第32話 文様、展開

 窓の外では、金色の光の粒―人間の目にまで見えるほど高濃度の神性が、梯子のようにミネルヴァに伸び続けていた。

 その神性に誘われ、ミネルヴァは徐々に下降し始めていた。

 鈍い轟音を立てながら、棘の生えた天井がゆっくりと落ちてくる趣味の悪い映画みたいだ。一番背の高い尖塔は、もういくばくも経たないうちにアルハンゲリスクを貫いてしまうだろう。


 二つの都市が融合すれば、人間はどうなってしまうんだろう。都市機構が人間ありきのシステムであることを考えれば、殺されることはないだろうけれど、今まで通りの生活とはいくまい。

 砂時計の砂が落ちるように、ミネルヴァが降りてくる。タイムリミットが、迫っている。


 そろそろ太陽が沈みかける頃だ。あたしは眼前に広がる文様に目をやった。

 九割方できている。あとはここに魔力を注入し、展開するのみだ。


「行けそうか、ミルカ」


 頷けばシーラは笑って見せる。


「一日もかからなかったな」

「でも、きちんと展開できるかどうか……!」

「大丈夫さ。何せこの私、シーラ・アルカディアが監修したのだ!」


 シーラはあたしの両手を握った。


「君はシドゥリの孫だろう? 問題なんかない、全ては上手く行くさ」

「……うん」


 瑠依さんとミス・アルカディアが、槍だの銃だのを抱えて入って来る。ネムは脇腹にきつく包帯を巻いた状態で、青白い顔をしながらもあたしの側に座っていた。


 流れはこうだ。

 あたしが防御魔術を展開し、ミネルヴァを跳ねのけ、王宮庭園をアルハンゲリスクに固定する。自らを守る結界がなくなったせいで、脆くなったアルハンゲリスクを固定したところで、瑠依さんが都市の神性を簒奪する。

 今ミネルヴァがアルハンゲリスクを吸収できるのは、神性付与によって同種の存在となっているからである。転じて言えば、ミネルヴァは神性を奪われたアルハンゲリスクに近づくことはできない。


 失敗したらと考えるだけで恐ろしくて、口の中がからからに乾いている。

 目の前で煌々と輝いている文様が、あたしの魔力が注がれるのを待っていた。


「……始めます」


 意を決して魔力を注ぎ込む。赤くぼうっと光る文様が徐々に蠢き始める。それは太陽を浴びた種がゆっくりと芽を伸ばしてゆく光景に似ていた。

 重なっていた文様が、まるで蝉が羽を開くときのように広がってゆく。所々重なり合いながらも自由にその大きさを伸ばしてゆく様は、どこか胸がすくようだ。魔力が通るたびに輝きが強さを増し、中の文様も蛇のようにうねり出す。

 やはり大きい。文様が広がっていくほど、その余波が頬に吹きつけてくる。


「一糸も落とすな。織り上げろ……!」


 展開していく途中で線が必要だと思えば足した。拡がってゆく模様が汚いと思えば、その部分はやり直した。背中を汗が伝ってゆく。風がびゅうびゅう吹き付けるのがどんどん心地よくなってゆく。

 やがて、少しずつずれた円盤が幾重にも幾重にも重なった、塔のような文様が完成した。身の丈の三倍ほどもあるその高さに、我ながらどきどきする。

 空を埋め尽くす金色の光の粒。そこにちらちらと瞬く真紅の模様。


 文様はできた。これを王宮庭園全体に広げて、しっかりとくるむ。中にいる皆を守れるように。上から伸し掛かってくるミネルヴァをはねのけられるように。


「ッ、行きます……!」


 文様で建物全体をくるんでから、しっかりと端を織り込んで閉じる。全体を滑らかに整えるが、なかなか固定に至らない。

 大きすぎるのだ。文様も、庭園も。

 シーラが舌打ちをする。


「だめだ、神性付与の速度が速い……! 文様が固定されるのを待っている暇はない。常盤瑠依、先に仕事を始めてくれ」

「分かった」


 瑠依さんが地面に両手をつく。その指先がたちまち黒く染まり、神性を吸い上げていることが分かった。


「でも、都市全体を変化させるほどの神性なんて……! 瑠依さん一人で奪い取れるんでしょうか」


 独り言のように言えば、隣に立っていたミス・アルカディアがぎゅっとあたしの腕を握ってきた。固い手のひらだ。ずっと槍を操ってきた、強い人の手。


「どうであろうと、私はあの人がやり遂げるのを最後まで見守るつもりよ」


 声が震えていた。彼女の瞳にはたっぷりの水が湛えられていて、海のように揺らいでいた。泣いているのだろうか。どうして。


「……うわ、なんだあれ! 上、上!」


 チップが頭上を指差す。それは金色の流れ星、のような。

 槍だと気づいた時には、既に物凄い揺れがあたしたちを襲っていた。立っていることさえおぼつかない、地面が割れるのではないかと思う程の揺れ――。

 文様の固定が中断される。横に振られるような動きのせいで、瓦礫にしたたか腰をぶつけた。


「う……わあっ、ちょっと、これ、浮かんでる!」

「浮かんでる!? そんな馬鹿な」

「だめ、空中に浮かんだら、瑠依さんが……!」


 瑠依さんは対象に触れていないと神性を簒奪できない。

 なのに、あたしたちは王宮庭園ごと空中に浮かびあがってゆく。フライングカーペットみたいに、おとぎ話の魔女みたいに。

 胃がせりあがってゆくような浮遊感が気持ち悪かった。ロカンポールや対策班の人たちが哀れっぽく声を上げるのが聞こえてくる。


 誰がやったのかはすぐに分かった。

 迷惑なほどぎらぎら光っている存在。空中で腕組みをしてこちらを睥睨しているのは、あたしがミネルヴァで垣間見たオブシディアンだった。三つ編みが特徴的だったので覚えている。その手には糸のようなものが絡みついていて、王宮庭園を串刺しにしている金色の槍に結ばれていた。


「こんばんは、ミス・アルカディア」


 オブシディアンは仏頂面のまま、それでも”白銀の大使”には丁寧に挨拶した。今更どの面下げてそんな挨拶が出来るって言うんだろう。ミス・アルカディアは怒気を孕んだ声で、


「即刻私たちを下ろして下さい」

「その神性簒奪者が、我らの目的を邪魔しないと確約するならば、今すぐにでも」

「できるはずがない! アルハンゲリスクの簒奪など、馬鹿げています。公約に反する!」

「馬鹿げている……? そうだろうか。この日の為にお前たちの都市を大きくしてきたというのに」

「大きくしてきた、ですって……?」

「ああ。適度に刺激を与え、適度に恵みを与え、じっと時が過ぎるのを待つ。そうして育った果実はいつか収穫しなければなるまい」

「何のために!」

「私たちの世界を閉じる為。武芸を極め、この血の最後の一滴までを闘争に捧げる為」


 ティアドロップ氏の言葉は正しかった。彼らはミネルヴァを閉じ、自分たちだけの世界に閉じこもろうとしている。シーラはその言葉を鼻で笑った。


「そういうのはな、全部自前でやるものなんだよ! 私たちまで巻き込むんじゃない!」

「ミネルヴァは不完全な都市(場所)だ。戦えば崩れ、壊れてしまう。そんな場所では闘争に全力を注げまい。ゆえに、ミネルヴァを完全なる都市にする。アルハンゲリスクはその動力源になる誉を得る」

「ほうほうなるほど? よぉく分かった、お前たちが人類を敵に回すつもりだということがな。ならば良かろう、私たちも相応の態度を取らせて頂く!」


 シーラの啖呵は勇ましいが、果たしてあたしたちは敵になりうるだろうか。だって向こうは不老不死、こちらは突けば死んでしまう程度の生き物なのだし。

 同じことをオブシディアンも思ったのだろう。彼は嘲笑を浮かべると、

「敵など、滅相もない」と言って片手を差し出す。


「もし敵になりうるとすれば――その男だろう。神性簒奪者」

「私? 私なんてそんな、たかが神性簒奪者だよ。大したことないさ」


 瑠依さんはひらひらと手を振っている。オブシディアンがひくりと眉尻を上げる。

 刹那、背中を鉄板に押し付けたような熱さが走る。

 予兆だ、と思ったときにはもう右手が動いていた。ポケットにいつも押し込んでいる羊皮紙を取り出す。


 バチン! と弾ける音がして、あたしの蓮花文様が激しく光る。華奢な作りのナイフが瑠依さんの心臓を過たず狙っていた。金色に輝くそれは、オブシディアンが瞬き一つせず放ったものだ。

 瑠依さんが身を屈めて走り出す。驚愕の色を浮かべたオブシディアン目がけて飛びつくように両手を伸ばす。金色の腕に瑠依さんの手が触れた。


 触れた傍から黒ずんでゆく指。オブシディアンは顔を歪めた。彼の足元に炎が立ち上り、瑠依さんを苛む。けれど彼は一歩だって退かなかった。


「はッ、貴様が吸い取れる神性などたかが知れていよう」


 また、びりりと肌が粟立つ。反射的に文様を描画する。

 複式蓮花文様が、今度は瑠依さんのこめかみの横で激しく瞬いた。

 錐のような武器が弾かれ、風に煽られて地上へ落ちて行った。オブシディアンは信じられないといった顔であたしを見ている。瑠依さんが触れている彼の体からは、金色の光がぱらぱらと抜け落ちてゆく。換毛期の鳥のように。


 ――ネム。


 瑠依さんの唇が音もなく彼の言葉を紡ぐ。

 名前さえも与えられなかった少年は、瓦礫の影から飛び出ると音もなく跳躍した。オブシディアンの背後から、鋭い確度で心臓を貫く。

 レプリカの槍の穂先が、瑠依さんの足元すれすれの地面を穿つ。ぼたぼたとこぼれる血は鮮やかな真紅色をしていた。


「なに……ッ!」

「あなた方はよく神性を血液に例えるね。触れられた程度で死にはしないと。ちょっと出血したくらいでは死なないと。――では、致死量の出血ならどうだろう」


 ネムがぎりりと槍を捻った。脇腹の傷などものともせずに。


「さすがに堪えるんじゃないか。ほら、あなたの目はもう金色に染まっていない」


 オブシディアンが恥辱に耐え兼ね、吼えた。彼はそのまま瑠依さんの腕を掴むと、やおら地上目がけて飛び降りた。


「瑠依さん!」

「ベータ、行け」


 チップの鋭い声が飛ぶ。ロカンポールは恐れることなく飛び降りた。

 がくんと足元が揺れる。宙高く浮かび上がった王宮庭園は、空中に縫いとめていた槍を失い、ガクガクと痙攣しながら断続的に落ちてゆく。

 必死にネムの体を支えながら、あたしは歯を食いしばった。あたしの文様がきちんと働くならば、誰も死なないはずだが――。


 轟音と共に王宮庭園は落下した。何度か瓦礫の上で体が跳ねたが、ネムの体を押し付けるようにして四つん這いになり、堪えた。


「瑠依さん!」


 落下した瑠依さんはどこへ行ってしまったんだろう。まさかこの建物の下敷きになんかなっていないだろうか。

 頭がくらくらする。上体を起こすと、チップが腕を引っ張って助けてくれた。


「大丈夫だ、神性簒奪者は無事だ。オブシディアンはどうだか知らねェけどな!」


 高笑いする彼だったが、頭を切ったのだろう、こめかみから血が流れている。ワンピースのサッシュベルトを抜いて押し当ててやった。

 シーラとミス・アルカディアも呻きながら起き上がってくる。あたしはむしゃぶりつくように文様に駆け寄ると、最後の固定を続けた。


「文様は……よし、まだきちんと起動しているな! 常盤瑠依! 早く起きろ!」


 ロカンポールにもたれるようにして瑠依さんが瓦礫の山を乗り越えてくる。

 その手は真っ黒に染まっている。指先は壊死していて、右手の小指は欠けて無かった。


「瑠依さん……?」


 よろけるようにして地面に手をついた瑠依さんの顔が歪んだ。左手の中指が枯れ枝のように折れてぼろぼろと崩れてゆくのを、どこか遠い場所の出来事のように感じる。


「る、瑠依さん、だめです、手が」


 空を埋め尽くす黄金の輝きは徐々に消えつつあった。瑠依さんが獣のようにぜえぜえと息をするのを見守ることしかできない。

 ミス・アルカディアはその姿を凝視していたが、やがてはっと顔を上げた。


「……オブシディアン!」


 死なず老いずのオブシディアン。槍が心臓に突き刺さった状態のまま、瓦礫の下からぬっくりと起き上がる。

 ロカンポールが数頭飛びかかっていったが、容易く打ち払われた。怒っているかと思ったが、血で汚れたその顔は存外に冷静だ。胸に刺さった槍を小さなナイフで切り落とし、ゆっくりと抜く。


「つい頭に血が上ってしまったが、貴様一人でどうなることでもあるまい」


 オブシディアンは踵を軽く打ち鳴らす。すると先ほどまで消えつつあった空の輝きが再び勢いを増し始めた。

 それは猛禽類の狩りにも似ていた。梟がネズミを捉えるように、そのかぎづめを大きく開いてこちらへ降りてくる。巨大な金色の翼は蒼穹を埋め尽くし、神々しいまでの美しさであたしたちを圧倒する。


 一瞬だけ、神性に憧れるティアドロップ氏の気持ちが分かったような気がした。この凄まじいまでの力で蹂躙されるのは、さぞや気持ちのいいことだろう。圧倒的な力にひれ伏すだけならこんなに簡単なことはない。


 けれど、アルハンゲリスクはあたしたち人間のものだ。人間の営みを守る為、生活を守る為、明日をつなげてゆく為に神性生物対策班はある。

 瑠依さんも――ミス・アルカディアも、きっとそれを望んでいる。

 文様を閉じなければ。焦る気持ちとは裏腹に、神性はどんどんアルハンゲリスクを呑み込んでゆく。


「嘘だろ……ッ!」

「面倒だ。このままミネルヴァと融合させる。神性が多少行き渡っていない箇所もあろうが、問題はない」


 嘆息混じりのその声は、この状況に飽きているようにも見えた。

 一層暗くなったように感じられた。ミネルヴァがどんどん魔の手を伸ばしている。足元の黄金色は稲穂の実りにも似ているが、決してあたしたちの糧になることはない。金色に抱かれてこのまま圧死させられそうだ。

 瑠依さんが舌打ちする。彼は地面を押すように力を込めた。黒い部分は瑠依さんの二の腕までも侵食し始めている。

 一進一退の攻防が続いた。ここまでの抵抗にあうとは思ってもみなかったのだろう、オブシディアンは苛立たし気に何度も踵を打ち鳴らしていた。

 ネムが歯噛みしながらオブシディアンの隙を伺っている。


「このままじゃ、師匠が……!」


 ミネルヴァが下降するこの段階に至っても、ネムには瑠依さんしか見えていないのだ。

 瑠依さんを守ることがネムの仕事だから。


「もう少し……あと少しで、競り勝てるのに……!」


 瑠依さんが絞り出すように言う。このままでは瑠依さんが先に力尽きてしまう。

 あたしは文様を閉じようと躍起になる。急いで、早く、閉じなければ……!

 額に汗をかいて呻くあたしを、オブシディアンは不思議そうに眺めている。


「なぜ、お前は……? どうして抗うことができる? なぜ引かぬ?」

「なぜって? なぜってあたしは、オルトラの”ガーデナー“シドゥリ・ハッキネンの孫だもの!」


 撤退なんてありえない。ばあちゃんにお尻を蹴飛ばされる。

 そう宣言すれば、意外な反応が返ってきた。


「オルトラ!」


 オブシディアンは吼えるようにその名を口にした。足元で一瞬炎がごうと燃え上がる。


「オルトラだと? オルトラの係累のものは死んだはず、なのになぜ……!」

「死んでない! 現にあたしはここにいる」


 なるほどとオブシディアンは皮肉な笑みを浮かべた。


「道理で文様が力を持つわけだ。我らはオルトラの森には弱い。あそこで育った者であれば、神性簒奪者とはまた別の意味で我らの天敵となりうる」

「オルトラの森に弱い……? 初耳なんだけど」

「そうだろうよ。我らがオルトラの森より生まれ出でしことは、貴様らにとっては知りようのないことだからな」


 ぽかんとしていたシーラが、興奮した様子で、


「は……? お、オルトラの森が出身地なのかお前たちは! オブシディアンはオルトラの森から発生した……? 新説にも程がある!」

「新説などではない。ただの事実だ。子は母には逆らえぬものだろう。……まあ、森が閉じた今となっては些事ではあるがな」


 世間話はここまで、とばかりにオブシディアンは目を逸らす。もうあたしたちのことなんか眼中にも入っていないようだった。

 燐光はその輝きを増し、アルハンゲリスクはいよいよ「不死なる都市」へと変貌しようとしていた。このままではミネルヴァに獲物よろしく呑み込まれてしまう。

 あと少しで、文様を閉じることができるのに――!


 もう駄目かもしれないと思った瞬間だった。


 ミネルヴァの下降が唐突に止まった。止まったと言うよりは、何か薄い膜に隔てられて動きがつっかえているように見える。


「なんだ……!?」


 瑠依さんとオブシディアン。あたしの文様。それ以外のファクターはないはずだ。文様はまだ閉じきっていない。

 誰かが止めてくれているのだろうか。きょろきょろと辺りを見回せば、不敵に笑うチップの視線とぶち当たる。


「結界だ。オルトラの森はまだ生きてたんだよ、バーカ!」

「うそ、オルトラはもう閉じた!」

「違ェよ。オルトラの婆はそこまでアホじゃねェ。婆はオレとおんなじことを考えてた」

「同じことって、心臓を二つに分ける……?」


 ミネルヴァが少しずつ遠ざかってゆく。瑠依さんの侵食と引き換えに。瑠依さんの手は炭化したみたいにぼろぼろだ。全てを塗り潰してしまうような漆黒は、ゆっくりではあるが確実に彼の胸元や首筋を這い上がっていった。


「そうだ。けどオレとは違う。婆が心臓を分けた相手は――お前だ、ミルカ」


 あたし。あたしは心臓なんて分けられていない。


「ち、違う、と思う……」

「アホ。オルトラの婆みてえな執念深くて用心深い奴が、”ガーデナー”を継承できねえままおっ死にましたなんて結末、許すはずねェだろ。中途半端な”ガーデナー”の継承、それがキモだったんだ」


 チップが得意げに話す間も、大地から黄金のきらめきが消え失せてゆく。瑠依さんがひゅうひゅうと浅い息をしている。


「婆の心臓はあの杖ジジイに奪われた。だがあいつは想定していなかった。”ガーデナー”の職域が中途半端に継承されていて―オルトラの森の半分は、あんたの心臓に繋がってたってことをな」

「あたしの、心臓に……」

「オルトラの森はほんとうに死んでいたか? 花の一つも咲かなかったか?」

「あ……!」


 あたしが家を壊して、オルトラを去ろうとした日。

 たった一本だけ咲き誇っていた木蓮の花。あたしの花。


「さ、咲いてた……」

「だろう? オルトラの森は半分死んでるが、半分は生きている! もう些事なんて気取ったこと言っちゃいらんねえだろ? アルハンゲリスクは首の皮一枚んとこで引っかかってんだからな。

 ――ってなわけだ、神性簒奪者」


 チップが叫ぶ。


「決めろ! お前にしかできねぇ!」

「ッ、言われなくても!」


 瑠依さんが吼える。オブシディアンが何か叫びながら金色に輝く自分の武器を展開し、投擲する。

 乾いた金属音と共に赤い槍がひらめき、オブシディアンの得物を退けた。

 ミス・アルカディアが立ちはだかる。栗色の髪はほどけて風に乱れるままになっていて、槍を振るうたびにたてがみの如くなびいた。


「ヴィー」


 瑠依さんが吐息のようにミス・アルカディアの名を呼ぶ。彼女は少しだけ振り向いて、その艶やかな美貌に少女のような笑みを浮かべた。

 金色の光がすうっと収束してゆく。収まった、と思った瞬間オーロラの光のようなものがぱあっと駆け抜けていって――。


 視界が真っ白に染まった。あたしの指は文様の最後の一糸を固定するので躍起になっている。


 あと少し、あと少しで――。


 指先が文様を閉じ、世界が光に包まれた。

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