落花にあう

紺野理香

第一章 魔性の花嫁

 千の庭園の都たる大永安城を、望むがままに支配する〈花嫁〉が、時の帝に対して、幼き第六皇女の生首を要求した。

 そんな噂話をそのころ、都びとで知らぬ者はなかった。

 上京早々、田舎者であることを露呈した若者は、箸ですくい上げた蕎麦をどんぶりの上に持ち上げたまま、目をぱちぱちさせた。

 長卓を二、三並べるのがやっとの狭い蕎麦屋の店内では、旅装の男や行商人が思い思いにどんぶりをすすっている。昼時を少し過ぎているからか、客は多くない。開け放した表の扉から、店が面した大通りの喧騒や砂埃が一緒くたに入ってくる。

 若者の座る、麺つゆの匂いの染みついた長卓の脇には、あきれ顔をした店のおかみが立っていた。

「まさかあんた、天呪閣の〈花嫁〉を聞いたことがないっていうのかい?」

 箸でつかんだ蕎麦の束からつゆをぽたぽたと落としながら、若者は無言で頷いた。

 おかみは、皺の多い顔に憐れみの表情を浮かべる。おかみが、天丼を勢いよく置いたせいで、卓上のどんぶりが小さく跳ねた。

「あの魔物のことを知らないおのぼりさんがいるとはねえ。あんた、顔にたいそうな傷をこさえているから、名のある任侠者かと思ったが、とんだ世間知らずだね」

「確かに任侠の徒じゃないが、名くらいあるさ。杜陽という」

 杜陽は少しむっとして答え、箸にかけた蕎麦の塊を口に押し込んだ。

 おかみへの返事は少しずれているのだが、杜陽はちっとも気にしていない。すっかり乾いてしまった蕎麦を咀嚼する左の頬には、だいぶ前に受けたと思しき傷跡が深く刻まれている。目のすぐ下から顎まで一直線に伸びる傷は、平凡な若者の顔に迫力を与えていた。

 もとは藍色らしい着物は砂塵にまみれ、草鞋の鼻緒には何度も結び直したあとが見える。遠方からの旅人の服装である。

 この杜陽が、蕎麦屋の他の客がひそひそと口にしていた噂話に耳をとめたのが、そもそもの発端だった。

 杜陽にほど近い席で、行商人風の男が向かいの客に声を潜めて切り出した。

「〈花嫁〉が、下々のものを取って食うだけでは飽き足らず、帝の姫君の生首をご所望だっていうじゃねえか」

 天呪閣の〈花嫁〉なる魔物についての話題が、都で天気の挨拶がわりにかわされる世間話になって久しい。

 先の冬、大永安城の官庁街である皇城上空に、突如として怪人物が飛来した。

 牡丹と胡蝶を金糸で縫い取りした、血のように赤い唐衣。濃い朱色の珊瑚を角のように飾った冠。人目を奪うあでやかな装束をまとうその女は、天帝の美しい妃のように見えた。

 しかし、目を凝らしてよく見れば、そのたおやかな白い腕には、凄まじい末期の形相をした男の生首が抱かれていたのである。

 以上のことを、おかみはおどろおどろしい表情を作って語った。だが、杜陽は「気味が悪いな」とひとこと言ったきり、その言葉がまるで嘘のような豪快さで、天丼を一気にかきこむ。

 杜陽の無神経さにおかみは首を振って、話を続けた。

 異変に気づいた衛兵たちが矢を放ったが、宙に浮かぶ女には、どれ一つとしてかすりもしない。それどころか。女が薄笑いに口をゆがめながら手を一閃すると、子供がでたらめに紙を切り裂くように、地上の兵士の手足が一斉に胴体から離れてしまった。

 殺戮の天女は、その浮遊する位置の高きがゆえに、その金襴緞子の長帯を一滴の血にも濡らさずになびかせて、百のつららをレンガに落としたような声で言った。

「さてもずうずうしく富み栄えた都だこと。洛東の高官のみならず、その日暮らしの荷運びまでもが、大夏帝国の繁栄を誇らしげにしている。ああ憎らしや。しばらくの間この都に留まって、傲慢な帝を懲らしめてやるとしよう」

 女は、玻璃を叩いたような高笑いを流血の往来に向かって浴びせかけ、いずこともなく飛び去った。

 その夜、天下に地震あり、空には真っ赤な星がいくつも落ちた。

 一○○万人の暮らす都大永安に、暁を知らせる鐘が鳴る。まだ暗い明け方に、松明の明かりを頼りにして朝廷に出仕しようとしていた役人たちは、我と我が目を疑った。大永安城の要、大極殿の真上に、一夜にして奇怪な楼閣が出現していたのである。まぎれもなくあの鬼女の仕業であった。

 あでやかな仙女のいでたちをした化け物は、ところもところ、中原から西域までを掌中に収める大夏帝国皇帝の頭上に棲みついたのである。

「ああ、あれね。帝の宮殿の屋根から生えてたあの不格好な建物ね。てっきり数寄者の帝の道楽かと」

 ようやく合点がいったように、杜陽がのんきに声を上げると、おかみは眉を吊り上げた。

「そんなわけあるもんかね。だいたいあの城は、宮殿の屋根から浮いてるんだよ。正体の知れない魔物が、自分の家の真上に巣食って、生活の一部始終に目を光らせているもんだから、かあいそうに、帝が寝ついちまうのも無理はないね」

 建築様式どころか物理法則さえ無視して勝手に増設された大極殿の新棟は、天空に向かって怨嗟の叫びを上げているかのようなその姿から、天呪閣と呼ばれるようになった。

 魔性の女が居座ってからというもの、宮廷には昼となく夜となく怪異が起こり、帝の政務が滞ること甚だしい。

「怪異って、例えば?」

 杜陽が、天ぷらの海老のしっぽをばりばりと噛み砕きながら問う。おかみは、杜陽の口の端から絶えずこぼれ出る食べ物のかすを、ぞっとしない目で見ていたが、〈花嫁〉の起こす怪異を指折り数えてみせた。

「何でも、お城の奥の皇帝の寝所からは、朝目覚めたときに太陽が二つ見えるっていうね。外国の使節をもてなす宴で、広い食卓いっぱいの黄金の皿に盛られていた珍味が全部、寸の間に血まみれの目玉に変わっていたこともあるらしいし」

 杜陽は、新たに注文したきつねうどんをすすりながら、一つ考えて言った。

「その女は一体どこからやってきたんだろうな。そして何だって、この永安に棲みつこうなんて思ったんだろう」

 おかみは勢いづいて言った。

「この店に来るお客さんの話じゃさ、あの女は天竺から来たんだっていうよ」

「天竺? 仏の教えが渡ってきた、ありがたい菩薩の国じゃないか。そんなこと誰が言い出したんだい」

「西方の胡の国に行ってきた隊商がいくつも、西から飛んでくる〈花嫁〉を見たって言ってるらしいんだよ。きっとあの化け物、仏様をだまくらかして、不思議の技を盗み取ったのさ。それで、須弥山で修行を積むのにも飽きて、『次は大夏帝国でも支配してやろうか』なんて思いついたんじゃないのかい」

「たまったもんじゃねえよなあ」

と、周りの客たちが、眉をひそめてうなずきあう。

「その〈花嫁〉っていう名前はどこから?」

 杜陽が質問すると、おかみはすっかり親戚の叔母のように砕けた口調で教える。

「それは、あの魔物が生首に嫁いだからさ」

「生首に?」

「最初に空に〈花嫁〉が現れたとき、腕に男の首を抱いてたって言ったろ。あの首が、〈花嫁〉の大事な亭主なのさ。千年かもっと昔、〈花嫁〉は取り立てて言うところもない、その辺にいるありふれた女だった。だけど、恋した男が思い通りにならなかったんだ。思い余った女は、好いた男がほかの女と祝言を挙げる日に、晴れ姿の二人の首を噛みちぎったのさ。〈花嫁〉のものになった男の首は、どんな妖術を使ったのか、千年たったいまでも腐らないんだよ」

「へえ」

 杜陽の表情が、急に白けたものに変わった。食べ終えた器に、シメのお茶漬けを頼む。

 そんな前日譚が一体どこからわかったんだ——と言わんばかりの顔である。

 青年の雰囲気の変化に目敏く気づいて、おかみは気を引くように声を潜めた。

「大永安城を自分の庭みたいにしている〈花嫁〉が、今度は帝の姫さまの首をお望みだっていうんだよ。指名された六の姫君といえば、帝が昔、一番の寵愛を注いでいた女御との間の娘さね。ところが、姫を差し出さなければ、帝自身とこの都にどんな災いが降りかかるか知れたもんじゃない。国のために、実の娘を人外の化け物に差し出さにゃあならないなんて、帝もかあいそうにねえ」

 時の帝に身分差を超えた同情を寄せて、おかみは小さな目を潤ませる。杜陽は、興味なさそうに「それで?」と話を促した。

「それでって……あんたほんとに人の子かい。近頃の若者は薄情だねえ。まあいい。帝は、〈花嫁〉を見事退治した者には褒賞を惜しまないと思うね。天呪閣に上って帰ってきた剛の者は、どんな栄達の道も思いのままだろうよ。金銀財宝を蓄えた大邸宅を永安に建てることだってできるんじゃないかい」

 おかみの話を聞くうちに、杜陽の目がらんらんと光を帯びてきた。素直な興奮を隠さないまま、杜陽は、注いでもらった熱いお茶を一息に飲み干した。

「よい話を聞いた。飯もうまかったし、都に上ってはじめに入った店がここでよかったよ。それじゃ、ごちそうさま」

「そうかい。それにしてもあんた、よく食べたねえ。お足を頂戴しようかね」

 杜陽の前には、空のどんぶりが山と積まれている。

「じゃあ、ちょっと待っててくれるかい」

 杜陽はそう言うと、立ち上がってふらりと店を出て行こうとした。おかみは慌ててその腕をつかんだ。

「ちょっと待ってくんな。こんなにたらふく食っておいて、食い逃げしようって魂胆かい」

「え?」

 見る間に鬼の形相となったおかみに、杜陽はかえって面食らった表情をした。

「銭なんて重いもの、旅に持ち歩くのは難儀じゃないか。盗っ人に狙われても物騒だし。その場で稼げるものを身に帯びておく必要はないだろう?」

「何だって?」

 混乱するおかみを尻目に、杜陽は、長卓の上のどんぶりを何枚かまとめてつかむ。これ借りるよ、と言い置くと、軽い身のこなしで店の鴨居をくぐった。

「あ、食い逃げ! 皿泥棒!」

 慌てふためいて店の表に出たおかみは、すぐさま、くだんの皿泥棒の背中に顔をぶつけるはめになった。

「さあさあお立ち会い! 道ゆくきれいな娘さんも、お仕事中のお役人さまも、これを見逃す手はないよ! 隴西一の道士杜陽の、一世一代の大奇術!」

 蕎麦屋の面した大路は、永安城の入り口である明徳門にほど近いところである。城内で一番高い仏塔を二つ並べて寝かしても余裕があるほど幅のある通りは、その両側に商家や民家の廂を隙間なく並べている。牛の引く大八車に山のように荷物を載せた農民や、托鉢の鉢を抱えた僧侶などでごった返し、巻き上がる砂塵で煙っていた。

 人波を通して大路の向こう端まで届くような張りのある声に、流れの中の幾人かがこちらを向いた。

 その機を逃すまいと、杜陽は手にした器をカルタの手札のように器用に広げてみせる。

「わたくしの手にございまするは、そこなる蕎麦屋の変哲もないどんぶり。数えてみれば、ひい、ふう、みい、よお、いつ! さあて皆さまお立ち会い……」

 そこまで口上を述べて、杜陽はいきなりどんぶりのうち三つを宙高く放り投げた。

 通行人の目が、はっとどんぶりを追う。

 そのまま地面に叩きつけられるかと思われたどんぶりを、しかし、杜陽は危なげなく受け止めた。そのときには残りの二つのどんぶりも宙に舞っている。

 杜陽は、息つく間もなく落ちてくるどんぶりを地面につく前に拾っては、また次々と投げ上げた。受け止める動作と放り上げる動作の間隔は、どんどん短くなっていく。

 杜陽は最後に、手首を返して一際高く投げ上げると、五つのどんぶりを一つも落とすことなく手に収めた。

 いつのまにか周囲に高く垣根を作っていた観客から、ほおっとため息が漏れる。

 杜陽はさらに、声に笑みを含ませた。

「道士杜陽の秘技はこれからだよ! 続きを見なけりゃ今生の後悔!」

 言うが早いか、杜陽の手から再びどんぶりが離れた。落下する二つのどんぶりを、今度は腕を交差してそれぞれの手で受け止める。その動作を何度か繰り返したあと、杜陽が同じことを背中側でやりはじめたのを見て、群衆はどよめいた。蕎麦屋の店内の客も見物に出てくる。大路の人垣の原因を調べにきた、明徳門の詰所の兵士までもが口を半開きにして目を奪われている。

 宙に飛ぶどんぶりと手の上のどんぶりがめまぐるしく入れかわる。一つひとつのどんぶりの動きを、誰も目で追うことができない。杜陽はさらに、懐から手品のようにもう二つどんぶりを取り出して加えた。

「投げるどんぶりが増えたなら、手も増やせばよいのであります」

 杜陽は足を交互に使って、器用にどんぶりを蹴り上げた。

 しまいに、まるで宙に透明な管でも通っているかのように、あやまたずまっすぐ両手に落ちてきたどんぶりをやすやすと回収する。

 杜陽は、どんぶりを持った両腕を広げてぴたりと動きを止めた。

 通行人の顔に笑みが生まれ、拍手が沸き起こった。杜陽が膝に鼻がつくほど深々と頭を下げ、大道芸に使ったどんぶりの一つをゆっくりと地面に置くと、人の輪から次々と銭が投げ入れられた。

 蕎麦屋の前で滞っていた人の流れが元に戻ってから、杜陽は銅銭を集めた深いどんぶりを持ち上げて嬉しそうにした。そこから今晩の宿代だけつかみ取ると、目を丸くしてことの様子を見ていたおかみに、ずっしりと重たいどんぶりを押しつけた。

「はい、どんぶり返すよ」

「あんた、まるでそうは見えないけど、立派な特技を持っていたんだねえ。人は見かけによらないってのはほんとだ」

 おかみは、薄汚れた旅姿でにこにこしている杜陽をじろじろと眺めた。

「そういえば、あんた、〈花嫁〉の話に食いついてたけど、まさか、討伐に名乗りをあげるつもりかい?」

「ああ。都に出た途端、こんな話にぶつかるなんて思ってなかった。さすが大永安、伝説が日々生まれつづける都だ。みんなが言ってたことは、信じてよかったんだ」

 中原に育った人間なら誰しも、「十人の栄達の物語に登場する百の鳥獣木石を持つ千の庭園を抱く都」とうたう詩の一節を耳にしたことがあるだろう。

 おかみは眉根を寄せた。

「天呪閣の階段に足をかけて戻ってきた者はいないんだよ。〈花嫁〉のもとへたどり着く前に、手下の鬼や魔物に殺されっちまう。宮殿の屋根には毎晩、ちぎれた人の手足や頭が降ってくるって話さ。ついこないだだって、朝廷の有名な霍将軍が〈花嫁〉退治に出かけたって言うのに、ついに戻ってこなかったんだからね」

「ま、いまに見てなよ」

 杜陽は顎を上げて笑ってみせる。

 栄養分の代わりに自信と野心が血液の中に溶け込んでいるような若者にとって、都の秋の曇りない青空は、自分の輝かしい前途を象徴しているように思われた。

 しかし、胸を栄達の予感で膨らませた杜陽の顔にそそぐ日差しが、そのときにわかにかき曇った。

 それは不意の天気雨だった。見上げれば、大きな立体感のある雲が、太陽を遮って流れている。太陽の逆光になって、端を金の光で縁取った灰色の雲から下界に向かって、きらり、きらりと水滴が落ちてきた。まばゆい光の満ちる蒼穹と雨という、矛盾をはらんだ取り合わせに現実の色が失われる。さあっと降り注ぐ天気雨は、まるで舞台で演劇が始まる前の、細かい金の紙吹雪のように見えた。

 声も簡単には通らない喧騒に満ちていたはずの大路に、管弦の音が割って入った。杜陽の耳に慣れた俗曲などとは異なる、妙なる調べを奏でている。杜陽は、その一音一音を聞くたびに、聴覚の新たな領域が開かれていくような気さえした。

 天上の音楽は、次第にこちらへ近づいてくる。

 杜陽は、美しい眺めと音に、耳目ともにとらわれて、ろくに回らぬ口で言った。

「今日は……、どこぞの大貴族の姫さまが、後宮入りでもするのか?」

 しかしおかみの表情は、杜陽とは正反対に、見た者を石に変える怪物と目が合ったかのように凍りついていた。来ちまった、と肉厚の唇が声を出さずに動く。

「〈花嫁〉行列だ!」

 誰かが叫んだ。その恐怖の風船を破裂させたような声を皮切りに、店の前の大路は逃げ惑う人々で恐慌をきたした。

 杜陽は唖然とする。田舎育ちの若者は、群衆の一人に強い力で突き飛ばされてようやく、聖なる音楽といってもよいほどの楽の音から、皆が逃げようとしているという状況を把握した。

「ばかだね! 何ぼさっとしてんのさ!」

 きつい叱責の声に面食らって振り向けば、おかみが蕎麦屋の中に戻って杜陽を手招きしていた。目がきつくつり上がっている。

 杜陽がまごまごと地面から起き上がり、蕎麦屋の敷居をまたぐと、おかみはピシャン、と高い音を立てて戸を閉めた。遅れて屋内に入った右手の指の先がちょん切れたような錯覚を覚えて、杜陽はびくっとした。

 店内には、通りから逃げ込んだ通行人と、蕎麦屋の客がひしめき合っている。誰もが息を潜めて、目だけを皿のように見開いている。杜陽は、人々に共通する原始的な恐怖の表情にゾッとした。

「は、〈花嫁〉ってまさか……」

 おかみが杜陽の服の裾を引いて、黙れと合図した。その血の気を失った唇が、杜陽の問いに対する明白な答えだった。

 店内の人々の緊迫感が伝染して、杜陽は息を詰めた。

 店の前の大路からは、蜘蛛の子を散らすように人々が逃げてしまい、先ほどまでの滝の落ちるような喧騒がすっかり嘘のようだった。

 宝石のような弦楽器の音が聞こえる。誰かが横笛を高く吹き澄ましている。それは、山風が青々とした小竹の空洞を吹き抜けていくように喨々とした響きだった。千の鈴が、細かく身を震わせて歌う。天空を舞う龍の鱗が擦れ合う音のようだ。

それら一つひとつの音が目に見えるきらめきとなって、眼に飛び込んでくるようである。静かな波紋のように重なり合う音のひだが、滑らかでゆったりとした旋律をつくっている。

 とても、引越しの挨拶がわりに血の雨を振らせるような化け物の仕業とは思えない。通りに響いているのは、清浄な白い蓮の花の上で遊ぶ天人だけが奏でることのできる音楽にほかならなかった。

 杜陽は、誰も近づかない店の戸にそっと身を寄せて、細く開こうとした。店の奥からおかみが鋭く、「やめな! 目が潰れるよ!」と息だけで叫んだ。

 杜陽は構わず、戸をわずかに横に滑らせた。

 それはまるで、天人の行軍か竜宮からの嫁入りだった。

 一目見れば、その豪奢、華々しさ、綺羅綺羅しさで精神的に満腹になってしまうのに、目だけは貪欲に情景を味わうのをやめることができない。

 彩雲に乗った楽人たちが、楽器を楽しげに演奏している。高価な綾絹をたっぷりと使った服を身にまとう楽人たちは、膝丈ほどしかない者から大木ほどもある者まで、さまざまいる。

 楽の音に合わせて身を揺らし、くるくると回るのは、顔をベールで隠した舞姫だ。数十本の銀の花飾りのついた重たい冠を載せているにも関わらず、くるぶしまで覆う鮮やかな刺繍のスカートを翻して、軽やかに舞っている。風でまくれたベールの下には、緋色や紫、橙色など思い思いの口紅で彩られた唇が、艶やかに笑う。

 楽隊と踊り子のあとには、嫁入り道具を背に乗せた獣たちが続く。

 黒檀で作られたかのように黒い体と金の目を持つ象。一日に千里を軽く走るような雄々しい体躯の馬。唐獅子、蛟。白い駱駝の背には、異国の王の横顔を刻印した金貨を何十枚と縫いつけた絹がかけられている。皇帝の庭に放つために、地の果てまで探し求めさせたような奇獣が、黒檀の行李を背負い、十頭単位で隊列を組んで行進していくのだ。

 獣たちのあとを追って、侍女たちが花を抱いて現れたので、辺りにこの世のものとも思えないかぐわしい香りが満ちた。

 侍女たちも舞姫と同様に、肩までの白い布でその玉顔を覆っている。幾何学模様にビーズを縫いとめた短いチョッキの下に、大きな桃李の花びらを何枚も重ねたようなスカートをまとっていた。天の川を切り取ったかのごとく宝石の散りばめられた濃紺の帯には、三日月形の短剣が挟んである。侍女たちがいくらしずしずと歩を進めても、首や手首を飾る金と宝石の装身具が触れ合って鈴のように音を立てるのを止めることはできない。

 そしてついに、杜陽は行列の主役に目をとめた。

 馬に乗った侍女たちに守られて、一際巨大な白象が姿を現した。

 その象を目にして初めて、杜陽はこの行列に恐れを抱いた。白象には、頭が三つあったのである。どの頭にも立派な牙を持つその象は、足や耳に太い金の輪をはめている。その広い背に据えられた、透けるようなレースの籠の中に、〈花嫁〉が座っているに違いなかった。

 杜陽は、顔を戸の隙間に押しつけて目を細めた。レースに映る横向きの人影から、伝統的な赤い花嫁衣装を想像しようとした。

 杜陽が〈花嫁〉をはっきり捉えることができないままに、白象は虚しく通り過ぎた。その後ろを、侍女たちがきらきらした紙片のようなものを、腕の籠から通りにまいて歩く。美しい大きな胡蝶の群れがひとしきり続いて、それで行列は終わりだった。

 あまりに美しい光景に当てられたように顔が上気して、杜陽は居ても立ってもいられなくなった。蕎麦屋の戸をするりと抜けて、表に駆け出す。

 店の奥からおかみが「お待ち! 取って食われるよ!」と必死の形相で呼び止めたが、まばゆい行列に心を奪われていた杜陽は、意に介さなかった。蕎麦屋の戸口から一番離れた店の奥では、人々が固まってぶるぶる震えている。

 あんなに美しい行列を恐れて見物しないなんて、都人が聞いてあきれる、と杜陽は軽蔑まじりに思った。

 血気盛んな若者は、行列をひっそりと付かず離れず追いかけた。侍女や踊り子の中には、若く美しい少年も紛れている。その少年たちの持つ色とりどりの旗が、風にゆるゆるとたなびいていた。

 華やかな一行は、明徳門に入っていく。

 明徳門は、大永安城の正門にふさわしい巨大な楼門である。牛に引かれる大八車が小さく見えるほど広い通路が、三本開いている。見上げれば、門の上部は三層の楼閣になっている。楼閣の廂の下には、彩色の施された木彫の鶴や菊が目に鮮やかである。

 杜陽は、行列に続いて明徳門を通り抜けた。

 都城に入ってすぐのところは、二つの大通りが交差する広場である。

身を鳥に変えて都の上空を飛ぶならば、大永安城は、南北九本、東西九本の大路によって貫かれた正方形に見える。区切られた小さな正方形の一つひとつには、大小の通りが複雑に交差していて、狭い路地を覆うように、家々が廂を伸ばしている。広めの道の中心には大きな水路が流れ、荷を積んだ小舟がもやってあった。アーチ型の橋脚を持つ石橋の両端に柳の木が植えられている。

 〈花嫁〉行列が進むのは、ときに皇族の御輿も通るような大通りである。普段なら馬に乗った役人や西方の商人の引く駱駝が行き交い、大店の客の出入りも激しい通りが、今はこんなにもしんとしている。煉瓦造りの家々は、通りの両脇で木の扉を固く閉ざしていた。

 初めて歩く都大路をきょろきょろと見回していた杜陽は、前方の地面に、きらきらと虹色に輝く薄いものが何枚か重なって落ちているのを見つけた。三つ首の白象の後ろの侍女が籠からまいていたものである。近づいてみると、巨大なオパールを薄く削ったように見えた。

 拾い上げようとして杜陽がかがむと、むっと濃厚な生臭いにおいが鼻をついた。

 その正体を悟って、肌が粟立つ。

 地面に落ちていたのは、魚の鱗だった。仙人が住むという蓬莱の島の周りを泳ぐような、大きな宝魚の鱗である。それは、生きた魚から無理やり引き剥がしたように、ぬらぬらと血に濡れていた。

 知覚というのは不思議なもので、地面に落ちていたものの正体を頭で理解した途端、それまで気づいていなかったのが不思議なほど、魚の血の異臭が強く立ち上って、吐き気を催させた。

 口元を押さえながら杜陽は、先をゆく行列に目をやった。行列の行く手の木の根元に、痩せた野良犬がうずくまっている。固く閉ざされた家々の門に締め出されたらしく、行き場を失ってぶるぶると震えていた。

 行列を先導する踊り子たちが、野良犬に目をとめ、踊りをやめる。踊り子たちは、誘い合って花見に出かける若い娘たちのように華やいで、野良犬に襲い掛かった。

 それが犬の声だとは誰も信じられないような、身の毛のよだつ断末魔が上がった。続いて沸き起こる、鞠つきにはしゃぐ少女たちのような笑い声。杜陽はいままで、これほど戦慄を覚えさせる笑い声を耳にしたことがなかった。都の人々が日夜聞き、恐怖の源となっているのは、この声だったのだと今更ながら確信する。どの一人を取っても、傾国の美女と形容できるように思われた侍女と舞姫たちも、〈花嫁〉の眷属である魔性のものに違いないのだ。そもそも、顔を覆う布の下に、人と同じ数だけの目鼻口があるのかどうかすら怪しい。

 杜陽は、鼻を覆っていた袖を下ろした。濃密な血のにおいが、鼻腔に侵入してくる。喰われた野良犬の強烈な生臭さと天女の舞い踊る美しさは、対極であるからこそ、妖しく危うい均衡を保っている。無残に八つ裂きにされた野良犬の血だまりに、まばゆく光る天気雨が降り注いだ。

 吐き気のするほどおぞましいものは、同時になんと美しいのだろう。

 明徳門から都大路を西に進んだ行列が、北に曲がった。続く杜陽が、曲がり角の先に見たのは、明徳門よりも一段と立派な楼閣群と、その上に浮かぶ禍々しい城だった。

 天呪閣の基本的な部分は、白壁と反り返った瓦屋根を持つ五層の楼閣であるらしい。各層に、欄干のついた回廊が張り出している。しかし、その楼閣からは、統一性のないさまざまな建物が飛び出していた。

 楼閣の最上層の四隅からは、一本ずつ尖塔が生えている。下の層にはドーム屋根を持つ異国の建築が張りついており、その上には五重塔や大きな屋形船も生えている。

 楼閣からせり出した建物どうしを結ぶのは、朱塗りの橋や螺旋階段、華奢な桟道である。ところどころ緑に染まった部分が見られるのは、巨大な松が根を張っているかららしい。最上層の窓と最下層の寺院の庭を結んでいる白い帯は何か、と目を凝らせば、途方もない落差を流れ落ちる滝だった。

 〈花嫁〉行列は、自らのすまいである異形の楼閣に向かって、都一の大通りの中央をしずしずと進んでいく。大路は、まっすぐ官庁街である皇城の正門に続いている。そこの衛兵は、あまりの恐ろしさに職務を放棄して逃げ出してしまったらしい。ここに来るまでの通りと同様、正門の前は閑散としていた。

 無人の楼門を、〈花嫁〉の乗る白象を中心にした行列は、難なくくぐり抜ける。あたかも、自邸の門を通るかのようである。

 皇城には、広い瓦屋根を持つ建物と、たくさんの倉庫が左右対称に整然と並んでいる。官庁街の皇城までやすやすと入り込んだ行列は、しかし、宮城に入る手前の門でぴたりと行進を止めた。

 帝が政務を執り行い、皇太子や皇后のすまう場所でもある宮城の楼門に、衛兵が固まって槍衾をつくっていた。

 槍衾の前に一人、立派な体格の武人が馬に乗っている。衛兵隊長なのだろう、その武人は化け物の行列に向かって叫んだ。

「ここから先は、聖上が政をなさり、住まわれる場である! 穢れた魔物が一歩でも足を踏み入れることはまかりならん!」

 勇敢な衛兵隊長は、血に飢えた魔物の行列を前にして、声を怯懦に震わせることなく口上を言い終えた。

 〈花嫁〉の乗る三つ首の白象が、三本の長い鼻を振り上げて高らかにいなないた。

 それに呼応して、嫁入り道具を運ぶ奇獣たちも、背の黒檀の箱を振り落とさんばかりに前脚を高く上げて吠えた。牙をむき出しにした獣の穏やかならぬ足踏みが、硬い地面を震わせる。

 しかし、その音は次第に軽く、弱くなり、ついには消えた。けれど獣たちは、依然として、威嚇するように前脚を踏み下ろしている。一体なぜ足音が聞こえなくなったのだろう。杜陽は、獣や踊り子の足が伸びていることに気づいた。

 いや、そう見えたのは錯覚だった。行列の構成員の肩と頭の位置が、先ほどより高くなっていたのは、下半身が伸びたからではなく、体が地面から浮いたからだった。行列は、ゆっくり途中に浮かび上がる。体に真珠のような光沢を走らせる白い大蛇が、色さまざまの旗に合わせて宙を泳いでいる。

 騎乗の隊長は眉をひそめ、背後の衛兵は大きくどよめいた。

「怯むな! この化け物は、霍将軍をはじめ、我らの仲間の仇だぞ! 奴らに目にもの見せてやれ!」

 衛兵隊長は、後方の部下に発破をかける。

 三つ首の白象が、力強く中空を蹴った。〈花嫁〉の籠を乗せて、空に勢いよく飛び出す。楽人や舞姫、奇獣の群もそれに従った。

〈花嫁〉行列は、空からの強い力に吸い上げられるように、姿が小さく見えるほど高いところまで上昇すると、反転して、今度は一気に地上に駆け下ってきた。

 猛烈な突風が、体を固く強張らせて槍を構えていた衛兵をなぎ払った。隊長が、馬ごと遠くまで吹き飛ばされる。固く押さえつけられていた楼門の五つの扉が一斉に開いて、行列が中央の道を駆け抜けた。中央は本来、皇帝専用の出入り口である。

 〈花嫁〉行列は、衛兵隊を蹴散らして宮城の入り口を突破すると、巨人の投げた一本の槍のように、大極殿へと一直線に飛んでいった。その横長の建物の中には、いままさに皇帝がいるはずである。強風を受けて四つん這いになっていた杜陽は、肝を冷やした。

 行列は、少しも減速せずに大極殿に激突した。

と見えたときにはもう、行列の先頭が大極殿の壁を垂直に駆け上がっていた。行列は、そのまま天呪閣の側面に沿って上ると、不気味な城の天辺に姿を消した。

 ほっとする間もなく、空から何千人もの声を合わせたような哄笑が降ってくる。杜陽は、その中に間違いようもなく一際高い女の笑い声を聞いた。これから半月は、皇帝は夜毎に悪夢にうなされることだろう。

 周りを見回して、杜陽は身を震わせた。つむじ風にさらわれた木の葉のように、衛兵が地面にうつぶしている。苦痛に呻いているものもいるが、何人かは、不自然な方向に首や手足をねじ曲げられており、また何人かは、自分や仲間の槍に体を刺し貫かれていた。

 〈花嫁〉行列に立ち向かった、あの勇敢なる隊長はと視線をめぐらすと、彼は両足が倒れた馬の下敷きになっている。しかしどうやら、命は助かったようだった。

 杜陽は心の底から怖気を覚えて、行列の吸い込まれたいびつな楼閣を見上げた。いくつもの邪悪な視線が自分を見返しているように感じる。しかし杜陽はまた、その悪寒が自分の心の奥まった場所を、つつきくすぐっているのをはっきりと知っていた。

 魔道に堕ちたものたちの棲む、脈絡のない建物があべこべに組み合わさった建造物は、紛れもなく美しかった。そしてもし、このだまし絵のような城から、こらえがたいほどの気味悪さをそっくり漂白したとしたら、その魅力も同時に跡形もなく消えてしまうことは確実だった。

 日が暮れるまで、そのまま天呪閣の下で放心していられそうだったが、皇城に杜陽のような庶民が入り込んでいると、衛兵に捕まる恐れがあった。

 杜陽は、畏怖を込めて天呪閣をもう一瞥し、後ろ髪を引かれながらも、踵を返して皇城を立ち去った。天気雨は、すでに上がっていた。

 皇城の門を出ると、〈花嫁〉行列を避けて屋内に閉じこもっていた人々が、大路に戻り始めているところだった。その様子は、恐る恐るではあるものの、地震をやり過ごしたような安心感を漂わせている。都の人々にとって、〈花嫁〉行列はもはや、役人による税の取り立てや強制的な徴兵のような、生活に組み込まれた障りになっているのだろう。

 行列の舞姫たちによって野良犬が食われたところの血溜まりは、日差しに早くも乾きはじめている。赤黒く染まった地面を遠巻きにして、人の流れができはじめていた。

 都の人々が日常を取り戻すことの何と早いことか。それに驚きながら、杜陽も、通りを西に向かって歩き出した。ぞくぞくとした興奮は、田舎から出てきたばかりの若者をいまだ虜にして放してくれなかったが、さしあたって今宵の宿を探さなければならない。

 露の下りる晩秋の夜を、旅空の下、幾晩も越えてきたのである。杜陽が、久々の屋根と綿入りの布団に焦がれること、ほとんど恋に身を焼く乙女のようだった。

 杜陽は、わずかの荷物を肩に背負いなおす。そして、大路をそれた狭い通りに入ると、宿を求めて通りの両側をきょろきょろと見回した。

 家屋敷にはどこにも入り口の門がついていて、縦書きに文字を記した板戸を閉ざしている。多くは画数が多く角張った中原の文字だが、中には字画の少ない丸みを帯びた文字が見られる。これは、海を渡った大和の国の文字だった。

 古来、はるか東の海には、神仙のすまう島があるとされてきた。古代の皇帝の中には、不死の薬を求めて道士を東海に派遣した者もいる。

 大和の国のほうは、中原に入れ替わり建つ王朝から文化を摂取し、姿を変えて自国の文化の中に息づかせた。やがて、大和の国が長い戦乱の時代になると、大和の国の民は集団で中原に移住してくるようになった。十二単、金粉を使った襖絵、漆の器、刀。大和の国からもたらされた文物は、中原で大いに流行した。文人は、こぞって屋敷の調度を大和風にし、その風潮は庶民にまで浸透した。杜陽が食べた蕎麦が、その好例である。

 仙人の遊ぶ海中の島という幻想が、大和の国には常に重なっている。加えて、中原ではすでに失われた古きよき時代の反照が、大和の文化に保存されていたことが、この島国の文化を受け入れる背景になったことは間違いない。

 そして、現在の中原王朝である大夏帝国が大和をその領土に収めたことが、中原文化と大和文化の融合を決定的にした。

 大夏帝国を築いた人々はもともと、中原から見て北西の草原を故郷とする騎馬遊牧民である。つまり、中原の農耕民や都市民にとっては本来異民族なのだ。

 大夏帝国は中原を制覇すると、数万の兵団を組織して、大和の国に攻め入った。そしてこの島国を瞬く間に平らげてしまったのである。先の皇帝が大和王の娘を娶ったのは、それからまもなくのことだった。


 杜陽は、日に焼けた畳の上に寝転んだ。く、くわああという妙な声が出る。

安宿の狭い部屋の畳は、埃や砂で多少ざらついていたが、これまで長い間、木の根を枕に、固い地面を寝台に旅寝を続けてきた杜陽にとってみれば、王侯の羽布団に等しい。盗賊や獣を警戒することに慣れきった体は、はじめこそ襲撃の心配のないことにも低い天井にもようよう馴染まなかったが、真っ平らな畳の上で西日を受けているうち、徐々にほどけていった。

 杜陽の見つけた宿屋は、都の西側の、南北を二分する通りより北側にあった。裏通りに面した二階の部屋の窓から顔を出せば、すぐ下を近所の人々が歩いていく。

 夕飯どきに合わせて魚を売る棒担ぎの声が、近づいてまた遠くなっていった。向かいの家の前庭に、遠い南の海の色をした鮮やかな藍染の布が、三反も四反も竿にかけて干してある。時折風が、藍の樽の独特な匂いを運んだ。

 明日は、朝一番に風呂を浴びて床屋に行き、さっぱりした格好で人に会わなくてはならない。

日が落ちて、闇が濃くなっていく部屋の様子を眺め、少しずつ冷たくなっていく空気を肌に感じながら、杜陽は、日の暮れと夜の境を切り分けることもできず、じっと畳の上に横たわっていた。

 女中が小さな明かりを持って、階段をとんとんと上がってきて、「お客さん、下にお人がお会いに見えてますよ」と呼びかけなかったら、杜陽は、周りがすっかり闇に包まれてしまっても、そのまま寝転がっていたことだろう。

 怪訝に思いながら、暗く急な階段を手探りに降りる。階下は、帳場や台所を備えた板敷である。玄関を入ってすぐの土間に客がいることを予想して目をやったが、そこには誰もいなかった。

杜陽は尋ね顔で女中を見たが、彼女も、あれ、という不審な表情をして、土間から出て通りを見回していた。

「おかみさん、さっき土間で待っていてもらった男の人、外に出ていってしまったんでしょうか」

 女中が尋ねると、帳場で帳簿をつけていたおかみが、ひょいと顔を上げた。

「あれ、いつのまにいなくなったんだい。さっきまでそこに立っていたんだがね」

「その男はどんな風貌だった? おれは都に来たばかりだし、訪ねてくるような知り合いといっても心当たりがないんだが」

 たまらず杜陽が声をかけると、おかみと女中は顔を見合わせた。

「五十がらみの男だったよ。背丈はお客さんくらいさ」

「仕立てのいい服を着て、髭はありませんでしたよ。旅の人じゃなくて、都に住んでる者のようだった」

 訪問者の特徴を聞いて、杜陽はますます困惑を深めた。

「なんて言っておれを訪ねてきたんだい? 自分の名前は名乗ったかい?」

「杜陽さんに用がある、とだけ言いましたねえ。なんていうか、こう、うつむき加減で、自分の名前は言わなかった」

 こちらの名前は知られているのか。ふと、杜陽の目が、土間の手前の板張りの床に吸い寄せられた。いかにも、人を訪ねてきた客が、ちょっと待ち時間に腰掛けそうなその段差の上に、木彫りの人形が載っていた。

 それは、人の腕ほどの高さがある大きな人形だった。杜陽は両手で持ち上げた。

 見れば見るほど細工の行き届いた見事な彫刻である。威風堂々たる鎧武者が刀を抜き、腰を低く落として今にも眼前の敵に斬りかかろうとしている。あまりに写実的で、まるで生きたモデルから時間を盗み取ったかのような生気が感じられた。

「それ、訪ねてきた人からお客さんへの渡し物なんじゃないかい。さっきまでそんなもの置いてなかったよ」

「これが? こんな置き物をもらういわれ、これっぽっちも思い浮かばないんだけどなあ」

 夕暮れどきにふらっと訪ねてきて、消えてしまった知らない男の残していったものなど、気味が悪い。ただ、名のある匠の作かもしれないし、骨董屋にでも売り払ってしまおうか、と杜陽は考えた。

 宿のおかみと女中は、すでにこの出来事に興味を失っていた。都の者は他人へ関心が薄い。食事の用意で、単純に忙しいのかもしれない。

 杜陽は、小さな行灯を持って階段を上る女中に続いて、部屋に戻った。女中は薄い布団を引いて、行灯に火を入れた。暗さの均一だった部屋に、一瞬にして明るい中心と周縁ができる。

 女中は、灯りの周縁から出るぎりぎりのところで、つと立ち止まって、思い出したように口を開いた。

 どこかに隙間があるのか、風で行灯の火が揺れるたびに、女中の顔に映る影が不安定に大きくなったり小さくなったりした。

「さっき訪ねてきた人ね、顔に傷がありましたよ。お客さんみたいに」

 女中が階下に下りていってからも長く、杜陽は女中の残した言葉の衝撃を受け止めかねていた。

 女中の挙げた特徴を持つ男を、杜陽は一人知っていた。それは彼の叔父である。

 杜陽は、叔父の遺品を受け取るために、はるばる都に上ってきたのである。叔父は、ひと月前に死んだのだ。

 ぴか、と窓の外が光って、杜陽は肩を大きく震わせた。格子窓に歩み寄ると、遠く北の方、宮城の上がひどく明るかった。

 天呪閣の数えきれない窓が、内側からの光でまばゆく輝いている。その瞬く幾千の窓の中では、〈花嫁〉を首領にした鬼や魔物が、人間の生肝を肴に夜通し宴会でも開いているのであろうか。呪われた城のすべての部屋を一晩灯すためには、中原じゅうの民家の油を使い果たしても足りないだろう。こうまでまぶしい不夜城の直下では、皇帝以下宮中の人々は、とても眠れたものではあるまいと思われた。

 光りさんざめく天呪閣を呆然と眺めているうちに、杜陽は、今度はドン、ドンドンという重く鈍い物音が室内で鳴っていることに気づいた。

 はっと振り向く。暗さに目が慣れるまでに少し時間がかかった。最初、杜陽は地震だと思った。畳の上に無造作に放り出してあった木彫りの武将像が、大きく震えていたからである。

 しかし、部屋のほかの調度や杜陽自身は微動だにしていない。ただ武将像だけが、思うようにならない木製の体を厭うように、前後左右に激しく揺れているのだ。

 杜陽は、暗闇の中でがたがた動き続ける武将像から少しでも離れようと、冷や汗をかいた背中をぴたりと窓枠に押しつけた。


第二章 狙われた姫君 に続く

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