成層圏の雷

 僕の目の前に火星23型エンジン。空冷星型14気筒、1820馬力。それがカウリングに覆われて上を向いている。真正面は見えない。

 キャノピーは開けたまま。座席は一番上。その上背伸びをして、いくらか視界がよくなる。どのみち正面は見えないから、左右の景色から推測して前に進む。そうやって心もとない思いをしながら、轟音を発して回転するプロペラに引っ張られ、飛行場の端にやってきた。広さにゆとりがある厚木基地だからまだ楽だろうと思った。

 3番機の先輩の後を追って滑走路に近づいたところで、小隊長とその2番機の2機が編隊で離陸していった。エンジンの轟音に「キーン!」という強制空冷ファンの甲高い音。深い緑のずんぐりした胴体。小さい翼。これが局地戦闘機『雷電』だ。

 ほぼ真北を向いた滑走路に入ると、風向きと風力を示す紅白の吹き流しは斜め左を向いてはためいていた。僕の右前にいる3番機がまずブレーキをリリースして滑走を始めた。そのすぐ後を追って僕もスロットルを進めた。荒っぽく振動する機体はブレーキを離した途端に前に駆け出し、座席が背中を押した。

 一瞬の滑走の後に、機体の尻が上がり、機体の鼻面の先に滑走路が見えた。

 僕が大好きな瞬間。

 機体はますます速度を上げ、開いたキャノピーから真冬の冷たい風が吹き込んだ。横風に流されないように少しだけラダーペダルを踏む。滑走路の反対の端まで十分な余裕を残して、タイヤが地面を転がる振動がすっと消えた。『雷電』はこうして空に上がった。


 すかさず脚を上げ、座席を下ろし、キャノピーを引っ張って閉じた。すぐフラップを閉じる速度に至った。機体はごく自然に上を向き、機首が上を向きすぎないように操縦桿で調整した。

 太い胴体の中の広い操縦席。そこにぽつねんとある座席に座っていた。周囲が何もかも見える零戦に比べ視界は悪い。しかし、真っ青な冬の空目指して急角度で突き進む力強さは零戦の比ではない。

 昭和2年生まれの僕らは、予科練から選別された特乙1期で、わずか200時ほどの飛行訓練の後に実戦部隊に配属された。汽車を乗りついで着任したその日に、乗る機体が割り当てられた。『雷電』だ。日本海軍の異色の局地戦闘機インターセプター。それを初めて目にした日に、これに乗れと言われた。零戦より重量感のある機体を眺め、本当に自分に乗りこなせるのか、かなり不安になった。

 しかし、離陸していきなり鋭い角度で上昇してゆく姿を見て考えが変わった。独特の形も「精悍だ」と好ましく思った。

 それまでの厳しい訓練では、およそ人間らしい扱いをされなかった。あまりに苦しく、早く戦場に出て死にたいとさえ思った。


――どうせ死ぬんだ、早いか遅いかだけでしかない。なら、『雷電』を好きなだけ乗り回して死にたい――


 気持ちがそう切り替わった頃は、既に何度か事故を目の当たりにし、『雷電』が「殺人機」と呼ばれるのを聞いた。それでもこの気持ちに偽りはなかった。

 真っ青な冬の空。からっ風を突っ切って、僕は『雷電』とともに空に昇ってゆく。この力強さ。この爽快感。ものすごい速さで低くなってゆく地面。遠くなってゆく地平線。『雷電』で離陸して、上昇する瞬間がとてつもなく好きだった。零戦を上回る上昇力。そして後ろから怒鳴りつける戦地帰りの教官もいない!


 海軍が確認した性能では、『雷電』は6,000メートルの高さに6分足らずで上昇できる。富士山よりはるかに高い高度に数分でたどり着く。機関砲と弾丸を積んだ前線の機体はいくらか性能が劣るかもしれないが、酸素のスイッチを入れ忘れると簡単に失神する高度にものの数分で到達する。飛行機を操縦しているとほんの一瞬だった。

「松山4番、長機の3番機を見逃さずついていくんだぞ。今日も訓練だと思って、無茶をするな」

 小隊長の長堀飛曹長の声が、ノイズに混じって飛行帽のヘッドフォンに響いた。松山は僕の名前。階級は二等飛行兵曹――松山陣まつやま じん二飛曹だ。陸軍の伍長と同じ。飛行機乗りでは一番の下っ端。

 この日、レーダーと監視船が太平洋を富士山目指して北上する敵の編隊を察知した。富士山から西に行くか、東に行くか。それは分からない。しかし、東に向かい、東京を爆撃する公算が少しでもある以上、厚木基地の『雷電』は出撃する。

 4機の『雷電』がいくらかの距離を空けながら、空の頂を目指して昇った。数分の上昇の後は、それほどの上昇力でははなくなった。しかし、8,000メートル、9,000メートルと高度をとってもまだ上昇ができた。敵に遭遇する前に1万メートルにまで到達した。

 眼下には、西に白く雪をかぶった富士山が見えた。左には相模湾。右には本州の険しい山々。そのさらに向こうに日本海。「太平洋と日本海が同時に見える」。配属されて先輩から聞いたそんな言葉を、僕はこの目で確かめた。

 左前方のやや遠くを飛ぶ小隊長機が翼を左右に振った。僕らは上昇から水平飛行に移り、落下タンクを捨てた。各々の機体の翼から機関砲の弾丸が何発か発射された。僕もスロットルの握把から出たレバーを握り、機関砲を試射した。ダッダッダッ! 翼の4門の20mm機関砲は無事発射でき、眼前の照準器の中で曳光弾がクロスした。

 他の小隊も各々タンクの投棄と試射を行っているだろうなと思った。同じ空の上、遠くにゴマ粒のように何機かが見えた。


 富士山の方向に敵機が見えた。一つ見つかると、次々目に入った。地平線に近い空の下辺、くすんだの霞の手前。B-29爆撃機独特の銀色の機体が、キラキラと光を反射していた。

「長堀1番、正面から直上攻撃を行う!」

 小隊長の声がして、さっきまで輝く点でしかなかったB-29はもう飛行機の形が分かるようになっていた。敵は9,000メートルで東に進んでいた。この高さは常に西から強い風が吹いている。追い風に乗った敵はほんのわずかの時間で、僕らが守る関東地方に到達する。

 僕の左前方、小隊長よりずっと近くにいる3番機を僕は見つめた。

「松山4番、訓練のとおりだ。敵が左翼に隠れたら反転だ!」

 3番機はそう無線で伝えてきた。その機体の下に白く輝くB-29がまさに近づいていた。敵機の上面からは、防御の機関銃が既に盛んに打ち上げられていた。そしてその機体が、左の翼を下にくるりと横倒しになり、上下逆になった。

 僕も、右端の敵機が左の主翼の下に隠れた瞬間に、操縦桿を左に倒した。景色は右にくるりと回り、天地が逆になった。同時に、機体は重力に引かれ、地面に向かって頭を「持ち上げた」。


 反転降下で真下を向いた僕の『雷電』の鼻先に、B-29の胴体と主翼がはっきり十字の形になって見えた。迷う時間も、照準をつける時間もなかった。僕はレバーを握りしめ、機関砲を発射したまま、敵機めがけて突進した。そして、B-29の左脇をすり抜けた。命中弾があったかは分からなかった。

 降下する『雷電』のスピードは機体の限界速度の740キロに近かった。機体の分解を防ぐためにスロットルを戻し、一方で操縦桿を引いた。遠心力がずっしりと身体を座席に押し付け、機体は徐々に水平になった。

 頭を持ち上げると、青空に4機、あるいは3機の編隊を組んだ、B-29がいくつも、東に向けて飛んでいった。

 僕は追いすがって第二撃をかけるため、エンジンを全開にした。

 エンジンの振動は激しくなったが、機体の上昇はじれったいほど鈍かった。さっきスロットルを緩めたことを後悔した。そして、十分に高度がとれる前に、最後のB-29の編隊が頭上を行き過ぎた。

「松山4番、聞こえるか? 基地に戻るぞ!」

 小隊長の無線が不意に耳に響いた。

「俺の機体が見えるか?」

 味方を見失い、1機だけで飛んでいる自分を、このとき理解した。周囲を見回しても、『雷電』はいない。機体を傾けて、下の方も探した。かなりの下方で、翼を左右に振る『雷電』をやっと見つけた。

「こちら松山4番。小隊長を視認しました。後を追います!」

 僕は無線の発信スイッチを入れて報告した。

 こうして、僕の初出撃は終わった。戦果なし。損害もなし。

 敵は高高度から工場に爆撃を行ったが、高度が高すぎる上に強風のため、敷地に命中したのはごくわずかだと聞いた。

 わずかでも、怪我をした人も死んだ人もいる。自分が何の戦果も上げられなかったのは悔しかった。


【参考資料】

渡辺洋二氏:「ハイティーンが見た乙戦隊」,『敵機に照準』(光人社NF文庫).

渡辺洋二氏:「若さの戦果」,『非情の操縦席』(光人社NF文庫).

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