第三章1 『不調の書』

「……寝れんかった」

 障子越しに明るうなる外を見やり、あしは重たいため息を吐いた。

 外の空気を吸いに行こうかと思うたが、そうはいかん。

 まずは書道紙に埋もれたこの部屋をどうにかせねば……。


 紙は畳がまったく見えなくなるぐらいに、こじゃんとある。その全てに何かしら文字が書かれとった。

 我ながら一晩でよくぞこんなに書けたのうと呆れるが、字の出来は目も当てられぬもんばかりじゃった。

 ただがむしゃらに書き殴ったというのが一目でわかる。まるで魂が入っとらん。

「ああぁ……っ、こんなんじゃダメじゃ!」

 如何(いかん)としがたい焦燥に駆られ、どこかに新品の紙がないか辺りを漁りだす。


 その時、トントンと床を鳴らす足音が近づいてきて、障子が開いた。

「おはようっ、継愛……って、何これッ!?」

「ああ……、おはようトウフウ」

「うわぁ、すっごいクマ。もしかして、一晩中書いてたの?」

「ちっくと目が冴えてしもうてな。一枚だけと思ったら、夜が明けとったんじゃ」


「一枚だけって……。あたしの目には軽く百枚は越えてるように見えるんだけど」

 トウフウは膝をついて、手近な書道紙を乾いているか確認しながらまとめ始める。

「そんな丁寧にせんで、適当に集めて捨てるなり燃やすなりしてええぞ」

「イヤ。継愛が書いたものよ、捨てられるわけないじゃない」


 あしは後頭部を掻き、欠伸を噛み殺そうとしながらも失敗した後に言った。

「……別にそんな大層なものでもないぞ? まだ名も知れとらんし、そんな落書きじゃ一銭にもならんと思うが……」

 トウフウは「鈍いわね」とぼやいた後、紙を拾う手を止め、こちらを見やった。

 そして真摯な瞳にあしの顔を映し、言った。

「あたしが敬愛の字が好きだから、捨てられないのよ!」


 ざんじその言葉の意味が飲みこめず、あしはそのまま問い返した。

「……あしの字が、好き?」

 トウフウは大きくうなずいた。

「そうよ。継愛自身のことも好きだけど、同じぐらいあんたの書いた字が、その……好きなのよ」

「字が……のう」


 あしはさっきの欠伸の涙に濡れた目を擦り、机上に置かれた紙に書かれた自身の字を見やった。

 確かに生まれた時からほぼ欠かさず毎日書き続けてきただけあって、それなりに書き慣れた感はある。しかし昨夜一晩に限っては、心を今日の戦闘試験に奪われていたせいで線の伸びが悪く字全体が縮こまっている印象を受ける。


「少なくとも今投げ捨てられてる作品にゃ、ええ字なんてないと思うぞ」

「確かに、今畳の上にある文字はいつもより出来が悪いのはわかるわ。でもそれだって素敵だと思うの」

「……どういうことじゃ?」

 問いかけるとトウフウは瞳をゆっくり細め、胸に抱いた書道紙を見下ろした。


「継愛の字からはね、それを書いた時の思いが伝わってくるの。楽しんでるなとか、集中してる、熱中してる、気がそぞろになってるとかね」

 あしの心の臓がギクゥと身震いした。

「……ちょ、超能力?」

「違うわよ。継愛の字が素直すぎるってだけ」

「……むむむ」


 唸るあしの隣に腰を下ろし、トウフウが顔を覗き込んできた。

「なんか、難しい顔してるわね」

「いや、そんな自分の感情如何(いかん)で書の調子が左右されるんはいかんなと」

「ええっ? 今のままの継愛の字でもいいと思うけど」

「仮にも書で食うていこうっていう人間なんじゃぞ、あしは」

「大丈夫よ。あの亮大ってヤツは字すらまともに書いてないっていうじゃない」


「……名ばかりになるのはいやなんじゃ」

「その内、役職名も変わるんじゃない? 治安維持組とか」

「そうはさせん」

 あしは断固とした強い口調で言うた。


 怪訝そうにトウフウは眉をひそめる。

「どうしてよ?」

「書字者っちゅうのは元は兄貴が創設した組織やき、あしの代で潰してしもうたら顔向けできん」

「え、お兄さん?」

 目を丸くするトウフウに、あしは天井と壁の境目辺りを見やって話し始めた。


「書字者に似た組織は過去にもあったが、どれも長くは続かんかった。なんせ奇跡を操る神さんとやりあうっちゅうんじゃから、不慮の事態っちゅうのはいくらでも起こる。それに長く人間界では乱世が続いとったからのう。そういう方面からも色々と厄介事が持ち込まれたようじゃ」

「神と戦ってるんだから、人間同士でいがみ合ってる場合じゃないんじゃないの?」

「昔は神さんに対して人間から攻め込む術がなかったんちや。向こうが桃源郷っちゅう住処から出てくるのを待つしかない。その点、人間はぶっちゅう世界に住んどるから自分から戦いを仕掛けることができる」


「……昨日話してた、信長とか、秀吉っていうのも?」

「察しの通り、乱世を駆けた武将じゃ。しかも戦国の三英雄じゃ」

「戦国の三英雄?」

「うむ。三英雄のおかげで長い長い乱世に終止符が打たれたんじゃ」


「じゃあ、その後に書字者ができたの?」

 あしは首を振り、机の上の湯飲みから茶を飲んだ。

「それ、まるごと墨茶……」

「美味いんじゃぞ。まあ、人前に出る前にはうがいが必須になるがのう」

「……口ん中から黒い液が出るとか、あれ精神衛生的によくないわよ。しかも味も味で胃液がせり上がってくるぐらいに酷いし」

「そこまで毛嫌いせんでもええじゃろうに……。ええと、どこまで話したかのう?」


「三英雄のおかげで乱世が幕を閉じた、ってところまでよ」

「おお、そうじゃったそうじゃった。三英雄が一人、家康が天下を取ったことで火之本(ひのもと)は一つの国となった。しかしそれは太平を意味しとったわけじゃあない」

 トウフウはごくっと固い唾を飲み言った。

「……神との戦いね」


「そうじゃ。時代の年号が江戸に変わってからすぐに、人間と神さんとの本格的な戦いが始まった。百年以上にも及ぶ死闘の末、両者はこれ以上の犠牲を出すことに耐えられんくなって、停戦の条約を結んだんじゃ」

「へえ。でもまだ百五十年ぐらいの空きがあるわよね?」

「その間は世界に類を見ない、太平の時代だったようじゃ。人と神さんが比較的仲良う暮らしとったらしい。人間嫌いな神さんは桃源郷から出てこんかったし、両者の間でうまく住み分けができとったんちや」

「でも今はスサノオみたいな人間嫌いの神もいるわよね。亮大なんか青龍を我が物顔で使役してるし」


「三十年ぐらい前に桃源郷に瘴気っちゅうもんが発生してな。神さんすら住むことが難しい状態にしてしまったらしいんじゃ。今はどうなっとるかは知らんが、それがきっかけで大多数の神さんが人間界に逃げてきて現在進行形で住みついとる。その中には江戸時代には近づきもせんかった、人間嫌いな神さんもおる」

「うわぁ……、そりゃ血の雨も降るわ」

「そんなことを起こさんために、あしの兄貴が書字者っちゅう役職と組織を作ったんぜよ。まあ、兄貴っちゅうても血は繋がっとらんくて、あしが勝手に呼んどるだけじゃがな」


 トウフウはふっと頬を緩めて、机に肘をついてこちらを見上げてきた。

「仲良かったんだ、そのお兄さんと」

「ああ。師匠とぶっちゅうばあ(同じぐらい)、尊敬こたう人じゃったが」

「……じゃった?」

 あしは鼻の奥がツンとするのを感じて、慌てて奥歯に力を入れた。


「死んだんじゃ。……十五年前にのう」

「……そっか」

「その兄貴が作った組織が、書字者じゃ。字を記し、世を守るっちゅうな」


 トウフウは首を傾げ、人差し指で頬を押さえた。

「でも、なんで書字者って名前なのよ? 確かにみんな書契っていう能力は持ってるみたいだけど、なんか人を守るって感じはしなくない?」

「詩の神や、神のための字っちゅうもんはあっても、字そのものを司る神はこの世界にはおらん。字は人が生み出したもんだからじゃ」


「えっと、どゆこと?」

「人間の世界で起きたことは、神の起こしたもんであっても人間主体で片を付ける。そういう思いが、書字者っちゅう名前にはこめられとるんじゃ」

「でもあの亮大って人は、神の力に頼り切りなうえに字を書いてないんでしょ。もしかしたら書字者って、そんな人ばかりかもしれないわよ」


 あしは筆を宙に掲げ、墨色に染まった穂先を眺めやった。

「じゃったらあしが変えちゃる。平穏で、文字が身近な存在としてある。そんな世界をこの筆と共に創り出してみせるぜよッ!」

 昂った気が筆を振るわせ、宙に字を書いた。紙面上ではない上に、勢いにまかせたかなり速めの運筆。しかも想定した書体は素人目には複雑な草書。常人では到底特定できんはずじゃが。


「あっ、今『魂』って書いた」

「おおっ、わかるのか?」

「ふっふーん。これでも継愛の書は毎日、間近で見てたから。今度は背中に書かれた字もばっちり当てて見せるわ」

「いや、そんな機会はもうないと思うがのう」

「そっか、ちょっと残念。……あ、その筆って書契に使ったやつでしょ?」


 トウフウはあしの持っとる筆に顔を近づけてきた。

 中峰(ちゅうほう)の大筆、軸には金色の雲を模した装飾がなされている。

「継愛って、ずっとその筆使ってるよね」

「ごっつう使いやすいからのう。それに、これは兄貴の形見なんじゃ」


「そりゃ、大事に使いたいわよね。魂丸(たましいまる)」

「……そりゃなんじゃ?」

「ん? 筆の名前」

「……勝手につけるなや」

「えーっ、可愛いと思うんだけど。魂丸」

「却下じゃ、却下」

 ……じゃけんど、当分は忘れられん気がした。魂丸……。


「他に予備の筆は持ってないの? かなり大きいし、手紙とか細かい字を書く時は使いにくそうだけど」

「もう慣れとるからのう、これ一本で大抵の字は書けるんちや」

「ほっほーう。それじゃあ今度、その筆であたしへの恋文も書いてよ」

「……さて、そろそろ朝餉(あさげ)の時間じゃな。口を漱(すす)いでくるかのう」

「ちょっ、無視しないでよ!」

 脚にしがみついてくるトウフウをずるずる引きずりながら、あしは洗面所へ向かった。

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