第26話 シーラの研究室(下)

 それにしてもチップは凄い。さすが術士になっていただけのことはある。気のいいお兄ちゃんみたいな風体だから勘違いしそうになるけれど、どちらかと言えばミルカに近い研究者肌の人間なのかもしれない。


「しかし、チンパンジーを除いた生物が魔術を展開した例はまだない」

「そーそー、だから十三門閥のお偉方は、オレが何かイリーガルなことをしたと思っているらしい。あいつらオレに向かって何て言ったか知ってるか? 人間の脳の一部をロカンポールに移植したんじゃないかってよ! いつの時代のマッドサイエンティストだよ!」

「確かに、古色蒼然としてるよね。今の時代、魔術を展開するのに必要な器官は脳じゃなくて心臓って説の方が有力なのに」


 チップはふふんと鼻で笑う。


「魔術を使えるのは人間様の特権だと思ってやがる。馬鹿な奴ら。だから術士の資格を返上したってのに、正直に話せば十三門閥に戻してやろうとか抜かすんだぞ、頭が沸いてるとしか思えねえ」

「しかしだなチップ、君がやってのけたことは研究者界隈を大いにざわつかせることになるぞ。動物にも魔術が展開可能となれば、それを軍事利用する者も出てくるだろう」

「出てくるだろうっつうか、もう出てきてんだろ。オレができるんだから。……まあ、動物は選ばねえといけねえだろうけどな。ロカンポールとあと数種くらいじゃないか、魔術を展開できそうな動物って」

「ううむ……。君は”ガーデナー”にしておくのが勿体ないな」


 苦笑交じりにシーラが言うと、チップがきろりと彼女を睨んだ。


「まるで”ガーデナー”が日がな一日のんびり過ごしているように聞こえるが?」

「あ……。すまない。確かに今のは私が悪かったね。撤回しよう。しかし”ガーデナー”をしつつ研究も続けるというのは難しくはないかな」

「別に。趣味と実益を兼ねて、ってやつだな」


 小さく笑ってチップがコーヒーをすする。シーラは意味もなくカップをかき混ぜながら、


「ということはだ、今十三門閥の連中は、君のねぐらたるセプ・ルクルムを家探ししているのか」

「そういうこった。叩けば埃が出てくるとでも思ってんのか、それとも出てくる埃はもう用意されてんのか」

「そ、そんな物騒な話なの?」


 あたしが言うとチップは軽く頷いた。


「オレは相当門閥を引っかき回して術士辞めたからなあ……。敵を作りまくったことについては反省してるけど、後悔はしてねえ」

「反省?」

「ぐうの音も出ない程の弱みを握ってから辞めれば良かったなって反省。とは言え、ここで目ェつけられるとは正直思わなかったぜ」

「でもどうしてそのことに気づいたのかな? ロカンポールに魔術ギミックが仕込んであるなんて、あたしは気づかなかったよ。魔術的な処理をしているのかなとは思ったんだけど」

「死体を拾われた」

「えっ」

「逃げる時に、ネムに同行してた一頭が神性獣の一撃喰らって死んだんだが、その死体を回収されたんだ。解剖すれば誰かが何か手を加えたことなんて一目瞭然だろう」

「それでも、道に転がってるけものの死体を、門閥の人が解剖するかな。いくらロカンポールって珍しい動物でも、解剖するほどの意味があるとは思えないんだけれど」

「……最初からロカンポールに目をつけてたってことか? 怪しまれていたってことか」


 チップが目を眇める。


「てことは多分一番始めの始めからだ。オレは見張られてたのか? 術士を抜けたってだけで? ……セプ・ルクルムの”ガーデナー”だからか?」


 そう独りごちたチップは、苦笑しながら首を振る。そんなわけないと自分に言い聞かせるように。


「何にせよきな臭いのは確かだな」

「しかし君は有事には備えておくタイプだろう。心臓を二つに分けるなんてロックなことをしでかすくらいだ」

「褒めるなよ。念の為に次の”ガーデナー”候補も当たりはつけてあるんだが、こいつって奴がいねえんだよな」

「ミルカはどうかな?なかなかどうして適任だと思うんだがね」

「いや、こいつは駄目だ」


 きっぱり言われて少しだけ鼻白む。実際になれと言われたら断っていただろうけれど、頭ごなしに駄目と言われるのはむっとする。


「何でよ」

「オルトラの森があんだろ」

「もう閉じちゃったもん」

「閉じたって森はまだそこにある。一度繋がりかけた森を見捨てて、別の森の”ガーデナー”になるような不義理はしないだろ、あんた」


 そう言ってチップは安心させるように笑った。


「お前に”ガーデナー”の資質がないとかそういうわけじゃねえから、安心しろよ」

「べ、別に、そういうことを言いたかったわけじゃ……」

「気にしてた癖に。あの神性簒奪者が無神経なことを言うから」


 “ガーデナー”気取り。

 確かにあの言葉は刺さった。刺さったけれど、もう過去の話だ。

 それに、ある種真実でもあった。あたしはもう”ガーデナー”ではないのだから、いつまでもそれにしがみついていても意味がない。


「うん、でも……。あたしはあたしのやれることをしようと思ってるから」

「つまり防御魔術だな! うんうん、展開時間の短縮ならばこの私が手伝えるから遠慮なく頼るように!」


 得意げに胸を張るシーラ。チップは意外そうな目であたしを見た。


「あんた、こないだは一瞬で防御魔術を展開してただろ」

「ほんの一瞬、弾く程度だよ。神性獣を防ぐには及ばない」

「またデケェ目標だなオイ! 普通の術士はそんなとこゴールにしねえよ」

「まあ、ね。でも、やらなくちゃいけないから」


 だって瑠依さんと約束したのだ。彼の周りの人を守るって。

 だからあたしはとにかくこの唯一の武器を磨かなければならない。


 だけどチップはあたしの返事を違う意味に取ったらしい。


「そうじゃなくて、別にあんたがアルハンゲリスクを守んなきゃいけねえ義理はないんじゃねえの、って言いたかったんだが……あんたはそう思わなかったみたいだな」


 あたしではなくシーラがこくこく頷く。


「そうさ。だって彼女はあのシドゥリ・ハッキネンの薫陶を受けた者だ。困難を前に逃げるなど! 皆が許してもシドゥリが許すまい」

「言えてる。そんならオレも手伝えるぞ。こっちの妹の方は術士じゃなくて研究者だからな。術士寄りの視点もあったら何かの役に立つだろ」

「ありがと」


 先輩というか、お兄さんというか。意外に面倒見のいいこの人は、今まで会ったことのない感じがして面白い。


「手伝う! なんて殊勝な心がけなのだろう、よろしいそんな君にミッションだ。下に行って、図書館で取って来たサンプルをヴィヴィから受け取って欲しいんだが」

「呼吸するように人を顎で使うのは止めろ」

「ヴィヴィによーく似たキレーな顔で頼んでいると言うのにか?」

「金髪は好みじゃねえ」

「なるほどね、次は参考にさせて頂こう。ヴィヴィは今第二会議室で出張報告会の準備をしているそうだからね、頼んだよ」


 有無を言わせぬ使いっぷりに根負けして、チップが立ち上がる。

 あ。今からミス・アルカディアに会いに行くってことは。


「あたしも行く」

「あ? 別にいいよ、一人で持てる」

「チップのためじゃないから。ミス・アルカディアにご挨拶したいの」


 それにあのきらきらした、人間離れした顔をもう一度見たい。彼女を見ていると何だか元気が湧いてくる気がする。


「あー……。なるほど? いいぜ、人手は多い方がいいだろ」


 連れ立って石造りの階段を降りてゆく。スタッフしか使用しない出入り口なので、びっくりするくらい底冷えしている。二人分のブールの音がリズミカルに鳴った。


「そりゃま、気になるよな。雇い主の元カノ」

「あれ、チップも知ってるの」

「つーか十三門閥の門徒は大体知ってんじゃねえかな。あいつら昔付き合ってたんだぜ、って身内全員から思われるのって何か気色悪いよな」

「チップはそういうの苦手そう。でも瑠依さんは気にしなさそう」

「そうじゃなきゃ涼しい顔でここへ出入りはできねえだろうな。第二会議室ってこっちか」

「うん、右曲がってすぐのとこ」


 ノックをすると顔を出したのは瑠依さんだった。あたしを見るとへらりと笑う。


「うわ」


 思わず声を上げてしまうくらい、その顔は酷かった。目の下のクマが尋常じゃないし、髪が脂っぽくてくしゃくしゃしている。


「うわ、って……傷つくなあ、ミルカ」

「あ、ご、ごめんなさい。でもすっごくお疲れだから」

「あー、うん、三日くらい寝てないんだよねえ」


 言いながらへらりと笑う。そうすると垂れ目がさらに下がって、幼い印象を受ける。


「ミルカ、髪の毛今日結んでないんだね。そっちの方が可愛いよ」

「はあ、どうも」

「でも何でイメチェンなんて……」


 瑠依さんの言葉が途切れる。


「肩の傷のせいだね? 痛くて上げられないんだろう、だからいつもの髪型に結えなくて」


 これ見よがしにチップを見やるおまけつきだ。誰にも気づかれていなかったのに、これだから伊達男は困る。横でチップが、長々しい反論のためにすうと息を吸う気配がしたので、


「いえ、寒いから下ろしてるだけです。あの、ミス・アルカディアいらっしゃいますか? シーラに頼まれて資料を取りに来たんですが」

「奥にいるよ。ヴィー、シーラに渡す資料あるかい」

「ある! 山のようにね」


 あたしとチップが部屋の中に入ると、パソコンと首っ引きになっているミス・アルカディアの姿があった。さすがの美貌も三日の徹夜には抗えないようだったので、じろじろ見るのは止めにする。


「……チップ、チップ! 馬鹿みたいに人の顔を見ないの」

「いや、シーラと似てるようで似てねえのが面白いなと。つーかあいつ意外と垂れ目だよな」

「いいから! ええと、どれを運べば」


 運ぶと言っても段ボール箱の数は異様に多い。多分二十個は下らない。

 手近にあったものから手をつけようとすると、ミス・アルカディアがパソコンから目を離さずに、


「ねえルーイ。コーヒー買ってきてくれない?」

「いいよ、何にしようか」

「ブレンド。ついでにその二人と散歩してきたら」

「ええ?」

「眠くて死にそうなんでしょ。でも今寝られると困るのよ。散歩してお喋りでもして眠気を飛ばして来て」


 瑠依さんは言葉の意味を測るようにミス・アルカディアを見ていたが、ややあってあたしたちの方に向き直った。


「そういうわけだ、運ぶ前に私の眠気覚ましに付き合って貰えるかな」

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