第2話 大饗の仕度

 菊の節会が終わると年に一度の大饗が近づく。

 「今年も神奈社かんなのやしろへの勅使は輝宮かぐのみやにつとめて貰おう。龍眼たつのめに続いてご苦労だが頼んだぞ。」

 父上のお言葉に静かに頭を下げる。

 「承りましてございます。」

 神奈社への勅使をつとめるのは五度目だ。初めてその役をつとめたのが十七の時で、それは遅れに遅れた元服の次の年の事だった。

 元服が遅れた理由は俺が神霊をほとんど感応しなかった事だ。極端に強いかぐで輝宮とされていても、神霊に感応しないのではまともに神事を行うことは難しい。

 それでも十六にもなると元服しないわけにもいかず、そこから一年は父上や東宮の兄上にひたすらついて学んだ。強い神霊の気配ならなんとか感じる事ができたので、とにかく次第を覚えこんで最低限の祀りをできるようにしようとしたのだ。

 それはある意味成功し、また上手くいったとは言えない部分もあった。神霊がどこにいるのかもまともにわからない俺には正しい次第をこなせるとは限らない。しかし俺の煌の強さゆえにそのぐらいの失礼に神霊が気を悪くする事もない。神霊のための舞を舞い、歌を歌えばそれで済むと言えば済む。舞や歌そのものは決して苦手ではない。

 なまじ歌舞そのものはできていることもあって、 いつまでも父上や兄上の手伝いで誤魔化すわけにもいかず、十七の俺は神奈社への勅使に決まった。



  (やっぱり、無理か。)

 初めての役目を翌日に控えて、俺は淡海越しに島宮しまのみやを眺めていた。元々は感応力のある従者を父上につけていただくはずだったのだが、東宮の兄上が「結局父上に助けていただかなければではできないのか」と仰ったのに反発して、従者を断ってしまったのだ。

 何度も習ったようにできるだけ神霊を感じ取ろうとつとめたが、結局分かったことは俺には無理だと言うことだった。

 もちろん、勅使が一人で祀りを行うわけではないのだし、俺には神霊に対してなら失敗を帳消しにするほどの煌がある。しかし、人は煌だけで誤魔化されてくれるものではない。

 俺に感応の力が薄いことは秘密でもなんでもなかった。それ故に元服が遅れた事も知られている。しかし、なんと言っても輝宮(だ。まさか下級のかんなぎほどにも神霊を感じないなどとは、きっと思われていなかっただろう。

 明日、儀式の次第に失敗すれば、事実は知れ渡る事になるだろう。きっと多くの者が失望するに違いない。俺にはそれが怖かったが、同時にどうする事もできなかった。

 今思えば、父上に頼めば良かったのだろう。本当にそうすれば済むことだった筈だ。実際、父上は従者につけて下さろうとしていた巫を、俺のすぐそばに控えさせていたらしい。だが、あの時の俺はひたすらにうろたえてばかりいた。

 しばらく、うだうだ考えながら岩場にすわっていた。結構長い時間だったようにも思う。それでも、そんな事をしていてもなんにもならないという当然の結論に達した俺は、せめて床で横になるべく立ち上がろうとした。


 だめ


 言葉に打たれたような気がした。

 子供が一人、いつの間にか足下にしゃがみ込んでいて、危なく踏むところだった。中途半端に足を上げた姿勢で固まる。

 「なんだ。」

 たぶん大きな声を出したと思う。実際にかなり驚いていた。

 その、男か女かもよくわからない子供は、なにかを庇うようにしながら俺を見ていた。しばらくその子を見ていてふと気づく。

 「…なにか、そこにいるのか?」

 子供がうなずく。

 俺は子供と、子供が何かを庇っているらしい場所を外して足を下ろした。

 「もしかしてそなた、見えるのか。」

 きっとそこにいるのは弱い神霊だろう。普通の巫では感じはしても見えないほどの。しかし子供には見えているようだった。

 子供が懐から小さな袋を出し、中身を少し掌に出した。ふわりと甘い香りがする。

 薫餌くのえだ。

 薫餌師くのえしが用いる、他の生き物を従えるのに用いる丸状の餌。ただ、俺が宮中で見たことのある薫餌よりも子供の薫餌は細かかった。子供の小指の爪ほどしかない。

 そのよい香りの薫餌が、少しずつ小さくなる。

 本当に、神霊がいるのだ。

 目の前でおきる不思議に、俺はその薫餌を一粒つまみ上げ、そのまま口に入れた。甘い香に酔いそうだ。実際にぐらりと視界が揺れる。 

 一瞬目をつぶり、目を開くと、信じられないものが見えた。

 子供の薫餌(

に群がる小さな人形(ひとがた)。それは舞人の姿をしている。

 「…見える…」

 恐る恐る指先で触れれば、さらに姿がはっきりとした。手触りは水の流れや風に触れたように、触れたというよりはかすめて流れてゆく感じだった。

 舞人たちは舞いながら天へと上り、消えてゆく。

 「消えた…あれが神霊か…」

 それはとても美しかった。

 薄く鋭い痛みを残すほどに、美しい光景だった。

 子供はあの美しい舞人たちが、俺の煌によって結んだのだ神霊なのだと教えてくれた。

 煌とはあのように美しいものを結ぶのか。

 あると言われ、強いと喜ばれ、けれども自分自身にはまったくわからなかった煌というもの。それゆえに尊ばれながら自分ではまったくわからない厄介なものだった煌を初めて実感したのがあの光景であったのは、きっと幸せなことなのだと思う。

 俺はそのまま神奈の大刀自のもとに出向き、その子供を従者とするためにひきとった。




 神奈社の勅使はもう五年めの、恒例ともいえる仕事だが、神奈の月の間は島宮につめることになるので、朝堂の仕事の引き継ぎが必要になる。今年は夏が暑かった事で調査の必要な地域も多く、調査結果の精査や集計の仕事が多い。

 「仕方がないと分かっているが、輝宮が外れるのは厳しいな。」

 ニノ兄上にため息をつかれてしまった。

 角人つぬのみめ所生のニノ兄上は、乙姫の姉である津宮の大姫を妃にしておられる。皇子である以上それなりの煌をお持ちだが、祀りよりは政の方を受け持たれている方だ。

 「配下の官人は兄上にお預けしますので、申し訳ありませんがよろしくお願いします。」

 忙しい時期に申し訳ないとは思うが、これはどうしようもない。神霊にほとんど感応しない私は、普段はむしろ政の方に多く関わっているのだが、輝宮としては祀りにも関わらないわけにはいかないのだ。

 配下に指示を出して今までの仕事をまとめ、整頓する。優先順位はつけておいたので、少しは兄上も引き継ぎやすいものと信じたい。

 引き継ぎの準備と同時に祀りのための準備にも関わる。

 神奈社に移った月神をそのまま島宮にお連れするのが俺の役割だが、同時に他に八柱の神を神奈社に招いて月神と同時に島宮へお連れする。その祀りの準備は俺が担当するのだ。

 他にも島宮の方の祀りの事も頭にいれておかねばならない。

 はっきり言って目の回る忙しさだ。今年は龍眼行きに時間を取られたところなので本当に余裕がない。毎日ひたすらに忙殺される間に、時間はすぎて、あっという間に神奈の月が迫った。



 蜜月が龍魚を御し、舟を操る。蜜月に渡魚師とぎょしの技を仕込んだのは柑次だが、筋がいいのだそうで一通りの技術はすでに身についているらしい。最近では柑次は龍魚や馬の世話を中心に担うようになっている。

 朝堂での官人の配下はともかく、俺には私的な召人めしうどが少ない。宮を任せている爺どのと婆どのの夫婦の下には、料理や掃除を担う下女が三人と、下男が二人いるだけだ。あとは渡魚師の柑次と従者で綺の女童の蜜月。爺どのの息子で六位の朱鷺弥ときやと娘で女官の涼芽すずめも配下とは言えるかもしれない。母の実家の後ろ盾を得られない事は、こんなことにまで響いてくる。

 龍眼の采女が母ならば、その点で助かるのは事実だ。龍眼は小さいが黄玉と金蓮華を産する。それらの重要性から言っても後ろ盾として無力ではないだろう。なにより信頼できる召人をまわしてもらえるかもしれない。宮の人手も俺の配下も、あまりに少なすぎる。

 しかし、だからといって龍眼に実家として後ろ盾になってくれとはいえなかった。

 俺はきっと初音どのの腹から生まれたのだろう。みやこに戻ってから婆どのや父上にも聞いたし、当時の事を調べもした。俺を産んだのは龍眼の采女、初音であるのはまず間違いない。しかし、初音どのだけでなく父上も、寵愛した采女は初音どのではないという。

 では、父上が「なよ竹」と呼ぶ寵姫は一体何者だったのかといえば、これがまことにはっきりとしない。

 神霊が初音どのという「人」に依りついていたと考えても、どうしてそんな事が可能であったのかがわからない。自ら神霊を招き依り付かせる憑坐よりましでも、一年もの間完全に身体を神霊に明け渡すなどあり得ない。人にとっても神霊にとっても負担が大きすぎるし、下手をすれば剥がすことができなくなってしまう。

 それを初音どのの意志と関係なくなし得、しかも初音どのを大きく損なってはいないとは、一体どのような神霊なのだろう。考えると自分があまりに得体のしれないものに思えてくる。

 考えずにいる事は難しく、しかし考えれば恐ろしく、俺は振り子のように揺れながら、そこから思考を進めることができないでいる。

 蜜月が舟繋に舟をつけると、島宮の下男が舟を繋ぐ縄をとった。


 待って下さい。


 舟から降りようと足を上げかけた俺の袖を蜜月が引く。どうやら小さな神霊がそばにいるらしい。俺は蜜月の視線を追い、気をつけて足を下ろす。どうやら上手く避けられたらしい。

 蜜月は手早く龍魚を舟から放すと、俺のあとに従った。

 この時期の島宮は慌ただしい。年に一度の大饗を控えているのだから当たり前だが、白衣だけでなく黒衣の官人もそこここにいるのが、島宮としては珍しい。

 「叔父上、明後日の次第の確認に参りました。」

 何やら打ち合わせている叔父に声をかけると、すぐに顔を上げた。

 「来たか。ではそっちを済ませてしまうとしよう。」

 叔父が足早に歩き出す。

 宮のあちこちに張り出した舞台には四方に灯籠が吊るされ、香炉が準備されている。早いものは今晩から招きの儀式が始まるのだ。

 叔父は島宮の大玄関とでも呼ぶべき、大舟繋へと向かった。

 大舟繋は普段は使われていない。

 今上が正式に行幸遊ばす時か、この神奈の大饗の時にしか使わない慣わしになっている。磨き抜かれた板敷きはつやつやとして、すでに篝火の支度も余念がない。白衣びゃくえを纏った巫たちが何人も立ち働いている。

 「手順はいつも通りだが、今年は方位の神招きを厚くと言う事になっている。特に東西の神の扱いには注意してくれ。」

 龍眼から南の神気を招いたりしたので、全体の釣り合いを整える事を考えなければならない。方位の神は暖気や寒気をつれてくる神気とは別に、形を結んで定着している神々だ。東西南北の四柱が強く、人形ひとがたを成している。

 「四方位の神、四季の神、月神の九柱ですね。父上の行幸は夕刻ですか。」

 今上の煌は神々に対する最高の敬意の現れであり、もてなしだ。大饗の間、父上は数日ごとに島宮に行幸される。

 「そうだ。だから神奈からの御来駕はいつも通り夜になってからだな。」

 手順は全て決まっていて、毎年大きくは動かないが、それでも一つ一つ確認する。小さな祀りを無数に重ねての大饗は、一つ手違いが出ると後が大変だ。同時に毎年ある程度の手違いは出るものでもある。しっかりと次第を頭に叩き込んでおかないと、手違いが出た時に動き方がわからなくなる。

 一通り確認し、それから東の対に用意されている自室の確認をした。大饗の一ヶ月は島宮につめるので、自室を整えておかなければそれも大変な事になる。

 すでに衣類や文具も運び込んだ自室の畳に座り、俺は軽く息をついた。

 蜜月が竹筒の茶を渡してくれる。

 続き部屋になっている蜜月の部屋には、湯を沸かす用意もあるが、ゆっくりと茶を飲んでいるほどの時間がない。

 蜜月は蜜月で俺に竹筒を渡しておいて、自分は従者の部屋の備品が揃っているかを確かめている。

 

 一通り揃っているみたいです。

 予備の薫餌もちゃんとあるし。

 

 棚を全てあらめた蜜月がほっとしたように笑った。初めてこの部屋を使った時はあまりに全てがバタバタで、本当に大変だったのだ。

 今でも思う。気心が知れているわけでもない七歳と十七歳が、よくも長丁場の大饗を乗り切れたものだと。





 初めての神事である、神々を島宮に招く勅使の役割はなんとか無難にこなすことができた。

 おかしな話だが蜜月の声が出ない事はまことに都合がよかった。声がなくても俺には蜜月の言っている事がわかるし、周りには聞こえないからだ。


 月神様はもう少し左。そこです。


 蜜月が教えてくれるように動き、覚えた次第を行えば、恙無く神霊に礼を尽くす事ができた。蜜月の薫餌を口にすれば神霊を見る事ができるが、それは蜜月が嫌がった。薫餌というのは他人に食べさせるものではないらしい。

 無理に薫餌を口にせずとも困らないのがわかったので、俺も無理強いはしなかった。神霊をこの目で見られない事を少し惜しくは思ったが。

 月神と四方位神と、四季神。

 全てで九柱の神を招き、島宮へ誘う。

 

 九柱、後ろに従っておられます。

 

 蜜月の言葉に俺は、神奈社の舟繋から舟に乗り込んだ。

 蜜月が腰に下げた釣り香炉にくべた薫餌が、ほのかに甘い香を漂わせる。舟は島宮の大舟繋に付き、島宮を預かる叔父上が、神々を迎えた。

 ここまでは順調だった。

 蜜月を見出した事に安堵し、少し得意にさえなっていたかもしれない。

 俺はわかっていなかったのだ。ひと月という長丁場の大饗の何が大変かと言うことを。

 最初の躓きは蜜月の衣装だった。

 「着替えておいでなさい。」

 綺の女官のきっぱりした言葉に蜜月がひるんでいるのがわかった。

 「その色目はこれからの祀りに相応しくありません。相応しい衣装に着替えて来なさい。」


 相応しい衣装って何を着ればいいんですか。

 

 蜜月の問は女官には聞こえていない。俺は仕方がなく自分で女官に問うた。

 「すまぬが、何を着るべきか蜜月に教えてやってくれ。蜜月はまだ従者に上がったばかりなのだ。」

 女官が蜜月を見、呆れたようにため息をつく。

 「良いですか。幼いといえども貴方が足りぬことは主の輝宮様の恥になるのです。しかもこのような事を主に問わせるとは何事ですか。」

 蜜月の肩がびくりと跳ねる。

 「蜜月は声を出せぬのだ。だから自分で問うことができん。」

 女官が今度は俺を見た。

 「ならば筆談の用意くらいはするべきでしょう。自分ができないことは自分でなんとかせねばなりません。主を支えるべき従者が、主に助けられてどうするのです。」

 答えようがなかった。蜜月を急遽従者として連れてきたのは俺だ。それはひとえに俺の都合で、蜜月の落ち度ではないが、それを一々言い立てるわけにはいかない。

 「来なさい。衣装の事はなんとかいたしましょう。」

 蜜月は早足に去る女官のあとを一生懸命ついていった。

 従者に童を使う者はいる。しかしそれは概ね年配の女官や官人が仕事を仕込むためにすることだ。若年の輝宮の従者が、ぎりぎり殿上できる年の女童というのは流石に無茶だと今ならわかる。

 蜜月は確かによく神霊を見るが、だからといって七歳の女童であることに変わりはない。元服したての主に仕えるのはあまりに無謀だ。きっと周囲の大人ははらはらしていたことだろう。

 蜜月に衣装の事を注意してきた女官は花枝といったが、親切な女官であることを今は俺も蜜月も知っている。だが、あの時はただうるさくて苦手だった。

 「蜜月。」

 花枝の声がすると蜜月がびくりと震える。蜜月の仕事は俺の従者だから、舞も歌も必要ではない。だが、祀りに侍る巫として、花枝は蜜月の立ち居振る舞いには厳しい。

 背筋を伸ばし、呼吸を調えて歩く。優雅に俺の後ろに控える。

 蜜月にはそういう躾がほとんどできていなかった。薫餌こそ作れても、声が出ないことで薫餌師でなく渡魚師としての修行をしていたのだ。渡魚師は家畜の相手をするのが仕事だから巫としての修行はしない。

 蜜月は祀りの合間に、一から巫としての動き方を花枝に叩き込まれた。

 花枝に呼ばれるたびに引きつり、幾分逃げ腰ではあったけれど、蜜月は声に出なくても、泣き言は言わなかった。




 


 


 


 





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