第16話 長い夜のはじまり

「ミルカ、新しい文様に挑戦しているんだってね」


 夕食時に瑠依さんが言った。

 あたしはミネストローネのおかわりをよそいながら、


「でも、まだ全然です。展開する時間を短縮したいのに、上手くいかなくて」

「魔術に関しては私も門外漢だから、何とも言えないが……。正式な先生をつけるといいかもしれないね」

「先生? 高校も出ていない上に教養もない田舎娘に、教えてくれる人なんかいるでしょうか」


 言ってから、自分の言葉に自虐があったことに気づく。恐る恐る瑠依さんを見れば、彼は苦笑しながら黒パンを千切っていた。


「きみが、きみ自身について、学がないと諦めたように定義してしまうのは、とてももったいないことのように思うよ」

「でも、だって、本当のことです」

「そんなことを言うなら、私だって実は高卒だよ。しかも魔術が使えない」

「でも……」


 瑠依さんとあたしは違う。瑠依さんは神性簒奪者だ。この世でたった一人の。唯一無二の。

 ――そして五年前、前の大使を殺した。

 目の前に座って、パセリだけを器用によけているこの人が、人を殺した?


「……むしろハッキネンは、情報が多すぎる状態なんじゃねえの」


 口を開いたのは、夕食時には無口なはずのネムだった。彼はスプーンについたサワークリームを綺麗に舐めながら、


「多分色々言われてんだろ。あの超身内社会に切り込んでくには、こいつはあんまりにも武器がねえ。俺たちと働いてるって時点で相当注目の的なのに」

「うん。ネムもたまにはいいこと言うじゃないか。そうだよミルカ、勉強を始めた頃ってさ、こんなに知らないことがあったのか、こんなに自分は未熟だったのかって思い知るんだよね。でもそれって、勉強が進んでることの証拠なんだよ」

「はあ……そう、ですね」


 あたしは煮込んだ肉をつつきながら、気のない返事をした。

 未熟。そうかもしれない。結局あたしは瑠依さんに面と向かって、前の大使を殺したことがあるんですかと問うだけの勇気さえない。どうせ信じられないならば聞いてしまえば良かったのに、それさえも。





 その夜遅くに荒々しく蹴り起こされた。


「うぇっ、な、なに?」

「神性獣。七体落下。神性殺しだけじゃ難しいってんで師匠んとこに要請が来た」


 ネムだった。他人を蹴り起こすなんて、乱暴者にも程がある。

 あたしは時計を見る。深夜三時。瑠依さんに防御魔術を展開してから十八時間が経過している。これから神性獣と交戦するには少し心もとない。


「分かった。着替えてすぐ降りる」

「すぐだぞ」


 三分も待ってはくれないだろう。あたしはパジャマを脱ぎ捨て、適当なセーターとパンツを着込んだ。ターシャさんにおさがりで貰ったグリーンのウールコートを羽織って、羊皮紙の枚数を確認する。


 髪を一つに括りながら降りていくと、外が何となく騒がしかった。すぐ近くに神性獣がいるのだ。

 リビングで待っていた瑠依さんは、髪を結わずに遊ばせたままで水を飲んでいた。


「あ、ミルカそのコートかわいいね。髪の色によく合ってるよ」

「はあ、どうも」


 こんな時も褒め言葉を忘れないのが瑠依さんのすごいところであり、正気を疑うところである。何度もやめて下さいと言ったし、全く響いていないことをリアクションで伝えているのだけれど、まるで懲りない様子を見るに、これはもう呼吸のようなものなんだろう。


 あたしたちはネムに追い立てられるようにして家を出た。


 外は深夜とは思えないほど明るい。街燈の他にもスポットライトみたいな光があちこちで点灯されていて、街並みを白く照らしている。瑠依さんは携帯を取り出すと、神性獣の現在位置を確認した。


「うーん、神性獣は集まると強いから嫌だねえ」

「そうなんですか?」

「だってほら、武芸を磨くのが大好きなオブシディアンの設計した生き物だからねえ。同種の生物がいると張り切るみたいなんだ。七体も近くにいたら手に負えないだろうから、今神性殺したちが分断しているようなんだが……」


 その口ぶりでは捗々しくないようだ。


「せめて数体でも私が神性を奪えれば、神性獣も通常通りの強さに戻るはず。というわけだ、今回ネムは無理やり神性獣を倒そうとしなくていい。神性殺しもたくさん出動しているようだからね。私の道を切り開く手伝いをしてくれ」

「はい」

「ミルカも私の援護を頼む。触れる前に死んでしまっては元も子もないからね」


 頷きながらも、瑠依さんに施した防御魔術が綻びつつあるのが気にかかっていた。新しい文様を描画している余裕はない。騙し騙し使いながら、適宜フォローしていくしかないだろう。


「ではそろそろ会敵だ。ミルカは自分の守りをおろそかにしないようにね」


 前回神性獣が落下してきた際は、瑠依さんを守ることに集中しすぎて、自分が橋から落っこちそうになっていることに気付けなかった。ネムに怒鳴られながら引っ張り上げられたところを神性殺しの人たちにばっちり見られて、大変恥ずかしい思いをした。


 今回はしっかりフォローしきってみせる。頷いたあたしに微笑みかけて、瑠依さんは走り出した。

 左手建物の一階がいきなり崩落する。のた打ち回りながら飛び出してきたのは、サイに似た角と丈夫そうな皮膚を持つ神性獣だった。その後ろを兎のようなフォルムを持つ個体が続く。だるんとした皮膚を見る限りなかなか固そうだ。


「二体。ネム、左から行くよ!」

「はいっ!」


 ネムは恐れることなく駆け出すと、突っ込んできたサイの角を穂先で払った。

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