見送る人

河邑 遊市

1 本土最南端の死地

1ー1

 青い空がきれいだ。


まず感じたことは、それだった。

ようやく部屋に篭もっていたくなるような寒い冬の季節が終わり、この世で体験する21回目の春を迎えようとしている。


 澄み切った空気の中に、微かに感じる湿気の潤い。その中に含まれるほのかな温もりが、いつの間にか春の訪れを肌で感じ取れるようになっていたことに気付いたのはいつのことだろう。

見上げた空には少しばかり霞を含む群青色が、まるで絵の具を含ませた筆を一筆書きに画材いっぱいに塗り広げたみたいに見下ろしており、ふんわりと浮かぶ白雲が一筆書きの隙間に残る白色みたいに芸術的な輝きを放っている。

 こんなに芸術的な青空が、鹿児島の空には広がっていたのか。

関東地方は首都東京の隣、神奈川県横浜市という商工業が盛んな地域で生まれ育ち、陸軍に入隊するまでずっと横浜市で暮らした人間としては、春先にここまで澄んだ青空を眺めることはあまりなかったように思う。何だか空気が違う。混じりっ気の無い澄んだ空気は

身体に自然と親和していくようで、大きく深呼吸してみると、身体の隅から隅まで純化されているような感覚を覚える。

 暖かな春の風が心地良く身を包んでは過ぎ去って行く。もっとゆっくり、じっくりと春風を感じてみたいものだ。

だが、その願いはあまり叶いそうもない。

「おい! 山縣やまがた!!」

男の怒鳴り声が、背中にぶつかる。紛れもなく自身へ向けられた言葉だった。急いで振り返り、「はい!」と大声で返事をする。そして、怒鳴り声が上がった方へと走り込む。


 山縣やまがた才廣としひろは、ここ、鹿児島県の知覧にある、陸軍航空隊知覧飛行場に所属する整備兵だった。九州でも最も南に位置する鹿児島県の中でも薩摩半島にあり、陸軍としては本土最南端の知覧飛行場は、つい先月までは陸軍航空隊の中でも教育隊の飛行訓練を行う場所で、訓練用の飛行機の整備が主な任務だった。つい先日、昭和20年3月1日付けで赴任してきたばかりだったので、まだ慣れぬことばかりで上官からは叱咤されることばかりであった。

上官「なにモタモタしていやがる! どこぞで油でも売ってる暇があるなら、工具の在処くれぇその小せぇ頭ん中叩き込んどけ!」

才廣「はい! 申し訳ありませんでした!」

上官「すぐに作業に戻れ!」

才廣「了解!」

敬礼して、持ち場である格納庫へと急ぐ。


 別段、油を売っていた訳ではない。才廣にとっては、必死な時間だったのだ。

何故上官に油を売ってたと思われるほどの時間が経過していた(実はそれほどの時間は経過していない)のかというと、早い話が道に迷ったのだ。

 作業中に別の整備兵が燃料庫へ用があり、道案内も兼ねて一緒に付いて行くことになったのだが、燃料庫まで来て用が済んだ同僚は、こともあろうにションベンに行くから先に戻ってくれと、道も飛行場内の詳しい位置関係も曖昧な才廣にそう告げて、颯爽と消えた。結局、来た道の記憶を辿りながら何とか元の場所まで戻ってきたとき、頭上に広がる知覧の青空の美しさに一瞬我を忘れたのだった。

 はぁ、やれやれだ…。

そう感じる。

 既に整備兵としては1年以上もやってきている。配属したての初年兵とは違う。飛行機整備に関わる技能も知識もそれなりに熟成させてきたつもりだった。それでも、やはり場所が変われば勝手も変わる訳で、工具ひとつ取ってもどこに保管してあるのか一から覚え直さなければならない。建物の位置関係もまた、頭に叩き込まなければならない。

 頼めることなら、元の基地に戻してくれ。それで、ずっと同じ職場で仕事させてくれ。新天地は懲り懲りだ。

そんなことを思いながら、ネジを回す。


 才廣は神奈川県横浜市で生まれ、出征するまで横浜市から出て暮らしたことはなかった。

 山縣家は横浜市神奈川区にある東神奈川という、区内でも比較的栄えていた町の一角に居を構え、祖父の代から始めた魚屋で切り盛りしていた。才廣は三男だったため、実家を継いで魚屋を切り盛りする立場には無いが、いつかは自分も店を出したいという野心は持っていたため、中学校を卒業してからは家業を手伝いながら経営に必要な技能を身に付けようとしていた。

 ところが、そんな野望を打ち砕くような出来事が起きた。1941年、大東亜戦争の開戦だった。このとき既に成人していた長兄には真っ先に赤札がやって来て、陸軍へ入隊させられてしまった。翌年には3つ年上の次兄まで徴兵され、次は自分だという認識をしながらも、貴重な男手を二つも奪われててんてこ舞いになってしまった家業の手伝いを精一杯こなす日々が続いた。

さらに翌年、ついに才廣の下へも召集令状が届き、1943年5月に陸軍に入隊した。教育隊を出た後は、飛行機乗りになろうと志望するが視力が足らず不合格となり、飛行機の整備兵に任命されたのだった。これまで、相模飛行場に勤務していたが、南方作戦の激化のためという理由で知覧飛行場への異動が決まったのだ。


 始め、知覧飛行場への異動について才廣はあまり快く受け入れられる気持ちはなかった。というのも、知覧飛行場はつい最近まで陸軍航空隊の教育隊が使う飛行場であり、通常は飛行訓練のために教育隊の新兵たちが訓練機に乗り込んでガタガタと空を泳ぐだけで、作戦上戦闘機が発進するような重要拠点では無かったのだ。

 世の中は今、喫緊の状況にある。レイテ海戦に敗れてフィリピン諸島が連合国軍に占拠されて、いよいよ沖縄が標的になってしまった。こんな辺境の飛行訓練学校だった場所の飛行機の整備をしろとは、とんだ汚辱だ!

そう考えていたからだ。

 何より、知覧ここの整備兵たちはどこか緩んで見える。

これまで着任してきた相模飛行場は、首都防衛の要衝という事情から、軍用上作戦に関わる飛行機を多く飛ばしていた。だから常に戦闘と隣り合わせの日々で、真夜中に叩き起こされて緊急に整備したこともあった。それ故、所属する飛行兵だけでなく、整備兵にも緊張感があったのだ。

これまでとはまるで異なる職場環境に、才廣は苦悩せずにはいられなかった。


 まったく、どうして大本営は俺をこんなド田舎の、つい最近まで訓練学校だった飛行場なんかに送ったんだ?

 これは何かの罰か?

源平合戦の末に島流しにあった後白河ごしらかわ法皇のように、都落ちさせられたのか…?


考えれば考えるほど、悩みの種は増えていく。


 まもなく連合国軍が台湾や沖縄方面を標的に攻撃しようとしている状況なのは、陸軍の中に居ればだいたいの情報が入ってきていたので把握していた。今回の異動も、恐らくこれを見越しての決定だったのだろう。この年の2月に、元々教育隊用だった知覧飛行場を戦闘用に転用した上層部の思惑からして、すぐに察しがついた。しかし、才廣がこれまで着任した飛行場からは、大都市圏への空襲対策など緊急性の高い戦闘機の発進を幾度となく見送ってきたのだ。鹿児島県には、少なくとも知覧に赴任してきてからは連合国軍による市街地への空襲は無く、緊急発進なんてこともなかった。

 別段、緊急発進ばかり発生する前線の飛行場に勤務したい訳でも無く、ある意味でのんびりと過ごせる知覧ここの生活は、他の前線に近い飛行場で勤務する整備兵と比べたら随分と楽をさせてもらっているのかもしれない。その一方で、他の整備兵たちや同期の仲間たちは、もっと慌ただしく、直接作戦に関わる飛行機を整備しているのだという焦りもあった。

 自分の中にあるこういった二面性が、才廣をさらに葛藤させる理由となっていた。

「おい! 山縣! ちょっとこっち来いや!」

上官の怒号が飛んでくる。

 はい、次は何でしょうか?

そう思いながら大きな声で「はい!」と返事を返した。

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