第四章 異変

一話

 夭丘鎮で穆哨たちを見失った魏凰が次に選んだのは、この地域を拠点にしている味方を集めることだった。

 皆魏龍影に忠誠を誓い、彼が天下を取った暁には中部森林地帯を手に入れることが約束されている歴戦の兵士たちだ。天下統一の鍵となる鳳炎剣が宿敵・孔麗鱗の差し金で盗まれたことは彼らもすでに知っており、魏凰は土地勘のある彼らを使って夭丘鎮から麓苑までの森林と小高い山が連なる一帯を監視下に入れたのだった。

 今、彼女の前には一枚の地図がある。この地域一帯を一枚の紙に写しとったこの地図には朱の印がふたつつけられていた――ひとつは林氷伶が穆哨たちを見失った夭丘鎮から数里の地点。そしてもうひとつは、最初の追跡で東鼎会が鳳炎剣を盗んだ穆哨を見失った山だ。

 ところが、この森をよく知る男たちはそれを聞くなり揃って顔を曇らせた。

「この山は……しかし……」

「魏姑娘、俺ら、本当にここにも行くんですか?」

「そもそもこのとき盗人を追って山に入った連中は、その後戻ってきたのですか?」

「戻ったも何も、帰還した者がいなければ盗人がここで消えたことを私が知るはずがあるまい。何故そんなことを聞く?」

 魏凰は眉をつり上げた。本当に行くのかという問いはまだしも、最後の問いは明らかに異質だ。

「まさか、この山に妖魔鬼怪がいるなどとは言うまいな」

「……少し、違いますな」

 中の一人、年長の男が魏凰に答えた。その歯切れの悪さに魏凰は睨みをくれ、ぶっきらぼうに先を言うよう促した。

「いやその、怪しいことは確かなのです。化け物の類ではないというだけで」

 慌てて言葉を継いだ男に、別の者が同調する。

「そうなんですよ、魏姑娘。この山は変なんです。登っていると突然ふもとに戻っていたり、同じ場所を回るばかりで出られなくなったりして、誰も通り抜けることができないんです」

「どういうことだ?」

「俺らにもよく分からないんですが、おそらく術か何かで惑わされてるんじゃないかと……」

 魏凰は腕を組んだまま「ふん」と呟いた。今の話が正しいとすると、山に居ついた何者かが迷いの陣を敷いているということになる。

 そういえば、あの夜山に入った部下たちは突然現れた小柄な男に襲われて、気が付いたら全員まとめて山のふもとに捨てられていたと話していた。そのために穆哨を完全に見失い、追跡は仕切り直しとなったのだが、では同じく山に迷い込んだ穆哨はどうなったのか。野垂れ死にしていないということは、その男に助けられたのだろうか?

「ちなみにだが、山に誰か住んでいるという話はあるか」

 体格、実力、姿を現した頃合いから察するに、住んでいるとしたら風天巧の可能性が高い。それを見定めるためにも魏凰はそう尋ねたのが、男たちは顔を見合わせて首をひねるばかりだった。

「さあ……仙人を見たといううわさは昔からあるのですが、住んでいるかどうかまでは……」



「仙人だなんて、馬鹿馬鹿しい」

 皆を下がらせ、一人残った魏凰は椅子の中で毒づいた。

「風天巧の奴か、そうでなければ三流の方術師でも居座っているに決まっている」

「そうとも限りませんぞ」

 入口から聞こえた低い声に、魏凰ははっと顔を上げた。戸口を見るといつからいたのか、黒い外套姿の林氷伶が立っている。

 その実、彼林氷伶は娘に追跡を任すにあたって魏龍影が付けた見張り役だった。しかし、いつの間にか姿を消し、いつの間にか帰ってくる林氷伶は、魏凰にとっては少々厄介な手合いだ。

「昔は本当に仙人がいたのかもしれませぬ。そのときに敷かれた迷いの陣が今でも機能しているのであれば、仙人というのもまったくの絵空事ではないかと」

「だが、あの夜追跡に当たった連中の話では人間がやっているとしか考えられぬ。それに仙人自体が絵空事ではないか。現実に存在などするものか」

「ならば尚更、何者が潜んでいるか確かめる必要がありましょう」

 林氷伶の発言に、魏凰はまさかと眉を跳ね上げた。

「行くのか?」

「闇に紛れての行動で私の右に出る者はおりますまい。それに、もし陣を破壊できれば大手を振って山を探索できます」

 魏凰は黙ったまま椅子に沈み込んだ。

「……だが、もしお前が行方知れずになったら」

 魏凰が椅子に沈み込むのはあれこれ考えつくして何も思い浮かばなかったときだ。不貞腐れた子どものような態度だが、これが昔からの癖だと知っている林氷伶は今さら小言を並べたりはしなかった。もとより彼は魏凰に指図できる立場にない。彼女が少しでも魏龍影の期待に添えるよう、陰に陽に助けるのが彼の役目なのだ。

「ご安心を。単独で中心は目指しませぬ。私は陣を破るのみ、そのあとで皆で分け入っても手遅れにはならないはずです」

 林氷伶はそう言って一礼すると、返事も聞かずに立ち去った。



***



 風天巧は家から十里の各地点を繋いで巨大な陣を敷き、近付く者を監視している。それが偶然迷い込んだだけならもとの道に追い返し、悪意を持って分け入ろうとしたなら閉じ込めて彷徨わせる――近隣の住人が山を忌避する原因はこういうことだったのだ。裏を返せば、迷いの陣が維持される限りこの山は風天巧にとって格好の要塞となる。そういうわけで、二人は麓苑には行かずにこの安全な場所で一度体勢を立て直すことにした。

 穆哨が鳳炎剣を持っていると東鼎会が知ったことで孔麗鱗の作戦の第一段階が成功した。今、鍵となるのは生き餌である穆哨だ――今持っているのが偽の鳳炎剣であることを悟られないためにも、穆哨を万全の状態にしておくことが不可欠だった。相次ぐ戦闘で穆哨を疲弊させっぱなしにはできないのだ。

 ところが、ここに来て穆哨の肉体に異変が生じていた。

 夜明けも近い時間に家に戻ってから眠ってしまったきり、穆哨が一向に目を覚まさない。始めは疲れがたまっているのだろうと思って放置していた風天巧も、時間ばかりが一日、二日と経つうちに、不安もあらわに寝室の中を歩き回るようになっていた。

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