第3章 俺は俺にしか従わない_その1

 十年前の夜は、昨日のことのように覚えている。

 赤くける月、降り注ぐ火炎と人血のばく。巨大な死のうねりの中で、逃げていた。

 すぐ後ろで妹が泣いていた。その手を決して放すまいと誓った。

 どこへ逃げればいいのかすらわからず、ただもう地の果てから果てへ続くような断末魔に追い立てられて走り続けた。飛行機が落ち、そこらじゅうが燃え、悲鳴とえんとどろく中で、天まで届くばかりの巨大な「何か」の翼を見た気がする。

 最後の記憶は裂ける地面。亀裂は深く、はるかな底で無限の炎が燃えていた。何かを考える前に、妹を地割れの外に突き飛ばしていた。自らを省みず。落ちる先はどことも知れず──


そぎじゆうぞう

 急に名前を呼ばれてハッとする。気が付けば、広いオフィス然とした場所に立っている。

 左右の壁には巨大な書棚、奥のまどぎわにはごうしやなプレジデントデスクとOA機器が一式。窓の外は燃えており、夏の最もおぞましい夕焼けのように赤くまばゆい光が差し込んでくる。

 デスクには女がいた。赤いセルフレームの眼鏡を上げ、火と同じ色の目でこちらを見る。

「右目をどうした。どこかに落としてきたか?」

 言われて初めて、ミソギは視界の狭さを自覚した。女がPCで何かを操作したかと思えば、すぐ目の前にこつぜんと鏡が現れて、自分の顔を映す。

 右目が無くなっていた。

 ぽっかり開いたがんの奥に、ささやかなおきだけが残る。悲鳴を上げた。痛みは無かった。

「何が……」

「いやな、たまにおるのよ、送られる際に体の一部を落としてしまうやつが。まあよほど深い層でなければ回収可能じゃろう、手配しておくゆえ辛抱せい」

「じゃなくて、──オレに、何が起こって」

 女が何気なく後ろを指差す。そちらを見て、ぞっとした。

 背後、大開きになった両扉の向こうは長い長い廊下で、果ても見えないろうにやくなんによの大行列がどこまでもずらっと伸びていた。彼らの表情には一様に色がなく、夢遊病者かはたまた幽鬼のようなたたずまいでただ「順番」を待っている。

「ここは地獄じゃ。おぬしらは、死んでここまで送られてきた」

 言葉も無い。

「……にしても今日は多すぎるが、上で何があった? 核戦争でもおっぱじまったか?」

 知るわけがない。だが「死」という言葉が生々しくに落ちて、急に記憶がよみがえった。

 破綻する街。血と炎と満月の赤。その鮮烈な色が、全身に現実感を取り戻させる。

「ま──待てよ、は!? 今なんて言った!? 死んだ!? オレが!?」

「じゃからそう言うとろうが」

?うそだ! 全然そんな気しなかったぞ! ただ大きな地割れから落ちて──」

「何度も言わすな。えんうそをつかぬ」

 夢とは思えないほどにすべてがクリアで、「えん」を名乗る女は絶対的にそこに在る。

 だとしたら。

「妹がいたんだ!」考える前に叫んでいた。「名前はろく! あいつはどうなった!?」

「ほう」自称えんは片眉を上げ、「死にたてのくせにイキがいいと思うておったが、死んだ瞬間を覚えておるのか。普通そうはならぬがな。変わったやつじゃ」

 ミソギにはまだ妹の手の感触が残っている。あまりにも唐突だったから死んだ実感さえ湧いていないのかもしれないが、覚えている以上、死んで死に切れるものではない。いいから早く教えろとかすと、えんは膨大な今日付けの死者リストを確認し、断言した。

「──『そぎろく』の名は無い。生きておるな」

 全身から力が抜けた。妹は助かった。少なくとも、そう信じたい。信じるしかない。

 だけど、自分はもう死んでいる。

 放心状態で立ち尽くすミソギに、えんは何か思うところがあったのだろう。不慮の死を遂げた相手を慰めるのは慣れているのかもしれない。しやくを左右に振りながら、

「まあ、そう気落ちするな。真面目に勤め上げれば地獄も案外悪うはないぞ。見たところおぬしは大して悪さもしておらん、相応に取り計らってやるゆえ──」

 いきなり、大きな縦揺れが起こった。

 えんはズレた眼鏡をかけ直し、けたたましく鳴り出した卓上電話を取る。

「うむ、わしじゃ。今のは何事か? もうじやどもが騒いでおるが……」

 受話器越しに部下の獄卒がなにやらわめてる。内容までは聞こえなかった。手持ち無沙汰なミソギを前にして、えんは「報告」を聞き届け、目を見開いた。

「──なんじゃとォ!?」

 音を立て立ち上がり、えんは後ろの窓を全開にした。熱気をはらんださび臭い風が吹き込んで、外に広がる光景にさしもの彼女もしんかんした。

 赤い空の頂点に、巨大な穴があった。

 地獄のもうじやたちがいやおうなく吸い込まれていく。まるでブラックホールだった。目を凝らしてみると、穴の向こうに星が見えた。夜空だ。地獄とは違う、この世の空だと直感した。

「ちぃっ──黄泉よみ返りじゃ! もうじやが現世に帰るぞ! 門番は何をしておる!?」

 えんはただちにあちこちに電話をかけ、ものすごい勢いで指示と連絡としつを飛ばしまくった。彼女にも、いやそれどころか、地獄全体にとってもイレギュラーな事態なのだとそれでわかった。現世の人間は死に、冥界の住民は生き返るのか。それではあべこべだ。二つの世界がミキサーにかけられたみたいにごっちゃになり、そこから先は……想像もつかない。

「動ける獄卒を今すぐ回せ! 現世うえに戻ったもうじやを引き戻さねばならん! 幽明の境界が破綻してしまうのじゃぞ! ──人手不足ぅ!? こっちの騒ぎは承知の上じゃ、とにかく誰かが向かわねばとんでもないことになるぞ!! 責任者は誰ぞ!? あ、わしじゃった」

 わかることは、ただ一つ。あの穴から戻れるということ。

「オレが行く」

 考える前に、断言していた。

「……なんじゃと?」

 ミソギは足を大きく踏み出し、大きなデスクを挟んで彼女に詰め寄った。

「聞こえなかったのか? そいつらを連れ戻してやるから、今すぐオレをあっちに戻し」

「馬鹿者がっ!!」

 信じられないほど強烈な一喝をらい、ミソギは声だけで吹っ飛びそうになった。

「死者は戻らぬ! これは絶対の真理じゃ! 言うに事欠いて貴様、冥界の王にその法を曲げよと申すか!?」

「今さらそんなもん通るか! 上見てみろ、みんな戻ってんだろうが!!」

「じゃからなんとかすると言うておるのじゃ!! 余計な気を回さんで貴様は貴様の死をまっとうすればよい! それが人の務めというものぞ!!」

「知るかぁっ!!」

 両手でデスクをぶったたく。意外なほど強硬な態度に、今度はえんがのけぞる番だった。

「地獄が何だ!! あいつが上にいるのに、オレだけ死んでる場合じゃねえだろうが!!!」

 絶叫が響き、戸外の廊下の果てまでこだましていく。並び立つ順番待ちは無言。彼らもまた上の騒ぎで死んだのだろうか。気の毒に思うが、今ここで列に加わるわけには、いかない。

 残響が消えるころ、えんはすっと目を細める。

「……保障は?」

「保障?」

「仮におぬしを回収役に任命したとして、真面目に職務を遂行する保障じゃ。口ではなんとでも言えよう。妹を救うもよかろうが、その後も変わらず使命を果たすと約束できるか?」

 上等だ。身を乗り出し、ミソギは断言した。

「あんたに、オレが持つ全部をささげる」

 ほう──とつぶやえん

「こいつは借金みてえなもんだ。そのカタに持っていけるもんなら全部くれてやる! たとえ首だけになろうが、命さえある限り、あんたに懸ける!!」

 えながら、頭の芯は不思議なほど冷静だ。異常事態すぎて一周回ったか、どうあれそれは数秒前まで「ただの学生」にすぎなかったミソギが初めて見せる、はがねのような精神力だった。

 一瞬、えんどうもうに口元をゆがめた。ついにキレたかと思ったが違う。むしろ、真逆──

「く……くふはっ。ふははははははははははっ!!」

 首をらし、その場でたいしようした。

 地の底から響くような笑い声だった。全身をびりびり震わす音圧に、ミソギは今更になって目の前の女が正真正銘、冥界の王であることを実感した。

 爆笑することしばし、えんはふっつり笑みを引っ込め、

「よかろう。ならば、もらおうかえ」

 ──ばづんっ!!

「!?」

 強烈な断絶感。ほとんど同時に重なって、四つ。

 両手両足が根本から切断され、しやくの動きに合わせて浮遊していた。

 少しも痛くなかった。断面が焼けたようにくすぶっており、くらげのように浮かびながら、ミソギは残ったひだりぼうぜんえんを見た。

「これが担保じゃ。借金とは言い得て妙よな。おぬしが職務を完遂せしあかつきには、これらをすべて返却し、特例として人に戻してやろう」

 言いながらえんは何かを手配し始めた。

 えんこう──義肢も兼ねた「仕事道具」。見せられたモニターに、そうあった。

「──遂げてみよ、そぎじゆうぞう。額にして一〇〇億、見事完済するのじゃ」

 ああ、と返そうとしたが、

「ひゃくお……一〇〇億ゥ!? どっから出てきたその数字!?」

「よく言うじゃろう、地獄の沙汰も金次第と。あれも一面では真実なのじゃな」

 続いて画面を切り替える。モニターには死者のリストと、それぞれの罪の多寡に合わせた金額が設定されていた。安ければ数十万、高額のものは億にものぼる。

「こっちも仕事でやっておるのじゃ。獄卒には給金が要るし、もうじやが出ていけばそれだけの損失が出るわけよ。──それを全て、おぬしにおっかぶせる」

 彼女の視線はこちらかられない。公明にして正大、合理的にして酷薄なレンズ越しの鋭い視線はしかし、ミソギにとっては確かにの糸だったのだ。

「どうする。やるか? 進むは地獄、留まるも地獄ぞ」

 笑わせる。その地獄があふた以上、どこにいたって同じだろうに。

 にやりとゆがむ引きつり気味の笑顔に、えんはまさしく鬼神のような笑みを返した。


 気が付けば、夜。冷たく鋭い地上の風。

 地上は燃える血の海に沈み、陸地はごくわずか。その陸でも血に渇いたもうじやどもがうごめき、人の心臓から喉を潤そうとしていた。見慣れた少女はそこにいて、れいだった黒髪をすすで汚し、もうじやの手から逃れられない。

 そいつらを、ものの一発で蹴散らした。

「──お、お兄ちゃん?」

 へたり込んだろくは、変わり果てた兄をぼうぜんと見上げる。

 燃えるみぎ。鉄色の四肢。髪の右半分は白く、灰が舞う風を受けて立つ様は地獄の死神そのものだ。けれど妹を見下ろす顔は、生前と何ら変わることがない。

「悪ぃな、ろく。兄ちゃんこれから仕事なんだわ」

 とうきよう幽界化のだいきようこうは、七日七晩絶えることなく続いた。

 最終的に、生き残りの人々は船による脱出に成功した。「赤い月」はとうきようないなど限られた地区にのみ現れるようで、そこから脱すれば安全だとわかったのだ。とうきようが外部から「幽離」される直前の出来事だった。

 船にはろくも乗っていた。ミソギは、乗らなかった。

 遠ざかる船に背を向けて、独り死の街へと戻っていく。

 最初の一年はほぼ地面が恋人。次の二年もひどかった。道具があるといっても、素人しろうとが性能で押し切るには限度がある。続く三年を足?あがき抜き、その先は修羅となった。海千山千の悪人を相手取り、殴られ蹴られ撃たれ斬られ、だまされてはおとしいれられて何度も地べたをいつくばり、その度に、必ず、何度でも、立ち上がった。

 火花散らす悪夢の夜が、きしうごめはがねからだが、そぎじゆうぞうを徐々に完成させてゆく。

 そして十年が過ぎ、「死神」は今──

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