第伍夜 お別れのレッスン

 十月末から十一月始めにかけて、社会人となってより初めての引越しをした……と書くと諸方には些か誤解を招くだろうか。というのも、もう随分と前のことになるけれど、私はかなりの長きに亘って学生生活を「謳歌」してしまったから、これに終止符を打って社会人という身の上に更衣した段階で既に、人生の緒に就いたばかりの初々しい社会人ではあり得なかったし、糅てて加えて当時の私はそういった転機にあってなお変化を望まなかったらしく、その後も住み続けた旧居で信じられないくらい穏やかに流れる、境遇こそ変われど変わらぬ「日常」の中で何年もの時を過ごしていたのだから(今にして思えば、私は旧居で化石にでもなるつもりだったのだろうか)。

 だからこそ、我が身にすっかり馴染んで癒着してしまったかに思われていたその「日常」が、光芒一閃、よもやこうも呆気なく終わりを迎えるなど、二か月前までは夢寐にも思わなかった。単なる気紛れの為せる業か、あるいは天恵の然らしむるところかは判然としないにせよ、平生、さなきだに何事につけても逡巡してばかりいる私が、殊なる転機でもないのに引越しに踏み切ったというその事実は、他ならぬ自分自身にとってもまだ意想外ではあるに違いなく、と同時にこの決断を心裡に「よくぞやった」と自讃してもいる、という今以て複雑な心境にある。さりとていつしか新居での生活も、同じ風景の中で寝起きしているうちに、それが端から「日常」であったかのようなしたり顔を私に見せ始めるようになってきた……というような訳で、次にいつ訪れるとも知れない転機、引越しについて、今回その前後も含めて概ね数週間のうちに頭を擡げた所思所感を前・後篇に分けて記し留めておくことにする。


 前篇はやはり、引越し前の「荷造り」について主に触れておきたい。

 引越しそのものは業者に頼んで半日程度で終わるにしても――そういえば一度で良いから、トラックを借りて友人達に手伝って貰ってする、青春映画のような引越しというものを経験してみたかったような気もする――、これに係ってそれ以前と以後とて暫くは束の間の通奏低音の如く大事些事が続くことになる。分けて文字通り荷厄介なのはいうまでもなく「荷造り」であるに違いない。この作業は荷物そのものの物質的「重さ」という強敵に対峙せざるを得ない難儀なものである以上に、その荷物によって髣髴する思い出の「重さ」こそが曲者で、Laudator Temporis Acti、過去崇拝者を自認する私にとってこれにどう対するかはこれまでの引越しでも余儀なく悩みの種となり、そして今回もそうなったわけだ。

 モノは思い出と繋がるための回路だのに、人は総てのモノ=思い出を抱え切れない、という事実に当面させられるのだから。そしてモノとしての重さと、思い(重い……)出が絶妙なる共軛関係で私に迫ってくる特別な荷物こそが、何あろう「本」なのだった。二つの「重さ」によって損なわれた心身が復ち返るには相応の時間を費やす必要があるらしい(今回は結果的に二ヶ月ほど掛かった)。

 引越しが決まった段階で、本や書類の荷造りが前回の引越しの時とは較べようもない大事となるだろうことは火を見るより明らかだった。それは旧居での長く安穏とした時間のうちに増えるばかりで一向に減ることのなかった蔵書が、いよいよ信じられぬほどに膨れ上がっていたからで、最終的には用意した段ボールの七割近くを費やしてなお収まり切らないという情況が事の重大さを物語っていたように思われる。よもや睦まじく付き合えていたはずの本達が、一転して荷厄介なその「荷」として眼前に立ち現れてくることになろうとは……経験したことがないわけではないのに、すっかり忘れていたということになる。少人数で会えば心地よい食事の席が、多人数になると俄然鬱陶しくなってしまうのと同様に、一度に数冊を持ち運んで向き合う程度ならば良き師、良き友となってくれる本達であっても「一度に」「大量に」対さなければならない、それも千冊単位で、となってくるとやはり事情が変わってきてしまうのは道理ではなかったか。私が今少し若ければ、頑張って総て抱えようとしたかも知れないけれど、年経りして些か狡猾にもなった私は中途でその選択を諦めた。本を「手放す」ということを基本的にはしない私も流石に止むに止まれず、古書店に依頼して一部を手放すという苦渋の選択をすることになる……ことほど左様に、罪深いと思えるくらいに「紙」は重い。斯くして、私にとって最も気の重い(また重い……)作業となる「お別れのレッスン」が始まることになる。私は「一度に」「大量に」搬ぶことを想定せず、野放図に蔵書を増やしていったことの報いをこうして心身両面に受けることになった。

 本を読み返すと、かつてそれを購入した頃の、あるいは読んでいた頃の思い出が立ち所に甦ってくる。逆に「あの頃」に戻りたい時は、「あの頃」に読んでいた本を再読すれば良い。だから本そのものというより、その本によって想起される、本を買ったその当時の記憶を捨てたくないということでもあるのかもしれない。人生の軌跡とも表すべきもの、「本棚は人生の縮図」とはいい得て妙なもので、成る程、そのように思えてくるその「人生の縮図」の一部を手放さなければならないという哀しみ、思い出へのアクセスが不可能となるかもしれない、今と昔が不通となるかも知れない懼れ、そして自分にとって価値ある本が、需要と供給という経済の原理に則って冷徹に値付けされていくという、中々に容認し難い屈辱……しかし、賽を投げてしまったからには「お別れ」する本を、私が肉体的労苦から遁れるための「犠牲」となる本を選ばなければならない。だとすればこの「犠牲」、否、量的にいって最早これは「粛清」と表すべきなのかも知れないその対象が、「一度しかよろこびをあたえないものもあれば、十回見てもよろこびをあたえてくれるものもあるだろう」とホラティウスが『詩論』の中でいうところのどちらになるかは論を俟たない。これに加えて極めて理性的な基準、例えば手放してもすぐにまた容易に入手できる本か、文庫版に買い換えられる本か、といった点なども影響していただろうと思われる。ただその結果として、「お別れ」することになる本を選び終えてこれを一覧してみると、やはり趣味・娯楽の本、概ね特定の作家たちの手になる小説、購入した当時は新刊本であったものが多かったことはやや意外だった。その作家たちの本を意識的に手放そうとしたわけではないものの、そうなった。発売されて真っ先に買って読んだその時分は確実に私を愉しませてくれて、しかし「もう一度」が終ぞなかった本ということだろうけれど、私は何故か、感じる必要などないはずの後ろめたさのようなものを、その複数の作家に対して感じている自分を発見した。

 一度に整理が付かず、二日に分けて旧居まで買い取りに来て貰った本の分量は、とはいえここまで大仰に書いておきながら、全蔵書の一割に満たなかった。「思い出の補完」と「肉体的労苦の低減」とのシーソーゲームでは、辛うじて「思い出――」が重かった、という結末を迎えたことになるのだろうか。いずれにせよ、長く生きれば生きるほど本も思い出も増えていく一方で、しかしその総てを抱えて生きるには、人の手は、頭は、家は小さきに過ぎるらしい。過去と繋がる回路としての本の一部を手放してしまったことで消えてしまった思い出があるのかどうか、今はまだわからない。ただ、あったとしてもそのことに気付くことはないだろうと思い至るにつけ、半ば肯定的な諦めもいずれ心裡に充ちてくるような気がしないでもない。そして、仮にどう足掻いても結局はこの「諦め」にしか逢着し得ないのだと仮に知ってしまえば、「お別れ」に対する感覚が鈍磨していくことは避けられそうになく、そういった鈍磨こそは老いの徴候を示すメルクマールとなるのかも知れないとも思うし、好意的に解釈すればこの作用は、畢竟するところ「感傷」をいなす術を身に付けつつあること=老成として美化することもまたできるように思われる。今は、新居に搬ばれてきた「生き残った」本のうち、私が人生を終える時に残っているものがどれくらいあるのかに興味が湧いてきている。

 ちなみに、かかる「荷造り」の葛藤など知る由もない(し知ってもらう必要もない)引越し業者が、恐らく見積もり段階で「ヤバそうだ」と思ってくれたのだろうか、作業員を三人寄越してくれたお陰で搬出はスムーズだった。テキパキとこなされる作業、自分で造っておきながら当の私自身が一つ持ち上げるのにも難渋するくらいに重くなってしまった段ボール箱を一抱えで二つずつ運んでいく時の、彼らの「生命力」としか名指しようのない溌剌とした働きぶりには脱帽以外になく、また同時にその姿は、同じ空間の中で私の卑弱というものを、鮮やかに反転した「ネガ」(という表現も一定の年齢以下の若い世代には通じなくなってきた)のように意識さするに足りた。この不幸な対比が、恐らく私の目にしか映らないものであったことは幸いだったという他ない。とにかく荷造り果せて疲弊していた私は作業の邪魔にならないようロフトの階段の陰に所在なく殆ど棒立ちしたまま、荷造りした段ボール箱が瞬く間に搬び出されていくのを只々見守っているだけで良かった(一度、衣類の一部をハンガーボックスに掛けて収める作業を依頼されたくらいだろうか)。経験したことはないけれど、恐らくは家財の差し押さえに遭って呆然と立ち尽くす債務者といった体だったろう……などと頭脳朦朧として自嘲が先走りを始めているようなので、今夜はここで一先ず擱筆したい。次夜では、引越して以来どうにも抜け切らない「頭脳朦朧」、その原因らしい、ある違和感について書きたいと思う。

 眠られぬ夜も日ごと寒さが弥増してきている。早く眠らなければ……。


追記

この文章をアップしようとした矢先、コロナ禍での年の瀬ということもあるのだろうか、学生時代の懐かしい人から数年ぶりに連絡を貰った。自分がまだその人の中に存在していたこと、目の前にはいない誰かが自分のことを思い出してくれていることは不思議と愉快で、そして素直に嬉しいもので、過去と繋がる回路としての「人」という存在の強さを思い出させてくれた。早く会えるようになると良いのだけれど……。

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