第16話 被害者

お客さんにキレられるとへこむ。

いや、へこむのとはちょっと違うか。

明らかに自分の落ち度ならまだいいが、キレられる理由のほとんどが、ほんの些細ささいなことだ。

煙草を買ったお客さんに年齢確認ボタンを押すようにお願いしたらキレられたりとか、お箸をお付けしますか? と訊いたら「箸が無かったら食えんだろ!」とキレられたりとか……。

なんで俺、こんなことで叱られてるのかなぁ、なんて思って、それでも「申し訳ありません」を繰り返して、何だか泣きたくなってくるのだ。

いま怒られてるのは何でだっけ?

あ、そうだ、煙草を頼まれたけれど、どれか判らず番号を尋ねたからだ。

なんせ二百種類以上の銘柄が置いてある。

しかも新商品が頻繁に出てくるし、その度に置き場所も変わるし、何年も勤めていたところで憶えきれるものではない。

煙草を吸う穂積ですら主要な銘柄の位置しか憶えられませんと言っていたから、煙草を吸わない俺にとっては難易度が高い。

更に略称で注文してくるお客さんもいて、新人にとっても最初の難関と言える事柄になっている。

「お前が店員だろ! 店員だったら憶えてるのが当たり前で客に訊くのはおかしいだろ!」

「申し訳ありません」

「客に探させるってどういうことだ? ああ?」

さっきから同じようなセリフを何度も言われている。

キレる客の特徴として、話がループするというのは店員の間では定説だ。

怒鳴られる、謝る、怒鳴られる、謝るの繰り返しになる。

謝罪を一回で受け入れてスマートに帰る、なんてことは、まず無いと言っていい。

そもそも、そんなスマートな人は最初からキレない。

「以後気を付けます。申し訳ありませんでした」

もう何度目か判らない謝罪の言葉を口にしたとき、いつの間に来ていたのか、詩音が店内にいてこちらに向かってくるのが見えた。

俺は目で「来るな」と伝えるが、詩音は構わず近寄ってくる。

「おじさん」

詩音は物怖ものおじせずに、キレている客に話し掛けた。

「お、おい!」

「なんだぁ!?」

キレた客は、当然のように声を荒らげるが、振り返った先にニッコリ笑った女子高生がいたものだから、明らかな戸惑いが表情に表れる。

「あっし、早く帰らなきゃいけないから、レジ開けてほしいんだけどぉ」

すげぇ、「きゃるーん」って感じの効果音が聞こえてきそうなくらいの、媚媚こびこびの仕草と声だ。

「と、隣のレジが開いてるだろ!」

オッサンは怒鳴りつつも、それはもはや虚勢にも見えるものに変わっていた。

「あっちの店員さん、いっつも私をエロい目で見てくるんで困ってるんですぅ」

とばっちりを受けないように隣のレジから一歩も動かずにいた穂積が、胸を射抜かれたような仕草をした。

キレていたオッサンが、にわかに正義漢に成り代わって穂積をにらみ付ける。

「確かに軽そうでいやらしそうな顔した男だな。間違いなく性根しょうねが腐っとる」

穂積は泣きそうな顔をして、力なくその場にうずくまった。

いや、さすがに穂積もアンタに言われたくないと思うぞ。

「もう遅い時間だから、ネエちゃんも気をつけろよ」

正義漢だったのは一瞬で、今度はただのエロオヤジに成り下り、好色そうな笑顔を詩音に向けた。

「はい! ありがとうございますぅ!」

「じゃあな」

キレていたオッサンは、機嫌良く店から出て行った。

……おい、オッサン。

お前の怒りは全く無関係な女子高生の笑顔で霧散むさんするものだったんかい!

……まあ判っている。

キレる客の大半は、日頃の鬱憤うっぷんを晴らしているようなもので、大した理由など必要ないのだ。

きっかけさえあればキレるだけのこと。

だから、きっかけさえあれば怒りも収まるのだ。

とは言え、納得できるものではないが。

「詩音」

俺の声は少しかすれていた。

いつでも詩音と客の間に入れるように身構えていたが、必要以上に身体に力が入り、緊張もしていたらしい。

「じゃ、じゃあね田中っち」

え? おい!

なぜ逃げる?

俺は詩音の腕をつかんだ。

「ひゃん!」

ちょ、コラ、なんつー声を上げるんだ。

驚きと甘さを含んだ声色なので、まるで俺が胸でも揉んだかのようではないか。

しかも頬を赤らめてうつむいている。

「詩音、どうした?」

「ど、どうもしてないし?」

週に二回は店に来る詩音が、この一週間、顔を見せなかった。

亜希といい詩音といい同じタイミングで来なくなりやがって、仕事ははかどるけどちょっと寂しいじゃねーか、などと思っていたのだ。

それが、やっと顔を見せたと思ったら様子がおかしい。

あまり目を合わせないし、いつもの元気が無い。

「まあ、取り敢えずはお礼を言っとく。ありがとう」

「べ、べつに、何てことないし……」

「ただ、上手くいったから良かったものの、ああいう危ないことは二度とするな」

「危なくなったら田中っちが助けてくれるし」

「俺が危なくなったらどうすんだ」

「あ、あっしが助けるし」

「お前が危なくなったら……」

……これ、無限ループするやつだ。

「とにかく、今度あんな場面に出くわしたらスルーしろ。でなきゃ入店禁止にする」

「ば、ばっちゃは人助けをしろって言ってたし」

「ああいう場合、何もしないでいてくれた方が俺は助かる」

今回は詩音に助けられたけど、俺は怒り狂うと自分を制御できる自信が無い。

もし詩音に何かあったら、葉菜のときみたいに──

「田中っちが……そう言うなら」

判ってくれたようだ。

「で、どうして元気が無いんだ?」

「元気が無いっていうか……先日トイレに置いてったアレ……」

「あ、アレがどうした?」

「田中っちがアレを使ってくれてるのかと思うとメッチャ恥ずくなってきちゃって……田中っちの顔が見れないよぉ」

「使ってるの前提かい!」

「え?」

なんだその変態を見るような目は。

普通は逆だろうが。

「あっし、そんなに魅力ない?」

目をウルウルさせた仔犬みたいな顔になる。

「お、お前に魅力があってもブラに魅力があるとは限らんだろ」

途端に、尻尾を千切れんばかりに振り出した。

いや、尻尾なんて無いけど。

「じゃあ田中っちの好みのブラを教え──」

「ちょ、あんたら二人でラブラブしてないで、俺の気持ちも考えてくださいよ!」

穂積のなげきが店内に響いた。

今回の一番の被害者は、穂積だったのかも知れない。

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