四話

 迷いの陣、幻惑の術、その他全ての人の感覚を狂わせる技に関して林氷伶は一家言ある。それは小手先の技に惑わされずに任務を遂行するための知恵であり、彼の最も得意とする追跡と暗殺の技を完璧にするものだった。彼が魏龍影の信頼を勝ち得たこともこの知恵による——何にも惑わされず、ただ誓った忠誠のほどを存分に見せつける林氷伶でなければ、魏龍影の補佐、ましてや彼が未来を託した一人娘の補佐など到底できたものではないのだ。

 その林氷伶の見立てでは、広範囲にわたって迷いの陣が敷かれているなら、陣を維持させているものが必ず森の中に転がっている。そういうわけで、彼は魏凰の集めた男たちから聞いた、いつも道が分からなくなるというあたりを頂上を目指してではなく水平に捜索した。そして数日後、山腹を囲むように一定の間隔で打ち捨てられた祠や石碑が立っていることを突き止めると、林氷伶は魏凰と部下を連れて祠のひとつにやって来た。

「こんなもので術が使えるのか?」

 傾き、荒れ果てて今にも崩れそうな祠を前に魏凰が呟く。

「こんなものだからこそ、術の道具に適しているのです」

 林氷伶は落ち着き払って答えた。そして部下たちと魏凰が訝しげな目で見守る中、林氷伶はおもむろに流星錘を取り出して構え、なんとその祠に打ち当てた。

「林氷伶‼」

 崩れかけだった祠が断末魔を上げて倒壊する。魏凰が大声を上げ、周囲の男たちも驚きざわめく中、林氷伶は一人平然と空を見上げた。

「駄目か」

 魏凰たちが騒ぐ以外に何も起こらないことを見て取ると、林氷伶はすっと顔を下げて部下たちを見回した――皆驚きと恐怖に目を見開き、特にこの付近に住む者は、発言を許されれば林氷伶を一斉になじりだしそうな目で彼を睨んでいる。そんな中、林氷伶は魏凰を見据えると、

「他の祠と石碑も壊しましょう」

 と淡々と述べた。

「地味で目立たず、山中に転がっていてもおかしくないものほど陣を敷くには最適です。ひとつずつ壊して回れば、必ずやこの山の秘密は解けます」



***



 風天巧がこの山に住み着いたのは、風水の調和が取れていることに加えて、彼自身が誰にも邪魔されない空間が欲しかったからだった。そのためにわざわざ迷いの陣まで敷いたというのに、その陣が今まさに破られようとしている――これには風天巧も動かざるを得なかった。小鳥の警告によると、ここから十里の地点に置いた印のいくつかはすでに破壊されている。残りの印を壊される前に侵入者を追い払わなければ、せっかくの隠れ家が荒らされてしまうのは火を見るよりも明らかだ。

 一方、そんな事情はつゆほども知らない穆哨は、風天巧が顔色を変えて小屋を飛び出した理由がさっぱり分からない。あとを追って小屋を出た穆哨は母家の手前で風天巧に追いつき、その薄めの肩をぐっと掴んだ。

「放せ、穆哨!」

 風天巧が声を荒げて体をよじる。穆哨はかえって指に力を入れて風天巧を引き留めた。

「もっと詳しく教えてくれても良いだろう。何があったんだ?」

「東鼎会の連中が山の陣を破ろうとしている。私の仕掛けに気が付いたらしいな。だからこれ以上狼藉を働かれる前に連中を追い払う。君はここで待っていろ」

 早口でまくしたてると風天巧は穆哨を振り切った。再び走りだそうとする背中に向かって穆哨は言った。

「ならば尚更、俺を隠すことはないだろう。鳳炎剣を持つ俺が奴らにとってどれだけの脅威か、お前もよく知っているではないか」

「駄目だ! 今鳳炎剣を使って、敵の面前で倒れたらどうする!」

 風天巧が怒鳴った。初めて聞いた怒号に穆哨は驚いて立ちすくんだ――しかし戸惑いはすぐに消え、穆哨は再び言い返す。

「だが、今俺たちの手元にあるのは偽の鳳炎剣なのだろう。本物でないのなら……」

 すると突然、風天巧がふっと笑みを浮かべた。呆れたような、人を小馬鹿にしたような明らかな嘲笑に穆哨の中で不安が芽生える。

「穆哨よ。その鳳炎剣が贋作なら、なぜ君の功体が急に強化され、金丹を形作るまでになったのだ?」

「……どういうことだ」

 一抹の不安がみるみるうちに肥大化していく。そんな穆哨の胸中を知ってか知らずか、風天巧は静かに口を開いた。

「今、蠱洞居の宝物庫の奥深くで眠っている鳳炎剣こそが私の作った偽物ということさ。私は孔麗鱗に与えられた日数で本物に小細工を施していたに過ぎない。どうせお前以外に誰も扱えない剣なのだ、ならば姿形が全く同じ張りぼてを作って本物だと偽れば誰も疑わないだろう? 証拠として私が本物を扱ってみせれば、孔麗鱗も楊夏珪もまんまと引っかかった。ああ、野暮な質問はしないでくれよ。なぜならこの私こそが五行神剣の製造者、天玦神巧てんけつしんこうなのだからね」

 風天巧は極めて淡々と語った。その顔を呆然と見つめる穆哨は目に入っていないらしく、風天巧の視線はまるで数里先を見ているようだ。

「お前が、五行神剣を? では、最初に俺を匿ったのは……」

「五行神剣が欲しいのは何も人界の奴らに限った話ではないのだよ。鳳炎剣とその使い手が同時に懐に飛び込んできたら逃すわけがなかろう? 五行神剣とその使い手が味方について一番得をするのは誰か――あるいは君が神剣の一振りを持つ者として、誰につけば最大の保護が得られるか。よく考えたまえ」

 風天巧は抑揚のない声で言い切ると、立ち尽くす穆哨を置いてさっさと歩きだした。

 穆哨はその背中を成す術もなく見送っていた。食えない奴とはいえ、それでも自分の中に築かれていた風天巧への信頼が一気に霧散したような心地がした。傲慢不遜と言える部分はたしかにあったが、それでも何かしらの権威をかさに着ることは風天巧は決してしなかった。むしろそれを嫌っており、自分の実力でもって他者を圧倒することを好んでいた——その点では風天巧は芝居ができるような性質ではない。今までの振る舞いが穆哨を騙して鳳炎剣を掠め取るためだったとは、穆哨にはとても思えなかった。むしろ固い声で天界の権力を振りかざす風天巧の方が、どこか芝居をしているように思える。

 本当は、天界が嫌いなのではないだろうか。天界の話をする風天巧を見ているとそんな気がしてくる。

 ならば尚更、このままではいられない。

 穆哨は意を決すると、風天巧の作業場へと急いで引き返した。

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