形而上下

宮瀧トモ菌

第一話「野田」

 吐く息もこおる朝。こごえる人の気持ちなど忖度そんたくしない太陽は、嬉々としてまばらに浮かぶ雲で隠れんぼをしている。また、辺り一帯が陰になった。きっとお天道様てんとうさまは太陽定数分の熱を俺達に提供しない気でいるに違いない。この県は雪もめったに降らないような暖かい地域である。しかし冬休みを実家のたつで過ごした俺は、外気温の低さにまだ適応できないでいた。

 黒の学生服に身を固め、彩度と明度が共に半端な青色のマフラーを無造作に巻いた。荷物の質量に比例する力が両肩に加わる。リュックとはこんなにも重たい物だったのだろうか。

 悠々ゆうゆうと走る電動アシスト自転車に当然のごとく追い越され、高校へと続く長い坂を登って、俺は位置エネルギーを大きくしながらこう考えた。

 近親相姦きんしんそうかんが禁止されている理由の一つは、誕生する子供にある。昔、近親婚が続いた欧州貴族に多くの障害児が産み落とされたことがあったそうだ。これは、近親者は同一の劣性れっせい遺伝子を比較的高確率で持っており、子に劣性遺伝が発現しやすいことに起因する。

 以下は余談なのだが、劣性遺伝が必ず障害をもたらすわけではない。遺伝における劣性とは、劣性遺伝よりも優性遺伝の発現が優先されるという意味であり、おとった形質をになっているという意味ではないからだ。ただ、障害をもたらす優性遺伝子は比較的早くとうされるため、障害をもたらすのは大抵たいてい劣性の方になる。

 これをもう少し具体的に説明してみる。例えば死亡リスクの上がる優性遺伝子があったとしよう。この遺伝子をもっていると、それだけで他人より死ぬ確率が上がってしまうのだ。保持者は幼少期に命を落とすかも知れない。つまり、その遺伝子を未来へつなぐ確率が多少減ってしまうといえる。それが何世代もり返される内に、この優性遺伝子は自然界から消えてしまうのだ。

 議論がれてしまったが話を戻すと、注目すべきは「近親相姦きんしんそうかんを禁止せねばならないほど、人は障害をもたらす遺伝子を一般にもっている」という事実だ。俺達にもそんな形質が発現している可能性は十分にある。その上、後天的な障害まで存在するのだから、俺達には名前のない障害があると言っても過言ではない。俺達はみな、本質的に障害者なのだ。


 俺の高校は県下一の進学校。学友のこうしょうさを夢見つつ入学してからもう一年半が過ぎた。事実、俺以上のしゅうさいも少なくないが、どうやら俺が友人に求めているものは学力より高級だったようだ。いまだに質の高い話をできる友人はいない。

「『deliberately』は、『意図的に』という意味。づらから意味が分かりづらいから覚えておくように」

 教科書を片手に教師が板書をする中、俺は仄曇ほのぐもった窓ガラス越しに輪郭りんかくのぼけた冬の雲をながめていた。他の生徒は教科書を見つめたり、黒板の文字をノートに写したりしている。

 英語はあまり得意ではない。特に単語の暗記が苦手だ。本来無関係な英単語と日本語をむすび付ける行為に、冤罪えんざいを仕立てる刑事の不誠実を感じてしまう。しかしそんな主張をしたところで成績は向上しない。英単語が分からなければ、英文はさんな虫食い被害にってしまう。だから俺は余儀よぎなくいつも渋々しぶしぶと暗記作業をしているのだ。

 同様に古典も苦手である。古語と意味の間にせんの歴史こそそびえるものの、そもそも古典や漢文を学ぶ意味自体あるのだろうか。はなはだ疑問である。

 これから、古文漢文の代表的な学習意義とおぼしき以下の三つについて考えてみる。まず、古き良き精神やきょうくんきょうじゅというものがある。これは昔の出来事から学ぼうという歴史にも通底する思考ではあるが、それなら現代語訳で充分だ。古語辞典をめくりながら原文をにらむ必要はどこにも見当たらない。細かい語感をつかむためだという反論も予想されるが、なぜ分かりもしないニュアンスにこだわるのか。大雑おおざっしゅさえ理解できれば後はどうでも良いはずだ。

 次に、未知の言語を取りあつかう技能の習得。これも考えられる。しかし、これは英語でも学べるではないか。しかも英語は死んだ言語である古文漢文と異なり、世界共通語として非常に役に立つ。英語に苦戦をいられている俺としては、これ以上なぞの言語を増やさないでいただきたい。それに漢文に関しては素直に現代中国語を勉強した方が良いだろう。

 最後に、それらを専門的に扱う者達のために勉強するという意見。これへの反論は、その少数派のためにみなせいになるのはあまりにも馬鹿らしい、というくらいか。せめて選択教科にしてくれ。

 まあ、古文漢文は教養だとようされればそれでしまいな気もするが、こんな知識は一般人には無用の長物でしかない。少なくとも、物理学者には必要ないと断言する。

 チャイムが鳴った。これにて四時間目の授業は終了である。

「ここの用法、よく出るから復習するように。それと、来週までに次の章を予習しておくこと」

 教師は、昼休みの準備を始めた生徒達に呼びかけて足早あしばやに職員室へ帰っていった。校舎はまたたく間に喧騒けんそうに包まれる。かばんから弁当箱を取り出す者、他の教室へ遊びに出かける者、仮眠をとる者、きゅうけい時間の使い方は人それぞれだ。

 遊び心の一切ないカバーを着た携帯を制服のポケットから取り出し電源を入れると、通知があった。姉からだ。

『人を襲うついでに一句幽霊ゆうれいってネタ思いついたんだけど、見たい? 見たいでしょ。でもなー、実家にいないんだもんなー。かわいそうだなー。今日きょうから新学期、がんばれよ!』

 今朝けさ送ってきたようだ。全く気が付かなかったな。それにしても一句幽霊ゆうれいって何だよ。俺は姉のネタを想像して少し口角を上げてしまった。そして「残念。始業式は昨日きのうでした。またのお越しを」と返信。

「おーい、野田~」

 俺に声をかけてきたのは級友である。髪を赤茶に染めた猫目の男だ。勿論もちろん同じ学生服だが、首元のホックが外れている。ここで級友の名誉のために補足しておくと、ここの校風が身なりに寛容かんようなだけであり、別段彼が不良生徒という訳ではない。

 級友はプリントを手に持ってこう言った。

「次の授業の課題が分かんねぇんだよ。野田数学とか得意だろ? これ教えてくれねぇか?」

 教えるという行為は単に勉強するよりも随分ずいぶん身になるらしい。人に教えるのは慣れているし、俺にとって人助けは是非ぜひすべき事柄だったので、俺はこのらいを受けることにした。まあ、少々図々ずうすうしい依頼だとも思うのだが……。

「分かった。どの問題だ?」

「さんきゅ~! これなんだけど――」

 彼が指差した問題は以下の通りだ。

『次の不定積分を求めよ。∫sin³θdθ』

かんしようとしたんだけどよく分かんなくてな〜」

成程なるほど。だけど、そう考えるんじゃないんだ。単なるサインやコサインの積分は分かるだろ? まずはsin³θを一次の項のみで表そうと考えるんだよ」

「ほぉ」

「これに二倍角やせきの公式を用いると、こうなる」

 俺が三角関数の公式を用いたsin³θの変形をノートに記述していると、机の横で中腰になってのぞき込んでいた級友は「うわ、やっぱその公式覚えなきゃいけねぇのかよ」と悲痛の声をらした。

「実はそうでもない。加法定理ってあるだろ? さっきのは、それからみちびけるんだ。ほら」

 俺はノートの続きにその証明を書く。この他には、オイラーの公式――exp(iθ) = cosθ+ i・sinθ ――のるいじょうでも簡単にn倍角の公式を導けるのだが、これは高校数学範囲外だから触れないでおこう。

「つまり、導き方を覚えれば公式を暗記しなくてくなる。暗記ってのは時間との勝負になりがちな受験で確かに有利だが、公式の証明問題が出題されることだってあるから、導き方も覚えておくといと思うぞ」

「へぇ、なんかすげぇな」

 本当に理解したのか分からないが、級友は感心した様子を見せた。

「それにsin³θの積分は、きょくひょうえんちゅう座標を用いた際の慣性モーメントテンソルの計算で意外と頻繁ひんぱんに目にするんだ」

「かん、てん……? な、なにそれ」

 級友はまゆをひそめている。

 そくだったか。俺は頭上にクエスチョンマークを浮かべる級友をそのままにしておもむろに席を立ちつつ「それじゃ、俺はそろそろ購買に行くよ」と告げた。

「お、おう。さんきゅーな、野田〜」

 級友の礼をしりに、俺は教室を後にした。

 昼食を購買で済ませる人は大概たいがい、昼休みになると急いで売り場に向かい、長い列を形成する。俺は待つことと人混みが嫌いだ。だから行列に並ぶ時間は苦痛でしかない。たとえ人気商品が売り切れてしまおうとも、いた頃に到着する方が望ましいと感じていた。

 一階にりて、中庭に近い離れの購買に着いた時、人の列は数えられるほどにしゅうそくしていた。最後さいこうに並び、売れ残った惣菜そうざいパンから午後をしのぐための熱量を購入する。俺は購買の中にあるにぎやかなイートインスペースでそれらを口にした。


 午後の授業を終え、掃除の時間に雑巾ぞうきんで直角にゆかいたり、排水溝に吸い込まれる汚水に浮かんだほこりえん運動を見て「これは角運動量一定にきんできるのでは?」と思案したりしていると、すぐに放課後である。部にぞくしていない俺は、いつも図書室で物理学や数学を自主的に学ぶことにしている。のこり学習は教室でもできるのだが、クラスの連中がさわがしいこともあるので、適度に静かな図書室の方がこのましい。また、図書室には本来大学で扱う内容をじたきょうほんが蔵書され、発展内容を学習するのに好都合である。

 無論、物理学は難解だ。特に、大学物理の扱う数学は高校のそれを圧倒している。しかし、新しい事を理解した時、知らない世界を小さくした、という気が起こる。俺はその一種の快感にあこがれて、理解できるまで考えるのだ。

 それに行列や重積分、ベクトル解析やテンソル、これらを道具にできないと物理学の本質は見えてこない。例えば、高校の電磁気学では暗記するほかなかった直線電流の周りの磁場が、大学内容ではアンペールの法則の線積分を計算することで導出できてしまう。それを導いた時の感動といったら、本当に――。

「あ、あの……みません」

 突然、少女の声が静かに響いた。そのひかえめな声は、どうやら俺に向けて空気を振動しんどうさせたらしい。俺はり向いて声のぬしを目でとらえた。そこには、桃色ぶち眼鏡めがねをかけた小柄な少女が、スカートの前で自身の手を握って困り顔でたたずんでいた。髪型はフォルムの丸いボブカット、色素が薄いのか髪色は焦げ茶に近く、垂れた右目の下に泣きぼくろがちょこんと座っている。

 しかし今日は図書室が普段より静かだったからだろうか。学校で時間を忘れたのはひさりだ。外はもう真っ暗である。

「あの……もう、閉室時間、です」

 少女がぎこちなく続ける。これが俺達のみょうな縁の始まりだった。

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