「悪」(前編)

赤襟一族の客分、女騎士フランチェスカ・ピンストライプは、目的の扉の前で籠手を嵌めなおした。彼女は一族の血縁ではないが、渡世の義理から赤襟一族に身を寄せている。階位は、彼女が客分のために正式なものではないが、現在空位である六位相当ということになっている。

きちんと結い上げて纏めた金髪に乱れはない。装備の乱れは心の乱れ。勿論、すぐに死ぬ予定はなかったが、もし死ぬ時が今日だとしたら、きちんとした格好で死にたい。


彼女は背を伸ばして大きく息を吸い、少し止めてから吐いた。


ドアを挟んだ反対にいる相棒、ラーフラ・“ザ・ギフテッド” ・ダンバーズと目が合った。彼は首元までしっかり止めた黒の軽鎧姿だ。紺の口布。人差し指と中指を抜いた手袋を嵌め直し、彼も小さく頷く。ラーフラは戦闘職ではない。主に彼が担当するのは“探索者”としての仕事だ。敵は、フランチェスカが全て請け負う。


振り返ると、護衛対象が杖を真っ直ぐに立てて彼女を見ていた。背筋の伸びた白い巡礼装束、短く黒い髪。まだ年若い娘だ。名前をなんといったか。ああ、そうだ。シジマ。確か、シジマと名乗った筈だ。


フランチェスカは、己だけは死なないと思っているわけではなかったが今夜も恐怖はなかった。戦闘が怖い、と最後に思ったのはいつのことだったろうか。


彼女の経験上、近距離戦闘で一番傷を負いやすいのは手指である。

彼女自身も戦闘になった場合はまず相手の指を狙う。大抵、ひとは身体の前に手を置く。

斬りかかってくる相手の身体のうち、もっとも最初に彼女の間合いに入るのは、その手指だ。間合いに入ったものを、順番に斬ってゆけば大抵はことが済む。最初に両の指を落としてしまえば、もう相手は武器を持てなくなる。考えようによっては、もっとも血の流れる量が少ない決着といえる。少なくとも“その先、どこまで続けるか”を選択する権利を彼女が選べる点で、よりよい決着点だと彼女は考えていた。


一撃必殺、急所を狙う戦い方を彼女は信用していなかった。相手を殺しやすい間合いは、裏を返せば殺されやすい間合いということだ。己の強さに自信を持つものほど、少ない手数で、より武器の損耗の少ない形で相手を倒すことを好むが、実際の戦闘でそう綺麗にいくことは稀だ。


たとえ相手が格下であっても、命を懸けた戦闘はいつだってそうだった。一撃で相手を殺すこと自体を目的にしてはならない。致命傷ではなくてもいい。傷をひとつ、またひとつ、着実に積み重ねていくことだけが重要だ。傷は、出血と共に体力と戦闘力を奪ってゆく。下がった戦闘力の差が一定以上になると、実質、そこが決着点となる。覆せない戦力差のついた状態でそのまま戦闘が継続されれば、近い未来に覆せない決着が訪れる。死である。


彼女の戦闘スタイルを支えているのが、名工の手による籠手であった。一見華奢な造りに見えるそれは隕鉄で鍛造され、指関節が自由に動くよう特殊な構造をしている。掌、そして手首から肘までをしっかりと包むベースプレートは古遺物のアーティファクトから移植したもので、外見からは想像できないくらいの強度を誇っている。まさしく堅牢なる城門の籠手であった。


「……」


彼女は細剣を抜いた。飾りの少ないそれを掲げ、彼女は祈る。正確には「祈ったふり」をする。彼女の心の中に神はいない。斬り合いは殺し合い、殺し合いこそがシンプルだ。


藁が駱駝を殺す、という諺がある。

駱駝の背に藁を一本ずつ載せてゆくと、どこかの時点で重みに耐えきれなくなって背骨が折れ、駱駝は死ぬ。駱駝を殺すのは、最後、一本だけ載せられた藁なのだ。

同じように傷の積み重ねだけが戦士を殺す。長い戦闘の中、運悪く避け損ねて致命傷になったように見えるかもしれないが、それは最後の一本の藁と同じなのだとフランチェスカは考えていた。斬り合いには必殺の剣があるのではない。

騎士の振るう剣は、最初から最後まで、全て藁の一本なのだ。


自身の強さにはある程度の自信を持っていたし、その剣技は華麗といってもよい腕前にあったが、彼女はあくまでも戦闘とは「そういうもの」だと考えていた。彼女は無傷にこだわるのではなく、死なない、ということを重視していた。実力が拮抗していればいるほど、初撃が重要になってくる。小さな傷が最初に薄く開けた戦闘力の差は、指数関数的に運命をひらいてゆく。


今、三人が窺う部屋の中には、確かに何かの気配がした。

邪悪な何かの気配だ、とシジマは言ったが、フランチェスカにはよくわからなかった。気配が彼女に伝えてくるのは、対象の重さ、大きさ、熱、そういったものだけだ。中にいるのは、人型のものが少なくとも2人、あとは四つ足の、おそらくは重量のある獣。


彼女は白衣の巡礼者にちらりと目を遣った。持っている杖は、見るからにしっかりとしたつくりである。まっすぐなそれは、明らかに魔術用のそれではない。おそらくは武器だ。それなりに腕に自信はあるのだろう。シジマの佇まいにも、恐怖は存在していなかった。


フランチェスカの今夜の仕事は、シジマの護衛だった。

聞くところによると、この、使われていないはずの地下礼拝所に、よからぬものが巣食っているのだという。

シジマの目的は、三つ。

礼拝所で行われている儀式だか礼拝だかの内容を確かめること。そして、それが“あまり好ましくないもの”だった場合、なるべく速やかに止めさせること。場合によっては荒事になるかもしれないということ。

どうしてよその国でそんな面倒なものに首を突っ込むのかとフランチェスカが尋ねると、シジマは涼やかに笑った。


「邪なものをたくさん滅しますれば、それだけ『徳』が…貯まりますので…」


シジマは、巡礼の旅、聖地に辿り着くまでの間に可能な限り徳を積みたいのだという。旅した先々で善行に励み、魔を退けて徳を積み上げるのが彼女たちの巡礼行なのだそうだ。


フランチェスカの知っている「徳」というのは具体的な行動でいちいち増えたり減ったりするものではないような気がしたが、指摘するのはやめておいた。誰だって、自身の行動には指針がほしいものだ。「徳」を積み上げて、その先になにがあるのか。興味はあったが追求すべきではないと思った。たとえばそこには、何もなくたってもいいのだ。

自身の信じる何かが、確かにそこにあると信じられさえすれば、ひとは立っていられるのだ。


シジマの目指す聖地がどこにあるのかもフランチェスカは尋ねなかった。人には目的が、ゲームにはルールが、それぞれの姿の輪郭を形作っている。


そして今、目の前には、おそらく、戦闘が彼女を待ち構えている。


他人のテリトリーに土足で踏み込むのは、決して褒められた行為ではない。たとえ相手が魔物のように見えたとしても、あるいは本当に魔物そのものだったとしても、龍の治める地にあるものであれば、加護を受けた「龍の民」である可能性があった。

龍の国の数少ないルールとして、龍の民は可能な限りお互いを尊重すること、というものがある。ここは戦いだけが全ての修羅の国ではない。まずは会話が、そして相互理解があるべきなのだ。


フランチェスカは相棒のラーフラに目配せして、地下水道の水路に面した古びた扉を開く。


「失敬、よいか」


踏み込んで誰何の声をかけた刹那、大きな影が彼女目掛けて跳躍した。跳んだのは小型のムル喰いだ。ムル喰いは8本の足を持つ、毛の生えた肉食獣である。小型と言っても虎くらいの大きさはあり、無論、街中で飼育してよい生き物ではない。


「こちらは、会話をしようと」


フランチェスカは真っ直ぐに剣を掲げたまま、飛びかかってくる白い影に一歩踏み込んだ。空中のムル喰いをそのまま両断する軌道ではあったが、獣も宙で体を捻って躱す。ぱっと白い毛と、赤い血が飛んだ。


「言っているのだ!」


フランチェスカのすぐ左横、ドア脇の壁に着地したムル喰いの顔に当たる部分を、怒気と共に殴り飛ばす。ムル喰いは予想外の攻撃を喰らったようで、受け身も取れずに吹っ飛んで壁の棚を派手に壊した。獣が距離を取るように再び飛び退くと、ぱたた、と血が跳ねる。最初の騎士の踏み込みと鉄拳で、8本ある腕のうち1本を負傷したようだった。


「なぜ貴様ら不逞の輩はいつも、人の、話を、聞かんのだ!」


だん、と壁を叩く音ともに、空気の振動する声量であった。関係のないシジマが部屋の外で首を竦める。フランチェスカが叩いた壁には、ミリ、とヒビが入った。

奥のテーブルで何かを齧っていた男が、椅子から立ち上がろうとした。呆気にとられていたようだったが、緊急事態だとようやく認識したのだ。


「ひ、人の事務所に勝手に入ってきやがって、あんた一体何なんだ」

「届出によれば、此処は礼拝堂であろう。であれば、私も礼拝に来たのだ」

「てっ」

「それに、入ってきて欲しくなければ錠をしろ、錠を」


また一歩進み、フランチェスカは室内を見渡す。

部屋の奥行きが思ったよりも狭い。


地下水道沿いには、旧迷宮施設を利用した隠れ家や工房が一定数存在した。

崩落の危険を考えて、地下施設は基本的に拡張を認められていない。ただ、資料ではこの区画の小部屋はそれなりの広さが確保されているはずであった。


「なんだ、建て増しか。壁を足したのだな」


フランチェスカが相手に聞こえるように呟くと、男は一瞬うろたえたように奥の書棚に目を遣った。おそらくはカモフラージュのために古材を使って奥の壁を建て、秘密の部屋にしているのだろう。書棚を動かすと入り口になる。古典的な仕掛けだ。


外から感じた気配は、人型が少なくとも2、大型のものが1。

見渡す中には、いま口を開いた痩せた男が1人。殴り飛ばされ、戦闘態勢をとったムル喰いが1頭。獣は傷ついた脚を浮かせ、残りの七脚でフランチェスカに飛びかかる隙を窺っている。


「聞きたいことは既に聞いた。これより室内の検分に入るが、その場での処断は行わない。私は龍に仕える査問官ではない。不服がある場合は然るべき機関を通して抗議していただきたい」


言いながらもう一歩、フランチェスカが部屋の中央に踏み込む。物理的な圧が男と、おそらくはムル喰いを押した。テーブルの男は後ずさろうとして椅子の足に阻まれ、ムル喰いは部屋の隅で前脚を構えて動かない。


彼女の二つ名は、“下がらずのフランチェスカ”である。

戦闘が開始される時、彼女は片方の掌を相手に向ける。そして、ほとんどの場合、彼女は後退せず、相手の武器はその掌が作ったラインを越えることはない。籠手で守られた彼女の掌は、ほとんどの攻撃を受け、あるいは弾くのだ。


「な、何言ってんだてめえ、頭イカれてんじゃねえのか!」


男が振り絞るように怒鳴り返したのは、もっともな抗議ではあったが相手が悪い。

すう、と彼にフランチェスカが掌を向けた。


「結構。そのままで結構。少し騒がしくするがくつろいでいてくれてよい。今回はこちらにも非礼があった。今の侮辱は不問とする」

「なに」

「だがな、看過できんのはそこのムル喰いだ。貴殿の生まれた村ではこんな猛獣を室内に放し、あまつさえ扉を開けた人間に襲い掛かるように躾けているのか。危ないと思わんのか!」


大喝しながら女騎士はまた一歩進んだ。反射的にムル喰いが攻撃態勢を取った。あと半歩で獣の射程範囲である。


「貴殿の躾けた獣であれば、この獣の腕をおろさせよ。制御できぬ獣であれば、残念だが秩序維持のためには斬らねばならん。放っておいては危なくてかなわん」


小型とはいえ、ムル喰いはやすやすと人を引き裂く猛獣である。おそらく、男がムル喰いに襲われずに済んでいるのは、獣と主従関係にあるというよりは、何か秘密があるのだろうと思われた。男は戦闘職には見えない。魔術職でもないだろう。

フランチェスカは、男の身体から微かな香木の気配を嗅いだ。昔、密林でのムル喰い避けにカメジャコオンの香木を持ち歩くと聞いたことがあった。これがカメジャコオンの香りなのだろうか。


だが、香り程度でこの狭い室内、人を襲う獣を避けていられるとも思えない。フランチェスカはしばらく考えていたが、すぐに止めた。

ムル喰いは暴れるようなら殺せばいいし、目の前の男に尋問するなら動けなくしてから尋問すればいいだけの話だ。その際にムル喰い避けの秘密も聞き出せるかもしれないし、それでいいだろう。


目の前の男がムル喰いを完全に制御できていないのにかかわらずこの部屋にいたのだとしたら、男のほかに管理者がいるということであり、それは無視するには少し大きな問題だった。おそらく、その管理者は確実にムル喰いよりも数段強い。その誰かははたしてこの奥に控えているのか、奥に控えているとすればなぜ今、出てこないのか。


「姉さん」


フランチェスカの背後からシジマが部屋に足を踏み入れた。ムル喰いがぴくりと反応する。


「駄目だ。危ないから私が片付けるまでは外で待つように。あと私は貴女の姉ではない。ダンバーズ!彼女を、外に」

「そのムル喰い、過去に人を、人を食べてます!」


叫んだシジマは杖を構えて、フランチェスカの掌の守護範囲から一歩、踏み出した。


半歩、ムル喰いからシジマを庇うようにフランチェスカが横ににじる。シジマは男と、フランチェスカはムル喰いと相対する形になった。


「ムル喰いに、人を食わせたのか?」


男はぎょっとしたように口をつぐみ、やはり奥の部屋に目を遣った。一体奥の部屋には何があるのか。


「貴様、教養というものがないのか?猛獣に人の味を教えてはならないと郷里で習わなかったのか?人は弱く、獣にとっては狩りやすい。人の味を覚えた獣はもう自然に返せないんだぞ」

「し、知らねえよ!それにこれは、俺じゃねえ」

「知っておけ!」

「うるせえよ!いきなり入ってきて、あんたたち一体なんなんだよ!」


もっともな悲鳴ではあったが、男から、人を食わせたことへの否定はない。これで男が完全な善意の存在でないことは明らかになった。おそらく、人を食わせたというのも真実なのだろう。

フランチェスカには邪悪というものの定義はよく分からなかったが、不逞という概念は分かる。大衆の不益というラインも理解しているし常識的に許される範囲も弁えている。


目の前の部屋は、地下とはいえ街中である。そこにおいて猛獣を飼育し、人肉の味も教えている。状況証拠的には完全に不逞の輩、治安を乱す準備であると言われたら、反論はできない。


「かわいそうな気もするが、幾ら地下迷宮とはいえ、人の味を覚えた獣なれば、野放しにはできん」


この国の地下は深く、広い。前時代の遺跡として、広大な地下迷宮が地面の下には広がっている。歴史ある都市には付き物の地下迷宮だが、龍の国においては迷宮冒険に潜る者たちの物語はもう終わっていた。

地下水道は怪物たちの繁殖できる環境ではない。宝物は獲り尽くされた。そこは今ではただの、湿っぽい通路である。しかし、広い。家賃が払えずに仕方なく住みつく者、追われたもの、人目を避ける必要のある者たちがぽつり、ぽつりと隠れ棲む場所となっているが、それを取り締まらないのは、好き勝手するのを龍が許しているということではない。


「すまんが、もう斬るぞ」


呟くなりフランチェスカが剣を下げながらムル喰いの間合いに踏み込んだ。それは獣の、ほとんど反射反応なのかもしれない。構えた一対の前脚が女騎士の頭めがけて伸び、フランチェスカは獣に背を向けながら下げた剣を再度、振り上げた。

まるで獣を背負うように剣の軌跡は弧を描き、そして、女騎士は剣を持ったまま、さらに半回転する。

水平軌道に剣は煌めき、振り抜いた姿勢で、ぴたりと剣士が動きを止めた。


二本の前脚は皮一枚を残して断たれてだらりと下がり、足の付け根は剣の軌跡どおり、横一文字にぱっくりと開いていた。ムル喰いに声帯はない。声にならない湿った悲鳴をあげて、獣は地に伏し、傷口から大量の血を吹きながらもがいた。真っ白な体毛がみるみる赤く染まる。ムル喰いの身体は毛のある巨大な蜘蛛に近いが、頭部にあたるものがない。口は腹の底側にある。ムル喰いの捕食は、相手を動けなくしてから8本の脚で押さえ、腹をつけて齧るというものだ。


「初めて斬ったが、ムル喰いはどこを斬れば死ぬのか分からん。シジマ、知っているか?」


フランチェスカが肩越しに問いかけると、巡礼者は一瞬言葉に詰まったようだった。


「し、知りませんが、話ではムル喰いの脳は身体の芯にあるとか」

「ならば両断すればよいか」

「バケモノ!立て!てめえ、何やられてんだ、立てよ!」

「やめろ、敗者を侮辱するな。やむなく傷付けたが、必要以上に苦しめるのは本意ではない」


言いながらフランチェスカはまた踏み込み、今度はムル喰いの正中を断った。剣は獣の胴の半ばまで埋まり、騎士は胴に脚をかけて剣を引き抜く。残りの脚がフランチェスカを捉えようともがくが、もはや届かない。周囲の家具をなぎ倒し、派手な音を立てるが、騎士には届かない。


「貴様、心は動かんのか。貴様らが人肉で餌付けをしたせいでこの獣は死なねばならなくなったのだ。これは貴様らが招いた死だ。顔を背けるな。きちんと見ておけ」


更に三度、フランチェスカが剣を振り下ろすとムル喰いは動かなくなった。ブーツの膝から下は、返り血で真っ赤である。壁にも、床にも血が飛び散っている。男だけでなくシジマもまた、言葉を失くしているようであった。


「これが、“邪悪なもの”の正体か?」


剣に残った血を振って払いながらフランチェスカが問うと、シジマはようやく我に返ったようであった。ぶんぶんと首を振り、部屋の奥を不安そうに見る。


「いえ、その獣は、人を喰らうておりましたが、邪悪なものの気配は、まだ」

「私は今ひとつわからんのだが、その、邪悪の気配というのはどうやって感じるのだ?そういえば、このムル喰いが人を喰ったかどうかも、どこで判断したのか気になる」


シジマは首を振る。


「こればかりは、なんとなく感じるとしか表現できません。人の痛みや苦しみの、残響のようなものが感じられるとしか」

「ふうん。ダンバーズと同じような能力か。分からんが、不思議な力のあるものだな」


呟いてフランチェスカは残った男に体を向ける。


「さて、この奥には何が隠してあるのか、聞かせてもらおうか」


男はにじるように、フランチェスカから離れるように壁に沿って動いた。


「その、逃げようとする挙動は、話す気はないと受け取ってよいのかな」


追って女騎士が距離を詰めると、男は怯えたような声を出した。


「やめろ、俺を殺したらてめえ、てめえだってタダじゃすまねえぞ」

「別に今すぐ殺すつもりはない。この剣は、まだ仕事が終わっていないのでしまえないだけだ。血の脂は、最後、全部拭いておかないと錆になってしまう」

「やっぱり最後、殺すつもりなんじゃねえか!」

「フフッ」

「笑ってんじゃねえ!」


抜身を下げ、血塗れの女騎士は相当に圧が強い。2人の間にシジマが割って入った。


「姉さん、ダメです。この人を殺してしまうのは、徳が下がります」

「さっきも言ったが、私は君の姉ではないはずだ。人を殺人鬼みたいに言うな。あと、徳って一体なんなんだ」

「聞いてください。この人は、多分、まだ直接には人を殺したこともないはずです。宮廷会議に引き渡すだけできっと足ります」

「宮廷会議ィ?」


男が頓狂な声を上げた。


「てめえら、誰かと思ったら宮廷の犬か」

「私達は犬ではない。貴様、教養がないだけでなく目も見えていないのか?犬というのはな、ワンワン鳴いて毛むくじゃらの動物のことだ。抱くと可愛いぞ」

「うるせえ!」

「煽らないでください!」


(もう、入ってもいいのかな)


彼女の脳内に念話で語りかけてきたのは、部屋の外に控えているラーフラ・“ザ・ギフテッド” ・ダンバーズだった。


「念のためにもう少し、待っていてもらったほうがいいな。それより、どうしてさっき、彼女が入ってくるのを止めなかったんだ。危ないだろう」

(それは…ごめん、まさか入っていくとは思わなくて)

「気をつけてくれよ。なるべくこの娘に怪我はさせたくない」


ラーフラの念話は一方通行なので、返事をするには、声に出して伝える必要があった。怪訝そうな顔になったシジマと、怪訝というよりは怯えた顔になった痩せた男に首を振る。


「こちらの話だ。気にしないでほしい。そんな顔をするな。私は正気だ。それよりその隠し扉だ。棚の後ろに何かあるのだろう。もう面倒だから私が開けるが、構わんな」


フランチェスカが問題の書棚に向かって踏み出すと、男は奇声を上げて彼女に襲い掛かろうとした。さっきまで座っていた椅子の背を掴み、スイングして振り回す。


「危ない!」


シジマが大声を上げて杖の足元を蹴った。持ち手を軸にくるんと回った六角の杖が椅子の座面を突き、まるで杖の先に吸いつけたように椅子のコントロールを奪った。魔法のように音もなく椅子をもぎ取って捨て、流れるように、回転させた杖の反対側で男の喉を突いた。げええ、と男は膝をついて反吐を吐く。転げて苦しむ男がばたつかせた足が、テーブルの上から皿を落とした。


「いけない、やりすぎちゃった、徳が、徳がまた減る」


喉を突いたのは、無意識、咄嗟のことだったらしい。慌てて男の介抱をしようとする巡礼者に、無駄に殺すんじゃない、徳とやらが減るぞ、とフランチェスカが振り返りもせずに軽口を叩いた。


「大丈夫ですか」


男からは意味のある応答は返ってこない。濁った音を立て、獣のような声を上げながら、のたうちまわっている。フランチェスカは、黙々と書棚を調べている。面倒だ、と壁ごと破壊しそうな気もしたが、仕掛けを解いたりするのは好きなようだった。相変わらず抜き身の剣はしまう気配もない。いつでも取れるようにか、刃が欠けないように注意はしてあるようだが、棚の横の掴みやすい位置に立てかけてある。


「ダンバーズ、もういいぞ!大丈夫だ!室内とりあえずクリア!」


仕掛けに熱中していた彼女が大きな声を出すと、細身の姿が入り口から内側を窺い、するっと入って来た。外に控えていた相棒の、ラーフラ・“ザ・ギフテッド” ・ダンバーズである。彼は洒落た短鎧の下にバーテンダーの衣装のような、きちんとした襟のあるシャツを着込んでいる。こざっぱりとした髪は短く、すこしゆったりした口布で鼻から下を隠している。


(げっ)


ラーフラは全員に解放したチャンネルの念話で感嘆の声を漏らした。口布で口元が隠されていることもあり、耳にしたもののほとんど全てが、おそらくは彼が本当に「喋った」のではないかと錯覚するような丁寧な念話だった。


(なんだこれ、めちゃくちゃじゃないか)


彼の眼前に広がるのは、血の跡、薙ぎ倒された家具の中心で事切れている巨獣とその血溜まり。

部屋の反対側では吐瀉物にまみれた男がのたうちまわっていて、おそらくはその原因であるシジマが、心配そうにしゃがんで見ている。


(随分散らかしたみたいだけど、フランカ、これ、片づけるひとがいるんだぞ)


ラーフラの念話は心底呆れたような口調である。不思議なことに念話で「聞こえる声」というのはそれぞれの頭の中にある何かの声である。実際の声ではない。口調、というのも便宜上のもので、実際は意味情報と、そのニュアンスの情報の塊でしかない。それが脳に直接伝わることにより、実際には聞いていない声を「聞いた」と錯覚して認識するのが念話の正体である。

聞こえた声を再現する手段がないので気付いていない者も多いが、念話の場合、実は、三人居れば三人とも、別々の「聞こえる声」を聞いている。


ラーフラとフランチェスカの付き合いは長い。くだけた場面では、フランチェスカは彼のことをラフィ、と呼ぶ。彼女が他人を愛称で呼ぶのは珍しい。


トレードマークとなった濃紺の口布。音のしない軽鎧を着込んだヒューマンの青年は、仕掛けと格闘している相棒の側に歩み寄った。

片眉を上げて彼女の手元を覗き込む表情は、室内の惨状を意に介していないようにも思えるが、単に心から相棒を信用しているのだ。相棒が室内はクリアだと告げ、自分を呼んだ。つまり、自分の能力が必要になったということなのだ。


ラーフラ “ザ・ギフテッド” ダンバーズ。


公式の場では名前を呼ばないという龍の国の慣習で、彼はしばしば“贈られたもの”と呼ばれている。ラーフラは幾多の龍の加護を得たものの中でも、もっとも“贈られたもの”と呼ばれるのが相応しい。


もともと、素肌に触れたものの情報を読み取るサイコメトリー能力を持っていた若者が、龍の加護により、それを他人に伝達するアクティブテレパスを得た。微弱ではあるが、それは大きなギフトであった。

まるで龍が彼を見て、そして選んでそれを贈ったように、加護は彼に必要なピースを与えた。龍は人間を区別しない。その才も、欠落も、性別も身分も年齢も見ない。だが、まるで彼は龍に祝福されたようだと、誰もが口にした。


かつて龍の国に流れ着いたダンバーズは、生まれつき口がきけなかった。


生まれたばかりの彼は、その豊かなサイコメトリーの能力を制御する方法も、十分に表現する手段も持たなかった。もっとも根源的に不幸だったのは、彼が望まれて産まれたのではなかったということだった。


生まれた瞬間、素肌に触れる全てのものが、おまえさえ居なければ、と彼に囁いた。それは肌着に染み付いた情報だった。おむつに込められた呪いだった。もしかしたらそれは、彼の両親が思ったことの全てではなかったのかもしれない。しかし、物に強く刻まれた情報は残酷に、繰り返し彼に否定を繰り返した。彼はサイコメトリーに苛まれながら育った。悪意や敵意、害意や苦痛といった強い感情は器物に宿りやすい。彼は、言葉を覚えるより早く、常に呪いとともにあった。

あるいは彼が初めて触れたおしめに、肌着に、おくるみに、この子は望んで授かったのだという幸福な思いが、愛情に溢れた思いが、僅かでも込められていたら違ったのかもしれない。しかし、それは考えるだけ詮のない話だ。


お前さえ居なければ。


それは呪いとなってあらかじめ彼の中に刻み込まれた。

もはや誰にも知り得ないことではあるが、彼の両親もまた、その腕に彼を抱くたびに耐え難い恐怖、苦痛、不快に襲われていた。おそらくは龍の加護を受ける以前にも、既に能力の芽はあったのかもしれない。彼の未分化のテレパスがそのように作用していたのであれば納得できる話である。

子を疎む自身の声が、とてつもなく増幅されて返ってきただけの話といえばその通りではあるが、直接脳内に「自身を否定する概念」を流しこまれることに耐えられる人間は少ない。ラーフラが発狂せずにいたのは、最初から世界は「そういうものである」と認識していたからにすぎない。


結局彼の親は、まだ幼く言葉を知る前の彼に“ラーフラ(悪魔)”と名付けて捨てた。彼が己の名前を知っているのは、やはり、そのサイコメトリーの能力に拠る。捨てられた彼が唯一身につけていたものに刻まれた声。


「ラーフラ、お前はラーフラだ。やはりお前さえ、お前さえいなければ」


山に捨てられた彼が生き延びたのは、子を失ったばかりの母狼が彼を拾ったという偶然に過ぎない。複雑な言語を持たない動物は、彼にとって相性が良かった。ひょんなことからダンバーズの猟師に拾われるまで、彼は何年かを野山で過ごした。

きわめて壮絶な過去ではあるが、彼自身は世界は「そういうものである」と認識していた。誰を恨むでもない。憎むこともない。彼の精神は、穏やかさの中にあった。

龍の国に来て、初めて彼の本当の人生が始まったと言っても良いのかもしれない。彼は龍の加護により、新しい意志伝達の手段を得た。


その凄惨な経歴にも関わらず、彼はねじ曲がることも人間種全体を憎むこともなく、新しい能力の使い方を習得した。言葉を持たなかった青年は少しずつ、他人との関わり方を学んだ。彼が、育ての親である狼の手から猟師に受け渡され、その好意と善意と、わずかな偶然から龍の国に辿り着いたのは本当に幸運であったというしかない。


ラーフラが龍の国の住人となって最初に出会ったのがフランチェスカだった。

フランチェスカには、社会人として困った部分もあったが、その思考回路は、かつてともに暮らした狼と同じように、傷だらけの手を持つ猟師のようにシンプルだった。彼女はあまり二つのことを同時に考えない。自身と自身の仲間が生存することを第一に考え、他人のことを深く考えない。彼女の使っているものに触れる時、不快な感情や苦痛が彼を襲うことは少なかった。簡単に言えば、彼女は深層心理のレベルではたいへん気持ちの良い人物だったのだ。


彼女がそうしているように、ラーフラも彼女のことを愛称で呼ぶが、人によって聞こえ方が違う。フランカ、と聞こえる者もいる。チェスカと聞く者もいる。ラチェットと聞こえる者だっている。つまり「愛称という概念」なのだ。念話には、そういった奇妙な曖昧さがある。


彼の生来の能力であるサイコメトリーは、それを他人に伝える能力の開花によって、彼を龍の国随一のシーカーの座に押し上げた。隠されたものを探索する能力、起きたことを掘り起こし、真実を暴く能力。誰も彼の前で嘘を吐き通すことができない。


(代わろうか)


ラーフラの声はやさしい。


「ああ、これは、私にはちょっと難しいな」


素直に一歩、場所を開けるフランチェスカが目をやると、傍では痩せた男がまだ咳き込んでいて、シジマがその背中をさすっている。振り払う元気も残っていないらしい。シジマは男に対してまだ、徳がどうのといったことを語りかけている。

軽いため息をついて彼女は相棒の手に目を戻した。


人差し指と中指を抜いた手袋。傷がいくつか残る、ラーフラの白く細い指が、書棚に伸びた。彼が書棚に残された情報を読むとき、部屋には、しいん、とした音が満ちた。


いくつかの手順を経て、書棚を留めていた仕掛けが外れた。

横で眺めていたフランチェスカが満足そうに肯く。


「さすがのものだ。手際がいいな」

(まあ、分からないものは見たものを見たままになぞるだけだからね。インチキだよ)

「謙遜するな。才は誇っていい」


ラーフラはそもそも器用な方だったし、こと仕掛けの解除にあたっては、サイコメトリーによって製作者が込めた思いを読み取るという反則技もある。彼が失敗するということはほとんどなかった。

うずくまっていた男が、えずきながら2人を見上げる。ギラついた目だった。シジマは彼の背をさする手を止めた。


「シジマ、最後にもう一度確認するが、この奥なんだな」


フランチェスカは置いてあった剣をいつのまにか下げていた。例の六角の杖をついて立ち上がり、シジマは少し逡巡してから肯く。


「自信がないのか」

「うまく言えません。ただ、それはとても、近くにある…」


フランチェスカは軽く頷いて咳払いをした。


「そこの、その、まだ名前を聞いていなかったな。貴殿、名乗る気はあるか?わたしはピンストライプ。フランチェスカ・ピンストライプだ」

「……」


男に語りかけるが、返事はない。もとより期待はしていなかったようで、女騎士はそのまま続けた。


「そう怖い顔をしないでほしい。確認と、了解をとっておきたいだけなのだ。この奥にあるものは、貴殿らにとって重要なものなのかどうか。私が知っておきたいのはそこだ。無害な祭祀物なのであれば、可能な限り敬意を払おう。中に居るもの、あるものについても、事前申告をしてくれたものについては、向かってこない限り、なるべく殺さぬように配慮するつもりだ」


ちら、と彼女はムル喰いの死骸に目をやる。


「殺すのは、楽しいことではない」


本心だった。彼女は戦闘狂ではない。いや、正確にいうと“ 戦闘狂”の気はある。しかし、殺戮狂ではない。戦うこと自体は好きだが、殺すことを楽しむわけではないのだ。


ムル喰いは、種としては人を捕食しうる猛獣だが、おそらくは戦闘経験のない個体だった。体長からしてもまだ、成体とはとても呼べない。その未熟からか剣に対する対処方法を知らず、ただ飛びかかってきて傷を負った。

人肉の味を教えられたというが、おそらくは「餌」として与えただけだろう。明らかに自分より弱い相手としか戦ったことのない個体だった。

傷を負った獣は、時に凶暴になるがその分行動が読み易くなる。初撃で前腕に深傷を負った獣には、最初から勝ち筋はほとんどなかった。距離をとった際、体の大きさを利用して、室内の家具を投擲したり、引き倒して遮蔽物として使えば、あるいは違ったのかもしれない。もっとも、獣自身、彼女の鉄拳で目を回していたというのもあるだろう。飛び退いたムル喰いが体勢を立て直す時、小刻みに脚が震えているのを彼女は見ていた。それに、そこからの回復を待つまでの間で、前腕からの出血が十分すぎるほど体力を奪ってしまっていた。

すべては、もう、終わったことだ。

手負いの獣の生き延びる道を塞ぎ、彼女はその胴を斬った。初撃のやりとりの後、どこにも戦闘の高揚はない。ただ淡々と彼女は、手負いの害獣を駆除しただけだ。


フランチェスカはまたひとつため息をつき、書棚を引いた。軋むような音を立てて壁の一部と共に棚が動く。


(結局、鍵をどんなに工夫しても、最後は、全部おんなじ。“棚をずらす”んだよな)


ラーフラの軽口の通り、塞いでいたものをずらせば、その奥にあるものが露わになる。その意味では戦闘も、仕掛けも、構造自体はすべてシンプルではある。

隠し壁の奥には、さらに扉があった。古びた扉だった。覗き窓もない、灰褐色の木の扉に、鈍く光る真鍮のドアノブ。


奥に、魔獣の気配はない。獣の息遣いも、待ち構える戦士の気配もない。ただ、ひたすらに静かだ。部屋に入る前、中に複数の人間の気配がしていたのは気のせいだったのだろうか。

一頭は蹲り、一人は歩き回り、一人は座っていた。蹲っていたのはムル喰いで、座っていたのが痩せた男だ。彼女がそこに2人以上の人物がいると推測した理由は、ボソボソとした話し声が聞こえたからだ。声の主は移動しておらず、歩き回る気配だけがした。ほぼ間違いなく、少なくとも2人以上の人物が、ここには居たはずなのだ。ではもう一人は?この奥に逃げたのか?


答は、おそらくは、ノーだ。


書棚の仕組はそれなりに複雑だし、踏み込むまでの短い時間で開けるには無理がある。何らか、別の手段で脱出しているのかもしれない。

振り返って彼女は、室内をもう一度ゆっくり見渡した。特に隠れられる場所は見当たらない。敷物の類もない。さらなる階下に降りる穴を隠した跡もない。


何らかの手段で部屋を出たのではないとしたら。

論理的な結論は単純だ。もう1人はまだ、この部屋の中に姿を隠している。


壁際にあるテーブル。砕けた椅子。棚が幾つか。割れた食器、ムル喰いの死骸。流し台に、何かの作業台。壁掛けの鏡。


鏡?


「何か……何か、おかしいぞ、ラフィ」


フランチェスカは短い警告をして、部屋の対角にある鏡へ向かって踏み出した。ラーフラは死角を消すように彼女のいた位置に滑り込む。


(仕掛け棚に罠はなかった。ちゃんと視たけど、開け閉めしていたのは殆どそこの男だ。一応念のため、この扉も“視て”おく)

「頼む。シジマはその男を見張っていてくれ」


意味はなかったが、フランチェスカは眼前で剣を八文字に振った。何故だか、振らずには居られなかったのだ。彼女は神を信じない。そこには剣だけがある。

彼女が見据える先は壁にかかった鏡だ。少し角度がついているが、本来、その鏡が映しているはずのものが、映っていないように思えた。それはまるで、鏡面ではなく鏡を模した絵のように。


シジマが痩せた男に向き直り、ラーフラは手袋を脱いで準備をした。痩せた男は、フランチェスカの向かう先を、怯えたように見た。フランチェスカはゆっくりと歩き、ラーフラの傷の多い掌があがる。彼の白く細い指がドアノブに触れた。


瞬間、電撃のような悲鳴が室内にいる全員の鼓膜を灼いた。


(ッワァあア!アァあ!!!)


正確には、悲鳴という概念だ。一拍置いて、全員の脳に爆発のような苦痛が流れ込んできた。抉る痛み、焼かれる痛み、流血する倦怠感、絶望、切傷、裂ける頬の痛み、絶望。血の味。妹の悲鳴。


(アッ、アアア!ウグア!アアアア!!)


苦痛の質量に耐えきれず、シジマは即座に失神した。痛みはラーフラのものだった。正確には違う。ラーフラはドアノブを握ったまま、まるで雷に打たれたように身体を硬直させている。彼の一方的なテレパスは、脳が灼けるような出力で、彼の追体験した苦痛を撒き散らしている。彼の意識はもはやそこにはない。彼は白眼を剥き、追体験をかつてない強度で放射している。


(……!!…!)


痩せた男がぶるぶると震え、耳から血を流して倒れた。フランチェスカは目を見開いたまま、動かない。彼女の脳にも流れ込んでくる記憶。懇願、苦痛、後悔、祈り、苦痛、絶望。左腕を齧られる感覚。間近に聞こえるムル喰いの呼吸音、咀嚼音、妹の悲鳴。


フランチェスカは己の左腕を確認した。これは幻覚だ。自分の腕は、きちんと“ついている”。言い聞かせても追体験は止まらない。眼球を動かすだけで、ぎしぎしと音がするようだった。彼女は無意識のうちに唇を開いていた。口中に違和感がある。硬いものがある。

彼女の口腔内には自身の折れた歯と、そして、ラーフラの触れているドアノブが突っ込まれている。実際にはそこには何もない。幻覚だ。幻ではあるが、誰かが体験した真実でもある。

動かなくなった左腕が垂れた。


構えた剣が果てしなく重い。そこにあるように見えて、自分の腕ではないようだった。相棒の名を呼ぼうとして、思い出せないことに気付いた。妹の名。傷のない、丸い頬に突き刺さるナイフ。彼女の身体は動かない。


フランチェスカの鼻孔から、つ、と一筋の血が垂れた。


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