第3話 箱

「なんて言うの?」

「えっ?」

 テレビやスマホでは見たことがあるが、実物を見るとおよそ人工の物とは思えない巨大な黒い箱を見上げていると、いつの間にか隣に立った男が話しかけて来た。

 同じか、少し年上。それでも多分30歳にはなっていないだろう。髪を短く刈り上げ、色白で鋭い、神経質そうな目つきと、薄い唇をしている。

「いや、だから、名前」

「えっ?ああ…飛鳥川あすかがわ

「へえ、飛鳥川。アスカが苗字で、ガワが名前?変わってんね」

「…いや、なんかごめん。飛鳥川が苗字で、名前はたける

「ふ~ん。あっそう。オレは石瀧いしだき亮平りょうへい

 そういうと、石瀧と名乗るその男は、さっさと行ってしまった。

 何だったんだ、と思いつつ、俺は再び箱を見上げた。

 蝉が信じられないほどの数と音量で鳴いている。

 神奈川にある研修所から、最寄りのベースまではヘリで移動したが、そこからは徒歩で移動。

 たった15分歩いただけなのに、汗が首筋を伝うのが感じられた。

 額の汗を、袖で拭う。

 まだ8時なのにひどく暑い。

 今年もまた、猛暑なのだろう。

 手袋の掌にある伸縮性のタッチパネルで、温度を下げる。

 さすが官民一体のプロジェクトだけあって、装備品はインナーから戦闘服に至るまでなかなかの物だった。

 インナーは上下とも「連続5日の真夏日でも快適」のキャッチコピーで知られるUN社のDDC《ドライ&デオドライズ&クール》シリーズの最新Ver。

 戦闘服は、自動車業界の雄であるTO社と、総合電機メーカーSO社のJV《ジョイントベンチャー》であるTSOエンタープライズと専守防衛隊が共同開発した代物で、従来の防刃防弾効果に加え、防圧効果を大幅に強化した強化戦闘服。

 直接的な打撃に5tまで耐えられる上に、空気の流れと太陽の光を利用したエアーコンディショナー機能付きの優れもの。にも関わらず、軽量化されていて、ほとんどジャージ並みの重さだ。その細かい気遣いと職人芸的な所が、まさにメイドインジャパン。

 おかげで、確かに首から上は暑くてやり切れないが、下は爪先に到るまで、程よいとしか言いようのない状態に保たれていた。

 今の所、下腹や太もも、脇の下に汗の予感すらない。

 ヘルメットを被れば、日よけにもなり、同様の仕組みで頭も涼しくなるという話だったが、なんとなく夏の空気を浴びていたくて、首から後ろに下げたままでいた。

 ひとつには、誰も被っていないからでもある。

 それにしても、専守防衛隊富士南臨時ベースから4㎞ほどの距離だと教えられたが、歩けど歩けど、その巨大な建造物はほとんど大きさが変わらず、近づいている気がしない。

 今年初めの1月に東海地方で起きた、大きいけれど左程深刻ではなかった地震の後、箱の正面上部100mほどが地表に露出したとニュースで言っていた。

 入り口は正方形、形状は長方形の立方体で、露出部以外、地中に埋もれているために全長は可視化出来ないが、何とか言う特殊技術で計測したところ、全長おおよそ100㎞の長さがあると、これもニュースで言っていた。

 1月に入り口部分とされる箇所が発見されて、半年。

 政府は、専守防衛隊を中心とする特別チームを編成し、露出部周辺の土を掘り起こし、地中深く1㎞ほど下に掘り進んだところに、入り口と思われる扉かを見つけた。

 今、そこに向かっている。

 リアルに目の辺りにする箱は、余りにも巨大で、それゆえにとても人の手によるものとは思えず、普段見慣れている空を背景にすると、日常とかけ離れていて、まったくの異形だった。仙台観音や、牛久の大仏を見た時に似ている。

 思わず足がすくんで、ぼおっと突っ立ったままでいると、後ろから肩を叩かれた。

 振り向くと、13部隊に9人いるコマンドリーダーの一人である船曳七穂ふなひきななほがそこに立っていた。

 他の8人の名前は、何となく(名字だけとか発音だけとか)しか覚えていないが、船曳七穂の顔と名前は憶えていた。

 なぜならば、完全に好みだったからだ。

 桜井日菜子を少し釣り目にして、優しさを取っ払ったような顔と雰囲気で、なおかつ色気が凄い。

 研修と言う名の訓練時、眉に掛かる、切り揃えた前髪はそのままで、後ろ髪をポニーテールにし、白いタンクトップで現れる彼女の二の腕や、胸の形、下着の線を見ることと、擦れ違いざまに香る仄かな香水の匂いを嗅ぐのが、数少ない楽しみの内の一つだった。

 話しかけたことはない。話かけられたことも。今までは。

 密かに目線で追っていた美女に肩を叩かれて、驚きと期待が交叉した。

「あの…」なにか、と言いかけたが、言い切る前に七穂が言葉を被せて来た。

「おい」

「はっ?」

「何をぼんやりしている。歩け」

 言い終わると同時に冷淡な仕草で顎を前に突き出すと、肩を押してきた。

 挨拶もなし。 

 俺は人に冷たくされているのに慣れてはいる。

 ただ、別に嬉しくはない。

 相手が美女ならなおさら。

 急にテンションが落ちたが、自分が組織の一員であることを思い出し、慌てて前を行く部隊の後を追った。


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