第5章 あなたの心のために_その2


    〇


 任務内容を確認。変更無し。

 多少のイレギュラーは生じたものの、まだ想定の範囲内にある。

 だが状況は限りなく最悪に近い。「最終手段」の使用も想定に入れ、確実に職務を遂行せよ。

 ──すべては、破門者の名において。


 何度訴えかけても結果は同じだった。本部は、なんとしてでも最悪の事態を避けるべきだというスタンスだ。

 さしもの総隊長も事態を重く見ており、表情は険しかった。間に合わなければ災害が全世界に波及するかもしれないのだ。だが、理屈ではわかっていても、「はいそうですか」とうなずけない自分がいた。考えに考え、眠れないまま夜が明けた。

 思い悩みながら居住スペースの扉を開けると、アッシュがベッドから出ていた。

「え? ……アッシュ?」

「おはよう、姉さん」

 いつも通りのアッシュだ。フィリスはあんのあまり腰が抜けそうになった。アッシュはいつもの衣服に袖を通し、修繕が済んでいることに首をかしげていた。特殊繊維を組み込んだ戦闘用の神父服カソツクは、もののついでにと博士が修理していたのだ。

「もう大丈夫なのですか?」

「うん。何か、嫌な夢を見ていた気がするけどね。もう平気さ」

 朝日が入らない地下室の、よそよそしいLED照明に照らされながら、アッシュは笑顔。

「あの。その件なのですが、総隊長と相談を──」

「あれは、天使なんだろう?」

 アッシュはくくりのことを知っている。

 ハイドの手でひんの状況に追い込まれ、おぼろげな意識の中でも、あの翼を見ていたのだ。

 武器が収まったアタッシュケースを持ち上げる。首輪がちゃんとまっているか確認。その機能が十全に働くかも。あまりにも自然に、アッシュは出撃の準備を整え、

「じゃあ。人喰い鴉レイヴン、任務に戻る」

 こちらを見返す顔に、フィリスはぞっとした。

 一切の情動がせた、ろう人形のような無表情だったから。

「──くくりさんを、殺すんですか?」

「そうだよ。天使は殺さなきゃ。僕はそのためにここにいる」

 アナテマの真の目的は、Asエースの調査でもハイドの討伐でもない。

 任務内容は「天使」の捜索。および発見次第の確保、不可能な場合は──抹殺である。

 これは特秘であり、上層部以外にはアッシュとフィリスの間でしか共有されていない。自らの活動圏で「第三の天使」の暴威を許したアナテマは、二度とそのようなことがないよう天使の情報に常にアンテナを張っていた。

 天使は滅ぼせない存在ではない。その力を行使される前に先制すれば、可能性はある。

 けれど。

「ま……待って、待ってください! もしかして、を使うんですか!?」

「使うさ。あれが一番可能性が高い」

「それだけは待って! 考え直してください……!」

「どうして?」

 アッシュは心底不思議そうな顔をした。フィリスが──「姉」がどうしてそんなことを言うのか、本気でわかっていないようだ。

「姉さん、言ったよね。正しく在りなさいって。正しくない者を殺して、正しいあなたを生かす。僕はずっとずっとずっとそうしてきた。これはそのための、正しい行為なんじゃないか」

 フィリスは唐突に、自分の言葉など何一つ届いていないのではないかと恐ろしくなった。

「だけど……! くくりさんは、あの子はアッシュのことを、」

「殺したんだ」

 底冷えするような声。あおうつろな目は、フィリスではなく、別の誰かを見ている。

「街を、僕を、姉さんを、殺した。天使とはそういう存在なんだ。僕は忘れてない。あなたは今でもあの夜にいる」

 フィリスはアッシュの実姉がなったのかを、その言葉でようやく察した。

 彼の行動原理のへんりんを思い知り、それが遅すぎたことを後悔した。このまま突き進んでしまえば、彼はきっと「姉さん」に殉じることになる。

「だけど! 最終救済兵装を使えば、あなたも死にます!!」

 最終救済兵装。アナテマが保有する最大の火力。

 それが命中すれば、ハイドごと天使をほろぼせる可能性は充分にある。だがくくりを問答無用で殺すことでもあり、同時にエージェント自身の犠牲をも強いる最終手段だった。

「正しいことを行うんだよ。何も惜しくなんかない」

 アッシュはしかし、それすらも当然のことと受け止めて、

「姉さん、僕はね、うれしいんだよ。やっと天使を殺せる。この時をずっと待ってた。あなたは何も間違ってなんかなかったって証明してやるんだ。大丈夫、僕に任せて、僕は正しい、正しい、正しい、正しいよ、大丈夫、僕は正しいから、負けない、あの時のようにはいかない」

 彼が言う「あなた」はフィリスではなく、「あの時」もハイドとの戦いのことではない。

 アッシュにとって現実とは悪夢の延長線上に過ぎず、姉の唱える正しさだけが真実だ。フィリスは、彼の過去のすべてを知らないまでも、その精神がかなり危うい状況にあることを察した。錯乱状態だった時より静かな、より純度の高い悪夢の中にあると。

 だからこそ、このまま死地に向かわせるわけにはいかないと思った。

「……聞いてください、アッシュ」

 アッシュは、わずかに小首をかしげる。

「私は、ゆうかい化以後に現れた者たちを『人間以外』と恐れていました。もうじやも天使も、何かとても恐ろしいもので、無条件に人間を害するものなんだって。けど違いました。彼らにもそれぞれの心があって、それは私たちと全然変わってなんかないんだって」

 アッシュは、表情を動かず、じぃっとフィリスを見ている。

「だから──だから、もう少し考えてみませんか!? もっと別の手が浮かぶはずです! 私たちだけで無理でも、そぎじゆうぞうと一緒なら……!」

 アッシュは、凍り付いたままで、ぽつりと、

「お前、姉さんじゃないな」

 覚悟はしていた。

 アッシュを制御するためではない、フィリス自身の意見に、弟は決定的なを見た。

もうじやは存在自体が間違っている。やつらを救済することが僕の使命だ。姉さんがそう言ってくれたんだ。お前は誰だ? 姉さんをどこへやった?」

 機械的な歩みでかべぎわまで詰め寄られる。氷のように冷たく硬い圧を受けながら、フィリスはしかし目線をらさなかった。今まで上の命ずるまま「姉」をかたり、任務のためにアッシュを利用しながら、その実彼のことまでも「恐ろしいもの」として見てはいなかったか。それではいけないと本心から思う。

「もう一回話し合いましょう。私たちに何ができるのか、誰も犠牲にならない方法がきっと」

「そんなものは無い」

 どすん、と、腹部に衝撃。

 痛みを自覚する前に気が遠のいていた。アッシュはぐったりもたれかかるフィリスを引き剥がし、拳を解いた。アタッシュケースを拾う。もうこちらを見てもいない。

 フィリスは途切れゆく意識の中で、それでもアッシュを止めようとして、届かなかった。


    〇


 アッシュは早朝の地上に出る。重い雲が夜明けを遮るせいで、外はまだ夜の色だ。

 地下研究所はない某所の車両基地につながっており、そこから海沿いの街はずれに出ることができる。周囲は車の墓場みたいになっていて、さびじみた廃車がそこかしこにある以外は猫の子一匹いない。空気は冷たく湿っていた。明け方から昼過ぎにかけて、雨が降るらしい。

 最後の仕事をしなくては。

 外に出るだけで時間を使ってしまった。アッシュの思考はほとんどまともに機能していないが、体にたたまれたエージェントの本能が作戦要綱を忘れさせない。ハイド。天使。抹殺対象。座標を合わせればそれでいい。まずは近付かなければ。やつらはどこにいるのか。

「散歩にしちゃずいぶん歩くんだな」

 後ろから声。聞き慣れたもの。死神ミソギ。


 ミソギは遅れて研究所をち、なんの工夫も無くめちゃくちゃ走って追いついた。息が切れているのをごまかすだけでもそこそこ苦労した。

 振り向いたアッシュは、迷子のような顔。相手がミソギとちゃんと認識しているようだが、今更どうでもよさそうに思える。

「姉さんを、探してるんだ」

「そっか。見つかりそうか?」

「うん。この仕事が終わったら、やっと姉さんに褒めてもらえる気がする」

 それじゃあ、とアッシュはきびすかえした。つれないことだ。ミソギは頭をボリボリきながら、ついさっき聞いたばかりの名前をそのまま口にする。

「最終救済兵装……『裁きの杖アビン』、だったっけな」

 アッシュの足が止まる。

 ガレージのソファで爆睡していたミソギは、いきなりフィリスに起こされた。何だこいつと思ったが、しようすいしきった様子から「何かあった」と直感。フィリスは腹部を傷めていたようだが自分のことなどどうでもいいとばかりに、アッシュのことすべて説明した。彼が具体的に何をしようとしているのかも。

 ──『裁きの杖アビン』は、アナテマが保有する中でも最強の、衛星兵器です。

 その実態は、軌道上から全長十二メートル・直径五十センチ・重量二〇〇キロ強の金属棒を投射する運動エネルギーキネテイツク・爆弾ボム。金属棒の素材は主にタングステンとウラン。芯に聖別された純銀を仕込み、射出用プラットフォームの中心部にも救済兵装と同じ仕掛けを施してある。地を貫く聖なるつえは、その圧倒的威力でもって人ももうじやも消し飛ばすだろう。

 単純素朴な質量は、大気圏外からの加速を得て小型核に匹敵する衝撃力を発揮する。熱波も汚染も起こさない代わりに、最低でも半径数キロ圏内は壊滅する計算だ。

「フィリスから全部聞いた。そいつは、お前を狙ってくるってこともな」

 アッシュの首輪は、装着者の位置情報とバイタルサインを常に補佐官のデバイスに送信しているが、それはあくまで通常時の機能に過ぎず、本来のスペックの半分も発揮していない。

 真の機能は、「最終救済兵装のターゲットマーカー」である。

 首輪に仕込まれた超小型最新鋭の発信装置は、衛星軌道上のプラットフォームとリアルタイムでリンクしている。こちらから射出要請を出し、本部からの認可が下りれば、最終救済兵装はつえを発射する。要請を受けたその首輪に向けて。

 どんな状況のどんな場所からも爆撃可能。装着者が死んでもマーカーは動き続ける。災害級の存在を殺すための切り札であり、確実に目標地点に到達できるエージェントの存在と、その犠牲をも想定したまさに「最後も最後の奥の手」だった。

「……すごいなぁ。よく知ってるんだね」

「だろ? こう見えて勉強熱心でな。現役時代は結構いい大学狙ってたんだぜ」

 大学うんぬんは冗談としても、まさか褒められるためだけに追ってきたわけではない。聞くだけ聞いてきびすかえしたアッシュを「ちょい待て」と呼び止める。

「……なに? 僕、これから仕事が──」

「悪ぃが、そうさせるわけにはいかねぇもんでな」

 ──もっと早く言っていればよかった。

 ──あなたを、アッシュを、もっと心の底から信用していれば。

 何度もそう繰り返して、フィリスは泣いていた。こうなるともう放っておけない。フィリスが泣くのも、アッシュが自爆するのも、くくりとの約束も、ハイドの野望も報奨金もとうきようの危機も妹たちがいる外の安全も、どいつもこいつも。

 これもまた、悪い癖なのかもしれない。

「どうしても、駄目だって言うのかい」

「どうしても、だ。そっちこそ、どうしても行くってんなら、」

 アッシュは手元のケースをどすんと落とした。彼はもう切り替わっている。既に蓋は開いており、その右手から銀の銃身が伸びていた。語るに及ばず、というわけだ。

「……そうなるよなぁ。ったく、つくづく──」

 アッシュはシリンダーの銃弾を確かめる。安全装置を解除。撃鉄が起こる。

 生ぬるく湿った風が吹き、雲の落とした最初の雨滴が、二人の間にぽつりと落ちた。

「邪魔をするな、もうじや

「──頭の固ぇ野郎だぜ!」

 撃発!

 デリンガーがあおせんこうを放った時、死神は既に空中にいた。

えんこう、変異・噴射ッ!」

 両脚部が爆炎を噴き出し、急加速。

 落下速度と爆発的推進力に回転力をもオマケし、ミソギは火の車となって標的へ墜落した。

 アッシュは真横に跳んで、アスファルトをぶち砕く爆速かかと落としを回避。受け身を取って膝立ちになり、即座にデリンガーを二連射した。

 しかしミソギもさるもので、再びさくれつ、紙一重でこれを回避。更に踏み込んで肉薄。

 アッシュは右にデリンガーを構えたまま、銀のおのを抜く。変則的二刀流でミソギの接近戦に応じ、猛獣さながらの迫撃を花弁のような身のこなしでさばく。弾き合う地獄のはがねと人界の銀が火花を散らし、至近距離から放たれるマグナム弾があおく咲いて彼方かなたへ消えた。

 雨粒が逆流する。躍動する空気にかれ、跳ね散らされたしずくは霧状になって猛攻の軌跡を追った。雨はもう、本降りになっていた。

 ミソギは弾を数えていた。最初の一発、次なる二発、至近距離から危うい一発、二発。また撃発、防御に使った左腕の外側がぎ飛ばされる、これくらいならまだセーフ。

(いただき……ッ!)

 ミソギに殺意は無い。あくまで気絶させて止めるだけだ。多少のなら博士が治す。

 当然、アッシュは違う。殺す気であり、死ぬ気だった。そこに差が生まれた。

 ミソギの手刀が空を裂くに合わせ、アッシュは唐突に全身の力を抜いた。

 両手を開き、まるで断頭台の死刑囚のように、雨にれた白い首をわざとさらしたのだ。

 想像だにしなかった無防備さ。この程度なら避けるか防ぐと踏んでいたミソギは、だからこそ動きを鈍らせた。相手の強さを知ればこそ、何手も先までの攻防を前提としていた。

 首を折る寸前、手刀が無理やりに止まる。アッシュは生じた隙を見逃さない。

「──僕なられた」

 即座に、足元のものを蹴り上げた。これまでの猛攻で、アッシュは押されるふりをしてある地点へと戻ろうとしていた。攻撃をさばきながら、結果そのもくは成った。

「ぐ……ッ!」

 蹴り上げられたアタッシュケースを腹にぶち込まれ、ミソギは大きく飛びすさった。

 それが、決定的に流れを変えた。アッシュはケースからもう一つの銃器を取り出す。

 きようてんロガトカ。そぎじゆうぞうは第Ⅱ種救済兵装の使用要件、上級もうじやに該当する。

 受けられるか。いや考える暇は無い。ミソギはとつに近くの廃車のドアを引っぺがす。

「変異・遮断ッ!!」

 両腕全体、動ける脚部もすべて動員し、えんこうとドアを合体させた大盾を作る。

 散弾ばがん!!

 煙雨にあおい火が花開いた。マズルフラッシュが雨滴に乱反射してまばゆい光を散らし、立て続けに排出されるシェルがれたアスファルトに跳ねた。

「天使は殺す。僕が必ず、この手で、殺す!」

くくりは助ける! お前にも殺させねぇ、絶対にだ!!」

 アッシュは壊れた機械のようにポンプを引き、連射、連射連射連射。散弾が急造の大盾をい破っていく。それでもミソギの目から光は消えない。

「ふざけるな! 天使を助ける意味なんか──、!」

 ロガトカのチャンバーから弾が尽きる。ミソギは盾を解除し、ぼろくずのようになったドアを「ばがんっ!」と蹴り飛ばした。アッシュはとつにそれを避けたことで、陰に隠れたミソギの接近を許してしまう。

「ッ……!?」

 捕まえた。ミソギはアッシュの背後に回り、ボロボロになった腕でチョークスリーパーをかけた。このまま眠ってもらう。ロガトカが取り落とされ、雨と泥水にまみれる。

「──意味なんざ知るか。こんなグチャグチャの時代で、んなもん誰にも決められねぇよ」

 足掻あがくアッシュ。ミソギの傷跡から血と塩がこぼれ、混ざり合って雨に溶けた。

「だから、自分で決めたことだけはやり通す。何回死んでも、オレが助けると決めた以上、絶対に助けてやる……!」

 ふっ──

 アッシュの全身から力が抜ける。落ちたか。そっと首にかけた腕を外すと、神父服カソツクを着た体が大きく前にかしいだ。ひとまずの決着にミソギはほんの一瞬気を抜いて、

 ごづんっ!!

 金髪の後頭部が、いきなりはなつらにめり込んだ。

 起き上がる反動をたっぷり乗せた、全力の頭突きをらったのだ。

!!」

 振り返りざまにミソギの胸倉をつかみ、アッシュは聞いたこともないような怒号を上げた。

「助ける? 自分で決めたから? 何も知らない死人が偉そうな口をくな! お前なんかの気分ひとつでみんな救えるなら、誰も悲しんだりしない! あの時もそうだった!!」

「──こ、の」

「違うと言うなら、僕が殺した連中をその『気分』で選んで生き返らせてみろ!!」

「黙って聞いてりゃ、好き勝手ッ、言いやがってェ!!」

 がづんっっ!!

 胸倉をつかみ返し、ミソギのお返しの一発。既に血がにじんだ二人の額がまた赤く染まり、そろってクラクラした。前髪同士がからまる距離で、叫ぶ。

「だいたいお前もくくりに助けられてんだろうが! お互いあいつに借りがあるんだよ!!」

「関係無い! 天使は討伐対象だ! あいつを殺すのが正しい行いだ!!」

「なんでそう頭が硬ぇんだてめぇは!? これだから聖職者ってのは嫌なんだよ!!」

「黙れもうじや!! 腐った頭でよく人に説教できたものだな!? 誰にでも限界があるって、どうしようもないことがあるって知らないからそんなことが言えるんだ!!」

 雨がまない。血の生ぬるさを感じる。激情に喉をきながら、アッシュは己が魂の底にあるものを、ほぼ無意識のうちにぶちまけていた。

「死すべきものはみんな殺す!! それでやっと、姉さんに──」

 姉さんに?

 姉さんに、何だ? アッシュはしゆんじゆんする──僕は、何を言おうとしたんだっけ。

 姉の言葉が脳裏によぎる。その笑顔が。傾いた十字をバックに笑う哀れなもうじやが。

 あの時。

「あなたは、正しかったと。そう、言えるんだよ……!」

 少年は悪夢の中で教えをなぞり続けた。正しくない者を殺し、もうじやを殺し、天使を殺し、正義を示し続ける。それこそが、心の中にある「姉」を守る唯一無二の方法だった。

 守るべきものなど、もう残っていないのに。

 お互い雨でずぶれだった。アッシュの意識が混濁する。任務を遂行しなくては。正しいことをしなくては。──誰のために? どこで何を間違えたのかも、もうわからない。

 わからないから、正義を行い続けるしか。

 もう一発、全身全霊の頭突きをぶち込んだ。さすがにこれはミソギにも効いた。大きくよろけて後ろの廃車にもたれかかり、立っていられなくなる。アッシュは銀のおのを抜き、その頭めがけて思いきり振りかぶった。

 振り降ろされる寸前、小さな影が二人の間に飛び込んだ。

「……待って!!」

 ──姉さん?

 いや──ほうけた表情のまま少女を見返した時、思いがけぬ幼さに驚く。

 金の髪に、緑の。幻影はそんなかたちをしている。しかし、くらつく頭は実像をぼやけさせた。頭が痛い。鼻の奥に悪夢の香りがした。

「はぁ、はぁ、は……や、やっと……追いついた……っ」

 この子は、なんて名前だったっけ。どうしてこんなに必死なんだろう。

 誰かに会いたかったのだろうか。そういえば自分も、いつかどこかで、こんなふうに必死に走った気がするな。きっとこの子が会いたい人も、この子にとって大切な人なんだろう。

「誰だか知らないけど、どいてくれるかな」

「嫌です」

「そいつを殺さなきゃ。──邪魔するあなたは、正しくない人?」

「かもしれません。だけど、それでいいと思っています……!」

 フィリスは刃を前に一歩も引かず、むしろ進んで身をさらす。雨に打たれ、あおい目に射られながら、決意は揺るがなかった。後ろでミソギがうめく。

「ッつ……おいバカやめろ、何考えて……!」

「何も考えてませんっ!!」

 かなりすごい即答だった。立ち上がれぬままミソギは絶句した。

「難しいことなんて、何も! だって知らないんだもん! くくりさんのことも、ハイドの狙いもアッシュの考えも! 知らないことを考えようがないじゃない! だから今は、私が思うままにやってるんです! 文句ありますか!!」

 話にならない。アッシュは得体の知れないいらちを覚えた。

 この女は命の使いどころを間違っている。正しき者は、さいまでその命を正しい目的にのみ使い果たすべきだ。ずっとそうしてきた。自分も。最愛のあの人も。もういい。これ以上ここにいるべきではない。

 振り降ろそうとした手に、女の手が触れた。寒気がするほど暖かかった。

「──あなたも!」

 短い叫びに、すくむ。

 雨音をかき消すほどに、声を枯らして少女は叫ぶ。

「あなたも、くくりさんも、死なせるのは嫌!!」

 ──あなたはどうか、生きていて。

 脳裏によみがえるのは、変わり果てた姉の姿。無意識に封じ込めていた記憶の洪水が起こる。最初の殺し。正しいこと。間違っていること。人ともうじや。任務のこと。天使を滅ぼすこと。姉の言いつけ。滅んだ故郷。礼拝堂。死にゆく両親のさいの言葉。

 弟に向けられたさいの言葉と、命をした「正しさ」が、決定的な矛盾を起こす。

 アッシュの体から力が抜けた。

 二、三歩後ろにふらついて、膝をつく。しばしの沈黙が雨に塗り潰される。

「…………姉さん」

「おいアッシュ、そいつはな……」

「姉さん……どこ? どこにいるの?」

 少年は誰とも会話していない。きょとんとして周囲を見渡し、はぐれた姉を探し続ける。

 十五歳の顔をした少年を見つめ、フィリスは覚悟を決めた。

「私に任せてください」

「構わねぇが……どうすんだ?」

「少し話をするだけです。……その、助けてくれて、うれしかった。ありがとう、ミソギ」

 ここから先は作戦要綱には存在しない。

 フィリスは少年と目線の高さを合わせ、れた体にも構わずに抱きしめた。

「……あなた、誰? 姉さんに似てる……」

「お姉さんの……友達です。あなたに伝言があるって、アッシュ君」

 あおい目に光が宿る。姉さんの伝言。きっと大事なことなんだ、と素直に聞き入る。

「お姉さんは大事な用事があって、アッシュ君のもとを離れるそうです。長い間会えなくなるけど、あなたのことを見守ってるって。心配しないでって、言ってました」

「僕はどうすればいいんですか? 姉さんが行っちゃったら、誰の言うことを聞いたら……」

 フィリスよりも一回り大きい、幾度もの修羅場を切り抜けてきた体が、今は驚くほど小さく感じられる。少し考えてフィリスは、ただ自分の思うままを言った。

「自分自身に、従ってください」

 伝言であるということも、その時だけは忘れて。

「たとえ正しくなくても、あなたの意志で。お姉さんの教えに背くようなあやまちであっても……あなた自身のために。今生きている、あなたの心のために」

 少年はしばらくほうけていた。目に入る雨にも構わず、空を見上げたまま。やがてその目に理解と納得の色が湧き上がり、夜明けの雨滴と共に体を流れ落ちていく。

「…………そっか。そうなんだね」

 白くれいだった、しかし今は戦傷にまみれて武骨な指先が己の首筋に触れる。探り当てるのは金色の首輪ではなくその下、古びた銀色のチェーンだった。

「わかったよ。なんだ。そんなことだったんだ──」

 ぷちんっ──とチェーンを外し、つながれていた銀の破片を捨てる。指先ほどしかないそれがかつてはナイフの刃先だったなどと、今や誰も知るまい。

 もしかしたらこいつは、ずっと答えを探していたのかもしれない。

 彼の過去に何があったのかは知らない。古傷など誰もが持っている時代だ。だがそのへんりんが見えた時、ミソギはそう思わずにおれなかった。

 抱かれたまま、アッシュは眠った。やがて安らかな寝息が聞こえ始める。

 フィリスは彼の背をでながら、すん、と鼻を鳴らす。

「……お前、泣いてんのか?」

「泣いてますよ。生きてますもの」

 やがてフィリスは一度でっかいくしゃみをする。全員びしょれだ。


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