第一章 出逢い

第1話 出逢い

(――まるで海だ)


 青年はゴツゴツとした岩肌をき出しにした急峻きゅうしゅんな斜面で足を止め、深緑の地上を見下ろした。後ろでゆるめに一本に束ねた、白銀の癖のない長い髪がさらりと風になびく。

 青年は周囲に人の気配がないことを確認して、安堵あんどしたようにほんの少し表情を緩めた。その身を包む濃紺の長いマントを少し開き、風を入れる。汗ばんではいないが、歩き通しで火照った身体に、高原の冷えた風が心地よい。


 現在青年の立っている場所は、高い山の頂から少し下った斜面。足元に赤茶けたれきの積もった、黒々とした溶岩質の岩場だ。踏み固められておらず崩れやすい礫が、人通りの少なさを物語る。

 それとはうって変わって、遥かに見下ろすふもとは見事に緑に染まっている。連なる小さな山々は波。樹海とはよく言ったものだ。その中を大きな河が一筋、龍の如くうねりながらキラキラと輝いている。


 斜面を駆けのぼる風を感じて、青年は山の頂越しに空を見上げた。ダークグレイの双眸そうぼうに映るは雲ひとつない青空。ほこりっぽい風の匂い。まだ風は乾いている。すぐには天気の心配はしなくてよさそうだ。


 昼までにあの頂を越えられたはいいが、陽の傾きつつある今、未だ彼は森林限界にも到達していない。あの深い樹海を夜に行くのは危険だ。避けたほうがよいだろう。しかし、せめて陽が落ちる前に、この山の麓近くまでは下りておきたい。

 青年は長いマントをひるがえし、急ぎ足で、けれども慎重に山を下りていった。


 青年の歳は二十歳前後だろうか。翻ったマントの下から牛革の胸当てと群青の厚手の綿の服、鹿革の手袋が時折 のぞく。足元は作りのしっかりとした牛革の編み上げロングブーツだ。

 青年の荷物は古びた小さめの背嚢はいのうひとつ。腰には全く飾り気のないしっかりとした長剣と、剣鉈けんなたと呼ばれる大きめの重いナイフをいている。

 若干低めの身長にしなやかな体躯たいく。中性的な整った顔立ちも相俟あいまって一見女性と見紛みまごうが、マントの隙間から時折覗く、大きくしっかりとした印象の手を見れば男性とわかる。



 傾斜もだいぶ緩くなった。麓まではあと一歩というところだろう。木々は青年の身長を遥かに超える高さとなり、針葉樹ばかりだった森には白樺やブナなどの広葉樹が多く混ざりはじめた。

 下草の種類も増えた。足元で揺れる、名も知らぬ小さな花たち。虫の音や鳥の囀り、獣たちの呼びあう声が緑の匂いに溶ける。

 寒冷な北国の山も、初夏は生命の気配にあふれ、華やかだ。


(この山は豊かだ。故郷の森にどこか似ている。あれからどれくらい経つだろう。緑は戻っただろうか……)


 幼い頃に失った故郷を思い出し、青年は足を止めた。その瞳が一瞬哀しげに揺らぐ。しかし見上げた青年の目にはもううれいの色はなく、心なしか優しく緩んでいた。



 太陽が山の向こう側に隠れたのだろう。木々の向こうに青空は見えるが、木漏れ日は地上に落ちてこない。


 道すがらたきぎに良さそうな乾いた枯れ枝を拾いつつ、地表に湧き出たばかりの小さな沢で水をむ。

 食べられる野草や木の芽を見つけては、必要な分だけをんでいく。

 そんなふうに野営やえいに必要なものを集めながら歩いていると、青年は不意に風を感じた。左側の茂みの奥から吹いてくる、緩やかでひんやりとした風を。


 青年は風のくる方向に目をやった。

 付近は傾斜の緩い斜面。左手の低い茂みと高い木々の向こうには、ところどころにつたからんだ岩肌……壁と呼んでもいいような切り立った急斜面が見えている。

 よく見るとその急斜面に、小さな洞穴ほらあなが口を開けている。小さいといっても、その入り口は青年が身をかがめずに通れるくらいの大きさは充分にありそうだ。


 青年は茂みをき分け、その洞穴に近づいた。

 入り口付近には樹木がない。彼の歩幅なら二十歩前後で渡りきれるような、ごく小さな草原となっている。草が人や動物に踏みつけられた形跡はない。そこに生えている植物を見ると、湿地という訳ではなさそうだ。


 周辺から大きな生き物の気配は感じない。もちろん、人の気配もない。

 洞穴の内部を覗いてみると、割と広そうだ。


 念のため、彼は洞穴の中を確かめることにした。

 

 青年は近くにあった松の倒木から、一本の握りやすい枝を伐り取った。そこに周囲の細い枝や枯葉や皮を巻き付け、生の蔦で縛り上げて即席の松明たいまつを作る。

 続いて背嚢から火打石とてのひらより小さな鋼の板、それから火口ほくちと呼ばれる消し炭を取り出した。

 石の鋭い角で薄く削るように鋼の板を打ちつけて火花を散らし、火口に火種を作る。それをほぐした麻紐で包み外側の細枝に挟むと、松明をぐるりと大きく回して火種を炎に育てる。

 生まれたばかりの小さな火。それが全体に燃え移るよう、また火種を森に落とさぬよう細心の注意を払いながら松明を傾けつつ、青年は洞穴の中に入っていった。



 洞穴の中は適度に広い。一見奥行きはそれほどなさそうだが、奥からそよぐ風を感じる。

 奥の壁は、ゴツゴツとした岩が大小重なってできているようだ。風はどうやらその壁に開いている、人が通ることはできそうにない小さな隙間から吹いてきている。

 ひんやりとしたその風の匂いからは湿った土と水の気配を感じる。しかし、入り口付近の広い空間には不快なほどの湿り気はなく、また乾き過ぎてもいない。

 周囲の岩壁はしっかりと硬く、滑らない程度にざらついていて肌触りも悪くない。足元は踏み固められていない、ふんわりと弾力のある土だ。これなら追っ手や危険な動物がここにひそんでいることはまずない。

 おあつらえ向きに、天井の片隅には煙抜きにちょうど良さそうな小さな穴までひとつ開いていて、そこから外の光が一条差し込んでいる。これならば中で火を焚いても窒息することもないだろうし、突然の風雨に見舞われたとしても問題なくしのぐことができるだろう。

 野営をするには理想的な環境だ。


 青年は背嚢から丸めた地図を取り出した。広げるとその地図は淡い光を放ち、現在地を中心とした山の様子を示した。


 登山道と街道の交差点までは、まだそれなりに距離がある。

 この先はほとんどがなだらかな上り下り。街道に当たる少し手前に、岩場の急な下り坂があるようだ。彼の足でもここから街道までは一時間半から二時間はかかるとみておいたほうがいいだろう。

 陽もだいぶ傾いてきた。北国の夕暮れは早い。

 このまま歩いても、街道に辿たどり着く頃には確実に陽が暮れる。ならば、無理をせずここで野営をしたほうがいい。


 青年はここを今夜のねぐらと定めた。入り口の光が届く広い場所で岩の隙間に松明を差し込むと、薪を集めるため彼は再び外へと出ていった。



 一晩細々と火を灯せるだけの薪と少し多めの杉の生葉を手早く集めると、青年は洞穴の前に戻ってきた。松明が燃え尽きる前に戻りたかったので、それほど長い時間はかけていない。けれども先ほどとは、何かが違う。


(何だ? この音は――)


 洞穴の中からかすかに聞こえてくる音がある。耳を澄ますと、何かの歌を口ずさむような……人の声だ。

 初めて聞くその旋律は、哀愁あいしゅうを帯びてはいるが、どこか懐かしく優しい。耳ではなく、もっと奥深いところに直接響いてくるような、なんともいえないぬくもりを感じる歌。

 決して危険を感じるような歌ではない。だが、油断はできない。相手が自分に害をなすものでないとは言い切れない。

 青年は音を立てないように注意しながら、拾い集めた薪と背負っていた背嚢を慎重に足下に置く。そしてゆっくりと立ち上がり、用心のため剣のつかに手をかける。


「そこに誰かいるのか?」


 青年の誰何すいかの声に、歌うような声が止んだ。小さな足音が入り口にパタパタと近づいてくる。

 青年は腰を落として身構えた。


「あ、よかった、人だぁ!」


 小さな人影が駆け出してくる。青年は息を止め、目を見開いた。

 年の頃は五歳前後だろうか。まだ幼い、おてんばとまではいかないが活発そうな少女だ。ふんわりとした白い服がよく似合っている。

 少女はプラチナブロンドのまっすぐな髪を肩まで伸ばし、愛嬌たっぷりの顔に人懐っこい笑みを浮かべて、ぱっちりとした無垢むくな青い瞳で青年を見上げた。


「あたしメラニーっていうの。おにいちゃんは?」


 予想以上に幼い相手の登場。呆気にとられて動きを止めていた青年は、少女の無邪気な問いかけで我に返った。

 少なくとも、危険な相手ではなさそうだ。青年は構えを解き、剣の柄から手を放す。しかし、まだ油断はできない。何が起こってもすぐに対処できるよう緊張を保ったまま、青年は口を開いた。


「俺はショーンという。君はどうしてこんなところに? 一人か?」

「うん、ひとりだよ。おひるねしてたらいつの間にかここにいたの。きっと神様たちがショーンおにいちゃんに会わせてくれたんだね」


 音色の良い鈴を鳴らしたような可愛らしい声で無邪気に笑う少女。その笑顔に曇りはない。


(何を暢気のんきな――)


 青年は少女の笑顔を見ながら、心の中でひとりごちた。けれどもその言葉には、焦りやさげすみ、呆れといった響きはない。彼自身も驚くほど、あたたかい何かがそこに含まれていた。


(出会ってしまったからには、この子をこのままここに放っておく訳にもいくまい)


 青年は辺りを見回した。


「親は? 仲間はいないのか?」

「おとうさまもおかあさまも、おともだちも天にいるよ」


 少女は明るく答えた。

 自身の遠い記憶が蘇る。青年は一瞬呼吸を止めた。彼の顔から、僅かに見えていた表情が消える。


「でね、あたしはあたしをかえしてくれる人をさがすんだ」


(事故か捨子か、はたまた迷子か……どんな事情にせよ、ますます放ってはおけない)


 青年は無表情のままひざまずき、彼の鳩尾みぞおち辺りまでしかない身長の少女に視線を合わせた。


「帰るあてはあるのか?」

「うん。なきゃ神様たちがここにあたしを送らないと思う」

「そうか。ならば俺がここから一番近い人里まで送ってやろう」


 少女はきょとんとした顔で青年を見た。何かを言いあぐねて口ごもり、目を伏せてなにやら考えこんでいるようだ。しばらくすると少女は青年をまっすぐに見て、再びゆっくりと口を開いた。


「えーとね、んー……そうじゃないの。おうちやどこかにかえりたいんじゃなくてね、あたしの『かえる』は――」


 青年は表情を変えずに少女の言葉をさえぎった。


「急ぐ旅ではないが、俺の旅にはかなりの危険が伴う。その危険に巻き込む可能性がある以上、俺はそこまで送ってやることしかできない。けれど、今日はもうすぐ陽が暮れる。明日の朝、陽が昇るまでは動かないほうがいい。今夜はここで一緒に休んでもらうが、いいか?」


 少女は戸惑った顔でじっと青年を見つめた。彼のその顔にも口調にも表情はない。しかし、青年の低く落ち着いた深い響きの声に、少女はどこかぬくもりを感じていた。


「……あたし、おにいちゃんといっしょにいてもいいの? めいわくにならない?」


 不安気なうるんだ瞳で見つめる少女に、青年は静かに答えた。


「山は危険だ。安全なところに送り届けるまで、一人にする訳にはいかない」


 少女の顔に、ぱあっと明るさが戻ってくる。


「ありがとう! うれしい!」


 少女が言葉通りの嬉しそうな笑顔で青年に抱きついてきた。

 不意を突かれた青年は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を緩めた。そのまま少女を抱き上げ、洞穴の入り口近くにある低めの岩にいったん座らせる。

 少女に背を向けた青年は背嚢を背負い、輪にした蔦でひとつにまとめた薪を左手で拾い上げる。無表情に戻った青年は、少女に右手を差し出した。


「行くぞ。足元に気をつけろ」

「はあい」


 その手を取って元気に岩から降りる少女。無事の着地を確認すると、青年はゆっくりと少女の手を引いて歩きはじめた。

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