過去の決意、現在の誓い。

 駆ける。ただひたすらに、森を――。


 泣き声だ、泣き声が聞こえる――。


『エレナ様! エレナ様! どうしよう! エレノアが! オレのせいでエレノアが!』


 風切り音が鼓膜を叩く。身体中、力んで仕方がない。


 遠く……、遠くの方から子供の泣く声がする――。


『ケガを! オレのせいで!』


 心臓が跳ね、息が詰まる。ジワリと脂汗が滲んだ。


 ああ、泣かないで……お願いだから――。


『ごめんなさい! オレのせいで! オレが!』


 石、草、根、枝……、ありとあらゆるものが体毛を掻き分け、肌を切り裂いていく。


 早く、急がないと、じゃないと――。


『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』


 血と汗が絡んだ体毛が肌にビッタリと張り付き、離れない。しかし、不思議と痛みもなければ不快感もない。いや、息苦しさも、果ては意識さえも、全てが徐々に薄れていく。だが、相変わらず泣き声だけが止まない――――。


『んぎゃあ、んぎゃー! ぉんぎゃーー!』


『どうしよう! ど、ど……どう?! あ、いや……ご、ごめんなさい! じゃなくて! はやく! じゃないと、エレノアが!』


『ルイス、落ち着いて――、まずは落ち着きましょう、ね。ゆっくりでいいから、落ち着いて、ルイス――』


『で、でもケガを! エレノアが! オレっ! オレのっせいで! ケっ――! ゲホッゲホッ!! ゲッ! ッ!』


『エレノアなら大丈夫。大丈夫だから、ね。まずは落ち着いて――』


『ンっ――! で、でもっ! さっきからずっと泣いてて! それにケガだってッ――!』


『んぎゃ! ぉんぎゃあ! んぎゃあ! んんぎゃあ!』


『ルイスがそんなに慌ててちゃ、私も安心してエレノアに集中できないでしょ。だから、ね。落ち着きましょ』


『――!! ご、ごめんなさい! 落ち着く! 落ち着きます! ゲホッゲホッ! す、すぐ! げ、ホッ!』


『んっ! んぎゃあ! ん、んっぎゃ! んぎゃ!』


『もう……ほら、ゆっくり深呼吸、ね。いい?』


『んっ! は、はい! スッ、スッ、スッ、ハッ、スーッ、ハッハッ、スッスッ――』


『んん。んぎ、ん――――』


『そう、そう、ゆっくり、ね。焦らなくていいから、ゆっくり、少しずつ、少しづつ――』


『スッ、スーッハッ、ハーッ、スー、ハー、スー、ハー――――』


『んーん。まっ! んー――――』


『――――、どう? 落ち着いた?』


『う……、は、はい! も! ……もう、大丈夫……です――。 ――! そ、それよりもエレナ、様! オ、オレは大丈夫、です、だから早くエレノアのこと見て上げて! ……ください――』


『それなら、もう大丈夫よ』


『え――? ほ、ほんと!? ですか……』


『もちろん! ほら――』


『んーま。んーーまっ!』


『ほ、本当、だ……』


『もしかして――、私の旧姓をお忘れ?』


『え――? え、えっと……――』


『――……? ……ごめんなさい、そういえば言ってなかったわ……』


『い、いゃいえ! エレナ様があやまらないで! ――ください』


『そうはいかないわよ、私が悪いんだもの。ルイス、ごめんなさい』


『え、えっと、そんな、ぜんぜん! ……そ、それよりも名前! 名前、教えて、ください』


『そ、そうね! 名前だったわね。――シャムール。』


『しゃ、むーる……』


『そう、聞き覚えないかしら?』


『ご、ごめんなさい……――』


『もう! なんであやまるの! 悪いことなんて何もないんだから。わかんないときは堂々と、わかんない。って、言えばいいのよ』


『ご……あ、いや、……わ、わか、りません――』


『そうそう。男の子ならやっぱり堂々としてなきゃ! 女の子の前では特に、ね』


『は、はは、は……?』


『……――もう、女の子って歳でもないでしょう、くらい言ってもいいのよ?』


『ご、ごめんな……、あ、いや、えっと……――』


『うーん。ルイス、真面目なのもいいけど。そればっかりじゃあアデルバートみたいにカッチカチでつまんなくなっちゃうわよ』


『か、かっち、かち……?』


『そう! まぁ、初めて会った頃と比べれば大分柔らかくはなったけれど……、じゃなくって! 私の旧姓の話だったわ。シャムールよ!』


『え、えっと……――、それは、聞き……ました――』


『……、――――! そ! そういうことよ! ――ひ、ひとつ惜しいとすればもっとはっきりと言い切らないと! ね!』


『――は、はい……次から、そう、します』


『そう! それがいいわ! ね! ――そ、それで! シャムールについてだけど!』


『は――! はい!』


『いい? コルネシアでシャムールと名乗れば国民のほとんどが回医術士を思い浮かべるくらいには有名なのよ。シャムールの回医術にかかればこのくらいの傷チョチョイのチョイなんだから』


『ほ! ほんとう!!?』


『ええ、もちろん。どんな怪我でもかかって来なさいってなもんよ!』


『ス、ス――!……ごい、です』


『ありがとうルイス、でもね。怪我は治せるわ、いくらでも、ね。――けれど、いざという時にエレノアを守れるのはあなただけ――、ルイス』


『――? オレ、だけ……?』


『そう、あなただけ……。私たちには敵が多いの、あまりにも――』


『て、てき……――?』


『ええ、特にあの人、アデルバートは特に、ね』


『オ、オレが! オレがいる! ……ます』


『ええ、もちろん。ルイスも私もアデルバートの味方よ、あの人もそれはわかってる。でもね、だからこそよ。だからこそ多いの』


『じゃ、じゃあ! オ、オレが守る! みんなオレが、守る! ……ます』


『ふふ、ありがとう。でも、私とあの人のことなら心配いらないわ。私には回医術が、アデルバートには知識と知恵がある――。だから、自分の身くらいは自分で守れる――』


『ご、ごめ――』


 そうだ、この時、エレナ様は指を口元に当てて俺の言葉を――。


『――ふふ、いいのよ、ありがとう――。でも、エレノアはそうはいかない。それに、さっきも言った通り私たちには敵が多い。自分のことで精一杯の時もあるしれない。それに――』


『それに――?』


 ああ、この時の俺はまだ、お二方のことをなにも――。


『――ルイス……、エレノアを――』


『エレナ!!』


『――! アデル! もう! どうしたの、そんな大きな声出して――』


『やった! やったぞ! 勝った! 勝ったんだ! 僕らが! 僕らの! 僕らの勝ちだ!』


『う、うそ……!』


『嘘じゃないとも、本当だ……! これで、これでエレナ! 故郷くにに、君の故郷くにに帰れるんだ――!』


『ほ、本当に……、本当に帰れるの……』


『ああ――』


『そう……、帰れる、の、ね……』


『まー? まーあ?』


『エ、エレナ、様――? だ、大丈夫、です、か?』


 エレナ様の目には涙が浮かんでいた、この時の俺はなんで泣いておられるのか分からず……。ああ、なんて底抜けのバカなんだ。


『ああ、ごめんなさいね、二人とも。大丈夫、大丈夫よ――』


『あ、ああ、ルイス。会話中すまない、割って入ってしまって。わざとじゃないんだ、どうしても、な。申し訳ない』


『い、……い、え、大丈夫、です』


 ああ、あまりにも拙い……。俺はこんなことすらまともに言えないのか……この様では、従者失格だな――。


『おおそうだ、ルイスにもちゃんと話さないとな。――……、どこから話せばいいか……――』


『それなら! さっきの続きじゃないけれど――。あんなこと言っておいてだけど、その……もう大丈夫……。敵がいなくなったって言えばいいかしら?』


『え!? 敵が!? い、いなくなった?! ……んですか』


 当たり前のことだが、事はそう単純なことじゃあなかったんだ――。


『そうよ! もう心配しなくても良くなったの』


『さ、さっきアデルバート様、勝ったって……。――! も、もしかして、全部やっつけちゃったの!? アデルバート様が!? ス、スゲェ!! ぁ、いや、ごめ! ッすみません! す、すごいです!!』


 なんて単純だったんだろうな、この時の俺は……、言葉をそのまま言葉の通りにしか受け取れないなんて――。もちろん、エレナ様はなにも悪くない。ただ、バカな俺にも分かるように説明してくださった、そう、バカなガキにも分かるように――


『そうよ! アデルはすごいんだから!!』


『あきゃ! きゃ! まー! ばぁ! ごぉ!』


『お! おい! 聞いたか! エレナ! ルイス! い、今、ぱーって! 言ったよな?! パパって!? ことだよな? そうだろ? な!?」


『そ、そう? そうかしら……?』


『そうだとも! なぁルイス! ルイスも聞いただろう、ぱー、って! エレナのことをまー、と呼んでるんだ。なら僕は、ぱー。だろ? なぁルイス!』


『は、はい! 言っていた、……と思います』


 そうだ、そうなんだ。もう、こんな日々はもう、来ないんだ。


『もう、なにルイスを困らせてるの。そんなに強く言ったら、違うって言えるわけないじゃない』


『い、いやそんなつもりは……。それに、間違いなく言っていたんだ……エレノアが……』


『……――。ええ、そうね、言っていたわね。』


『あ、ああ! そうだとも!』


『そうね。なら次は、ルイスね』


『そ、そうか……そうだ。そう、だな!』


『オ、オレ……ですか――?』


 そうだ、この日、この日に夢に見た日々はもう、決して訪れはしないんだ。


『エレノアは頭がいいからな、きっとすぐだ。もう明日には呼ぶようになるかもしれない!』


『え? エレノアがオレのことを――?』


 エレナ様だって、もういない。


『ええ、もちろん――』


『『家族なんだ』から』


『――とは言ったものの、まだまだしばらくの間、対外的には従者という事にはなるが……。申し訳ないな、ルイス』


『もう、わざわざ言わなくてもいいのに、そんなこと』


『あ、いや、すまない。そうだな、確かにそうだ……』


『い、ゃ……い、え、大丈、夫、です。え、っと……お、二人、は、オ……ワタシ、のこと、を家族って言ってくれた、から、だから、それは変わらない、です、から。』


 そうか、そうだな。ついに、ついに来たんだ。エレナ様のおっしゃっていた、いざという日が……。エレノアを俺が――。


『それに、家族ってことはオ、ワタシはエレノア、様のお兄ちゃんってこと、だから、お兄ちゃんは妹を守るものだから。』


 いや違うな……私が、私だけがエレノア様を、お守りできる――。


『アデルバート様が教えてくれ……ました、従者も主人を守る人、だって。だからオ、ワタシ、は――!』


 失敗した、何度も、今日だけではない生まれてから今日までずっと失敗ばかりだ。しかし、今度だけは、今度ばかりは、絶対に、失敗するわけにはいかない――。


『い、一生、を、かけて、エレノア様を――』


 全身全霊をもってお守りするんだ――――。

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