05:真実からは逃れられない


 やはり、俺にとって森宮の描く絵は揺るぎなく至高だった。森宮からの連絡を待ちわびてはあの竹林の緑を想い。

 夏休みの一週間が過ぎる頃に鳴った電話に、俺は浮足立った。

 校門前で待ち合わせた森宮を拾い上げて車を走らせること半時間。

 案内に従い国道の海沿いに出た。開けた窓からは潮風が心地好く入り込んで来る。

「それで、何処へ向かってるって?」

「夏の間のオレん家」

 さらりと返る声にはて、と頭を捻った。

 助手席の森宮は窓際で頬杖ながら流れて行く景色を、何でもない顔で眺めている。

「夏の間? ……母方の実家というところかな」

「……アタリ。高橋さァ、もしかして知ってた?」

「お前の家が複雑なことか? 知ってるったって触りしか聞いていないよ」

 俺としては妥当なところを突いたつもりが、ちらり流し見た森宮は虚を突かれたように目を丸くしていた。

 何のことだよ、と俺は肩を竦ませてはみたものの、それ以上森宮自身語ることのないままに、目的地へ辿り着いてしまった。

 一軒一軒の家々の距離が離れた田舎町で、広々とした土地に昔なじみの日本屋敷の家だった。砂利の敷かれた駐車スペースで先に森宮を降ろした。

 海からもさほど離れていない周辺には、立派な黒松の林と菜園、手入れのされた日本庭園が見える。

 先に降りた森宮が、車椅子を押して戻って来るのが見えた。車椅子に乗っているのは、やや年下に見える少年。

 その少年の顔立ちが森宮ととても似ていることに気づくのには、時間が掛からなかった。

「へえ、今度のセンセ、若くて二枚目だね」

 車椅子の少年は、まだ変声期を経ていない中性的な声を上げる。はつらつとして抑揚がはっきりとしていた。

 車椅子が不似合いだと感じるほど彼の表情は活き活きとしていて、とても健やかな印象を持った。

 後ろに立つ森宮の方が陰のあるように感じるほどに。

「だから思わず見せたくなっちゃったんだ?」

「お前に見せに来たんじゃないっつの。……高橋、従弟の千紘」

 にんまりとした笑みで揶揄を受ける森宮は褪めた顔で受け流しついで、紹介をした。

 呼ばれた少年は大きな唇に弧を描いて、深々と辞儀をしてみせる。

「西海千紘です、……よろしくね、高橋センセ」

 懐こい笑みに、こちらも頭を下げて応じながら口中でその名前を反すうする。

 ……西海。

 どこかで憶えのある名だった。

「サ、イ、カ、イ。………前年度中学部門最優秀総舐め?」

「それ」

 森宮がびしりと言い放ち、大きく頷く。

 そういえば、コンクール会場に足を運ぶ度にその名を目にはしていた気がした。

 高校部門の、森宮の名前ばかりを追っていた俺がその名前を思い出せたのは奇跡に近い。言い添えるなら、周囲の観賞目的の多くが最優秀作品であり、この数年名前を挙げていると話題を呼ぶ人物であったことは記憶している。

 まさか、彼が森宮の親族だとは思いもしなかったが。

「来年うちの高校受けるってさ。つまり、高橋の未来の生徒ってワケ」

 期待の星だぜ、とやや誇らしげに森宮は言う。西海はそんな従兄の頭を叩いて軽く諫めたが、否定せずに俺に微笑い掛けた。

 嫌な予感がした。予感と言うよりは確信なのかも知れない。恩師の辞職、理工学部志望、絵の上手い従弟。

 点と点が線を結んで、森宮が筆を置くタイミングを合致させてしまった、そんな思いが過ぎった。

 葛西から耳にした時点で相当なショックを受けていたものの、夏季コンクールの作品を目の当たりにしたところで俺の心は浮いていた。描けるのだからきっと大丈夫だと思い込んでいた。この状況はそんな俺を容赦なく打ちのめそうとしている。

 立ち話はこのぐらいにしよう、と家の中へ上がり茶をもてなされたものの、すっかりとそこからの会話に関心を抱けずに過ごしてしまうことになった。

 森宮は似合わないほど熱心に、従弟がどんな賞を取ってどんな絵を描いてきたのかを語った。

 ……違う。上手いから好きなわけじゃない。その色はお前にしか出せないから、固執したんだ。

 そんな言葉は、隣で困惑気味に微笑う彼の前で言えるはずも、なかった。恐らくきっと、二人きりだとしても、言える自信は俺になかっただろう。

 そこまでして筆を置こうとする理由は何だ。訊ねたい気持ちを、ひたすらに堪えた。


 ◇◆◇


「センセって、正直だね。隠し事とか、できなさそう」

 くすくすと笑う声に我を取り戻した。森宮の従弟、西海がすぐそばで俺を見上げては心底おかしそうに肩を揺らしていた。

 ――そうだった。蔵に今までの絵を仕舞ってあるからと案内されたのだった。

 心ここに在らずの俺を前に、がっかりしたり気分を害した風でないのは幸いだった。あまりにも大人気なかった。

「……すまない。森宮に、絵を続ける意志がないことを突き付けられた気がして」

 森宮はどこに居るのか、姿が見えない。蔵の中には居ない様子だった。

 正直に腹を割った俺の言葉に納得するように、西海は小さく頷きを繰り返した。

「ホントだよね、ファンの目の前で引退会見って感じ。根性悪いンだよ、裕」

「アイツにとっては、成績優秀な生徒が一人居ればそれでいいんだろう、ぐらいの見解だってことだ。……君の絵は、森宮とはまた随分違うね」

「同じ方がどうかしてる。まねしてはじめたんじゃないもの、ちがうよ」

 確かに。同意して、木製の手作りだろう収納棚へ仕舞われたキャンバスを抜き出して眺める。

 淡い彩、輪郭をわざと暈して柔らかさを強調した絵や、確固としたフォルムのない絵が目立つ。森宮の写実主義とは正反対の抽象画の世界。

 モノを描くのではない、情を描いているのだと解る。美しく繊細な絵は、確かに最優秀の名に相応しいものだと思えた。

「裕の絵が好き? それとも、裕が、好き?」

 唐突な質問。驚きのあまりに脊髄反射的な勢いで西海を顧みた。 

「……どっちでもいいんだ。裕、あんなだけどさ、センセのこと信頼してると思う。思うから、卒業するまではせめて傍にいてくれないかな」

 俺の返答を待たずに、西海は続ける。

「夏も冬も、長い休みの間は僕が居るからいいけど、普段の裕、どうなってるのかわからないから」

 そう言って、西海は表情を曇らせた。キリ、キリ。車椅子を動かして蔵を出て行く。

 俺の言葉は必要ない、というより、聞く意味がなかった。懇願。その言葉の重みは知れない。

 森宮がそこまで重い何かを背負っているようにはまるで感じられなかった。いや、感じようともしていなかった。

 ただの破天荒な不良生徒だと決め付けて掛かったし、そこに理由があったとしても踏み入れようと思ったかは定かじゃない。

 ……それが、一教師であるのなら。一般的な像であるのなら。

 森宮の声を思い出す。

 『オレが問題にならない一番の理由は、アンタ達教師のその性質のおかげだね』

 その言葉の意味が、今なら分かる気がした。恐らくは誰も、自分の体裁が可愛いばかりに森宮を叱責するような真似をして来なかった。目の前のものを見ようとしないことに、森宮が腹を立てていたのは事実だろう。

 そっとキャンバスを元へ戻してひとつ、ため息を吐いた。

 ガラ、ガラガラ、ガラ。

 背後に建て付けの悪くなった扉の閉まる音がして、入り口から差し込む西日だけを主な灯りにしていた蔵はとっぷりと闇一色に変わった。

 瞬きを繰り返しては目を凝らしながら、壁伝いに入り口を探ろうとした。

「おい、居るのか、森宮」

 車輪の音はしなかったから、誰かが居たとしてそれが西海でないのだけは確実だった。

 再度、呼び掛けようとして一歩、踏み出すところへ人肌の温もりが布越し、俺の体を覆った。

 ちょうど、前から抱き締められるような具合だ。両手に探れば、さらりと指通りのいい髪の感触、尖る肩甲骨、腰のライン。

「おどかすな、俺は暗所恐怖症なんだ」

 勿論そんなことはない、口ばかりの揶揄を飛ばして両手を下ろした。

 体を抱く腕の力は変わらない。強く縋るのでもないが、離れないでいる。

 本当にこれは森宮なのだろうか、なんて疑問がにわかに沸き立ったその時、聞き慣れた笑い声が小さく零れた。

「もうすこしマシなこと言えよな、高橋」

 口角が上がったのが、触れる肌から察せられる。

 じりじりと体重を掛けられて、壁際へ追いやられたと思いきや、何かの台の上へと腰を下ろさせられていた。

 暗闇に少し慣れた目が、楽しそうに微笑う森宮の顔を捉えた。

 トン、と片膝を台へ乗り上げて目線を合わせてくる。

「……遊ぼう」

 囁くように掠れる声。言葉を発するより先に、唇は重なる。言葉を吸い上げられる。

 暗闇に紛れることで、挙動は大胆さを増す。数日振りの「遊び」は、それまでのどれより過激さを増した。

「は、……」

 自分が零す呼気が熱いのは、この真夏に蔵を締め切ったからだ。そう己を騙した。

 拒否権がないなんて思い込みで、自ら森宮の局部へと触れた。布越しなぞる指に、森宮が笑うような、呼気を漏らす。

「イイよ、すげェ楽しい。ハイんなりすぎて、どうにかなりそう」

 言葉の最後の方は本当にくすくすと笑い声を漏らした。

 頬ずりながらひとしきり笑った後に、俺の手をやんわりと引き剥がす。

 引き剥がしたその指で、五指を絡めて来る。

「……オレだけじゃつまンない。足ンない。だから今日は、特別」

「――……やめろ」

 背を冷たい汗が伝い落ちたのが分かる。首筋へ圧し当てるような口付けの後、森宮は俺の前に屈み込んだ。

 ジーンズ越しに局部へ熱い息が吹きかけられる。そのまま構わず唇が食む、感触がする。

 今まで意識の外へと放り出していた事実が、包み隠さず明るみに出たのと同じ気分を味わった。

 誇張する。脈打つ。どうしようもない。肉体は、非日常に呼応していた。今にはじまったことじゃあ、なかった。

 それを、森宮に悟られ、今になって自覚させられるそのことが、とても恐ろしかった。

「頼むから、……やめてくれ」

 強引に退けるという手段を俺は取らずに、懇願するしかなかった。

 そんな反応に満足そうに笑って森宮はゆっくりと、愉しむようにゆっくりと、ジーンズの前を開いた。

「イヤだ。やめるワケないじゃん」

 ――俺も半ば理解した上で言っているのじゃないか?

 ぞっとしない予想を、強く頭を振って強引に消した。

 仕方がない、どうしようもない、を何度も頭で繰り返し呟いた。

 森宮は終始愉しそうに、愉悦を浮かべて貪り尽くした。残滓のひとつまで残さずに、啜り上げた。

 感じていないのじゃあなかった。ただ、感じたくなくて遠くへ放り出していたに過ぎなかった。

 悦楽も、背徳も。……後悔も。

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