第9話 旅立ち


 どこからか歌が聞こえてくる。哀愁あいしゅうを帯びた、どこか懐かしく優しい旋律が。

 太陽のぬくもりを感じる。そよ風が頬をでていく。ひんやりと肌に心地よい。

 降ってきた朝露の雫を頬に感じて、青年はうっすらと目を開けた。


「良かった、気がついたのね」


 その娘は歌うのをやめると、あふれる涙をぬぐおうともせず、まぶしそうな笑顔を青年に向けた。どうやら青年は彼女の膝を枕に、仰向けの体勢で草原に横たわっているようだ。


 その娘、歳の頃は十八から二十歳といったところか。

 緩やかなウェーブのついた長いプラチナブロンドの髪をそよ風になびかせ、上質なアクアマリンのような美しくんだ青の瞳を潤ませて青年を見つめている。


 朝露と感じたものは、彼女の涙だったのだろうか。


「ここは? 君は一体……」

「わからない? 私、メラニーだよ、ショーンお兄ちゃん」


 ショーンは目を見開き、ものすごい勢いで飛び起きた。全身に鋭い痛みが走る。


「きゃっ!」

「あぐッ! つぅ―――俺は……生きているのか?」


 ショーンは自らの身体を抱くようにうずくまってつぶやいた。痛みが強く、身を起こそうにも身体が動こうとしてくれない。

 いきなりの青年の行動に、頭突きを食らうまいと咄嗟とっさに仰け反ってかわした娘――メラニーは姿勢を戻すと慌てて彼の背中に触れ、申し訳なさそうに言った。


「大丈夫? ごめんなさい。あなたの腕輪の龍たちも力を貸してくれたのだけれど、私の力ではあなたの生命を呼び戻すのに精一杯で、身体の傷はあの呪いを受ける前までしか戻してあげられなかったの。痛む、よね……」


 彼女が手当てをしてくれたのだろう。腕や脚、脇腹などの比較的深かった傷には、不器用ながらも包帯が巻かれている。

 娘の顔には確かに、少女の面影がなくはないのだが……。

 ショーンは蹲ったまま額に手を当てると、呟くようにいた。


「すまない、頭が混乱して……説明してくれないか?」


「……実は私、天使なの」


 そう告げるとメラニーは、ショーンの背中から手を放して立ち上がった。

 そしてショーンの数歩前に出ると、自らの背中の翼を大きく広げた。

 ショーンは顔を上げて彼女を見た。肌触りの良さそうな白いふわりとした服に身を包み、純白の翼を広げたその姿。その美しさに、ショーンは目をみはった。


「天使は天で生まれ、ある程度まで育ったあと、人の子の姿で神々によって選ばれた場所……地上のどこかに降り立ってさなぎからかえるの。蛹から天使になるためには、地上に生きる人々の勇気や優しさといった良き心にたくさん触れる必要があるの。その心が強ければ強いほど私たち天使の蛹の成長も早まり、孵ったあとにはそれに応じた大いなる力を得ることができる」


 メラニーは再びショーンの背後に座った。その手がショーンの肩に柔らかく触れる。


「あなたは私を守ってくれた。その生命を落としてまで。あなたのくれたその強く大きな愛が、私を一気に育ててくれた。私にとても大きな力と、こんなに大きく美しい翼を授けてくれたの」


 メラニーはショーンを優しく抱いた。翼も使って、彼を背中側からふんわりと包みこむように。

 ショーンの身体から、痛みがすうっと引いていった。心地よいぬくもりに包まれる。強ばっていた全身の筋肉が自然とゆるんでいき、ショーンの身体がゆっくりとメラニーにゆだねられた。



「ありがとう、私を孵してくれて」

「『』って、そっちの意味だったのか……」


 メラニーに身を委ねたまま、ショーンは呟く。

 次の瞬間、ショーンはハッとして顔を上げた。


「君はさっき、俺の生命を呼び戻すのに精一杯でと言っていたが、まさか――」

「ええ。今の私には天に戻る力はないわ」

「何故……」


 ショーンの問いに、メラニーはふわりと微笑んだ。


「あなたの魂を連れて天にかえることも、もちろんできた。けれど……」


 メラニーは一息置いて、うつむきがちに言った。


「天使は蛹でも羽化したあとでも、その気になれば人の心の奥底にあるものを見たり、声を聴いたりすることができるの。それから、それを相手に自ら話してもらうことも。……ごめんなさい、私はあなたの心をのぞいてしまった。あんなにつらい記憶を、思いを語らせてしまった……。あなたは出逢ったときからずっと、焚き火の前で話してくれた言葉の通り、精一杯生きようとしていた。それなのに」


 メラニーの腕がかすかに震えはじめる。


「あの呪いがどういうものか気づきながらも、あなたはその身を盾として私を守ってくれた。あの呪いを……自らの死を受け入れたあとは、あんなに苦しんでいた最期の瞬間まで私を気遣い、すべてを託して私を生かそうとしてくれた」


 ショーンの肩に額を当てて、メラニーは声を詰まらせた。


 ショーンは心の奥底から熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。できることならば、震える彼女を今すぐにでも抱きしめたい。抑えがたいほどの衝動……この感情を何と呼べばいいのか、彼にはわからない。

 その衝動をどうにか理性で抑え込み、メラニーの言葉を待つ。


「そんなあなたを見ながら、私はあなたに生きてほしいと強く願ったの。あなたの生きようとしていた心を無視して天に連れていくなんて、私にはできなかった。それに……」

「それに?」


 メラニーが顔を上げる。


「私も見てみたいの。あなたの出す答えを。そして、私自身も答えを探してみたくなった。神々が何故私をあなたのもとに送ったのか。あなたの答えを一緒に探すことで、何か手助けをできるかもしれないし、私も自分の答えを見つけられる気がするの。………言葉にできない。……うまく言えないけれど、私には女神さまがあなたを選んだ理由がわかるような気がする」


 メラニーは一息置いて続けた。


「私はこうしてあなたを生かすことを選んだ。もしかしたら、あなたの苦しみをただ闇雲に延ばしただけかもしれない。現に今、心も身体もこんなに傷だらけで、ひどい苦痛に耐えながらあなたは生きている。私と出逢わなければ、あなたはこれまでのように気配を消せて、あの人に見つかることもなかったかもしれない。そんなひどい傷を負わずに――生命を落とさずに済んだかもしれない。救いと安らぎを与えるべき存在である天使が、あなたに苦しみと混迷を与えてしまった。……結果はどうあれ、これは私の犯した罪なの。だから、私はあなたを助けたい。あなたを守り、見届けたい……いえ、一緒に歩んでいきたいの。あなたと天が許してくれるなら、最期まで」


 ショーンは眉間にしわを寄せ、俯いた。ショーンの手がメラニーの腕に重なる。迷いと不安。ショーンは無意識にその手に力を込めていた。

 彼の手のわずかな震えからそれを感じ取ったのか、不安を払拭ふっしょくするようにメラニーは明るい声で続けた。


「大丈夫よ。私の力はちゃんと回復する。蛹から孵るときと同じように、人々の良き心に触れていれば、自然と戻ってくるから」

「違う。それだけじゃない………おそらく俺はこの先も狙われ続けるだろう。俺と行けば、まず間違いなくまた君を危険な目に遭わせることになる。今回はどうにか君を守ることができたが、下手をすれば、今度は君が生命を落とすかもしれない。そんな危ない橋を君に渡らせることなど俺には――」

「それでも、一緒に歩きたい。これは私が選んだ道だから」


 メラニーの迷いのない真剣な声が、ショーンの言葉をさえぎる。メラニーの決意の固さがその声から伝わってくる。


(――止めても無駄だな)


 ショーンはまぶたを閉じてふうっとひとつ息を吐くと、手の力を弛めた。


「ひとつ、頼みがある」

「なあに?」

「さっき歌っていたあの歌、もう一度聴かせてくれないか」

「いいけど……ちょっと恥ずかしいな。私、そんなに上手じゃないから……笑わないでね」


 メラニーはショーンの背中を抱いたまま、少し照れながらささやくように歌いはじめた。

 低く、高く……哀愁を帯びながらも、どこか懐かしく愛に満ちた美しい旋律が風に遊ぶ。

 ショーンは目を閉じ、静かにその歌声を聴いていた。穏やかに時が流れていく。ざわついていた心が、緩やかに落ち着いていく。歌の持つ、不思議なぬくもりに包まれる……。


 柔らかな歌声が止むと、彼は決意を固めて目を開き、顔を上げた。


「俺はあの日からずっと、人との関わりを避けてきた。感情を押し殺し、心を忘れて生きてきた。君に出逢わなければ、俺はあのときあっさりとあの男の術にかかり、今ごろ生きているとはいえない状態になっていたかもしれない。あるいは抑えきれなくなった憎しみに駆られ、何の躊躇ためらいもなくあの男を殺していただろう。いや、冷静になれず返り討ちにって死んでいたか、捕らわれていた可能性のほうが高いな」


 ショーンは少し俯いて自嘲じちょう気味に微笑んだ。そして一息置いて再び顔を上げた。


「あの男との戦いで自分を失いそうになったとき、俺は君のこの歌に導かれ、戻ってくることができた。君とこの歌が、俺を踏みとどまらせてくれた。俺に生命だけでなく、心も呼び戻してくれたんだ。……ありがとう。君は罪だと言ったが、俺はそうは思わない。俺はメラニー、君に救われたんだ。だから、罪の意識で見届けるなんて言わないでくれ」


 そして決意を込めて、こう続けた。


「罪の意識ではなく、君が心からそれを望むのなら……一緒に来てくれ。君が天に帰るそのときまで……いや、俺の生命が続く限り、俺も全力で君を守ろう」


「ありがとう!」


 メラニーは嬉しさのあまり、ショーンをぎゅっと抱きしめた。ショーンの全身に激痛が走る。


「あぐッ! うぅっ――……」


 ショーンは身体を丸め、歯を食いしばってその痛みに耐える。


「ご、ごめんなさいっ! つい……」


 申し訳なさそうなメラニーの声に、ショーンは蹲ったままフッと小さく笑って答えた。


「いや、いい。この痛みは、俺が生きている証だ」



 ショーンはゆっくりと姿勢を戻した。ショーンの手がメラニーの腕から離れる。


「それはともかく、そうと決まればすぐにでもここを発ちたい。この傷をやすにも、君の旅に必要なものを揃えるにも、このままここで休むより、どこか人里まで降りたほうがいい。すまないが、手を貸してくれないか」

「ええ、もちろん」


 二人は支えあうようにしてゆっくりと立ち上がった。血の気が引いていくような感覚に襲われて、ショーンの足元がふらつく。


「大丈夫? 歩ける?」

「ああ、たぶん」


 そう言いながら一歩踏み出すと、ショーンは眩暈めまいを感じ、ぐらりと大きくよろめいた。意識が遠のく。彼が思っていた以上に多くの血を失っていたらしい。そして彼自身が考えていたほど、体力も残っていなかったようだ。


「危ない!」


 慌てて彼を支えようとするメラニー。その声で正気に戻ったショーンは咄嗟に近くの木を掴み、なんとか自力で踏みとどまった。


「……すまない。一人で長距離を歩くのは、かなり厳しそうだな」

「……本当に、休まなくて大丈夫?」


 心配そうにショーンの顔をのぞき込むメラニー。

 ショーンの額には脂汗が光っている。顔色は悪く、息も少し荒い。

 熱も高いのだろう、身体がかなりだるそうで、メラニーには彼がやっと立っているように見える。


 今の彼は、とても旅を続けられるような身体ではない。それはショーン自身が一番よくわかっている。


「行こう。今休めば数日動けなくなるのは目に見えている。俺一人ならなんとでもなるが、食糧もそれほど持ち歩いていないし、何より今の俺では何かあったときに君を守ることができない。君にはいきなり苦労をかけてしまって申し訳ないが」

「ううん。大丈夫よ」


 彼女はそのままショーンを近くの太めの木まで誘導すると、にっこりと微笑んだ。


「ここで待ってて。すぐに残りの荷物を取ってくるね」

「すまないが、火の始末もしておいてくれないか。あの場所なら大丈夫だとは思うが、万が一にもこの豊かな山を燃やしたくはない」

「わかった。どうすればいいの?」


 メラニーは微笑んだままショーンの言葉を待つ。


「まず残ったたきぎで缶をかき出してから、火がしっかりと消えるように水筒の水をかけてくれ。ここならすぐそこにある沢で水をめるから、遠慮はいらない。そのあと、かまどの脇に集めておいた土を炭の上にかぶせておいてほしい。最後に、缶をそのままここへ持ってきてくれ。熱ければ残っている薪で挟んで。手を怪我したり火傷をしたりしないように、少し大きいだろうが作業には竈のそばに置いた俺の手袋を使ってくれ」

「うん、わかった。やっておくね」

「本当は俺がやるべきことなんだが………頼む」


 ショーンは木の幹にもたれかかって、メラニーを見送った。


 それほど時間もかからずに、作業を終えてメラニーは戻ってきた。


「ありがとう。助かった」

「どういたしまして。薪はほとんど灰になって火が消えてたから、缶も充分冷めてたよ」


 ショーンは差し出された缶を受け取ると、ふたを開けて中身を確認した。


「うん、それなりにいい火口ほくちができているな。荷物をこちらにくれ」


 ショーンは背嚢はいのうから取り出した小さな袋にその缶を入れて、背嚢の中にしまった。そして背嚢に鹿革を巻いて固定すると、そのままそれを背負う。


「結構重いけど、大丈夫? 私が背負うよ」

「いや、大丈夫だ。背中の翼を傷めてしまうだろう?」

「翼は大丈夫。必要なとき以外はしまっておけるから」


 ショーンが驚いたように動きを止める。


「便利なものだな。でも、いい。やはり俺が背負う。それより、杖にできそうな棒が見つかるまで肩を貸してもらえると助かる」

「わかった。お安いご用よ」


 メラニーは微笑んで答えた。


「東でいいのよね?」


 メラニーはショーンに肩を貸しながら聞いた。

 熱が高いのだろう。多くの血を失っているはずなのに、彼女に触れるショーンの身体は熱く感じる。寒気もあるのか、はたまた痛みがよほどひどいのか……ショーンの身体は微かに震えている。首にかかった彼の吐息も熱を帯びている。その熱がメラニーに彼の苦しさを伝える。無理はさせたくない……メラニーはそう強く思った。


「ああ。東へ。まずはすぐそこの沢で水を汲んでから、登山道沿いに街道へ出よう。それが一番安全だ。慣れない山道で、しかも俺を支えながら歩くのは大変だろう。少しでも疲れたら、遠慮なく言ってくれ。平地と違って山で無理をすれば、簡単に共倒れになるからな」

「うん、ショーンお兄ちゃんも、辛くなる前に言ってね」


 ショーンは一瞬考えたあと、少し困ったような声で告げた。


「……もう『お兄ちゃん』はやめてくれないか」

「え? あ、うーん……じゃあ……」


 メラニーの悩む姿を見て表情を緩めると、ショーンは静かに告げた。


「ショーンでいい」

「わかった。じゃ、私のこともメラニーって呼んでね」

「ああ、わかった」


 こうして二人はゆっくりと歩きはじめた。

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