桃林羨道

バニラダヌキ

第一章 桃花縁《とうかえん》



    あの頃何かが一度こわれたっけな

    蛇口だったか 世界だったか わたしだったか


     ―小長谷清実こながやきよみ・作 『おやすみなさい』より引用―



               ◎



 あれからもう何年が過ぎたか――。


 春の午後、妻の実結みゆいと並んで丘の上の小公園に立ち、眼下に広がる満開の桃の林、そしてその彼方で町と内海を隔てる白い防潮堤を見渡していると、慎一はいつも、こんな詩の一節を思い出す。


   あの頃何かが一度こわれたっけな

   蛇口だったか 世界だったか わたしだったか


 戦前、あの二二六事件の少し前に生まれ、平成二十九年の冬を待たずに亡くなった老詩人・小長谷清実こながやきよみ――彼がうたった『おやすみなさい』の一節である。

 収められていた詩集は『小航海26』。

 小長谷氏がその詩集で、詩壇の芥川賞と呼ばれるH氏賞を受賞したのが昭和五十二年、ちょうど慎一と実結みゆいが結婚した春だったから、ことさらよく覚えている。


 当時、慎一が勤めていた海辺の公民館では、土曜の午後に町の本好きたちが集まり、ささやかな朗読会を催していた。そこで慎一自身が朗読し、実結みゆいがピアノでショパンの『トロイメライ』を伴奏してくれたのだから、なおのこと忘れようがない。


 木造校舎の教室を思わせる公民館の一室、あの午後も、西の窓には日本海に繋がるいだ内海うちうみ、東の窓には桃の林を縫って緩やかに丘に続く坂道と、丘の上の小公園が見えた。



          ◎



「『部屋のすみ ドアの前の流し台から

  聞こえてくる音 おやすみなさいおやすみなさいおやすみなさい』――」


 慎一が朗読を終え、実結みゆいのピアノの余韻が消えると、十数名の老若男女から、お世辞まじりの拍手が起こった。

 素人っぽい朗読にはお世辞の拍手、情感あふれる伴奏には真摯な拍手。

 それでも点字図書や大活字本に親しい常連たちからは、慎一の朗読そのものに対する純粋な拍手も、少しは混じっているはずだった。


「小長谷さんの作品は、現代人の不安や孤独をうたったものだから、慎一のたどたどしい語りでも、なんとかそれらしく聴けるね」

 おしゃべり好きの松澤医師が、恰幅かっぷくにふさわしいバリトンで言った。

「ピアノのほうは、最初はちょっとメロディーが合わないような気もしたんだけど、最後まで聴いていたら、子守歌みたいで救われた気分になった。たぶん実結みゆいちゃんの選曲だろう。慎一本人が選んだら、きっと不協和音みたいな、ミエミエの現代音楽を流す」

 松澤医師は慎一よりひと回り年長だが、昔から何かと縁があり、お互い歳の離れた兄弟のように遠慮がない。他の皆もそれを知っているから、内輪の冗談として屈託なく笑っていた。人前ではあまり笑わない内気な実結みゆいも、恥ずかしそうに頬を染めて笑っていた。


 その後、松澤医師自身が漱石の『夢十夜』を何夜か抜粋して朗読し、実結みゆいがシューマンつながりの小品をいくつか伴奏して、その日の読書会は終了した。

 解散後、実結みゆいは夕飯の支度したくのため先に車で帰り、慎一は公民館の後片付けや戸締まりで、しばらく職場に残った。

 そして、そろそろ自分も帰ろうと慎一が勤務日誌を閉じたとき、机の黒電話が鳴ったのである。


 実結みゆいが玉突き事故に巻きこまれて松澤病院に搬送された――そんな警察からの連絡だった。

 交差点で信号待ちをしていた車列に、大型トラックがノーブレーキで追突したという。


 すぐに呼びつけたハイヤーは、病院に直行するため事故現場を迂回したので、慎一は現場の惨状を見ずに済んだ。

 実結みゆいの車が軽のボックスカーだったことを思えば、見なくて幸いだった。

 アルミ缶のようにひしゃげた車体を先に見ていたら、慎一は正気を失ったかもしれない。




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