第13話 赤毛のゾロ

 ジェレミー先生の家は駅の裏側の細い道にあった。二階建て木造モルタルの、ごく平凡な単身者用のアパートだった。


 中に入るとすぐに台所があって、その奥にはふたり掛けのソファとテレビとテーブルと、僕と同じような勉強机が全部いっぺんに置いてある六畳。隣の部屋をのぞくと敷きっぱなしの布団とラックにかかった大きな背広が見えた。

 多分カナダの風景であろう、大きな湖の写真のポスターが壁に貼ってある以外は、先生の趣味を匂わせるものは特に何もなく、僕はカナダ風(それがどんなものか分からないけど)の部屋を期待していたので、なんとなくがっかりした。


「わびしい独り暮らしさ」

 寒々しくベランダに置いた洗濯機の中に柔道着をドサッと突っ込んで先生が言った。

「だいたい週末は道場に行ってオムライスを食って家に帰って漢字の勉強をする。そんな感じ」

「柔道は日本で始めたの?」

「いや、カナダにいた時からやってた。昔から日本のファンでね。日本の文化を色々勉強したよ」


 机の上には辞書や英語の教授法の本なんかが何冊も並んでいる。この人は英語の先生だったんだと今さらながら思った。積み重なった漢字ドリルの奥には写真立てがふたつ置いてある。そのうちのひとつには、二人の少女に挟まれて幼い少年が写っていた。


「これは五歳の時の僕。横にいるのは僕の姉さんたち」

 いつの間にかそばに来ていた先生が言った。

「かわいいね」

 少年は赤毛で、はにかんだ顔をしてまぶしそうにこっちを見つめている。

「まさかこんなに大きくなるとは思わないだろ」


 もうひとつの写真には初老の男性と女性が並んで笑っていた。

「それは僕のパパとママ」

 目を細めて写真を見つめる。

「二人とも今年で六十歳になるんだ」


 先生の声にかすかな郷愁が混じっている気がした。祖国を離れ、家族と離れ、この人はこんなにも遠くの国にいる。


「あれ?……これは……」


 僕は机の上に置いてあった十センチぐらいの人形を手に取った。プラスチックのその人形は、黒いブーツを履き、黒いマントをつけ、黒いつば広の帽子をかぶって黒いマスクで目を隠した、全身黒づくめの男だ。そこだけ赤いサッシュベルトを巻き、片手で剣を振りかざしている。


「これ、ゾロでしょ」

「知ってるのかい?」

「知ってるよ。カルナヴァルの時に仮装してる男の子がたまにいたもの」

「ああそう。まあ当然だな。このコスチュームは男の子ならみんな憧れるはずだもの。これはね、僕のヒーローなんだ」


 ……僕は憧れたことないけど。どっちかっていうと、目の上を青く塗って、口紅をつけてみたかった。それで、シンデレラみたいな青いドレスを着て──なんて、そんなこと、絶対言えない。


 先生は顔を寄せてフィギュアをしげしげと眺めた。すぐそばに先生の呼吸を感じて、なぜだか僕はドキンとした。

「……でも、ちょっと古いよね」

 妙な緊張を紛らわすためにわざとからかうような口調で言ったら、先生は心外だという顔をして僕を見た。

「古くなんかないよ。ゾロは永遠のクラシックだ」

 あまりにも真顔で言うので僕は笑い出した。先生は僕の目の前でチッチッと人差し指を振って、

「笑っちゃいけない。どうせ君は観たこともないんだろう」


 隣の部屋に引っ込み、なにかゴソゴソやってたかと思うと、ビデオカセットを持って出てきた。


「今からビデオ鑑賞会だ。君にゾロの魅力を分からせてやる」

「へえ?」


 強制的にソファに座らされ、僕は大人しく「快傑ゾロ」の第一回目から見せられることになった。


 想像した通りの勧善懲悪チャンバラ活劇ってやつだ。分かりやすすぎる展開とお決まりのパターン。ゾロが剣先で残す「Z」の刻印。もう笑っちゃうぐらい簡単なんだけど、僕は退屈だと思わなかった。隣に腰かけた先生がご機嫌で登場人物をあれこれと説明してくれるのが楽しかったし、ゾロが黒いマントをひるがえす姿はどんなにキザでクサくてもやっぱりかっこよかったから。


 先生はカナダから送ってもらったというメープルシロップ入りのビスケットを出してくれた。コーヒーを淹れて、僕の牛乳の中にもほんの少し垂らしてくれた。僕たちはほんのりと甘いメープルシロップのビスケットを食べながら、何本もゾロのエピソードを観た。



「コーイチ、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか」


 五時ごろだったろうか。そのひと言で我に返った。急に現実に引き戻されたような気がして、ふいに淋しくなった。


「うん。帰る。……先生、ありがとう」

「ジェレミーでいいよ。今はプライベートの時間なんだから」

「……ジェレミー」

 先生はにっこりと頷いた。

「よし、いい笑顔だ」


 玄関でジェレミーは僕の肩を両手でわしっと掴んだ。そして僕の両頬にキスをした。

 あ、誤解のないように言っておかなきゃ。これはビズといって親しい者の間でするヨーロッパ式の挨拶だ。お互いの頬を軽く触れるようにして音をチュッと立てるだけ。本当にキスしてるわけじゃないし、男同士でも女同士でも既婚者同士でもやる。ハグみたいなもんだ。

 頬に触れたひげの感触がくすぐったく、ほんのりと漂った男の匂いにまたちょっとドキンとした。


「じゃ、明日、学校でね」

 そう言われて初めて気づいた。そうだ、明日もこの人に会えるんだ。

 ふわっと心が浮き上がった。



「お帰りなさい。遅いじゃないの、どこ行ってたの? お昼はどうしたの?」

 家に帰ると母がしかめ面をして僕を見た。

「友達んとこに行ってた」

 そう、友達んとこ。嘘じゃない。

「何ニヤニヤしてんのあんた。気持ち悪いわねえ」

「別に」

 日本一のオムライスをごちそうになったんだよ。一緒にメープルビスケットを食べて一緒にゾロを観たんだよ。帰り際にはビズをしたんだよ。とは、言わなかった。

 

 その夜僕はゾロの夢を見た。ドアから見送ってくれたジェレミーの赤い髪とビデオの残像が一緒くたに混ざって、出てきたのは大柄な赤毛のゾロだった。

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