【セカンド・ロティシヨン(2/2)】
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微量な増加、それもたった二一g。
ただそれだけの変異だというのに、ゾーイの精神汚染は異常なほど深刻だった。
覚醒すると同時に奇声を発し、泣き叫び、暴れだし、自傷行為を繰り返した。
何度となく鎮静剤を打たれ、その都度四肢の義躯を安全な物に取り替えられた。体幹の物理的検査は成されたが、異常は先の増量のみ。
結果、処置は逐次棚上げされ、ゾーイは誰にも相手にされないまま長い時間を何処とも知れぬ独房で過ごした。誰からの助けもなく、話しかけられる事もなく、ただ怠惰な時を過ごしながら、時折訪れる暗い心の影に脅えていた。
その胸中をS.S.Sが知ることは無かった。
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実のところ、S.S.Sは忙しかった。
後発の部隊にゾーイが回収されたそのとき、彼女は脱出に使用された機棺の中で膝を抱えていた。内部の
ゾーイの鎧脊は接続ジョイントを含む外殻がすべて外されており、同様に機棺の通信機器も殆どが取り外されていた。唯一残された電子機器、外部にテープ止めされていた発信器が最初に作動したのは、ゾーイが行方不明になってから百時間近く経過してからだ。それまでに機棺は当初の着水地点から百kmも南に漂流しており、近辺の海岸を何遍も往来していたことになる。
当然不審に思ったS.S.Sは回収作業を慎重に進めたが、案の定これも策の内だったようで、作業艇を二隻と母機に当たる小型潜水艇を一機失った。艦の奪還作戦も検討されたが、海溝に潜水されたためコストパフォーマンスが跳ね上がった事を理由に見送られた。結局ゾーイと機棺が正規部隊に回収されたのは、事件から約一週間以上後の出来事となった。
他にも理由がある。先遣部隊を積んだ全翼機の撃墜により、S.S.Sは仮想敵への警戒レベルを最大限まで引き上げた。陸上部隊で使用可能な火器と重機の大多数をかき集め、三個師団相当を第二次侵攻作戦に費やした。ペイロードに掛けるコストは破格の値をたたき出し、それまでのS.S.Sでは考えつかないほど
しかしそこには巨大な
三個師団分の資材を運び出すために費やされたあらゆるコストが徒労に帰した。駐屯させるにも再稼働させた資源プラントの規模で部隊の整備維持を行うのは絶望的で、帰投計画は予想以上に困難を要した。幾つかの小規模部隊が搬送中に
これらの失態を受けてS.S.Sは、相対的にエージェント・アンジェリの再評価を下した。だが皮肉にもその失態を招いたのは彼の
今、S.S.Sは誰もが危惧した
そういった経緯もあって、S.S.Sによるゾーイの処理はさらに数週間棚上げされた。
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ここからはゾーイ自身の話になる。
ただし、これらの過程をゾーイは完璧に把握できてはいない。殆どは闇の中で時折現れる黒髪の少女の幻影に脅える間に、暗中模索しながら導き出した。おぼろげに掴んでは、幾度となく捨てていった
その過程と心象の大多数をS.S.Sは感知せず、全てはゾーイの胸中にのみ存在している。
そのときゾーイは暗闇の中で目覚めた。
不思議なことにゾーイはその当初、培養槽の中を思い返していた。ほどよい暖かさや肌の心地、一切の
ARは起動せず、辺りがどの程度の広さなのかは想像もつかない。ただし、恐ろしく手狭な事だけは実感できた。肌という肌、指という指に、『なにか』が絡みついていく。全身を抑圧する。吐く息が即座に頬を撫でる。四肢の表面をなにかが這いずり、下腹と双房をなにかが
――――蛇だ、とゾーイはそう思い返した。
実物を見たことは無いが、直感的にゾーイはそれを連想した。鱗の無い異形の蛇が、自身の四肢に纏わり付き、愛撫している。暗闇の中で何者かが耳元でささやき、不思議と懐かしい居心地だった。やがて人肌のようなぬくもりがゾーイを包んだとき、ずん、といった感触と供に、ゾーイの肉体は貫かれた。
それが蛇でなく、ヒトの形を模した『なにか』だと気がついたとき、ゾーイは叫びたかったが、声が出なかった。
思い返すだけでゾーイは背筋が凍った。
鎧脊の外された裸の背中が震え出す。
どれほど悔しかっただろう、どれほど空しかっただろう。されとてあのとき声が出たところで、周囲に味方はだれもいなかった。助けてくれる者などだれもいなかった。だから悲鳴が出たところで、己が無力さをより明確にする分、苦痛だったに違いない。
ブランケットを握りしめながら、気持ちの悪い汗をかいた。真の恐怖というものは、思い返す瞬間にこそ最も強く表れる。生まれて間もなく全翼機に乗せられ、予期せぬ戦闘に巻き込まれてもゾーイが平然としていたのは、それまでの過去をゾーイが持ち合わせていなかったからだ。
ゾーイはそこで過去を得た。恐怖も。
おぞましい『なにか』と過ごす日々、得体の知れない人の形を模した者に愛撫され、陵辱される日々。そして次に目覚めてからは、S.S.Sの分身たる機械たちは、検分と称して同じ事をゾーイに施そうとしてきた。身内が、トラウマを掘り返し、再度傷つける。それは『なにか』と過ごした時間に比しても、勝るとも劣らない悪夢だった。
ゾーイは叫んだ、ゾーイは啼いた、ゾーイは吠えた。あのとき口に出来なかった言葉を、ありったけの罵倒を、だれも居ない虚空に叩きつけた。当然のようにS.S.Sはゾーイが
己の無力さを、儚さを恨んだ。こんな脆弱な身体を憎しみさえした。
ゾーイには分かった。危機意識やリスク回避、客観的観測に頼らない純粋な恐れこそがヒトと機械を分かつ唯一の定義だと。それを乗り越え踏破し超越し、逆に支配してこそ、はじめて恐怖が改称される。前に進める。ゾーイはそう信じた。
やがてゾーイは、独りで笑うようになった。
暖かな微笑みからはほど遠い、絶望に充ちた冷たい笑顔。
ゾーイは彼女を憎しみ、恐れ、思い続けることで自己の精神を保つことにしたのだ。
何故かは分からないが、ゾーイは『なにか』を女性だと認知していた。その方が、より
彼女は今も、常にゾーイの心の中にいる。
ゾーイにしか見えない、ゾーイにしか会えない、幻の――
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