第5話 おきまりの展開

 さきに言っておくけど、これはただの回想録だから、自分の話せる範囲だけを話す。僕がどんな「いじめ」に遭ったかを取り上げて、逐一話すつもりはない。第一そんなことをしたら僕の方が参ってしまうから。

 年を経て客観的なところから眺められるようになった今でも、その頃のことは心の奥でずっしりと鉛みたいな色をして淀んでいる。そして忘れたころに津波みたいにうわあっと僕の記憶を揺り動かすんだ。その夜はもう眠れなくなる。


 思えば色んな理由は考えられる。

 例えば僕がどのグループにも属さなかったこと。クラスには利害関係で結びついているようなグループが幾つもあった。こいつと仲良くしていれば得をする、みたいな。そのうちのひとつに勧誘されたけど、僕は友達ぐらい自分で選びたかった。それがお高くとまっていると思われたらしい。

 あと僕が和仏辞典を持っていたこと。これは必需品だった。でもやっぱりフランス語をひけらかしていると思われた。それから授業の終わり頃でも手を挙げて質問したこと。これは空気が読めないと言われた。こういうことを挙げ始めればいくらでもある。


 だけどそんなことはどうでもいい。理由なんて要らないのだ。憂さ晴らしをする対象がいればいいというだけの話だ。そいつが嫌われる理由なんか後でいくらでもつけられる。たまたま僕がその対象になっただけ。


 僕は日本のを知らなかった。「シカト」とか「カツアゲ」とか、そんな言葉は日本で初めて覚えた。いっそ帰国子女のために、日本での生き残り術とか日本語のスラング集なんて本を出したらどうかな。お正月だの花見だの七五三だのなんて文化を理解させるよりよっぽど役に立つと思うよ。


 僕に対する嫌がらせは日に日にエスカレートした。僕は下らない連中の相手などしないつもりだった。これはきっと帰国子女の通過儀礼だと思うことにした。いつか終わるし、騒ぎ立てるほどのことじゃないと。

 だけど、だんだんシャレにならなくなった。


 僕はいじめられっ子なんていう言葉は嫌いだ。そんな敗北者みたいな称号は与えられたくない。僕はいじめられてなんかいない。ただ誰も僕と口をきかないだけ、ただ意味不明の嫌がらせをされるだけ。そして時々無理難題を押しつけられるだけ。

 一度五、六人の男子につかまってコンビニに連れて行かれたことがある。エロ本を万引きしろと命令されて逃げ出したら、あとで体の見えないところにいくつもアザをつけられた。学生服が破れてるのを母に見つかって、サッカーをしたんだと咄嗟に嘘をついた。ほかにも、給食、上履き、教科書、いたるところに色んながしかけてあって……。


 もうやめよう。また眠れなくなってしまう。

 


 結果から言うと、編入してから二カ月ほどの間に、僕の体重は五キロ落ちた。何も知らない親父は僕の頬骨の浮き出た顔を見て精悍になったと言って笑っていた。フランスにいた頃はほとんど定時に帰って来ていた親父は、帰国するとすっかり日本のお父さんになってしまった。毎晩のように付き合いがあり、日曜日はゴルフか昼寝。一緒に晩御飯を食べることはめったになかった。


 母はフランスにいた頃より五歳ぐらい若返った。東京じゃないにしてもよっぽど日本に帰れたのが嬉しかったのだろう。あれだけ嫌っていたパリ生活をエサにしてすぐに地元の住民と仲良くなり、何かというとパリではこうなのよとパリ風を吹かせていた。フランス語もまともに覚えようとしなかったくせに。フランス人は意地悪だと悪口ばかり言っていたくせに。


 諒二は相変わらず元気だった。こいつはフランスでの生活など遠い昔のように日本語しか喋らなくなった。僕は諒二となら家の中でもちょっとはフランス語を話せるだろうと期待していたから、まったくあてが外れた。七歳児の順応力というか変わり身の早さは憎らしいぐらいだ。


 僕は家族に合わせて帰国生活を頑張っている長男を演じていた。勉強はつらくなる一方だったけど、塾に行くことだけは拒んだ。大丈夫だから、自分のペースでやりたいからと言って両親を納得させた。本当は塾になんか行ったらまた学校の連中と顔を合わせてしまうからだ。


 ひとりで机の前に座って勉強していても、いつも頭の中には黒い霧が立ち込めていた。どんよりと、ぼんやりとして、それはこの町の空の色と同じだった。いつしかノートをとる手を止めて、僕はパリの生活を思った。卒業まで一年だけ残して去ったコレージュを思った。そしてもうひとつ、中途半端な気持ちのまま残してきた友人を思った。


 その頃はSNSなんてものが普及してない時代だったし、中学生が携帯を持つなんてこともない時代だったから、フランスの友人とは僕の引っ越しを機に連絡が途絶えてしまった。連絡を取ろうとするなら、それはまだ手紙ぐらいしか方法がなかった。

 僕はエミールにだけ日本の住所を教えた。手紙をくれるだろうとは期待もせずに。


 そしたら、クリスマスあたりに僕宛てに一枚のカードが届いた。

 エミールからだった。

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