時限爆弾と日食

楠木次郎

第一章

 バスケットボールとは時限爆弾である。

 竹田たけだ杜夫もりおは試合中、何度もその恐怖に襲われた。彼はボールが時限爆弾であるという観念に強迫されながら、シュート、ドリブル、パスをしなければならなかった。

 普段の練習でもその杞憂に襲われたが、試合に――といっても練習試合であったが――出場してみると、爆発に対する恐怖はますます肥大した。シュートとは爆弾を投げ捨てる行為であり、ドリブルとは爆弾を叩きつける行為であり、パスとは爆弾を他者に渡してなすりつける行為であった。

 だから杜夫はパスが自分に回ってくることが恐ろしかったし、回ってきたとしても、なるべく早く他の味方に渡してしまうことを信条とした。そして、彼はこのときボールに触ることなく試合に貢献できる、一つの冴えたアイデアを隠し持っていた。

 杜夫は第四ピリオド二分に途中交代で入ると、ストップ・アンド・ゴーを繰り返し、敵を攪乱させた。最初はぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走り出す。マークしていた相手は驚いて、追いかける。すると彼が元々いた場所に誰もいなくなる。そこへ部長の旗手はたて星哉せいやがドリブルで切り込み、完全に落ち着きを払った、しなやかなフォームでシュートを決める。ボールはリングを通過し、静かにゴールネットと擦れた。

「いいぞ、いいぞ! 星哉! いいぞ、いいぞ! 星哉!」ベンチから得点者を称える掛け声と、割れんばかりにメガホンを叩く音が響き渡る。

「ナイシュー!」

 杜夫もここぞとばかりに声を上げた。これは彼が試合中に発する数少ない声である。

 星哉は「首尾は上々」と親指をぐっと上に立てる。そのサインのおかげで杜夫の緊張は和らぎ、「ナイシュー!」と今度は自分に言い聞かせるように呟いた。杜夫は味方を鼓舞するとともに、気の利く脇役を演じた自分自身を密かに称えた。ボール扱いが下手な杜夫が唯一できること、それは、とにかく走って走って囮になって、エースで主将の星哉にシュートチャンスを提供することだった。それこそが"一つの冴えたアイデア"であった。

 星哉のために犠牲になることは、杜夫にとって何よりの喜びだった。試合中に活躍する星哉は眩しいくらいに輝いていて、その輝きに少しでも貢献できていると考えただけで、心が踊った。またボールという名の爆弾に触る必要もなくなるため、杜夫はますます自己犠牲をすることに夢中になっていった。

 星哉がドリブルでスリーポイントライン手前まで進んでいる。市立H中学男子バスケ部部長、旗手星哉は簡単にボールを失う選手ではなく、チームは彼に全幅の信頼を置いていた。杜夫には時限爆弾のように思えるバスケットボールも、星哉が持つと阿吽の呼吸で信頼し合う友のようであった。天井から吊るされた水銀灯が星哉を照らす。滴る汗が光り輝き、骨ばった首筋を伝った。

 相手チームの十八の瞳が、この身長一八〇センチメートルもある部長に向けられたまさにその時である。ぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走りだす。マークしていた相手は驚いて、追いかける。すると彼が元々いた場所に誰もいなくなる。そこへ部長の旗手星哉がドリブルで切り込み、完全に落ち着きを払った、しなやかなフォームでシュートを決める。ボールはリングを通過し、静かにゴールネットと擦れた。

 対戦相手のS中学バスケ部は立て続けに失点し、守備に綻びを見せていたが、攻撃面でそれに引きずられることはなかった。彼らはすでにターンオーバーを始めており、コート上の五人中三人が控え選手であった。S中バスケ部はチーム全員にパスが行き渡るように、丁寧に、悠々と攻める。制限時間いっぱいまでボールを保持すると、中央で一人フリーになった選手がスリーポイントシュートを決める。その選手はシュートを決めて帰陣する際に、杜夫に訝しげな目で見た。杜夫はその視線に不吉な予感を察した。そして、次の攻撃に参加すること、試合に出ていることが億劫になった。試合時間残り四分のことである。

 再びH中学の攻撃。副部長がドリブルしている間、杜夫はマークマンと連れ立って、ぼんやりと漂っていた。これまでやってきたように、杜夫は星哉にパスが渡るまで、影を潜めている手筈だった。そして副部長は星哉にパスをした。その時だった。

「七番は”無い”から放っとけ!」

 さきほどスリーポイントを決めた選手のぞんざいな指示の声が体育館に響く。相手チームは守備をオールコートマンツーに変更したが、囮役の背番号七に対する警戒だけは解き、星哉を始めとした他の四人を厳しくマークした。形勢は急変した。杜夫がボールを持たない限り、H中学は常に四対五の劣勢となる。S中学は、一人空いた分ボール保持者に二人掛かりで守備をすることができる。

 杜夫に正念場が訪れていた。

 市立H中学バスケ部監督児玉教諭は、パイプ椅子に腰掛け、長い足を組み、垂れかかった眉を潜めて、一連の試合展開を注意深く観察していた。スターティングメンバーに関しては良くも悪くも想像通りであった。問題は控えの竹田杜夫である。

 児玉監督は杜夫の走って味方のチャンスを創出する献身性を評価する一方で、それがある種の恐怖に由来していることを見抜いた。監督は、便利な小心者が愚直に走り込む様子を見つめていた。

 他の選手へのパスコースは塞がれている。星哉は仕方なく右へ膨らむようにドリブルをして、ボールを運んだ。頼りになる部長の技量をもってしても、独力での打開は困難であった。選択肢は一つしかない。しかし、それは意図的に誘導されたもので、可能であれば避けるべきであったが、厚みを増した守備の前に抗うことはできなかった。星哉はスピードを緩めて、正面の守備者を釘付けにする。次にサイドに身体を向け、相手選手たちの視線を集めた。

「竹田!」星哉は叫んだ。しかし、その声はひどく冷め切っていた。

 ぼうっと立ち尽くしていた杜夫が、次の瞬間、タンっと床を蹴って、ゴールへ向かって走りだす。しかし、マークしていた相手は驚かず、追いかけもしなかった。ボールはS中学の二選手間を通過する。走り込んだ杜夫の周囲には誰もいなかった。彼は時限爆弾をぎこちなく受け取ると、急停止した。第四ピリオドも六分を回ってから、杜夫は初めてバスケットボールに触ったのである。

 今回使用された試合球は汚れや摩擦痕、若干の陥没等によって、表面に不気味な模様を描いていた。杜夫は、試合に劣化したボールを採用した審判を呪った。敵味方の嘲笑と監督の怒声、そして何より旗手星哉の失望と軽蔑の眼差しを浴びる可能性が現実味を帯びてきたからである。杜夫はパスキャッチに集中するあまり、シュートへの意識を欠いた。一瞬の隙が、敵の急接近を許した。

 杜夫は緊張し、焦燥した。急いで右手に乗せたボールを額の高さまで持ち上げ、左手を添えてシュートモーションに入る。爪先を少し内側に向け、飛び上がる。練習通りのはずだったが、敵のプレッシャーに負けて、ほんの少し後ろに仰け反ってしまった。短く非力な脚で跳んだジャンプは、惨めな最高点で限界を迎えた。誰の目にも平均的な男子中学生の垂直跳びより低いことは明らかだった。彼は半ば投げやりに、半ば祈りながらシュートを放った。

 その瞬間、杜夫は、流れる時間が急激に緩慢になり、ほとんど停止しているかのような感覚に陥った。シュートを終えた杜夫は自分の落下速度が恐ろしく遅いことに気が付いた。

 スナップを効かせた指の先に、ゴールリングが見えた。内径約四十五センチメートルのリングが、高さ三〇五センチメートルから見下ろしている。十四歳の傷つきやすく脆い魂には一瞥もくれず、水銀灯の光を冷たく反射している。そして、ゴールネットは微風に煽られて、下部に行くにつれて引き締まる曲線美を失っていた。ボールは放物線を描きながらゴールに近づいている。

「爆発するなら今かもしれない」と杜夫は思った。

 爆弾は眩しい光に照らされ表面に不気味な陰影を映し出した。劣化した球面が表す不規則な模様は、誰も引いたことのないような幾何や未知の生物を彷彿とさせる。美的な要素は一つもなかったにも関わらず、美しいという感想以外思い浮かばなかった。悠久の時を経ても生き続ける自然の神秘であった。

 杜夫は美しさに見惚れていたせいか、爆発寸前という状況にあって一時的に平静を保つことができた。緩慢な時間の中でのみ、杜夫はプレッシャーから解放されていた。

 ガンッと衝撃音が鳴り響くと、杜夫は一瞬ボールが爆発したのだと錯覚した。彼の耳には世界が崩壊するかのような轟音に聞こえたのである。しかし、実際はゴールリングに弾かれただけで、何事もなく相手チームのカウンターが始まっている。優位に立ったS中は、そのまま速攻でパスを繋いでカウンターを成功させた。

「杜夫!」

 児玉監督は、低く大きな声で怒鳴った。勢いよく立ち上がったために、パイプ椅子は後ろに倒れた。監督は数秒間、杜夫を睨み続けた。杜夫は急いで守備に戻った。ただでさえ小さい彼の背中が萎縮してより一層丸まった。

 味をしめたS中学バスケ部は、杜夫にボールを持たせるように誘導することを決めた。それが最も効率よくH中学にダメージを与えられことを先ほどのプレーから知ったのである。彼らは杜夫にならどれだけボールを持たれても一向に構わなかった。

 杜夫は体育館中が、あるいは全世界が自分のプレーに注目し、失敗する瞬間を今か今かと待ち望んでいるという観念に囚われ、憂鬱になった。彼にとって試合に出場することは辱めを受けることと同義だった。

 試合時間はまだ一分も残っていた。パスは"自然"と杜夫に回ってきた。ボールは神秘性など剥がれ落ちて、汚れの目立つ時限爆弾に戻っていた。彼は止まった状態でボールを受けた。他の味方に比べると、彼だけ露骨にマークを離されていた。パスコースは当然ながら塞がれていた。星哉と目が合ったが、彼は杜夫がボールを奪われる前提で守備の準備をしている始末であった。

 杜夫はもう正常な精神状態ではなかった。爆発を恐れるあまり後先考えずにパスをして、ドリブルをして、シュートをした。すべて失敗して相手ボールになった。失敗するたびに周囲から怒声と笑い声が響き、杜夫にはそれが爆発音のように聞こえて、何度も脳内で再生された。

 マークを離されているのだから冷静にボールを持てばいいだけなのだが、今の彼にはそんなことよりも周囲に注目されながら爆弾を抱えていることの方が耐えられなかった。

「杜夫、さっきから何やってんだよ!」

 副部長が怒鳴る。彼もまた杜夫の優柔不断さ、落ち着きのなさに苛立っていた一人であった。

 児玉監督は交代を決断した。タイムアウトを取るまでもなかった。監督は身長がすでに一七〇センチメートルもある、野心を真っ黒な目に漲らせた二年生を呼び出した。期待の新人は別段驚くこともなく、むしろ先輩の失態は予想通りといった表情で試合に入っていった。

 杜夫は俯いたままコートを後にした。監督の顔を見ることができなかった。途中から出場してわずか四分で交代させられるのは不甲斐ない以外の何物でもなかった。

「杜夫」児玉監督が顎髭を撫でながら呼びかけた。

「おれはよく『走れない奴はチームにいらない』と言ってるよな?」

「はい」

「だから練習でも必ずラントレは入れるし、最後まで走る選手のことは評価している」

「はい」

「そして、このチームで一番走れるのは杜夫、お前だ」

「はい」

「だけどな、ボールを持ったときに何もできないんじゃ意味ないんだよ。バスケをしてるんだから。お前はバスケットマンだろう?」

「はい」

「ならどうしてボールを怖がる? ボールから逃げる?」

「......」

 杜夫は下を向いたまま沈黙した。「ボールが時限爆弾だからです」と答えることはできなかった。結局ボールは爆発せず、すべては杞憂であった。しかし、新たな恐怖――叱責を受けるかもしれない恐怖――によって、杜夫の思考能力は著しく低下していた。

 「もういい。言っておくが、ボールを持ってプレーできないならいくら走れても意味ないからな。ボールは友達だ。お前の敵じゃない。もっと怖がらずにバスケをしろ。分かったか? 分かったなら戻れ」

 杜夫は「はい」と小さく返事をしてベンチに戻った。予想していたよりもずっとあっさりした説教であった。

 杜夫は「自分はもう見捨てられているのだな」と悟った。交代して入った二年生は早速、スリーポイントを決めており、ベンチは杜夫の帰還なぞそっちのけで盛り上がっていた。

 結局、試合は五十三対三十一でH中学バスケ部の敗北に終わった。

 試合後、選手たちはH中学とS中学の両監督から中体連へ向けての叱咤激励の言葉を貰うと、帰り支度を始めた。一年生は後片付けに勤しみ、二、三年生は着替えながら談笑に興じた。話題は、数日後に迫った日食が主だった。本州の太平洋側、つまり静岡県でも観測できるとあって、バスケ部員たちは一生に一度かもしれない天体イベントで盛り上がっていた。もっとも天体観測それ自体に興味があるというより、友達と馬鹿騒ぎできる口実を得た興奮であった。

 杜夫は聞き耳を立てながら、「星哉は誰と日食観測に行くのだろうか」と考えた。誰とも行かないのであれば杜夫と行くだろうし、別の知らない友達と行くのであれば、杜夫と一緒に行くことはないだろう。そんな予感がして杜夫は悲しくなった。

 その一方で、部員たちは誰も今日の竹田杜夫の失態については触れなかった。彼らは単純な人間であったが、いくらなんでもその話題にはもう飽き飽きとしていた。だからといって杜夫の不始末を完全に許したというわけでもなく、会話の最中、彼へ冷ややかな視線を向けることを忘れなかった。杜夫は三年生であったが、無言の蔑みに耐えられず、片付けを手伝いに一年生たちの方へ逃げた。

 杜夫がモップ掛けまで終わらせて戻ると、二、三年生は全員帰ってしまっていた。星哉もすでに体育館にいなかった。きっと今頃、杜夫に苛立っていた副部長や高身長で野心家の二年生たちと仲良く談笑し、寄り道なんかをして盛り上がっているに違いなかった。杜夫は荷物の入ったエナメルバッグを肩に掛けると一人で帰っていった。

 帰り道に杜夫がふと顔を上げると富士山が見えた。地平線の彼方に見える富士は夕暮れのせいでゆらゆらと揺れていたが、遥かな高さから悠然と見下ろしていた。杜夫はたまらなく惨めな気持ちになった。この日おかした失敗や、それに対する反省と憂鬱が一斉に彼の内部へなだれ込んできた。杜夫は魂が痛むことを知っていながら、今日の言動を反芻し、後悔と羞恥の内に、真の高貴なる自己を見出そうとした。自己批判の衝動は周期的に訪れ、一旦収束しても、五十メートルほど歩けば再び活発になり、そのたびに彼は人知れず苦しんだ。

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