで見つめたが、ドアが閉められそうになるのを見て、慌てて自分も身体を滑り込ませた。

 霧香の部屋と比べると、それは随分と贅を凝らした部屋だった。周囲に張り巡らされた高級そうな布地の壁紙、美術館にでも飾ってありそうな大きな絵画、見るからに値が張りそうな調度品の数々、ただの客室にしては、それはいささか豪華過ぎる眺めのように思えた。

「ずいぶんと贅沢な部屋だな。あんたがここをずっと使ってるのか?」ガマ警部が面白くなさそうに尋ねた。

「まぁね。この屋敷はかなり不便なとこにあるからな。帰りが遅くなりそうな時なんかは、いつでもこの部屋に泊まってくれていいって奥さんが言ってくれてんだよ。ま、可愛い娘の勉強を見てやってるんだから、これくらいの対応はしてもらわないとな。」

座り心地の良さそうなソファーに腰を下ろした灰塚が悠然と足を組み、優雅に髪をかき上げながら言った。その動作がいちいち様になっていて木場は何だか悔しくなった。

「確かここに来て五年になるということだったな。この家の人間とはどこで知り合ったんだね?」

ガマ警部が勝手に灰塚の向かいのソファーに腰かけて尋ねた。木場もおずおずとそれに続いた。

「あぁ、旦那さんの事業が成功したときの祝賀パーティーだよ。俺の親父が旦那さんの会社と交流があってね。旦那さんが家庭教師のなり手を捜してるって言ったら、親父が俺を紹介してくれたんだよ。」

「姉の方は勉強は見ていないのか?」

「あぁ、俺がここに来た時、あいつはもう十九になってたからな。でも俺は親切だから、お前の勉強も一緒に見てやろうかって本人に聞いてやったんだぜ。なのにあいつ、『結構です。』とか言ってきっぱり断りやがって。どうもあの霧香って娘は俺を避けてるみたいでな。ったく、この俺の何が気に入らないんだか。」

灰塚が面白くなさそうに頬杖を突いた。見た目に性格、そして態度、この男の全てが霧香には受けつけられないのではと木場は思ったが、もちろん口には出さなかった。

「ところで、あんたは事件当日の夕食前、被害者と二人きりで話をしていたということだったな?」

ガマ警部が尋ねた。途端に灰塚がぎくりとした顔になった。

「あ、あぁ…。まぁ、他愛もない世間話だよ。事件には関係ねぇさ。」

「そうは行かん。あんた達二人は夕食の時間になっても姿を見せず、かれこれ一時間も話し込んでいたそうじゃないか。そんなに長い間世間話をしていたとでも?」

「…あぁそうだよ。つい話し込んじまってな。夕食の時間が来たのにも気づかなかったんだよ。」

「ほう?他愛もない世間話なのに、時間を忘れて話し込んだと?いったいどんな内容だったのか、ぜひ聞きたいものだな。」

灰塚はぐっと言葉を詰まらせた。どうやら墓穴を掘ったようだ。それを見て警部が畳みかけるように言った。

「あんたと話をした数時間後に被害者は命を落とした。だがあんたは被害者との会話について話したくないと言う。あんただって馬鹿じゃない。我々がこの状況をどう捉えるかくらいはわかるだろう?」

ガマ警部がじろりと灰塚を見やった。灰塚はふてくされた不良少年のようにそっぽを向いていたが、いきなり顔を警部の方に戻して言った。

「…わかったよ。話すよ。別に俺としちゃあ、隠し立てする必要もなかったんだけどな。」

「どういうことだ?」

ガマ警部が尋ねた。灰塚はもったいぶるように悠然と首を横に振ると、言った。

「…娘のことだよ。俺が教えてる方じゃない。霧香の方だ。あのじいさん、いきなり俺を呼びつけたと思ったら、頭を下げて言ったんだ。『灰塚君、君に頼みがある。どうか、霧香の婿になってやってくれないか?』…ってね。」

「何ですって!?」

それまで黙っていた木場が素っ頓狂な声を上げた。ガマ警部がじろりと木場を見やる。灰塚は今初めて木場の存在を認識したかのような目で木場を見た。

「何で宗一郎さんはそんなことを…。いやそれより、あなたは何て返事したんですか!?その、霧香さんと結婚することについて!?」

木場がうろたえながら尋ねた。灰塚は面白がるような目で木場の必死な顔を見返した。

「へぇ、刑事さん。あんたそんなに俺と霧香のことが気になるのかい?」

「違います!これはその…、職業的興味です!」

木場が顔を真っ赤にして言った。灰塚が大きく顔をのけぞらせて笑い、ガマ警部が額に手を当ててため息をついた。灰塚はひとしきり笑った後、笑いすぎて出た涙を拭いながら答えた。

「あぁそうかい。だが安心しな。ちゃんと断ったからよ。あのじいさん、早いとこ霧香に婿を見つけないとって必死になって、それで一番手近にいた俺に声をかけたんだ。でもさすがの俺もあんな愛想のない娘はごめんだよ。向こうも俺のことは相手にしちゃあいないだろうしな。」

安堵が身体中から流れ出たかのように木場は大きく息を吐き出した。こんなやさぐれた男を愛娘の夫にしようとしたなんて、木場は宗一郎の正気を疑いたくなった。

「だが、なぜ被害者はそんなに必死になったんだ?五年前に十九だったということは、今はまだ二十四歳だろう。何もそんな焦って相手を探すこともないだろうに。」

ガマ警部が言った。木場も全く同意見だった。

「さぁねぇ。旦那さんもだいぶ弱ってたみたいだからな。自分が死ぬ前に相手を見つけたいとでも思ったんじゃねぇの?」  

灰塚は不謹慎なことを平気で言う。木場はだんだんこの男に腹が立ってきた。

「ともかく、これで疑いは晴れただろ。俺は旦那さんと娘の将来を案じてたんだ。殺人の動機なんか生まれるわけがねぇよ。」

「ふん、それはどうだかな。ちなみに、夕食後の十時頃にはどこにいたんだ?」ガマ警部が尋ねた。

「へっ、アリバイ調査ってわけか?あいにく、その時間は一人で部屋にいたんだ。証明できる人間はいねぇよ。」

確か公子も同じことを言っていた。今のところ、事件発生時刻にアリバイのある人間はいない。

「なぁ刑事さん、もういいだろ?さっきも言ったけど俺は疲れてるんだ。知ってることは全部話したし、そろそろ解放してくれねぇかな。」灰塚が気だるそうに言った。

「ふん、まぁいいだろう。今はこれくらいにしておいてやろう。また後で話を聞かせてもらうことになるかもしれんがな。」

ガマ警部が言った。灰塚がけっと唾を飛ばしたが、そこで木場と目が合った。灰塚はしばらく木場の顔をじろじろと見つめていたが、不意ににやりと笑って言った。

「なぁ、そっちの若い刑事さんよ。あんた、どうも霧香に気があるようだが、あの女には気をつけた方がいいぜ。」

「どういう意味ですか!?」

木場が聞き捨てならないと言うようにきっと灰塚を睨みつけた。灰塚は狡そうにますます口元を歪めた。 

「俺はあんたに忠告してやってるんだ。あの女と関わるとろくなことにならない。遅かれ早かれ、あんたも思い知ることになるだろうよ。」

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