第5話


 それは、ウィリアムの前に突然現れた。

 太陽のような黄金の髪に、夜明け前を思わせる青色の瞳。

 隣には夜空をそのまま切り取ったような黒髪と、月明かりのような銀色の瞳。

 神話の中でしかありえないと思っていた光景だった。

 加えて、誰より慕う兄の瞳がそんな風に見えたのは初めてだった。真昼の日差しに照らされると濃い灰色だったはずの瞳は中で綺麗に反射して格別の輝きを放っていた。

 兄は変わった。

 勉学のかたわら父の仕事を手伝う姿はおもに城の従者や衛士たちに、そして一部の貴族に少しずつだが認められている。

 アーロン神の加護を受けていないという点で、兄と自分は同等だと思っていた。我ながら酷い思い上がりだった。アーロンのもっとも愛する存在の加護を、兄はとっくに受けていた。

 なんだか兄が突然遠い存在になった気がする。

 自分の部屋にいると隣の部屋にいるアーサーを意識して、かといって図書室もアーサーが資料を取りに出入りしていてなんだか居づらい。更に言えば城内どこにいても従者や貴族がやれアーサー殿下がお優しいだの、賢いだの、お美しいだの―― そんなの俺は十年前からずっと知ってる!

 どこにもぶつけようのない思いに苛々しながら廊下の角を曲がりかけたウィリアムは、ひそひそと聞こえた囁き声に足を止めた。

「えっ、それ本当?」

「本当よぉ、こないだ侍従になったばっかりの子だって」

「信じられないなぁ、まさかアーサー殿下が――」

 しっ、と固有名詞を口にしかけた侍女をもう一人の侍女が抑えた。二人は周りをきょろきょろと見渡して、誰もいないことを確認すると再び話し出す。

「なんでも侍従だけじゃなくて衛士にも手出してるって」

「男なら誰でもいいってこと? 私の彼、大丈夫かしら」

「かえって出世できるかもよ」

 やだぁ、とはしゃぐ女達の声を、耳が受け入れるのを拒んでいる。

「誰にでも欠点ってあるもんなのね」

「そりゃそうでしょうよ、いくら完璧でもあの人、神さまに選ばれてないんだし」

 最後の一言を聞いた途端飛び出していた。ウィリアムの姿を認めた侍女たちは慌てて口を噤む。

「誰に聞いた」

 聞けば、彼女たちはばつが悪そうに目を逸らした。

「申し訳ありません」

「出どころはどこだと聞いている」

「もう二度と申しませんから、ご容赦ください」

 何を聞いても謝ることしかしない女たちに苛立ちが限界まで登り詰めた、ちょうどそのとき。

「そのへんにしてあげなさいな」

 自身の最も苦手とする声が聞こえて、ウィリアムは肩を震わせた。

「その子たちに詰め寄ったところで噂は消えてなくなったりはしないでしょう」

「…… コーデリア」

 苦々しく名を呼ぶと従姉はにこりとよそいきの笑顔を貼り付けた。

「王子の噂話なんて尚更ね。なくしたいなら、他の面白い噂話で上書きするしかないんじゃない? 例えば、そうね」

「あっ……」

 コーデリアはおもむろに侍女の片方に目を向け、その顎を白く細い指先でついとすくいあげた。

「亡くなった神の愛し子の姉は、アーサー王子に負けず劣らず女好き―― とかね」

 美しく微笑まれて二人の侍女はぽっと頬を赤らめた。

 その光景にウィリアムはぞわぞわと背筋を震わせ、二の腕を自らの手でさすった。

「―― も、もういい。仕事に戻れ」

 廊下の先を顎で指して告げると侍女たちは我に返りぱたぱたと廊下を駆けていった。

 それを見送ってからウィリアムは隣の女を横目で見た。

「お前も早く行ったらどうなんだ」

「ねえ、なにか聞こえない?」

 中庭に目を向けたコーデリアに「は?」と疑問の声を返した途端、茂みがガサガサと音を立て中心から割けた。

「えっ、あ、殿下……」

 姿を現した金髪碧眼の寵愛者は、誤魔化すような笑みを浮かべた。




 アーサー・スイフト・ベインズ。この国の第一王子である彼が、正室の子でないとフレデリカが知ったのは城に来てからのことだった。父は王子たちのことについてはほとんど教えてくれなかった。まるで必要ないとでも言うように。

 あの路地で抱きしめられたとき、熱いと思った。父や母に、乳母に、ローレンやイライザに触れられまた触れたときのような柔らかな温もりとはまるで違う、確かな熱があった。その熱につられて、ふらふらこんなところまで来てしまうくらいには、あの熱にあてられた。

 それなのに城に来てみれば、アーサー王子はどうやら女性に興味がないらしい。ならばあれはなんだったというのだろう。

 悶々と考えながら、両の手にくるむようにして抱えた小鳥を見つめる。今しがたこの中庭で巣から落ちているところを見つけた。足を怪我をしているから部屋に連れ帰ろうと思うが、果たして許されるだろうか。何せここの連中ときたらあれも駄目、これも駄目で融通が利かない。城の一番奥に押し込められ、部屋から出るのさえ許可が必要で、現に今も部屋の窓から木をつたってこっそり抜け出してきたにすぎない。ここに来てまだ半月だが、さいわい今の時間はこの先の回廊に人はほとんどいない傾向にある。

 今日もおそらくそうであろうと茂みをかきわけ、

「えっ、あ、殿下……」

その先に見えた人物に目を見開いた。

「何やってるんだお前」

「え、えーっと、散歩……」

「供はどうした」

 痛い所を容赦なく突かれて言葉に詰まるフレデリカの前で、ウィリアムの横に立つ女性が口を開いた。

「お気になさらないで、フレデリクさま。この子、大好きなお兄様の陰口を聞いたものだから機嫌が悪いのよ」

 うつくしい人だ、とフレデリカは思った。単なる造形的な美ではなく、たゆまぬ努力によって作り上げられた、指の先まで余すところなく洗練されたものがある。

「コーデリア・オーツ・ベインズと申します。…… まあ、アーサーに聞いた通り本当に可愛らしい方。男装なんてしても無駄ね」

 この人が亡くなった元次期国王の姉か。弟が亡くなって間もないであろうに、哀しみはおろか、疲れさえ感じさせず緩く弧をえがいた唇から出た言葉に思わず反応する。

「…… アーサーが?」

「ええ。彼、フレデリクさまのことがとても気に入ったみたい。―― 医務室はこっち。その子、手当てが要るでしょ?」

 言いながら公爵令嬢は廊下の先を指し示して歩き出した。フレデリカがそれについて足を踏み出すと、ウィリアムも少し悩んだ末ついてきた。

「アーサーを王配に迎えるおつもりなの?」

 あまりにも突然の問いに顔を上げると、ウィリアムも驚いたような目でコーデリアを見た。

「…… 私の一存で勝手に決められることでは」

「フレデリクさまは許された方だわ」

「フレデリカです。コーデリア嬢」

「この国にただひとり、その瞳を持って生まれた限りは受け入れるべきことよ」

 たまらず言い返したフレデリカを、コーデリアが鋭く見つめ返す。剣呑な空気にウィリアムが割って入ろうとしたそのとき「フレデリカ」と呼ぶ声がした。


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