第20話 初版サイン本~翔~

「おはよう、作家センセー」


 突然の翔の来訪に伊吹は戸惑っている様子だった。


「どうしたんだい、こんな朝早く」

「ちょっといい?」


 廊下を警戒する素振りを見せると「入りなよ」と部屋に入れてくれた。


「なにか用かい?」

「この部屋からだと女用の露天風呂が覗けそうかなーって思って」


 窓際に立って外を眺める。

 夏の雲が朝日を受けて柔らかそうな凹凸を見せている。

 早くも鳴き出した蝉の声も騒がしい。

 今日も暑い一日になりそうだ。


「女風呂が覗ける部屋なんてあるわけないだろ」

「そっか。残念」


 朝日を背にして伊吹に振り返る。

 畳の青々とした香りが夏の朝の湿った空気に乗って鼻腔を擽った。


「なぁ、作家先生。旅は楽しんでる?」

「なんだよ、急に。楽しんでるよ」

「でもウザい奴もいるだろ。阿里沙とか、賢吾とか」

「別に。俺はそうは思わないけど?」


 警戒しているのか、本心なのか、伊吹は表情を変えずにそう答えた。


「昨日の『祈りの刻』とやらでは賢吾だけじゃなくて悠馬にまで指名されて大変そうだったじゃん」

「まあ、それは仕方ないよ。作家だってバレちゃってるから。ひとつもヒット作がない作家の願いなんて、だいたい想像つくだろうし」

「そう卑屈になるなって」


 翔はヘラヘラ笑いながらも、ヒット作がない作家だという情報を引き出し、内心ほくそ笑む。


「しっかし今日も暑くなりそうだな」


 話しながらなにか手がかりになるものはないか、視線をあちこちに向けていた。

 そのとき鞄から少しはみ出した本を見つける。


「あ、これ作家先生の書いた本?」


 どんな本か確かめるため素早く抜き出して手に取る。


「ちょっと。勝手に触らないで」


 慌てて奪い返しに来るのを見て、自著であることは間違いないと確信した。


「えっ⁉ これって」


 表紙を見て驚いた。

 それはかつて翔も読んだことがあるライトノベルだった。

 確かアニメ化までされていたはずだ。


「それは読みかけの本だ。返しなさい」

「なんだ。センセーが書いた本じゃないんだ。まぁ『オスメスヒヨコ』はアニメ化までされたヒット作だもんな。センセーの作品のわけないか」

「『オスメスヒヨコ』を知ってるのか? そこそこ古い小説だけど。君の年齢なら小学生の頃じゃないのかい?」

「ああ。古本屋で百円で売ってるの見かけて買った」

「作者に向かって古本屋で買ったとか言わない方がいいぞ。ましてや値段まで言うなんて」

「やっぱあんたが書いた本なんじゃん。ヒット作がないとかウソついて。ひでぇな」


 相変わらず感情的になるとすぐにぼろを出す伊吹に思わず吹き出した。

 ペラペラと捲り、拾い読みしながら内容を思い出す。


「てか、すげぇな。アニメ化作品の作者かよ。この小説、俺は好きだよ」

「ほんと? ありがとう」

「一巻ソッコーで読んで二巻からはフリマサイトで買ったもん」

「だから作者の前でそういうこと言うなよ。嘘でも本屋で買ったって言え」

「学生は金持ってないから仕方ないだろ」


 本を返しながら改めて伊吹の顔を見る。

 作家の顔なんてものは見ない方が夢があっていいなどと失礼なことを思った。


 いつもの彼ならそのまま口にしてしまうが、そうしなかったのは本当に作家『ポンコツらーめん』の作品を気に入っていたからだ。


「やっぱりアニメ化作品は知名度があるな」


 伊吹は口を歪めて静かに笑った。

 自慢気というのとは違った笑みだった。


「まあ俺は『オスメスヒヨコ』より『死人使いの英雄譚』の方が好きだけど」

「えっ⁉ 死人使いも読んでくれてるんだ⁉」

「ヒヨコが面白かったから、他のはどんな感じなのかなって」

「そうなんだ。それは嬉しいな。あれは俺のデビュー作なんだよ。あ、どこで買ったかは言わなくていいからね」

「すげぇな。『ポンコツらーめん』先生に会えるなら本持ってきてサインしてもらえばよかった」

「中古本にサインなんてしないよ」


 伊吹は寂しそうに笑いながら毒づいた。

「そんなもの欲しかったら」と伊吹はサインペンを手に取り、表紙を捲ってサインをしたためた。


「この本をやるよ」

「いいのかよ?」

「ああ。そんなもん、家にまだなんぼでもあるから。出版社からの著者献本以外にも街の書店で見掛けては嬉しくて購入したものが山ほどある。そのかわり他の人には俺の正体を言うなよ?」

「分かった。ありがとう」

「しかしまさかこんなところでファンと会うとはな」

「それは俺の台詞だ。まさかこんなとこで好きな小説の作者と会うとは思わなかったし」


 それから翔は『死人使いの英雄譚』の中の好きなシーンや気になる部分について伊吹と話した。


「でも終わり方はいまいち好きじゃないんだよな。なんかこう、少し殺伐としてて。嘘臭くてもいいからもう少しハッピーエンドにしてもらいたかった」

「そうかな? あれはあれで俺的にはいいと思うんだけど」

「悪くはないけど、なんかこう、すっきりしないんだよなぁ」

「最近の作品も読んでくれた? 『荒廃した世界を平和にしたらお払い箱行きにさせられたのでこれからは田舎でのんびりスローライフを送ります』とか」

「いや。それはまだフリマサイトでもあんま安くなってないから買ってない」

「だから本屋で買えよ。ファンなんだろ」


 伊吹のペンネームまでバレたらますます賢吾たちから狙われるのは間違いない。

 内緒にすると約束したし、この事実は誰にも話さず隠しておこうと翔は考えていた。

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