黒い森の男爵と消えた花嫁(仮)

ピクルズジンジャー

Ⅰ 昔々あるところに……

 ――昔々、王様やお姫様がいて、人を喰う悪い鬼や魔女どももこの地上を我がもの顔で歩きまわっていたくらい昔のこと。


 黒い森の傍らを流れる川べりで、代々水車を回している粉屋に一人の娘がいた。

 よく気が利くはたらき者だが、将来自分の夫になるはずの男や祭の夜に行われるダンスなど、普通の娘なら心を浮きたたせずにはいられないことに一切興味を示さない変わり者でもあることで近在では評判の娘だった。

 そんな娘が年ごろを迎えたころ、粉屋のおやじは娘の縁談にきりきり気をもむようになった。うちの偏屈娘と所帯をもって粉屋を継いでも構わないという若い男はいてくれるのだろうか、等とあれこれ心配するため自然と文句が多くなってしまう。しかし当の本人は、父親から小言を食らっても平気の平左といった顔つきで、まめまめしく働いた。あまりにも父親の小言がしつこければ、ぴしゃりと一喝して黙らせた。

 このように、二人きりの父娘は、時に険悪になることはあっても概ね穏やかに慎ましく暮らしていた。


 どうにもこうにも本人にその気がないなら仕様がない。粉屋のおやじが、やがて水車小屋と粉挽き稼業を受け継いでくれる婿と、上手くいけば生まれていたであろう可愛い孫のことを諦める心地になっていたころのことである。村はずれの黒い森のそばに佇む水車小屋まで、じきじきに縁談がもちこまれたのは。


 しかもそれは驚いたことに、この黒い森の村を含めた領地を治める男爵自らこちらに赴いての申し込みだった。天国に召されて数年経つ奥方の後添いに、是非娘御をもらいたい。唖然とするばかりの粉屋のおやじに直接そう伝えたのである。

 栗毛の馬に乗り、供もつけず、狩りにでもいくような身軽な姿で水車小屋を訪ねた男爵は、しがない粉屋のおやじ相手にも丁重に挨拶をした。そして、あっけにとられたおやじを残して、馬にまたがりさっそうと駆け去った。


 世間様が呼びならわすところの玉の輿である。

 男爵の後ろ姿が緩やかな曲がり角のむこうに消え、馬の蹄の音も聞こえなくなったころに、おやじはようやっと我に返った。そして、思いもよらぬ形で悩みが奇麗に片付きそうなことにようやく頭がおいついたころにやっと、全身がわなわなと勝手に震えだすのを感じたのだった。

 


 うちの娘は、泣き言一つ言わずにくるくるとよく働く上に、村に住む他の娘たちのように甘い菓子や美しい着物に見向きもしない、感心な娘ではある。

 しかし、村の酒場で飲みすぎた時にはまたムダ金を使ったと容赦なく責め立てるような気の強さもあり、目端がきいてしっかりしている分愛想が悪く可愛げに欠け、器量だって人並みな、あんな娘のどんなところを男爵様はお気に召したのか? 


 勝手にじわじわと湧き上がる、そういった疑問で頭をいっぱいにしながら粉屋のおやじは大いに焦った。混乱している間に、時間がしばらく経つ。そうすると、挽いた粉を届けに向かっていた娘が、荷馬車を御しながら村からちょうど帰ってきたのだった。

 ただいまと言う娘が御者台から降りるのを待たず、粉屋の親父は泡を食らったまましばらく前に起きたことを早口で告げた。


「お前が留守にしてる間に男爵様がお見えになったぞ。こんな村はずれに一体どんなご用があるのかと思ったら、聞いて驚け、お前を後添いにぜひ欲しいと仰った! お前、どうするつもりだい?」


 まず、娘は、父親から聞かされた突拍子もない話を信じようとしなかった。しかし、繰り返し繰り返し父親が本当だと言い張る。話が進まないので、娘は俄かには信じがたいその話を一旦「ほんとうの話」として飲みこむことにした上で考え出した言葉を口にする。


「どうするもこうするも、断るに決まってるじゃない。何よその、おかしな話」


 そう言いながら狭苦しくても落ち着く我が家に入り、前掛けをかけて夕食の準備にとりかかる。

 娘の言葉を聞いてあっけにとられたのは粉屋のおやじだ。耳を疑って何度も何度も問いただした。後添いとはいえ男爵様の奥方になれるんだぞ? それ以前にこれは男爵さまのご命令でもあるんだ。お前はそれを無視しようっていうのか、と、おやじは半ば混乱しながら問い詰めた。


「普通の娘っ子ならまず蹴ったりしねえぞ、こんな勿体ない話。断ったりすりゃ、どんな目に遭わされるかわかったもんじゃねえ。お前は困った偏屈娘だが、断ったりするような話じゃねえって分別はつく娘の筈だぜ?」


 しかし粉屋の娘は、父親の話を聞くなり顔をしかめてこう言い放つ。


「どうして断っちゃいけないのよ? 大金を積まれたって、首を縦に振らなきゃ耳をを削いで目をくりぬくって脅されたってあの男爵様と一緒になるつもりはありませんから!」


 気色の悪い毒虫でも見たように身震いをして、娘はそう切り捨てた。そして竈の前に立ち、その日の食事作りにとりかかる。


 やれやれ、お前の偏屈はここまで筋金が入ったものだったとは驚きだ、と、粉屋のおやじは呆れたような、何故かどこかほっとしたような声で、ぶつぶつと呟く。父親の文句やお小言には慣れ切ったと言わんばかりの顔つきで、娘は大鍋のシチューをかき混ぜて答えた。

 

「私は昔からあの男爵様のことがいやでいやで仕方がないの。あんな人と夫婦になるくらいなら、白髪頭のシワクチャばあさんになるまで一人で暮らした方がずっとマシ」

「あんまりでかい声だすなィ。誰が聞いてるかわからねえんだぞ?」


 外の気配を伺う粉屋のおやじを置いて、シチューを煮込みながら娘はぶつくさと不機嫌さを隠さずに文句を垂れる。


「そもそも変じゃない? お貴族様のお姫様だってお大尽のお嬢様だってよりどりみどりの選び放題な男爵様が、なんだって粉屋の一人娘なんてものを奥方にしようなんて酔狂を起こすのよ? 気持ち悪い。――どういうつもりなんだか」

「滅多なことをいうもんじゃねえ。財産もなけりゃ器量もよくない、てめえの親父にすら平気でぎゃんぎゃんどやしつけるような気が強いばかりな娘っ子をわざわざ嫁にしたいって気持ちなんざ一つしかあるめえ。惚れて惚れて惚れぬいておいでだってこったろうが。言わせるなィこの野郎」

「男爵様と口をきいたのは前の奥方様のお葬式の時っきりよ? まだほんのチビだった子供に、惚れて惚れて惚れぬくだなんて気色の悪……器用なことができるっていうの?」

「はーっ、ったく。母ちゃんさえ生きてくれてりゃあ、こんな疑りぶけえ野暮天娘に育つこたぁ無かったってのによぉ。――いいか、いくらなんでもガキの自分から目ェつけてたってことはないにしても、デカくなったお前のことを村だのなんだのでご覧になることがあったろうが。そういう時に遠くから『コイツのことなんざ特に何とも思ってねえ』って思いながら眺めてるうちに、なんだか知らねえが気になって気になって仕方なくなるってことがあるんだよ。そういうのもなぁ、世間様じゃあ〝惚れる″ってやつの勘定に入れるんだっ」


 やれやれ、こんなことすら言わなきゃわからないとは情けない娘だ、我が娘ながら、と、粉屋のおやじは呆れたようにぼやいた。

 娘なんぞより世間というものをよく知っていなければおかしい筈の父親が、自分よりうんと身分が低く、さして器量も愛想もよろしくない娘の身柄をお貴族様が欲しがる理由について「惚れている」という解釈でのみ応える。そんな父親をじっと見つめてから、娘は無言で竈にかけた鍋と向き合った。


「どうせそんなの、男爵様のお戯れよ。あの人はそうやって、村の女の子をからかって遊ぶところが玉に瑕だって有名だもの。真に受けてバカをみるのはこっちなんだから」

「まー、お戯れならお戯れで構いやしねえんだが。なんにしたってうちの偏屈娘なんかをからかう気に何ておなりあそばしたのか……」

 

 わからねえ、お貴族様って方々の考えなさることは、俺達にゃさっぱりわからねえ。なんだってよりにもよって、うちの娘なんぞを……と、ぶつぶつと呟きながら、粉屋の親父は秘密の隠し場所からとっておきの葡萄酒の瓶を取り出した。

 近い将来、粉屋のおやじという身分から男爵夫人の父君という身分に成り上がれるかもしれない男が浮かべるには今一つ景気の悪い表情で、ふちの欠けた古い杯に葡萄酒を注ぐ。なにがなんだか理解しづらい状況に振り回されて、飲みでもしないとやっていられないような気持になったようだ。 

 粉屋の娘も似たような気持になり、クズ野菜の多いシチューを椀にもり、ちびちびと舐めるように葡萄酒を味わう父親の前に差し出した。



 粉屋の父娘の住まいでもあり仕事場でもある水車小屋、そこから少し離れた所にある村、広々とした農地とうっそうと茂る黒い森の一部、粉屋の親父に娘御を頂きたいと申し入れた男爵の領地である。男爵は黒い森の傍で立派な館を構えて暮らしている。

 雄々しく、賢く、見た目もご立派、領民からの尊敬を集める男爵は、元々は当地の人間ではなかった。この地に所領を構えていた先代男爵の娘と結婚し夫なることで爵位と領地を得た入り婿である。

 元々は、粉屋の娘がまだ赤ん坊だったころに黒い森のむこう側からやってきた、どこの誰とも素性はしれない流れ者だった。しかし、鳶色の髪とハシバミの瞳を持ち、快活な様子や俊敏な動作が人目を惹き、血気盛んで勇猛で、非常に凛々しい若者だったという。


 ある日ある時、名もなき流浪の若者が身を立てるための旅の途中に黒い森の館に訪れ、一晩の寝床と食事を求めた。当時の館の主だった先代男爵が気まぐれを起こし、この若者を館に招き入れたことで、世界の片隅にあるこの領地の運命が一変することになる。

 晩餐の場で若者は、黒い森のむこうにある彼方の土地で、人をも攫って食らうのだという怖ろしい盗賊どもを退治した、己が武功を滔々と語って聞かせた。その話術が、この長閑な領地より外に出たことがなく、平和ではあるが変化もない生活に飽いていた先代男爵を大いに楽しませたという。

 一宿一飯さえ世話になればすぐにでも出立する筈だった若者は、先代男爵に請われて留め置かれ、一日、また一日と滞在期間を延ばすうちに何カ月も経つうちにすっかり気に入られ、一人娘を妻とすることを許されたのだ。

 数年の後、先代男爵は流行り病で天国へと向かわれた。お葬式が終わると若者は爵位と館と領地を引き継ぎ、晴れて当代男爵となった。

 その数年後、奥方であった先代男爵の一人娘も消えるようにお亡くなりになった。その頃にはもうしっかり喋れもするし歩くことも出来た粉屋の娘も、両親に手を引かれ男爵夫人の参列したことをぼんやりと覚えている。すすり泣いたり、ひそひそ声で生前の奥様を偲ぶ領民たちの末席に並び、人足に担がれた棺桶が墓地へ向かうのを眺めていたのだ。


 今現在、黒い森のそばの館で暮らすのは幾人かの使用人を除くと当代の男爵お一人である。

 それではお寂しかろう、と、亡くなった奥方の喪が明けるとすぐに男爵には様々な縁談がもちかけられた。貴族のご令嬢に、富豪のお嬢様、見目麗しく心優しい乙女……、様々な娘たちの肖像画が運び込まれたが男爵は決して首を縦には振ろうとしなかった。


「儚くなった妻の面影が、未だ忘れられぬので」


 村娘には声をかけて心をとろかすような茶目は覗かせても、頑なに男爵が花嫁を迎えぬ言い分がこれである。

 それを耳にした領民たちは、それを聞いて涙した。新しい男爵様は、雄々しく凛々しく勇敢なだけでなく、人柄まで暖かく、まことに立派な方であらせられる、と。


 庶民の出であるためか貴族であるにも関わらず取り澄ました所のない男爵を、領民は皆慕っていた。

 年貢とは別に、畑で獲れた農産物や森で仕留めた獣の肉や毛皮を、喜んで進呈した。子だくさんな親たちは、ある程度育った小僧や小娘を連れては下働きとして働かせてやってほしいと直々に頼みこみ、男爵はそれをこころよく受け入れた。館で侍従や侍女としてのしきたりを学んだ小僧や小娘たちは、このあたり近在の子爵・伯爵さまの館で働くとっかかりを得て村から出てゆくことになる。そこでの暮らしがよほど楽しいのか、滅多に帰ってくるものはいなかった。男爵様がいなければ始末に頭を悩ませるしかなかった子供たちに立派な職をお与えくださった――と、まあ貧しい親たちは男爵に感謝を捧げていた。


 凛々しく勇猛、冗談を解すると同時に慈善家でもあり、堂々とした偉丈夫である。

 事実だけを並べ立てると、心清き聖人・聖女か、伝説にのみ登場する偉大な騎士の生まれ変わりのようにしか思えない男爵である。


 さてこのご立派な男爵は、館の外に出て領地を見回ることをとても好んでいた。

 馬に跨りあちこちを散策する姿を、領民たちなら何度も目にしている。気さくで朗らかな、領内にいるどんな者にも隔たり無く声をかけ、時には下々とともに酒を酌み交わす時さえあった。その際には得意の話術で酒場の男たちを大いに笑わせるのだという。


 黒い森のそば一帯に領地を構える男爵は、かように社交的な人物であった。ゆえに、粉屋のおやじが言う様に、娘自身があずかり知らない所で姿を見られていたことは十分あり得る。

 毎日毎日父親と二人で働く汗みずくの姿、祭の夜に着飾りもしなければ村の男衆とダンスの一つも踊らない偏屈娘のことが気になって仕方なくなるようなモノ好きが、世界のどこかに一人くらいならいるかもしれない。だが、その一人こそ我らが黒い森の男爵様であると信じられるほど、粉屋の娘は素直な頭を有してはいなかった。


 そもそもである。

 娘自身が、男爵のことを全く好いていなかった。

 好かないどころではない、毒虫のように嫌っていた。

 なんであれば、遠くに領内散策中の男爵の姿を見つけるなり、急いで物陰に隠れて息をひそめるくらい、大の苦手としていた 

 狩の帰りに村の酒場に立ち寄られたと聞けば酒場一帯を遠ざけながら水車小屋に向かい、祭の夜に陽気で朗らかな笑い声が聞こえると耳を塞いでその場を去った。

 男爵が亡き奥方を偲んでお嘆きになるのが聴こえた時などは、耳を塞ぐだけでは飽き足らずそのままわあわあとでたらめな歌を歌うような真似までしてみせた。さる理由があり、男爵の気配を微かに察するだけで、ミミズやムカデに全身をはい回れるような不愉快さを感じてしまわずにいられないのである。


 この一帯の中で、男爵に愛想よくできない異常な娘は自分一人である。 


 そんな孤独に苛まれ眠れぬ夜が、辛抱強いぶん細やかさに欠けると誤解されがちな娘にもたびたび訪れた。

 しかし、心がくじけそうになる前に、幼い時に眺めた男爵夫人の葬列の光景が、きまって頭の中にぱっと浮かびあがるのだ。参列者のすすり泣きや、ヒソヒソ声で偲ぶ声も蘇る。

 そうなるともう考えるどころではない。どこどこと太鼓の様に暴れ出す心臓に息苦しさを覚え、にじみ出る脂汗の気持ち悪さに負けてしまうのが常だった。


 何をどうしたって、あの男爵のことは耐えがたい。

 自分は男爵の妻になるだなんてまっぴらだ、そんな身分になるくらいなら、黒い森の奥に逃げ込んで薬草やキノコ類を採りながら、腰が曲がって白髪が生えるまで一人ひっそり暮らす方がずっとマシだ。村の連中に魔女の婆呼ばわりされながら生きる方がよほど清々する、と世界をお作りになった神様が聞けば怒りに震えるような思いを強めて、ぐっと瞼を閉じる。男爵の曰く言い難い気味の悪さが頭からはなれなくなった時は、こうしてむりやり眠りにつく。

 男爵が自分が留守の時、父親に結婚の申し入れをしたその日の夜も、脂汗に居心地の悪さを感じながら無理やりギュッと瞼を閉じて寝入った。

 

 その日はそうして、平穏に過ぎたのである。一応は。



 ことが大きくなりだしたのは、男爵がじきじき結婚の申し込みにきて次の日のことである。


 所用で村までやってきた娘は、村に住む領民たちが自分の方を見てはニヤニヤした視線を送り、意味ありげにコソコソ囁きあうことに気が付いた。ご婦人方から頂戴する「おめでとう」「あんたも上手くやったもんだね」というからかいまじりの祝福に当初こそ戸惑いつつも礼を返した。

 しかし、男爵が自分に結婚の申し込みをしたことを知っているからこその祝福であると直に気づいて顔色を変えた。村の衆らは既にこの話を耳にしているという事実を前に、粉屋の娘はすーっと顔色を青くした。まずいことになったと察したからである。

 一体だれがこの縁談を村の衆に明かしたのだろう? とっときの葡萄酒に酔った父親がぽろりと零したのか、水車小屋に用のあった村人がたまたま男爵の結婚申し込みの現場を目撃でもしたのか? おそらくそういったことから、この話は漏れ出たのであろう。しかしもはや、そんなことはもはやどうでもいい。


 問題は、黒い森の傍一帯にすむ娘たちだ。

 恋に焦がれる瑞々しい娘たちの多くが、独り身の男爵に憧れていた。優しく凛々しく、亡き妻思いでいながらも娘たちに軽やかな声で話しかける偉丈夫の男爵。彼に手を引かれてダンスを踊り、甘い言葉をささやかれ、そのまま妻となることを夢みずにいられる娘など、黒い森の近在にはほとんどいなかった。数少ない例外が粉屋の娘である。

 これはまずい、と、粉屋の娘は冷や汗をかく。


 用がすめばとっとと水車小屋に帰ろう、そう決意して荷馬車の向きを変えた娘のことを誰かが見つける。すると、それがきっかけで村中の乙女たちが娘をギンと睨むなり、ぐるりと荷馬車ごと粉屋の娘を取り囲む。そして開口一番、男爵様が結婚をもうしこんだ時の様子を詳しく聞かせろと詰め寄った。


「そんなこと言ったって、男爵様は私がいないあいだにお見えになっては父さんにだけお話されただけなんです。私ははいともいいえとも答えていません」

「大体そんなおかしな話があるわけがないでしょう! 私のような粉屋の娘をからかって退屈しのぎをなさっただけに決まってます。まったく、あの方は、ああいう所さえなければ素晴らしい方なのに」


 何度そう言っても、ロマンスに飢えていた村娘たちには耳を傾ける様子はない。

 ある者は目を輝かせ、あるものは嫉妬で鼻息荒く、粉屋の娘と男爵の関係を問いただそうとする。さらにある者からは、日ごろから娘が男爵のことを徹底的に避けていたことを持ち出して「あれほど男爵様のことを嫌っていた罰当たりなお前が奥方に選ばれるなどあり得ない。黒い森の奥にいる妖精に力を借りたのだろう」と金切声でありもしない呪い疑惑をでっちあげられそうになる始末だ。

 そうして姦しく娘を責め立てたあと、最後には皆、とってつけたような笑顔で、こう口にしたのだ。


「結婚おめでとう」

「男爵夫人、万歳」

「末永くお幸せに」

「結婚式には呼んでちょうだい」

「男爵様が式を挙げると仰るなら」


 きゃあきゃあと騒がしくはしゃいだ声をあげながら、若くてぴちぴちした娘たちは、一体どこで拵えたのやら野の花を摘んで作った王冠を、娘の頭に無理やり被せた。可憐な花々に交じってイラクサまでも編まれていたらしく、額や頭にチクチクと棘が刺さる。

 ほとほとうんざりしながらも、粉屋の娘はいちいち同じことを口にしては、丁寧に否定し続けた。

 見かけるだけでぞっと背筋が粟立つような毒虫じみた相手の奥方になるだなんて、考えただけでも虫唾が走る。そんな本音はもちろん押し殺しながら、むりやりに荷馬車を走らせては、ほうほうの体でその場を逃げ出す。


 悪い夢ならとっとと覚めてほしい、粉屋の娘がそう願わずにいられない毎日はこうして始まった。


 最初の内、娘は意地でも普段通り過ごした。

 そうすれば、こんなくだらない嫁入り話もご破算になるだろう。自分に持ちかけられた輿入れ話など、陽気で気さくな男爵の悪い癖であるお戯れに過ぎない。

 自分が一向に嫁ごうとしなければ、素朴な領民たちの頭にも違う風が吹き込んで、こんな悪ふざけのことなど忘れてしまうに違いない。村の暮らしというものは、頭の中にいつまでも与太話をしまいこんでおけるほどのんびりしてはいないのだ。そのうち風向きは変わる筈。


 そう目論んで、娘はおとなしく五日ほど過ごした。



 粉屋の娘の思惑通り、領民の風向きは確かに変わっていった。残念ながら娘が望まない、それどころか怖れていた方向へ、ではあったのだが。

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