第9話 二度目の失恋(下)


(――あ)


 若旦那の唇がきしみながら、誰何すいかの声を上げました。


「……君は、だれだろう」

「セラ・マーガレットと申します。あなたの治療を担当させて頂きました。お名前は言えますか? ここがどこだか分かりますか?」


 若旦那はご自身の丸っこい手を額にやりました。そうしながらも、聖女さまの方をちらちらと見ています。

 その眼差し、その顔――。ああ、私はそのお顔が意味するところに、気づいてしまいました。


 私の絶望を蹴散らすように、ミセス・グラットン――いえ、ミス・キャンベルは叫びます。


「お前、私の主人に何をしたの!?」

「主人? ……いや、僕は君の夫になった覚えはないよ」

「はあ? ここに証文があるというのに!」


 ミス・キャンベルは懐から羊皮紙を取り出します。しかしそれは青白い炎を上げて燃えてゆきます。

 燃える証文から慌てて手を放した彼女は、その美貌を大きく歪めて、証文を燃やした人間――ダンケルク様を睨みつけました。

 ダンケルク様の指先には炎が、そして緑の目には怒りが宿っています。


「ここまできて白を切り通す胆力は認めるがな、キャンベルの女狐。お前の正体はとっくにばれているんだよ」

「なんのことかさっぱり分からないわ」

「キャンベル家が魔術省に収めた品の数々、お前の姉妹がたぶらかした男のこと、そしてウィルにかけた催眠――全てがお前の罪を物語っている。ああ、それとも他にもっと材料が必要か?」


 ミス・キャンベルは艶然と微笑みます。


「……そう。そうなの! ええ、構いやしませんとも、この男は単なる足がかり、踏み台、蹴とばすべき相手でしかないのだから!」


 無礼千万なことを叫ぶなり、ミス・キャンベルは、ドレスのウエストに巻かれていたリボンをさっとほどきました。

 その体が黒くよどんだ気配に包まれてゆきます。華奢なシルエットが、黒い気配の中でうごめき、姿を変えてゆくのが分かります。


(あれは……あの黒いのには、見覚えがあります。いえ、これは、私ではない"彼女"の記憶ですね……!)


「あれは、黒(ノア)です! ダンケルク様、若旦那、こちらへ!」

「黒(ノア)? しかしそれは『大魔女』が――」

「わあ、その声はきみ、リリスじゃないか? 服装が違うから分からなかったよ」


 どこまでも若旦那らしいのんきなお言葉に、思わず笑ってしまいます。

 こんな状況なのに、いえこんな状況だからこそ、クルミを奪われたリスのようにびっくりしている若旦那のお顔が、懐かしく思えます。


 ミス・キャンベルの体にまとった気配が、やがて形を成していきます。

 それは彼女を守り、威厳を与えるローブのように体にまとわりついていくようでした。


「でも、なぜ黒(ノア)をあなたが……! あれは『黒煙の龍』しか扱えないはずなのに」


 百五十年前に『大魔女』が退けた『黒煙の龍』。

 それから発せられるはずの黒(ノア)を美しくまとったミス・キャンベルは、にこりと笑いました。

 白い肌によく映える、夜の闇よりもとらえどころのない漆黒は、聖堂の光を受けてぬめぬめと輝いています。


 しゅうしゅうと蛇の威嚇音のような音と共に、ミス・キャンベルの全身から黒い靄のようなものが放たれてゆきます。

 聖堂を徐々に黒く染め上げてゆくそれは、間違いなく黒(ノア)でした。

 魔力の汚れ。世界の影を煮詰めて集めて小さくしたもの。


 ダンケルク様が私をかばうように前に出、剣を抜き放ちました。その剣先に青白い炎が灯ります。


「撃ち抜け! <紅蓮><焔>!」


 ダンケルク様は、躊躇なくミス・キャンベルを攻撃しました。

 けれど彼女はは、身にまとった黒(ノア)を引き延ばして、ダンケルク様の炎を防いでしまいました。

 黒(ノア)は通常の魔術では歯が立たないようです。


 私たちは禍々しい気配を放つミス・キャンベルを睨み上げました。

 いつの間にか彼女の瞳は、魔性をつかさどる金色へとその色を変じています。それが決定打でした。


「あなたはまた『黒煙の龍』ではありませんね。まだ成体ではない」

「……へえ? だから何だというの?」

「今なら私ていどでも追い払える、ということです」


 黒い靄が足元にかかります。途端に体がずぐんと重くなりました。

 これが黒(ノア)。<秩序>を乱し、混沌を呼ぶもの。


「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを……<秩序>へ帰せ”」


 赤い魔術陣が足元に灯り、一気に聖堂じゅうに広がっていきます。

 ミス・キャンベルは身を守るように黒(ノア)のローブを引き寄せました。けれど黒い靄たちは、発するそばから、赤い魔術陣に吸い込まれていきます。

 いきなり防御を引きはがされて、ミス・グラットンは目に見えてうろたえました。


「このッ……! お前、一体!? 『大魔女』は生まれ変わらないよう、呪いをかけたのに……!」

「私はただのメイドです。……ですが、仕えていた主を”踏み台”などと呼ばれては、ただのメイドも黙ってはいないということです!」


 ミス・キャンベルは黒(ノア)を絨毯のように引き延ばし、その上に飛び乗ると、窮鼠の素早さで空中に舞い上がりました。赤い魔術陣が、そのなめらかな足に絡みつきます。

 けれど彼女は手負いの獣のような激しさで振り払うと、去り際に吐き捨てました。


「今回は引いてやるわ。けれど次はない。また戦場で会いましょう!」


 そう言って聖堂の窓ガラスを突き破り、外へと逃げていったのです。


 最初に動いたのは、軍人のダンケルク様でした。

 私に駆け寄ると、肩を掴んで全身を眺めまわします。


「怪我はないな!? 変な呪いも……受けてなさそうだな」

「あ……はい、大丈夫です。ありがとうございます」

「そうか。良かった」


 部屋に残っていた微かな黒(ノア)は、私の魔術陣が全て吸い取ってしまったようでした。

 安堵のため息をつく私たちとは裏腹に、聖女さまはどこか興奮したように話しかけて来ます。 


「す……すごい! リリスさんの力はやっぱりすごいです!」

「いえ、すごいのは多分、私ではないです」


 だって今まで、黒(ノア)だとか黒煙の龍だとかなんて、知識にありませんでした。

 それが昔のことを思い出すかのように、ふっと頭に浮かんだのは、きっと百五十年前の『大魔女』が何か仕掛けを施していたのでしょう。


 それを口にすると、イリヤさんが少し興奮したようにまくしたてます。


「さっきあの女は”大魔女は生まれ変わらないように呪いをかけた”と言っていたな? しかし『大魔女』はそれをかいくぐって、君に何かを託した……ということになるんじゃないか?」

「そうかもしれません。ですが問題は、ミス・キャンベルが持つ『黒煙の龍』の力です。黒(ノア)は『黒煙の龍』しか出せないものですから、彼女は何かしら『黒煙の龍』の加護を受けているのかも」

「その可能性はあるな! 催眠をかけるなんて、なんて剣呑な一族だと思っていたら、まさかけだものの加護を受けていたとは! キャンベル家そのものが昔から龍に連なるものだったのか? それとも龍が、この地位に上り詰めるためにキャンベル家を興したのか……?」

「落ち着けイリヤ。まずはこの事態を上にどう報告するかだ。……ウィルもまだ本調子ではないようだし」


(そうです、若旦那!)


 黒煙の龍を見ても意外と動揺していないように見えるかもしれませんが、若旦那の感情はいつも遅れてやってくるので、そのうちうろたえ始めるでしょう。


(――でも、今回は少し違うかもしれません)


 若旦那の視線をたどるまでもありません。若旦那はずっと、ずうっと、聖女さまを見つめていました。

 催眠を解かれたことに対する感謝の念とか、ものすごい力を持っている人に対する尊敬の気持ちとか、そういう意味合いではなく。


(あれは、ひとめぼれした人の目ですね)


 暗い気持ちが石のような塊になって、心の奥底に沈んでいきます。

 がっかりするということは、やはり私は心のどこかで若旦那と相思相愛になることを望んでいたのでしょう。期待を、していたのです。


 その期待は、真っ先に押し殺して、隠して、なくしてしまうべきだったのに。

 ダンケルク様にきれいなドレスを着せてもらって、ハル様たちに婚約者のようにかわいがってもらえて――。

 だからきっと勘違いをしてしまったのです。

 ひょっとしたら自分も、舞台の上に上がる資格があるんじゃないか、って。

 

 愚かな勘違いでした。馬鹿みたいな期待でした。そのせいでこんなに胸が痛い。若旦那が結婚したと聞いた時よりも、ずっと。


「しかしやはり対抗策となりうるのは、君の<秩序>魔術だ、リリス! 今までより頻繁に魔術省に足を運んでもらうことになるだろうが、それでいいね?」

「は、はい」


(忙しくなるのは助かりますね。手を動かしていれば、余計なことを考えなくてすみますから)


 二度も張り裂けた片恋が、しくしく痛むのを感じながら、私は無理やり笑みを作りました。


「……」


 それを、かすかに眉をひそめたダンケルク様が見ているとも知らずに。

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