二話
実のところ穆哨は、船旅に出るのはこれが初めてだった。蠱洞居の付近には水辺というものがほとんどなく、孔麗鱗は陸にこそ強かったが水は不得手だからだ。飛び込みで乗せてもらったために一等の船室で寝泊まりすることは叶わなかったが、穆哨は漕手たちと寝起きし、船の仕事を手伝う日々に楽しさを見出していた。濃い灰緑色の幅広の流れも両岸に並ぶ木々もその上の空模様も、船から見える景色は似たようなものだったが、何日かごとに寄港する城鎮は川を下るごとに様相を変え、穆哨の目を楽しませた。
だが、それと同時に肌を刺すような緊張感が増していく。船を降りるたびに周囲に剣吞な視線を向ける男女の姿が目立つようになった――百姓や町人の格好はしているが、皆衣の下に武器を隠しているぞと言わんばかりだ。麓苑までまだ半分も来ていないというのに、やはり水郷を掌握しているだけあって魏龍影の水の捜索網は侮れない。
この日立ち寄った街、
青白さの残る顔で寝台の上に伸びていた風天巧は、うーんと呻くと身を起こした。
「では、そろそろ別れ際を見極めるときが来たということか」
「だろうな。もっとも、あんたが陸の方が良いと言うのなら、適当に理由をつけて降りるというのも手だが」
穆哨が呆れ気味に言うと、風天巧はため息とともに再び布団に突っ伏した。
「連中の漕ぎ方が荒すぎるのだ……」
「馬鹿を言うな。船酔いするくせに、なぜ船に乗ることを承知した?」
穆哨にこう言われては風天巧も立つ瀬がない。穆哨が漕手たちと毎日のように甲板に上がっていた間、風天巧は船底の寝床で不快を訴える臓腑とひたすら格闘していたのだ。悪天候で船が大きく揺れれば完全に負けだ。商人も漕手たちも、そして穆哨も、この母王山の公子の思わぬ体質に驚きを隠すことなど不可能だった。公子本人は船旅には縁がないからと青い顔で笑ってごまかしていたが、今や誰もがこれ以上の船旅に耐えさせて良いものかと首をかしげている。
「ここから麓苑まではどのくらいだ?」
風天巧が尋ねる。穆哨は漕手の話を思い出しながら、
「晴れていれば船で四日ほどだ」
と答えた。
「して、この街には、どのくらい逗留するのだったかな」
「二日だ。明後日の朝には出立すると聞いている」
穆哨はそう告げると、ついでに買ってきた丸薬の包みを取り出した。
「飲め。胃薬だ」
「それはありがたい」
穆哨が薬を二粒渡すと、風天巧はさっさと受け取って薬を飲み込んだ。
ふと、その目が穆哨の持つ包みに注がれた。視線に気づいた穆哨は、包みを風天巧に渡してやった。
「『万病快癒
店の印を読み上げる風天巧に、穆哨は
「天界に昇ったとかいう女医のことか」
と言う。
「近くの丘に医館を構えていたらしいぞ。彼女は医館の周りで薬草を育てていて、丘を登るとまずその薬草畑が夭夭と茂っているのが見えたから街の名を『夭丘』というらしい。薬屋が多いのもそのせいだと」
数軒おきに目に入ってきた「明憐姑」の三文字と、買い物をした薬屋の男の話を思い出しながら穆哨は言葉を続けた。修行を積んで天界に昇り、仙人となった者の話は講釈や芝居の題材によく使われている。明憐姑はここ夭丘鎮でのみ有名なようだったが、たとえば
風天巧は穆哨の話にふむと呟いたきり、黙って明憐姑の字を見つめていた。やがて包みを穆哨に返すと、風天巧は床に置いた靴に足を入れて立ち上がった。
「大丈夫なのか?」
怪訝そうに穆哨が尋ねる。風天巧はぐっと伸びをすると、
「ちょっとした気晴らしだよ」
とだけ答えて出ていった。
***
その夜。月が空高く昇る頃、皆が寝静まった街にけたたましい悲鳴が上がった。
その声を聞いた穆哨はハッと目を覚ますと、休んでいた椅子から立ち上がった。寝台では風天巧が起き上がり、何事かと窓の方を見ている。第一の悲鳴が夜の静寂にこだまし、長々と尾を引いてから消えたのと入れ替わるように、第二、それに被さるように第三の悲鳴が上がる。これで街は完全に起こされた――家という家に灯りがともり、宿もにわかに騒がしくなる。穆哨は武器を掴むと、廊下に出てきた客の間を縫うようにして外に出た。
通りには人が溢れ、皆ひそひそと話し合っている。あとを追ってきた風天巧とともに皆の視線の先を見た穆哨は、何が起きたかをすぐに理解した。
運河の上流から煙がのぼり、赤い光が見えている。火事だ、と誰かが呟いた声があっという間に広がり、あたりは不安げなざわめきに支配された。
「東鼎会の奴らか?」
思わず呟いた穆哨に、風天巧が扇子を揺らしながら答えた。
「分からぬ。だが、無辜の者が悪しき事態に巻き込まれているのはたしかだろうな」
他人事のように落ち着き払った一言に、穆哨は頭から水を被ったような心地がした。何か言い返そうにも喉が動かない。
「もしかすると、東鼎会の連中とは全く関係がないのかもしれぬ。追い剝ぎ、強盗、通り魔に放火魔、悪しき事態といっても実に様々だからな」
穆哨が何も言えずにいる間に、風天巧はつらつらと言葉を続けた。まるで感情の見えない冷ややかさに、穆哨の中で嫌な予感が膨らんでいく。
もっとも、東鼎会の懐へと入り込む道を選んだ時点で、いつかどこかで衝突することは目に見えていた。それでも今は、この火事が東鼎会の狼藉でないよう祈る思いが先走っている。
理由など、考えている暇はなかった。穆哨は、ただその不安に突き動かされるように雑踏をかき分けて火事の現場へと走りだしていた。
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