竜の愛した少女

 気が付くと、アイリはひとりぼうぜんと立ち尽くしていた。

 灰色の深い霧に包まれ、周りには何も見えず、自分の体すら消えてしまいそうだった。

 静寂だけがあたりを支配していた。

 いったいここはどこだろう…。

 右手にはいつからか手綱を握っていた。その綱をそっと引くと、霧の中からバイオレットが顔を出した。

「バイオレット…」

 鼻をなでると、甘えるように顔を寄せてきた。

 体を覆っていた黒い甲冑はどこかになくなり、白い麻のワンピースを着ていた。


 足元を風が吹き抜け、霧が薄くなるにしたがって、目の前にひとつ大きなシルエットが見えてきた。

 やがてその輪郭がはっきりしてくると、次第に竜の横顔を形づくった。

 霧がすっかり晴れ上がった青空の下、全身をあらわにした竜は、口先から尻尾の先までびっしりと金色の鱗で覆われ、その1枚1枚が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。そのまばゆい輝きを見ていると、まるで視界がにじむようだった。

 竜はまだずいぶん若かった。アイリには竜の歳なんてわからないが、そう感じた。

 竜は地面すれすれにまで頭を下げ、ひとりの少女と向かい合った。少女といってもアイリよりいくぶんか若いくらいで背格好も同じくらいだったが、竜からしてみれば、ひと口に食べてしまえそうなほどの大きさだった。

 竜も少女もアイリに気が付く気配は微塵も感じられず、彼女は竜の顔をなでながら笑い、さかんに何かを話しかけていた。首のあたりで切りそろえられた金色の髪が、笑うたびに揺れていた。


 アイリは、竜と少女のそんな様子を傍から眺めながら、同時に、その少女をすぐ目の前に感じている、とても不思議な感覚になった。

 それは視覚だけではなかった。

 アイリはなぜか目の前のこの少女をとてもいとおしいと感じた。顔ははっきりとは見えないが、何度も会ったことのあるような不思議な感覚。

 この感情はアイリの記憶から生まれたものではなく、心の中に別の誰かが入り込み、その誰かの思いをなぞっているようだった。

 その誰かとは、やはりこの金色の竜にほかならないだろう。

 前にも感じたことのあるこの感覚…。

 記憶を遡るとすぐに思い当たった。そうだ、竜の大岩でも同じようなことがあった。

 あの時とはまったく違う光景だが、やはり今も幻を見せられているのだろうか。

 アイリの“わたし”と竜の“ワタシ”。

 そのふたつの自分が心の中で入り混じり、とても複雑な感情に戸惑いを隠せずにいた時、ふいに頭の中に別の記憶が滑り込んできた。


「こいつは竜に取り憑かれてる」

 アイリの目の前の景色が一変した。

 暗い街の裏通り、荒れ放題の狭い路地。扉すらないレンガ造りの粗野な建物の中、少女がいた。

「ぼ、ぼ、僕じゃない…。そ、そうだ…、竜だ、竜の子供に違いない!」

 そう言った若者は、酒臭い大柄な男に殴られ部屋の端まで転がっていった。

「るゅ、竜だってぇ? バカも休み休み言いやがれぇ!」

 男は呂律が回っていなかった。

「あいつじゃなけりゃお前か!」

「お、オレはただこのおばさんに呼ばれて…、あ、あんたこそどうなんだよ! 毎日酔っ払ってるって話じゃないか、あんたの言うことなんて信用できるか!」

「なにぃ? もういっぺん言ってみろ!」

………少女は誰とも知れない男の子供を孕んでいた。

「なんてはしたない!」

 そう言って拒絶したのは母親だった。唯一の理解者だと思って打ち明けたのが間違いだった。

「さあ、こっちに来るんだ!」

「そんな子供がいたって不幸になるだけよ」

「きみのためなんだから」

 次々に少女を取り囲む親切ヅラをしたおとなたちの手、手、手…。

「いやだぁ! やめてっー!!」

 少女は逃げた。あてなどなく、靴の脱げた素足から血がしたたるのも構わず、ただひたすらに走った。

 走り疲れて気が付くと、いつもの丘にいた。

 そこにはまたいつものように金色の竜がいた。

 竜と少女の間に言葉はなく、ただ見つめ合っていた。

 空はあかね色に染まり、竜は西日を受けてよりいっそう黄金色に強く輝いた。


 ワタシの姿を見つめていた少女は、ふいに泣き出した。そしてワタシの顔に寄りかかり、大声を上げてとめどなく泣いた。泣き止むとやっといつもの笑顔が戻ってきた。

 アイリは竜の目で少女の顔を見てハッとした。なぜならその顔が自分の顔と瓜二つだったから。まるで鏡を見ているようだった。

 やがて太陽は最後の光を残し、地平線の彼方へと沈んだ。

 遠くに行きたいと、少女は絞り出すように言った。

 ワタシは少女を背中に乗せると、ゆっくりと翼を伸ばした。

 翼があるからといって、どこへでも行けるわけではない。この世のほとんどが未知の世界。漠然とした不安もある。しかし、彼女とならどこまででも飛んでいける。そんな気がした。

 ワタシは満天の星空に向かい、ひと声鳴いた。

 星々はワタシたちを祝福するかのように、きらきらとまたたいた。

 そして、翼に力を込めると、背中のいとおしい重みを感じながら、ひときわ強く輝く大きな青い星を目指して羽ばたいた。

 少しでも遠くへ。

 二度とここへ戻ってこられないほど遠くへ…。


 ワタシたちは三日三晩飛び続けた。ワタシも背中に乗せた少女もすでに体力の限界を迎えていた。

 真っ黒な海の上、いつこの暗闇に引きずり込まれてもおかしくはなかった。いっそのこと飛ぶのをやめて海の中に落ちてしまったほうが楽なのではないだろうか…。そんな思いにかられた時、遠くの丘の上にいくつかの灯りが見えた。かすかな希望の光。

 これで少女だけでも助けられる。せめてあそこまで行こう。ワタシは最後の力を振り絞り星のささやく大空を舞った。


 ワタシは丘の上の草原に倒れ込むように降り立った。

 そばにあった小屋から出てきた老夫婦は、真夜中の訪問者にたいへん驚いたようだった。突然のことで無理もない。そのうえワタシは人々に恐れられる存在なのだから。

 けれど、どうにかこの少女だけは助けてほしい。

 しかしその夫婦の驚きは恐怖によるものではなかった。神が飛んできたと、たいそう喜んでくれた。そして背中の少女に気が付くと、巫女が乗っていると、その喜び方はことさらだった。老夫婦はぐったりとした少女を小屋の中へ運び入れ、手厚く介抱してくれた。

 老夫婦はまたワタシに大切に育てていた家畜をほふり食わせてくれた。そしてワタシは日が経つのを忘れるほどに、いつまでも眠り続けた。

 ある日、目を開けると、すぐそばに少女が立っていた。懐かしいこの笑顔。あぁ助かったのだと思うと、涙がこぼれ落ちた。彼女はそれに気が付くと、あなたも泣くんだねと言い、やさしく笑いながら顔をなでてくれた。ワタシは心から安堵し、ふたたび眠りに落ちた。


 彼女は老夫婦のもとで日に日に元気を取り戻し、この土地の言葉が不自由なく話せるようになった頃、ひとりの元気な男の子を授かった。


 村の誰もが祝福してくれた。

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