短編集『かいそう』

文長こすと

ジャンル:現代ドラマ

回送 ―夏の帰路、地方の犬―

 午前8時の時点で35度まで跳ね上がったその日の気温は、散歩の途中でおもむろに脱走したアホ犬さながら、一向に戻ってくる気配がない。

 おかげさまで、今夏最高気温は3日連続の記録更新。「今年最高と言われた一昨日の夏を超えて今年最高と言われた昨日の夏を超えた今年最高の夏」が今日ってわけで、ちょっと何言ってるかわからない。

 慢心することなく高みを目指し続ける今夏の酷暑に、嗚呼ばんざい、ばんざい、ばんざい――。


 そういう最悪なお日柄に、ぼくは流れ弾のように出張命令を受けていた。

 会社を出たのはお昼前だった。冷房のきいた弊社ビルの1階ロビーからしずしず開いた自動ドアの向こうへ踏み出した時、炸裂する真夏の熱射に目がくらむと同時に、まんまとぼくに面倒をなすりつけた上司の太陽のような笑顔がちらついた。

 せめてもの抵抗で、ぼくは舌打ちをひとつ鳴らしたけれど、風鈴のようには涼しくならない。


 新幹線の「のぞみ」が停まらない駅からローカル線の急行電車に乗り換えて、途中さらに鈍行に乗り換える。ざっと片道2時間少し。

 鈍行に乗ってからというもの、目的地までの乗客はぼくぐらいのもんだった。間違えて回送電車に乗ってしまったのかと本気で思ったぐらいだ。

 まぁ、つまりそういう行先なのだ。


 そうしてやってきたのは、生まれて初めて訪ねた県、生まれて初めて聞いた市の、生まれて初めて歩く何だか冴えない住宅街。何市って言ったっけ、それも当然もう忘れてる。

 確かにここは日本だけど、それまでぼくの認識の埒外にあった未知の空間という意味じゃ、アラスカや喜望峰、カラカスやバグダッドとも違わない。そう思い込むことで、これほど何の変哲もない風景でさえほんの少し新鮮に見えてくる。まぁセラピーじみたライフハックで嫌になるけども。


 そんな実質バグダッドのど田舎でぼくを待ち受けていたのは、初対面にも関わらず妙にトゲトゲしいお客さんだった。「いつもお世話になっておりまーす」と和やかな調子でオフィスを訪ねたらたちまち銃撃のように殺気立った目線で迎撃されて、ははぁこりゃバグダッドに来ちまったらしい、と即座に意識を切り替えた。


 弊社の誰かが何かをやらかして、お客さんはこうなっているらしかった。上司の太陽のような笑顔がちらついた。聞いてないぞ、あの野郎。ともかく、この人をなだめて丸めるのが今のぼくになすりつけられた使命となった。


 身に覚えのない嫌味を浴びる度、シャワーが浴びたいと思った。お客さんが怒ってる以上、頭を下げるのも多少の無茶を呑まされるのも仕方がない。ぼくたちは誰のお金でメシが食えているのか? イエス、お客さんのお支払いがあるからだ。

 だけど、何でもかんでもハイハイ聞けば、隣の島で常に業務に溺れてる技術畑のマゾ連中が本当に死んでしまう。だからガチの無茶に対しては「ならぬものはならぬ」とやんわり反撃することも必要だ。そのバランス如何で、ぼくは有能にも無能にもされてしまう。


 長丁場のタフなやり取りの果てに、ぼくはどうにか場を収め、お客さんも少しスッキリした様子で笑顔を覗かせた。

「今後ともどうぞよろしく」とへろへろの笑顔で握手して、訪問先の小さなビルから煙のように退出する頃には、定時を優に突破してほとんど夜になっていた。



 そうしたら。


 今なお茹だる日暮れの熱風がさざめいたその先に、ただのどかな日本の町の夏が広がっていることに、今更ながらぼくは気づいたのだ。

 ぬるい風が吹いた。その風からはぼくの記憶のどこにもない匂いがする。

 弱々しい街灯がまばらに灯り、ぼんぼりみたいに控えめに辺りを照らし始めている。

 きっとこれが、この何の変哲もない田舎町の、地上でここにしかない夏の景色ということなんだろうな。



 帰りの駅まで徒歩12分、夕闇に沈むこの道を真っ直ぐ歩けばいいとWorld Wide Webが教えてくれていた。

 進む道の右手にはフェンス越しにローカル線の線路が敷かれ、左手にはおんぼろ一軒家が防壁のように居並んでいる。その狭間に許された幅員6メートルの道路空間をよたよた歩いていくと、道脇の自販機が目に留まった。どんよりと薄暗い町並の中、そいつのディスプレイ照明は場違いなほど張り切っていて、強烈な白光を放っているのが視覚的に眩しい。


 ぼくは名もなき蛾のように自販機の光に吸い寄せられ、100円を入れた。筐体は直ちにぶるっと震えて、コーラの真っ赤なロング缶を吐き出した。

 ほてった額に、缶を押し当てる。未だ緩まず高止まりする気温に、べたつく脂と汗の三重層が膜のようにぼくを包んでいたけれど、アルミニウムの冷え切った感触はコンマゼロ秒でそれを突き抜けた。今日初めての爽快な感触に、うう、と呻き声が抜けていく。


 舗道の境目のこんもり盛り上がった縁石に腰を下ろし、地べただろうが構わず、鞄もそこらに放り投げた。そんな不良みたいなみっともなさも、何だか爽快で心地いい。

 何せ、ぼくはくたびれた。最悪に暑い夏の中、見知らぬ町に派遣され、自分のせいではないことでいびられて、しかし不貞腐れずに仕事を完遂してやったんだ。誰もいない道の端にちょっと行儀悪く座るぐらい、いいだろう。


 ええい、よれた背広も脱いでやる。ネクタイもだ。ぼくはこんなもんまとって生まれてきたわけじゃない。

 のみ終わった煙草を捨てるようにはぎ取ると、肩や喉元がすっと軽くなる。決定力に欠けるごてごての兵装を外して必殺の格闘戦に移行する機動ロボットのように冴えた気分だ。

 右手のコーラの冷たさとその重みだけを感じながら、軽くなったぼくの首は自然と上向き、星の瞬き始めた空を眺めた。


 不思議なもんで、これほど熱に頭をやられても、これほど擦り切れた生活にうんざりしていても、最後にぼくが見るのは空なのだった。

 何処で見たって、何時見たって、空は同じようにきれいで、同じようにつまらない。5秒も眺めりゃ飽きてしまうのに、5分も経てばまた眺めてしまう。

 生まれた土地を離れて数年経ち、昔のこともずいぶんどうでもよくなっていたが、この癖に気づくたびに、自分の在り処を思い出すような気がしてしまう。


 そんなところへ不思議なキャストが現れた。


「わん!」


 1匹の赤い首輪のついた若い柴犬が、車道の真ん中からそのまん丸な瞳でぼくを見て鳴いた。

 なんて素朴でかわいらしい生きものだろう。再び太陽のような上司の笑顔と、訪問先のお客さんのしかめっ面が脳裏によぎった。うん、今日初めてちゃんとした生きものを見た気がするな。

 ぼくは自然ににこりと笑って、柴犬に手を振った。

 柴犬もにこにこ笑ってロールパンみたいなふかふかの尻尾を振り振り、ご機嫌でぽてぽてと車道の真ん中を歩いていった。


 そういや飼い主がいないな、なんて思っていたらちょっと離れたところから「あーっ! どこ行ってたの!」なんて女の子の怒った、だけどちょっとだけ嬉しそうな叫び声が聴こえてきた。

「どうせお腹空いて帰ってきたんでしょ! アホ犬っ!」

 大きな声でそこまで言ってやるなよ、と苦笑してしまったが、「わん!」と嬉しそうな鳴き声が聞こえたのでよかった。


 なるほど、脱走した帰り道だったのか。せっかくお節介そうな飼い主を離れて羽を伸ばしていたんだろうに、やっぱり腹が減っては所詮自由もさしたる価値はなし、か。

 まぁ、元気でやってくれや。ぼくは缶を開けて、コーラの刺激と甘味で舌を洗った。



 さて、この旅はこれでおしまいだ。ぼくも自分の家に帰ろう。あのワンちゃんみたいに。

 立ち上がったぼくの横、線路側のフェンスとイネ科の雑草群の向こうを、回送電車がスキップするように通り過ぎていった。

 今通って行ったのは、確かに本物の回送電車だった。



「回送」――その言葉の意味をふとWorld Wide Webに訊ねてみて、ぼくはふっと笑った。

 案外、いい言葉じゃんか。




―了―

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