第21話 色男と鈍感娘

 朝の紅茶を飲んだ時。口紅を塗った時。

 否が応にも感じてしまうのは、薄っすらと腫れた自分の唇でした。


(もう絶対にダンケルク様の『あと一回』は信じません!)


 昨晩、あと一回というダンケルク様の言葉を信じて唇を許したのに、あの方ときたら!


(い、色んなところを吸って、口づけて……し、舌まで……!)


 結局十分、いえ二十分ほどはキスしていたでしょうか。

 思い出すたびに顔から火が出そうなので早めに忘れたいのですが、心なしか腫れた唇が、それを許してくれません。


「いえ、だめですよ! せっかくアレキサンドリア様が素晴らしい策を授けてくれたんです。早速イリヤさんにもご相談して、確実にモノにしなければ!」


 昨日の報告もしなければなりません。朝の早いうちから魔術省に向かえば、イリヤさんを始めとした技官の方々が、忙しそうに立ち働いていらっしゃいました。

 イリヤさんの格好を見た感じ、昨日からずっと働きづめのようです。目はきらきらしていらっしゃいますので、大丈夫そうですが。


「いやはや、急に忙しくなってね! 君が昨日『大魔女』から貰った地図、あるだろう? 昨日急いで写させてもらったやつ」

「はい。大魔女さまの分体がある場所ですね」


 アレキサンドリア様から頂いた地図は、私の体から離れられないようで、昨日イリヤさんは急いでそれを書き写していらっしゃったのです。


「ああ。実際そこに人をやってみたんだが――黒(ノア)の反応があった。一部の兵士は心を黒(ノア)にむしばまれている。あとで君に治療してもらう必要があるな」

「それはもう、今すぐにでも。ですが、どうして『大魔女』の分体に、黒(ノア)の反応が? まさか分体が壊されたり……」

「いや、その心配はなさそうだ。そもそも分体は、君の<秩序>魔術によってはじめて起動するわけだからな。それがなければ、ただの魔術の仕掛けにすぎん」


 続けてイリヤさんはおっしゃいました。


「『大魔女』が分体を配置した場所は、都市の中でも最も魔力が高い場所だ。そうしなければ仕掛けを維持できんからな」

「なるほど……そういう場所でなければ、分体が消えてしまうというわけですね」

「ああ。そしてその理屈は黒(ノア)も同じことだ」


 まさか、と私が呟くと、イリヤさんは深く頷かれました。


「龍はこの都市に結界を張り、黒(ノア)をばらまこうとしている」

「……アレキサンドリア様と考えは同じ、ということですか」

「君は昨日言っていたな。『大魔女』が君に策を授けたと」


 私は頷き、アレキサンドリア様から授かったアイディアをお伝えしました。


「龍は首都を狙い、人々の負の感情を餌に、黒(ノア)をばらまき続け、己にとって居心地の良い場所を作り上げるでしょう。――ですから、その瞬間を待てばよいのです」

「その瞬間、というと」

「龍をあえて泳がせ、首都を征服したと思わせる――そこを、アレキサンドリア様の分体を楔として作り上げた結界で、一網打尽にする。それが『大魔女』の考えた策です」


 きょとんとするイリヤさん。その顔がみるみるうちに笑みに染まっていきます。


「あっははは! 要するにこの都市と人命を囮に暴虐な龍を釣り上げるというわけか。なんともはや、大胆不敵で傲岸不遜な作戦だ! いかにも世紀の『大魔女』らしい!」

「ですが、理にかなっているとは思うのです。例えば屋根裏を片づけるとき、あちこちでムカデやヤスデなんかが出てきますでしょう。そういう害虫は、見つけるたびに潰すより、一か所に集めておいて、燃やすなり鳥の餌にするなりした方が楽ですもの」

「一介のメイドと希代の大魔術師が、同じ結論に達するとはね。合理性に祝杯だ」

「それに、私たちは今、龍たちがどこに潜伏しているか、全く分かっていません」


 そう、ミス・キャンベルをはじめとした龍たちは、私たちに勝手に接近するくせに、自分たちの尻尾は決して掴ませないのです。


「確かに君の言う通りだ。君を突き落とした兵士も、一体自分がどこで黒(ノア)を埋め込まれたのか、全く記憶にないらしい」

「こちらから追っても良いですが、それよりはあちらからきていただいた方が、手間が省けるかと」

「その点は全く同意だ。来ると分かっているのならばいくらでも対処の仕様はあるからな」


 それに、とイリヤさんは、簡易<秩序>魔術展開用の羊皮紙を取り出し、目の前でひらひらと振ります。


「君と私で作ったこの簡易版。一時的に黒(ノア)を退ける役目は果たすが、完璧に追い払うことはできない。黒(ノア)を消滅させられるのは君の<秩序>魔術のみだ」

「はい。龍が五人――五体に分かれているのに対し、いくら援護を頂いたとしても、私はただ一人きりです」

「だが『大魔女』の作戦ならば、その弱点もカバーできる。龍どもを五人一列に並べて、一気呵成に畳みかければよいわけだからな」


 イリヤさんはしばらく空中を睨んでいました。その小さな頭蓋骨の中では、凄まじい勢いで作戦の成功率が計算されているのでしょう。


「……ダンケルクはもう来ているな? 兵士を大規模に動かす必要がある。国王陛下にも上申せにゃあならんし、簡易<秩序>魔術の用意も急がせねば」

「はい。それに私もセラ様と練習しなければ」

「練習?」

「ええ。どうしても<秩序>魔術ばかりが注目されてしまいますが、アレキサンドリア様の魔術は全て『大聖女』さまの援護があったものだということを、忘れてはいけません」


 治癒魔術。それは傷ついた者を癒すための魔術なのですが、その理屈は「人が元々持っている治癒能力を活性化させる」というものです。

 セラ様ほどの治癒魔術の使い手であれば、<秩序>魔術もその恩恵に与ることができるのです。

 ちなみに若旦那の治癒魔術は、セラ様のものとは少し性質が異なるため、同じことはできないでしょう。

 

「私もセラ様と協力し、威力の高い<秩序>魔術を使えるように練習する必要があります」

「そうだな。その援護があれば、結界展開の魔術機構を編み出すことも可能になる」

「結界の方は……正直、まだ自信がありません」

「大丈夫! 私は魔術のプロだ、その私がついているのだから、不可能なことはないっ!」


 頼もしいお言葉に、緊張が少しだけ緩むのを感じます。

 イリヤさんはいつだって猪突猛進で、お部屋をすぐに散らかすマッドサイエンティストではありますが、彼女が俯いているところを見たことがありません。

 セラ様とはまた違った意味で、前向きにさせて下さる方です。


「結界についての基本的な骨組みは私の方で組み立てよう。君はそこに<秩序>魔術の要素を加えてくれればよい」

「分かりました。頑張ります!」

「うむ! さあて忙しくなるぞう!」


 そう言って舌なめずりしながら、イリヤさんは通りすがりの技官の方に指示を出し始めました。





 それから一時間も経たないうちに、私とセラ様は医務室で落ち合っていました。


「はいっ、わたしとリリスさんの協力魔術の特訓、ですね! わたしもやらなきゃなーと思っていたところです!!」


 ふんすふんすと鼻息を荒くしたセラ様は、目の前のベッドに縛り付けられた兵士の方々を見やります。


 彼らは黒(ノア)に汚染されてしまった人々です。ミス・キャンベルの毒牙にかかって、スパイまがいのことをさせられたり、黒(ノア)の反応に触れてしまったりした方々。

 数はざっと五十人ほどでしょうか。

 一番強く汚染されてしまった人の体からは、まるで煙のようにじわじわと黒(ノア)が漏れ出てい、医務室の天井を汚しています。


 常人であれば怯むような光景でも、セラ様は顔色一つ変えていません。さすがです。


「わたしも一人で練習してみたんです。『大聖女』ほどはうまくリリスさんをサポートできないかもしれませんけど」

「そんなことはありません。私一人で五体に分かれた龍を相手にするなんて、そんなことは不可能です。セラ様のお力添えがなければ」

「んふふ……リリスさんに頼られるのって、なんだかこう、良いですね。ダンケルクさんに自慢しよーっと」


 そうおっしゃいながら、一つ目のベッドに向かわれるセラ様。


「さっ、行きますよリリスさん!」

「はい!」


 そうして私たちは、医務室の人々を相手に様々なコンビネーションを試してみました。

 というと、黒(ノア)の被害にあった方々を実験台のように扱っていると思われるかもしれませんが――。


 正直に申し上げて、良い練習台であったことは否めません。

 <秩序>魔術の出力。セラ様とのタイミングの合わせ方。黒(ノア)を効率的に駆逐する方法。

 様々なことを試し、改善し、次へと繋げることができました。


 全ての人を治療し、黒(ノア)を完全に医務室から追い払う頃には、黒(ノア)の性質がだいぶ分かってきました。


「これは寄生虫のようなものなんですね。黒(ノア)が宿った人間は、すぐ死ぬかというとそうではなく、黒(ノア)の温床となる……」

「確かに。アレキサンドリア様が、龍は人間の負の感情を食べて生きている、ゆえに人の多い首都を狙うとおっしゃっていました。人間は良い宿主なのでしょう」

「黒(ノア)を追い払ったあとの人は、少し衰弱してるみたいです。ここでもわたしの治癒魔術が活かせそう! ウィルさんにも活躍してもらわなきゃ、ですね」


 セラ様は今、若旦那を名前でお呼びになりました。前はグラットンさん、だったのに。

 私が気づいたことにセラ様も気づいたのでしょう。海のように青い目を持つ素敵な人は、はにかみながら、


「えへへ……。リリスさんが滝つぼに落ちちゃって、取り乱すわたしを、ウィルさんがすごく慰めて下さって……。きっとウィルさんも辛かったのに」

「……若旦那はお優しい方ですから」

「ええ、ほんとうに」


 そう言って頷くセラ様のお顔は、優しくて、はにかんでいて、それでいてとても美しくて。


(ああ、かなわない)


 きっとこのお二人は結ばれるだろうという、暖かくも悲しい予感がありました。祝福すべきことなのに。愛すべきことなのに。

 ダンケルク様の前では、ものわかりがいいようなことを言ったけれど、私の恋心の残滓が悲鳴を上げているのが分かります。

 

 目の前で繰り広げられる恋が完璧であればあるほど、美しければ美しいほど、ちっぽけな思いがぎゅうぎゅうに締めあげられるようで。

 どんなに吹っ切れたつもりでも、この失恋というやつは、相変わらず内側からこの心を引き裂くようです。


(でも、慣れなければ。お幸せにと言わなければ。泣くのはいつだってできるのだから)


 歯を食いしばるのには慣れています。私は努めて笑顔を浮かべました。


「私、セラ様と若旦那は、お似合いだと思いますよ」






「バーカ」

「うっ、そ、そんなおっしゃり方はないでしょう」


 何かあったか、とダンケルク様に尋ねられ、先ほどのセラ様との会話をお話ししたら、この言われよう。ひどいです。


 昼夜問わず開店している魔術省の食堂。私とダンケルク様はそこで、遅い夕飯――というよりもはや夜食――を頂いていました。

 私は<秩序>魔術の研究で。軍人であるダンケルク様は言わずもがなで、二人とも泊まり込みなのです。

 黒檀のテーブルに広がっているのは、ワインとチーズと黒パンに、ちょっとした果物。夜食としては十分です。


「なんか暗い顔してるなと思ったら。自分で恋敵に『お似合い』なんて言ってどうすんだバーカ」

「う、だからその、バーカって言うの、やめて下さいませんか……。自分が一番よく分かっているので……」

「――でもお前、嫉妬とかしないんだな」


 嫉妬。

 その言葉の意味を考えながら、黒パンにオリーブオイルを浸して口に運びます。

 魔術省のご飯はいつも選りすぐりの食材を使っていて、こんな夜食でも美味しいのです。


「嫉妬というのは……セラ様になりたいと考えるようなことでしょうか?」

「あるいは、ウィルにセラ殿はふさわしくない、と考えるか」

「それは……ないですね」


 きっぱりと言い放てば、ダンケルク様は少し拍子抜けしたようなお顔をしました。


「セラ様になりたいかと言われれば、もちろんあんな素敵な人になってみたいとは思います。あの透き通った金髪には憧れますし……ですが、歩んだ道が違いすぎます。尊敬はしていますが、セラ様と全く同じになりたいとは思いませんね」

「ほう? んじゃ、ウィルにセラ殿はふさわしくない、というのは?」

「逆に聞きますが、ダンケルク様。あれほどお似合いな恋人が他にいるでしょうか?」


 ダンケルク様は様子をうかがうように私の顔を見つめていました。

 そうして、眉を少しだけ下げ、肩をすくめます。


「分からんな。俺とお前なら、ベストカップル間違いなしだが」

「それはまあとりあえず置いておいてですね」

「置くな。とりあえず置くな。正直ウィルの恋路より大事な話だと思うんだが?」

「今は別の話をしているので。とにかく、セラ様になりたいとか、ふさわしくないとか、そういうのは考えたことないですね」

「そうか」


 ダンケルク様はワインを飲み干されました。


「ま、なら安心したよ。お前なら黒(ノア)に飲み込まれる心配もあるまい。俺とは違ってな」

「そんな心配をされていたんですか?」

「そりゃそうだ。お前が黒(ノア)に飲まれたら、誰がそれを追い払ってやればいいんだ?」

「た、確かに」


 そこまで考えていらっしゃったとは。やはり軍人の方は違います。

 軍服の上着を羽織ったダンケルク様は、残ったりんごを口の中に放り込みながら、慌ただしく立ち上がります。


「悪い、そろそろ軍議の時間だから行く。お前今日は家に帰るか」

「いえ、イリヤさんのご厚意で、セラ様と一緒にここに泊まらせて頂くことになりました」

「それがいい。――ああそうだ」


 去り際に、ダンケルク様はつと私の髪に触れました。慈しむように、指先でそっと撫ぜます。


「俺は金髪よりも、黒髪の方が好きだぞ。品が良いし、賢く見えるし、何より気高い夜の色だ」

「へ……」

「あの時は見損ねたが、白いシーツの上に広がるところなんか、さぞかし綺麗なんだろうな。――ではまた」


 ひらりと手を振って、ダンケルク様は食堂を後になさいます。

 残されたのは、顔を赤くした私一人きり。どんどん顔が熱くなってゆくのが分かります。


(あ、あ、あの時って……! ダンケルク様のご両親がいらして、私が酔っぱらって、い、一緒のベッドで寝た時の……)


 思い出すだけで顔から火が出そうなあの時の記憶。

 けれど、どうしてでしょう。やけに思い出されるのは、私の失態よりも、ダンケルク様のお顔の整っていることや、その腕の温かさや、においばかりで――。


(不意打ちは、ずるいでしょう……)


 私は自分のご主人様が、世に名の知れた色男であったことを、ようやく思い出したのでした。

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