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「どうしたの」

 ミドリがぼくに問うた。

「怖い夢を見た」

 彼女はそう聞くといつも通り、悪戯好きの子供のような顔で笑った。驚くほど、いつも通りに笑った。

「どうしてミドリがここにいるの」

 ぼくは尋ねた。

「サワッキーに会いたくなったから」

 彼女はそう言った。

「どうして」

 ぼくは問う。

「謝りに来たのじゃ、ないよ」

 それを聞くとぼくはようやく安心して、彼女と仲直りをした。

「ねぇ、何か音楽をかけて」

 ぼくはさっき会った時より、彼女の髪が少し短くなっていることに気が付いた。

「いいけど、レコードは一枚しかないよ」

 ぼくは欠伸をして続けた。

「君が嫌いな奴」

 相手は軽く頷いた。

「それでいいよ」

 ぼくはレコード・プレイヤーの針を持ち上げ、レコードをセットする。電源を入れるとレコードが回転を始める。溝の上に針を下ろす。

 音楽が始まった。


  君や君のお父さんにありがとうと言える程に僕は強くはないし

  夜に逃げ込んでもこの町の警官は優しくはない

  いつだったか「死ぬ時はタンボに落下して」なんて言っていた彼女はきっと

  死ぬ時には布団の上で幾つものプレッツェルを身体中に刺しているんだ

  それはこの僕が憧れた死に様で

  けれど一つ足りないのはブリキのメッキ、ブリキのメッキ

  塞ぎ込んで引き篭もって肺を病んで仕事をクビになるようなブリキのメッキ

 

  午前四時の道にセントバーナードが吠えた

  ピレネー(葡萄)が吠えた

  チクワ(別寅)が吠えた

  あの子は相変わらず舌ったらずだったよ

  何度も言うけれど君を買えるほどに僕はお金持ちじゃないから

 

  「この町の詳細地図はありますか」と言った客に僕は手描きの等高線を3万で売ったよ

  スヰミング、スヰミング、

  学校へ着く迄の道を全力バタフラヒ

  「アタシより早い兎は此の世にはいないわ」と鳴く哀しき子猫

  クイックターン、クイックターン、

  折り返し地点にはただ赤いコーン


「もういい、消そうよ」

 ミドリはレコード・プレイヤーの電源を切った。電源コードも抜いてしまった。レコード・プレイヤーは気分よく歌っていたらしく、しばらく渋っていたけれど、貯まっていた静電気を使い果たしたら大人しくなった。

 彼女はそれを見て安心したように、ぼくの方を向いた。

「私の一番最初に生まれた場所の話をね、しようと思うの」

 そう言って、ぼくの機嫌を窺うような顔をする。

「しなくてもいいよ、別に」

 ぼくは喉仏の横を人差し指で掻いた。

「じゃあ勝手にするね」

 彼女はぼくにそう告げて、勝手に話し始めた。そうだ、ぼくは彼女のこういうところが好きなのだった。

「悲しいかな。『うんこ』という単語、その言葉自体が会話の中に現れただけでそこに微笑みと恥じらいが生まれていた時代は、もはや還らぬものとなってしまったの。一度その単語が会話中、あるいは文章の中に現れた場合、人は『これは何のメタファーであるか』と考察する習性を身に付けてしまったのよ。うんこ、排泄物、それは一体『意味の無いモノ』の暗喩であるのか、それとも『一見不必要でありながら生存のためには絶対欠かしてはならないモノ』という隠喩なのか……はたまた、『任意の個人から搾り出された嫌悪すべきモノ』という揶揄なのかもしれない、そう訝るの。ちなみにここでの『うんこ』というのは、活字であれば『う』『ん』『こ』、ジスコードだと『0x2426』『0x2423』それから『0x2433』となる三文字が連続した単なる文字列に過ぎないわ」

 ここまでを一度に言って、息をつく。

「女の子がそんな言葉、はしたない、って思ったかな」

 言ってぼくに首を傾げる。

「だってそれ、君の発言の中では、単なる文字の連続なんでしょう」

 ぼくは肩をすくめた。彼女は頷いて、続けた。

「この時代はちょうど、『実践哲学』という名の矛盾が一度生まれてそのあと死んで、また生まれて、また死んだ後、つまり死んでいる状態にあるの。だから全宇宙は等しくロジックが支配していて、口から発せられた、あるいは文字として表記された言葉は、万物の行動・存在・そして思考までをも支配してしまうわけなのよ。これはわかりやすく説明すると、

『暑いー、死ぬー』

 とうめいた人間は数秒後に熱射病による脳死を迎えるし、

『うるせえこのドブスが、ぶっ殺すぞ』

 という発言の受領者の容貌は一瞬で『顔が悪い』ものへと化しまた発言者は手近な鈍器を掴んで相手の脳髄が飛び散る速度で振り下ろすし、

『ご主人たまぁ、どうかアチシと遊んでほしいにゃん』

 とのたまった者は耳とヒゲと尾が生えて猫になってしまう、ということなのよ。言葉は非常に大切な物であり、人間は自分、そして他人の発した言葉には責任を持たなければならないので、一度口外、あるいは記述した言葉を取り消すことは不可能であり、それを打ち消すような言葉を後から発しても、それは『虚構』として扱われ、現実となることはない。そのような事実から、大勢の人々がこの世界をある種の仮想現実なのではないかと推測したという共通経験を持つのだけれど、それより以前に『この世界は現実以外の何物でもないのだ!』という宣言をした一頭の馬がいたという理由により、この世界は現実以外の何物でもなくなってしまったわけ」

 そこで言葉を切り、ぼくの瞳を見つめた。

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