第2話 指令

「――以上で、報告を終わります」

「御苦労。菜摘乃樹、菜摘乃はな、下がれ」

 浅峰あさみね司令官の低い声に、菜摘乃とその妹――昨日、放火を担当した少女である花は一礼し、司令室をあとにする。『特課』から見れば『プレアデス』は協力者ではあるが、所詮は部外者。『特課』所属員の判断で協力を乞われることもあるが、直接指令を受ける場には立ち会わないのが原則だ。私は去ってゆく二人に目もくれず、ただ黙って次の指令を待つ。

 地下に作られた『特課』拠点に陽は差さない。蛍光灯の光だけが司令室を照らしている。デスクに座っているのは私の直属の上司、浅峰涼太郎りょうたろう。ダークグレーの短髪に、漆黒の細い瞳を持つ男だ。黒いスーツを纏った彼はデスクから報告書を取り出すと、私に突き出す。それを受け取り、軽く目を通し――そこに記された名前に、思わず目を見開いた。


 暗殺対象:暗殺者 鬼武きぶ零闇れあん


 報告書を持つ手が震える。体温が静かに、しかし急激に下がっていくようだ。粘度を持つ液体を火にかけるように、胸の奥がふつふつと蠢き出す。私は深く息を吸い、吐き、浅峰を見据えた。鬼武零闇。よく知っている名前。しかし――。

「……司令官」

「何だ」

「この鬼武零闇は、偽物ですね?」

 ナイフを振り下ろすように問うと、浅峰はわずかに目を細めた。表情を変えないまま、彼は徐に頷く。

「その通りだ。“本物の”鬼武零闇は、既に死んでいる。今回現れた“鬼武零闇”はおそらく、民間の暗殺者がその名を騙って、裏社会に向けて『鬼武零闇の再来』を謳っているだけだ。……彼の正体は民間の暗殺集団『ヒュアデス』のメンバー、枕木まくらぎ聡哉そうやだと判明している。そして、鬼武零闇を名乗る素人に蔓延られると迷惑だ。わかるだろう?」

「はい」

 『特課』は極秘の、正確に言えば「存在しない」機関。警察関係者も『特課』の存在は上層部のうちごく一部しか知らない。そして“彼”はその『特課』を代表する暗殺者だった。もし、逮捕された裏社会の人間が『特課』について警察の下っ端に話したらどうなるか。最悪の場合、表社会に『特課』の存在が知れる。

「……若芽のうちに摘み取っておけ、ということですか」

「その通りだ」

 浅峰の言葉に、頷く。……しかし、一つだけ納得のいかない点があった。

「……一つ、質問があります」

「何だ?」

 指令書を握る手が無意識に強まり、薄い紙に皴が走った。

「……どうして、私にこの依頼を? 私情を挟む可能性があるのに?」

 震えそうになる声を無理に凍らせる。『特課』の人間が、感情を表出させるわけにはいかない。それでも抑えきれそうになかった。火にかけられた液体が、少しずつ、少しずつ沸騰していくように。それを見抜いたのか、浅峰は小さく息を吐いた。

「……そうだな。お前は鬼武零闇のだ。任務に私情を挟む可能性は否定できない。だが、それ以上にお前には冷静かつ慎重だ。多少の私情は問題ないと判断した。何より……」

 一度言葉を切り、浅峰は鋭い視線を向けた。冷たい漆黒の瞳が私を捕らえる。

「お前にとって鬼武零闇は直接の師匠であり、誰よりも信頼を置く存在だった。その名を騙る素人を、お前は決して許さない。、彼の名を騙る者に死を贈るだろう。時に、私情が必要になることもある」

 ……その通りだ。私は唇を引き結ぶ。

 師匠を継ぐのは私だ。他の誰でもない。それが“彼”のなのだから。

「……くれぐれも、振り回されすぎないように」

「はい」

 両手に込めていた力を、そっと抜く。指令書の皴を伸ばし、目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。目を開き、浅峰を正面から見据える。

「――指令、承りました。速やかに遂行します」

「任せた」

 一礼し、踵を返す。最後に蛍光灯がかすかに瞬き、一瞬暗い影を落とした。



「おはようございます、先輩」

「……ゆみ」

 昨夜果たした指令について報告しに行こうとしたら、優梨先輩が司令室からゆらりと出てきた。その表情は強張っていて、瞳はギラギラと異様な光を湛えていて。いつもの冷静な優梨先輩じゃない……一目見ればわかる。だって、ゆみは優梨先輩の弟子だから。そして優梨先輩は、ゆみの憧れの人だから。

「……どうしたんですか? 優梨先輩、いつもと違います……」

「……そんなことないさ」

 その声は感情に蓋をするように凍っていた。黒赤色の瞳に暗い影が落ちている。先輩の手元に視線を向けると、皴のついた紙……指令書。

「あ……」

「……」

 ゆみの視線に気づいたのか、優梨先輩はかすかに俯いた。指令が原因で、先輩がここまで感情を表すなんて……。

「もしかして、死んじゃった大師匠にかかわる話ですか?」

「……どうして、それを」

 凍った声に、小さなヒビが入った。ギラギラした瞳に睨まれ、思わず首を竦める。それでも、と、ゆみは優梨先輩の瞳をじっと見返した。

「優梨先輩、もし一人だけじゃ厳しそうだったら、ゆみのこと、いつでも頼ってください!」

「……」

 一瞬、優梨先輩の瞳から、異様な光がスッと引いた。黒いアームカバーに包まれた腕が伸び、ゆみの金髪をふわりと撫でる。思わず目を見開き、ゆみは弾かれたように優梨先輩を見上げた。心臓の鼓動が乱れ、身体がわずかに熱くなるのを感じながら、黒赤色の瞳をじっと見つめる。

「……ありがとう、ゆみ。だけど、すまない」

 その腕がそっと下ろされる。わずかに上がった体温が元に戻るのを感じる。いや――それどころか、少しずつ少しずつ、体温が下がっていく。再び異様な光が戻った黒赤色の瞳から、目を逸らせない。先程とは違う意味で心臓が早鐘を打つ。

「――奴は私が殺す。師匠を継ぐ者として。ゆみを巻き込むわけにはいかないんだ。どうか、わかってくれ」

 底冷えのするような声。だけど……その声はかすかに震えていて、感情がありありと滲んでいて。懇願するような響きに、私は思わず俯いた。

 こんなの……私の憧れの人じゃない。

「……わかりました」

「……本当に?」

「はい……本当、です……」

 消え入りそうな声で呟く。優梨先輩を直視できない。私の憧れの優梨先輩は、こんな風に憎悪に振り回される人じゃないのに。鋭い氷柱のような、研ぎ澄まされたナイフのような優梨先輩……それが、にわか如きのせいで、こんな。

「……ゆみ」

「あの、ゆみ、報告に行ってきますね」

 優梨先輩を遮るように、足早に司令室へ向かう。

 ゆみが、やるんだ。優梨先輩をあんなにした奴は、許さない……。

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