第7話 お前が恋しい
期待していなかっただけに、エミールからのクリスマスカードは僕の胸を久しぶりに喜びでいっぱいにした。急いで階段を駆け上がって部屋で丁寧に封を切った。
カードには、
『コーイチ、
そっちは順調か。コレージュの最終学年は忙しい。噂どおりコラン先生は宿題の鬼だ。先月ポールの家の猫が死んだ(享年二十二だって)。
クリスマスはいつも通り親戚一同ノルマンディーで過ごす(絶対リセの話になるからめちゃめちゃ気が向かないけど)。
そっちの様子教えてくれよ。元気だったらいいけど。
お前が──』
その続きで視線が止まった。そこには " Tu me manques. " と書いてあった。
『お前がいなくてつまらない』
『お前に会いたい』
『お前が恋しい』
どれでもいい。どうとでも訳せる。
でも僕は一番最後の意味だと思いたかった。お前が恋しい、と。
エミールのベッドが頭によみがえる。枕にしみついた汗の匂い。背伸びして大人の真似事をしていた時間。心の隅で感じていた罪悪感さえ興奮剤のような役目を果たしていた。
彼は僕と同じ種類の人間じゃない。つまり本当は女の子が好きなはずだ。それでも僕とそういうことをしてたのは、手っ取り早く性欲のはけ口になったからなのか、僕を女の子代わりにして(本番のための)練習台にでもしたかったのか、それとも多少なりとも僕に好意があったのか。
その辺はよく分からない。なんたって相手は宇宙人のようなエミールだ。終わった後は何事もなかったみたいにパンツ一丁で並んで宿題をする。あっけらかんとしたものだ。
僕は彼に対して恋愛感情は持ってなかった。好みのタイプではあったけど、むしろ友達のままでいて、都合のいい時だけ気持ちよくしてくれればよかった。
要するに、僕の方でも彼をはけ口に使っていたってことだ。そこにはベタベタした気持ちはなかったはず。
だけど、いざ離れてみると、そしてこの抜け出せない毎日のルーティーンを繰り返していると、だんだんあの数か月間のことが幸せな時期だったんだと思えてきた。どうでもいいことしか話していないのに、カードに書かれたエミールの文字を見ていると、じわじわと締めつけるような感傷がわき上がって、胸が痛くなってくる。
──お前が恋しい。
それは僕のセリフだった。全部彼に話したい。聞いて欲しい。机に向かうとボールペンを握り、レポート用紙に思いつくまま書きなぐった。
『エミール、
ここの生活はクソだ。僕は逃げられない監獄に入った終身刑の囚人だ。あるいは動物園の檻に入れられてプラスチックのごみを食えと投げつけられる猿だ。どいつもこいつもクソ野郎だ。僕はガイジンだ。エスカルゴだ。みんな僕をそう呼ぶんだ。僕は背中に背負った小さな家の中に隠れて、息をひそめて一日がなんとか無事に終わってくれるのを待っている。(でも無事に終わるなんてことはめったにない。)
こんな生活は知らなくてよかった。夏休みに何週間か東京のおじさんの家で過ごしてるだけの日本がよかった。この町は嫌い。この町の住人も嫌い。みんな死んでしまえばいい。
僕の親は勉強のことばかり気にかける。僕が学校でどんな目に遭ってるかなんて知らないから。でも今さら何の相談もできないよ。お父さんは家にいないし、お母さんにこんなこと喋ったら絶対心配するし。こないだ五千円取られた時も、僕が失くしたと勘違いしてお母さんは怒った。取られたなんて言えなかったんだよ。なんかもう、何も言えなくなっちゃったんだよ。
勉強はしんどい。数式や元素記号は分かるのにそこに書いてある日本語が分からない。日本の歴史上の人物なんて知らない。名前も読めない。でも僕は手を挙げて先生に質問しちゃいけない。目立っちゃいけないから。授業中だって息を殺してじっとしてなきゃいけないから。もちろん先生だって何も知らない。
なんで僕だけこんな風になるんだろうね。諒二なんかクラスの人気者だよ。毎日はしゃいじゃってさ、学校に行くのが楽しみでしようがないんだ。フランス帰りだってみんなにちやほやされて、早速友達の誕生日に招ばれてんだよ。僕も小学生ならよかった。
毎朝おなかが痛くなる。あの門を通らなきゃいけないと思うと吐き気がする。あれは地獄の門だ。覚えてる? 美術の時間にみんなでロダンの美術館に行ったろ。あの地獄の門。本当の地獄の門ってのはね、あんなに芸術的じゃないんだ。もっとエグくて、もっとドロドロしてるんだ。僕は呼吸が乱れるのをなんとか落ち着けながら、毎日その門を通るんだ。
でももう嫌だ。
エミール、助けて。僕はどんな人間だったっけ? もう分からなくなった。思い出させて。
僕は、お前が恋しい。
すごく、お前が恋しい。』
それからエミールのことを考えながらマスターベーションをして寝た。
翌朝、手紙を読み返して恥ずかしくなった。こんなものは送れないと思った。それで、はがきに短く、『僕も元気です』と書いて、その下に小さく、
『 Tu me manques aussi.(僕もお前に会いたいよ)』と付け加えた。
今考えると、あの手紙、送ればよかったのかも知れないな。
その後エミールから音沙汰はない。きっと彼女ができて、僕のことは黒歴史としてひそかにクローゼットにでもしまったのだろう。
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