我無性者(二)

 野口の懐かしい顔を思い出しつつ、新八は盃を飲み干して、ゆっくりと小さなため息を吐いた。

 それから無言のまま天井にたまった陰影を見つめたのち、盃を置き、やおら腰を浮かせた。

 佳紫久が小首をかしげる。


「あら、どちらへ」

「うむ、今日はすこし酒がすぎたようだ。酔いさましで夜風にあたってこようかと思う」

「それでは近くをご案内いたしましょうか」

「いや、いい。着替えるのも面倒であろう。俺は下谷生まれだからここは庭のようなもの。ひさびさの深川だ。市中の様子をこの目で見ておきたい」

「まァ、そうでありましたか」

「長らく我らにつきあって疲れたであろう。佳紫久は部屋へ戻って休むがいい」

「はい、ではそのようにいたします。すぐに横になれるようお布団をご用意しておきますから」

「すまぬな」


 最後の言葉にはすこしばかり意表を突かれたが、なるべく悟られないようにして広間から出た。玄関で刀を受け取ったのち、通りに踏み出してあたりを見渡す。

 まさしく懐かしき深川の夜。

 料理屋と遊郭の別宅がまっすぐに立ち並んでいる。

 軒下に吊るされた淡い提灯の明かりが、通りの果てまで左右に連なる。

 佳紫久が言っていたとおり、すこし寂しいだろうか。新八の記憶よりも人の通りがまばらだ。

 この界隈では今ごろの時間ともなれば季節をとわず、ほろ酔いの町人たちが祭りのように騒がしく繰り出しているのが常だった。

 泰平二百六十年の時を積みかさねてきた江戸。あらゆる身分の者、およそ百万人が暮らす。

 昨日までがそうであったように明日もあさっても、百年さきもおなじ朝日が東から昇り、西の空が赤く暮れる。かつてはそう思えたものだ。

 江戸の空気を胸いっぱいにためて一つ二つと数えてから、すぅと長く息を吐いた。

 とりあえず東へ向かって歩みを進める。あてなどない。ただ馴染み深い江戸の空気に身を沈めたいだけだ。

 通りの向こうから身なりのよい若侍たちが四人、賑やかにやってきた。

 いずれも二十歳前であろう。おぼろげな灯りでじんわりと照らしだされた顔はまだあどけない。きれいに月代を剃りあげ、胸を張って大股で歩いている。一丁前に酔った様子でいて頬は赤く、手に竹刀袋をさげていた。

 彼らの背を見送る。

 あれはいつかの新八の姿だ。


「フッ、やはり江戸の市中とは、何があろうとも変わらぬものだ。――そういえば、あの店はまだあるだろうか」


 ここからすぐ先に、百合本道場に居たころによく通った割烹酒場があったのを思いだす。

 構えこそ小さいが、四部屋のこあがり座敷があって居心地のよい店だった。いつも皆で稽古おわりに長尻をしていたが、最後にしめで食べるぶっ掛け飯の味がよかった。

 舌にあさりの味がしみて、刻んだ葱の香りがツンと鼻を突く。するりと喉をくぐっておりてゆき、酒で荒れた胃の腑を温かくなでてくれる。

 若者好きな老夫婦が店をきりもりしていて、金子が足りなくなるといつも「出世払いで結構ですよ」と人懐っこい笑顔で言ってくれた。

 そういえば小腹が空いてきた。

 もしもまだやっていたなら立ち寄ってみようと思いたち、吸い込まれるように細い道へ折れた。

 ふと立ち止まる。


「そうだ、そのことを小常に話してやったら、いつか江戸へ行ったらぶっかけ飯を食べてみたいとも言っていた。フフフ……なにか高級な飯と勘違いしたのであろうか。たいしたものでもないというのに」


 つぶらな瞳を輝かせ、新八の話にいちいち頷きながら聞きいる小常の顔が思い浮かぶ。

 もはやこの世に彼女はいないのだとよくわかっているが、あまりにも急なことだったのでいまだに実感がわかない。

 今も京市中にあるあの別宅で、待ってくれているのではないかとさえ感じる。


「いいかげんにしろ。もう小常はいないのだ、新八よ……」


 昨夜、磯子を抱く小常の夢を見た。

 うららかな春陽が庭さきを明るく照らす午後。三人で別宅の縁側に出て、ひなたぼっこをしていた。とうとう見ることがかなわなかった景色であったというのに、やけに鮮明な夢だった。

 ずっと思い出さないよう心の小箱に鍵をかけてきたはずだったが、添い寝をした佳紫久の体温が鍵となって蓋を解き放ったのだろう。

 今朝目覚めたときは、思わず目を凝らして佳紫久の顔をあらためしまったほどだったが、「違う、別人だ」と己に言って聞かせた。

 小常という女子は、島原亀屋の芸妓だった。

 はじめて出会ったとき。彼女が指先をしなやかに動かして舞う姿を見あげ、思わず盃を取り落としたもの。剣技においては考えるよりもはやく体が動く新八であるが、女についてはいまひとつ不器用であったから、新八の気持ちを敏感に察知した島田がそれとなく二人のあいだをとりもってくれた。

 近藤は江戸に正式な妻と子がいたというのに、京で二人も三人も妾を囲っていた。新八はそれを軽蔑まじりに苦々しく思っていたので、別宅など持つまいと心に決めていたはずだった。が、がむしゃ者の新八がめずらしく二言をした。

 こぢんまりとした庭つきのささやかな家であったが、非番の日には小常が待っている家へまっしぐらに駆けた。

 一呼吸をととのえて「小常、帰ったぞッ」と戸を開けると、彼女が色白の丸い頬をいつもほころばせて「おかえりなさいませ」と出迎えてくれる。

 その瞬間、勤番で心底にたまっていた血なまぐさい澱が跡形もなくきれいさっぱりと雪がれて、新撰組の永倉新八は長倉新八に変わる。

 自然と心が安らぐよい時間だった。

 新八は懐にしのばせてある朱色の櫛を指先でそっとなでる。

 京を離れる際、磯子の乳母が小常の形見として持ってきてくれたものだ。


「よし小常、今日は深川評判のぶっかけ飯を食わせてやる。京料理と比べれば味が濃すぎるかもしれぬが、これが江戸の味だと思ってくれ。美味いぞ」


 新八は一人で呟いたあと、ふたたび力強い足取りで歩みを進めた。

 あれは、慶応三年十二月十一日のこと。

 王政復古の大号令が発せられてから、将軍徳川慶喜は二条城からたちのいて大阪城にはいった。そのころ新撰組は京都堀川の屯所に在ったが、市中はすこぶる不穏な空気で覆われる。薩摩と長州の兵によって七条の一帯がかためられて、一歩も踏み出せない状況となっていた。

 新撰組の面々にとっては、文久三年八月十八日とも重なる光景である。

 だが、今回は立場が逆だ。新撰組は押し出される側にある。

 すると急遽、会津公用方から屯所をひきはらって大坂へくだるようにとの達しがはいった。

 とはいえ、いまや新撰組は二百名ちかい大所帯となっているから荷物と武具が相応にある。いきなり一晩で動けと言われても到底無茶な話であるが、戦の形勢がただようなかでの命であるから、不平不満を言ってもいられない。

 近藤はあいかわらず上意下達を身上としている。

 隊士たちはただちにあわただしく準備をはじめた。

 そんな折、新八のもとへ我が耳を疑う報せがとどく。

 訃報だ。

 誰かといえばほかでもない。

 小常が、妻が、突然亡くなったというのだ――

 七月六日に磯子を産んでからというもの、小常は産後の経過がわるかった。食が細くなって寝込む日々がつづいていたが、きちんと医者にも見せていたので、いずれ快方にむかうだろうと新八は楽観視していた。

 医者曰く「体力が落ちて心の蔵に負担がかかっていたのでありましょう」とのこと。

 愛娘の磯子は、祇園に居る姉のところへ預けられているという。

 新八はくらりと眩暈を覚え、そばにいた島田に支えられた。


「大丈夫ですか、新さん」

「あァ、すまぬ……大丈夫だ」


 足元が接地感もなくふわふわとしていたが、懸命に踏みとどまる。

 戦仕度を整える隊士たちのまえで、情けない背を見せるわけにはいかない。士気にかかわる。

 動かぬ頭のなかを軋ませながら、訃報を報せてくれた小使いに事後の始末について言い含めた。


「斯様な状況であるからお役目にてここを離れるわけにも行かぬ。金子を渡すから妻を丁重に弔ってほしいと伝えてくれ」

「はい、必ずや」


 あまりにも急すぎて実感がわかない。

 涙も出てこない。


「今はとにかくお役目を勤めなければならぬ……」


 悲しみを覆い隠すかのごとく、一心不乱に大坂下向の準備に奔走した。

 そうして一刻もしたころ。

 新撰組の異変を小使いから聞いた乳母が、磯子を抱いて門前にあらわれた。


「あれは、お磯……お磯ではないかッ」


 新八は一直線に駆け寄ってから、愛娘の小さな身を抱き寄せて頬ずりをした。

 磯子は小さな手で新八の太い指をしかと強い力でつかむ。まるで「父さま、私を置いてどこへ行くつもりですか」と責められているような心地がして、新八は声をつまらせて涙をこらえた。

 屯所のなかは、依然として竜巻がおとずれたような渦中にある。

 落ち着いて話せる場所などあろうはずもなかったので、門前にある八百屋へかけこんだ。

 奥の一間を借りて父子の対面となる。

 乳母が涙ながらに言った。


「永倉様、できることならばこの子のために、貴方様にひきとっていただきたいというのが小常さんのご遺言でございました。小常さんは小さい頃から苦労をしてきた人ですから、自分と同じ思いをお磯ちゃんにさせたくないのでありましょう」

「なんと……小常はそのようなことを。だが、それは……」


 それだけは無理だ。

 約束などできようはずがない。

 はたしてこれから新八自身の今生がどうなるのかさえ先行きが知れない。磯子を連れてゆきたいのは山々であるが、それだけはならぬ。

 新八は、当座に持っている金子を巾着に詰めこんでさしだした。


「―…よいか、ここに五十両がある。これを渡しておくから、江戸松前藩邸内にある我が親戚の永倉嘉一郎方へお磯を送りとどけてもらいたい。またこれなる巾着は伯母の遺品であるから、嘉一郎が見ればすぐにわかる。きっとこの子をひきとるであろう」


 磯子の手が、新八の口と鼻に触れた。まだ視力もおぼろげであろう黒ぐろと濡れた瞳で、じっと父の顔を見つめる。「父さま、私を一人にしないでください」と訴えているようにも見えた。

 磯子の澄んだ瞳に、ひどく情けない男の顔がまるく映る。


「ああ、せっかく父子の対面であるというのに、もはや生死のほども覚束無いとは。そうか、寂しかったか。すまぬ……すまぬな、お磯。どうか、どうかこのような父を許しておくれ……どうかッ」


 いつぶりのことだったか知れない。

 新八は人目も憚らず、ただただ泣いた。

 声をあげてわんわんと泣いた。

 愛おしい小常のため、そして可愛い磯子のため涙が枯れるまで泣き、つよく抱きしめた。

 それから新八と磯子は、武家の作法に則って別れ盃の真似ごとをした。


「さらばだ、磯子よ。母のように賢くて、いつもおだやかで、心優しい女子に育っておくれ。くれぐれも、決して父のような男を好いてはならぬ。わかったか」


 父の顔をみた磯子は、無邪気に丸顔をほころばせた。

 新八はくるりと背を向けて歩む。

 その足取りは重い。一歩、また一歩と底なし沼へ踏み入れて行くようだった。

 いったい何度、すぐにひきかえして磯子の身を抱きたくなったか知れない。

 そのたび、かたく握りしめた拳骨をもって、腿を叩きながら己を戒めた。


「駄目だ。ならぬことはならぬッ。俺にはやるべきことがあるのだ。しっかりせい。うぬは新撰組二番組々長、永倉新八であろう。士道と大義を、ゆめゆめ忘れてはならぬッ――」


 新八は、不穏な空気がたちこめる屯所の門をくぐった。

 やいなや、きつく口を結び、目を吊り上げ、隊士たちに檄を飛ばすのだった。


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