ふたつの現実 後編

〜ふたつの現実 後編〜




 何かあたたかいものに包まれたような、そんな感覚を覚えて、シェーナはふと目を覚ました。

 ひんやりとした石壁ではない、まだ温もりを残した柔らかな布が両手に触れて、いつの間にかベッドに移動していたことに気付く。

 しだいにはっきりとしてきた意識に、酷い気だるさが押し寄せた。


 一度は半分まで起こしかけた身体が、どさりと音を立てて、再び空しくベッドに沈む。

 手が、足が、重い。

 指先に力を込めて、両腕に力を込めて、身体を支えようとしただけで、額に脂汗が浮かんだ。


 少しずつ、少しずつ。

 まるで重りか何かがつけられているかのような身体をゆっくりと起こしながら、両腕を背に回し、重力に負けそうになる身体を支えつつ、荒く息を吐く。


「く……っ」


 ぐっと、両腕に力を込め、姿勢を支えたまま押し出すように身体を右へ右へと動かすと、震える右手でベッドの縁を掴んだ。

 右腕を軸に、身体を捻りながら、両の足を引きずってベッドの下へと下ろしていく。

 なんとか、ベッドへと腰掛けた体勢になると、膝の上に両手をつき、荒く続く呼吸を整えた。


「ふう……」


 息とともに出た声に、小さく驚く。

 昨日は全く出なかった声が、嘘のように響いた。


「……」


 左手を膝に当てたまま、右手を口許に運ぶ。

 親指を顎に、残りの四本の指を口を覆うように添え、少しの間視線を下へと落とした後、シェーナはゆっくりと顔を上げた。

 前のめりになっていた姿勢を、徐々に起こしていく。


 両腕と両足に徐々に力を込めて、何度もふらつきながらも立ち上がると、近くの壁に背を預けて天井を、部屋を見渡した。

 その後で、入り口の方へと目をやり、壁を伝い、足を引きずりながら木製の扉へと近づいていく。

 扉には、鍵も何も見当たらなかった。

 取っ手に手をかければすぐにでも開きそうなその扉へと腕を伸ばし、前を見据えた瞬間──


「失礼します」


 可憐な声とともに外側から内側に向かってそっと開いた扉が、シェーナの顔に鈍い衝撃を与えた。


 そっと開いただけあって衝撃自体もとても少ないのだが、大部分が意識でもっていたようなシェーナの身体は、そのままよろよろと場に崩れてしまう。

 ゆっくりと腰をつき、仰向けに倒れていった身体を見て、扉を開けた少女は一度目を見開いて、それから大きく口を開いた。


「きゃあぁぁっ、シェーナ様! シェーナ様ーっ!! わ……わたしは……なんてことを……! リリー……リリーの力で……! ……ああ! わたしはリリーが使えないのだったわ! こういう時は……なんだったかしら、これじゃなくて、これでもなくて……っ。……ああ、こっちは失敗作だから捨てなくちゃ……じゃなくて、今は効く薬を……あああああっ」


 割れない素材なのだろうか。

 目の前の少女の長い服の袖から、いくつもの透明の瓶のようなものが床に転がり落ちていく。


「だ……だい……じょうぶ……だから、落ち……着いて……」


 渾身の力を振り絞って、シェーナは上体を起こすと、膝を折り、床にぺたりと座る格好で少女を見上げた。


 今にも泣き出してしまいそうな少女を眺め、口の両端をゆっくりと持ち上げてみる。

 口許や顎を震わせながらも作られたその表情はいびつだったが、シェーナの言葉と、その表情とを目にした少女は、両目から涙を溢れさせながらシェーナへと抱きついた。


「よかった……! このまま倒れたままだったらどうしようかと……! よかったですっ! ごめんなさい、シェーナ様……! ああ、ほんとうによかった……! ……それに、お声も……」


 座るだけで精一杯で、抱きつかれるままになっていたシェーナは、少女の両肩が小刻みに震えているのに気付く。


「あの……大丈夫……ですか? ええと……」


 小さく呟くと、少女ははっとしたように身体を離し、非礼を詫びてそっと扉を閉め直し、シェーナの前へと座った。


「取り乱してしまってすみません、シェーナ様。わたしはルーアンと申します。あなた様のお世話をするようにと仰せつかっておりますので、何かございましたらいつでもお申し付けください。わたしのことは、どうぞルーアンと……」


 座ったまま両手の指をほんの少し重ねて床につき、深く頭を垂れて、それからゆるやかな仕草で頭を上げると、柔らかく微笑んで少女は言う。

 澄んだ銀の髪が、ふわりと揺れた。


「あ……すみません。……ルーアンさん」


 シェーナはゆっくりと口を開くと、少女の、ルーアンの藍色の瞳をまっすぐに見つめて、言葉を紡ぐ。


「──教えていただきたいことが、あります」


 短く、重い言葉。


 果ての無い後悔と失意と、消えることの無い残像と、曖昧な現実の渦の中、微かに揺らめいていた小さな想い。


「──」


 シェーナの言葉に、ルーアンはゆっくりと頷いた。


「わかりましたわ。お答えしても、シェーナ様への答えとなるかは解りませんが……わたしの知り得る限りの全てのことを、シェーナ様へお話しましょう」


 ふわりと、銀の髪が揺れ、ルーアンはすっと立ち上がる。

 扉へと数歩歩いて取っ手を握り、振り返って、真剣なようでどこか悪戯っぽいような、不思議な表情を見せた。


「そのかわり──」


 ルーアンが振り向きざまに小声で言った言葉を聞いたシェーナは、ルーアンへと頷き返す。

 その頷きを見て嬉しそうに微笑むと、長い裾を翻して、ルーアンはぱたぱたと走っていった。




『お話は時間がかかるうえに、最後まで聞かないとわからないこともあります。最後まで聞くことを、約束してください』




 その言葉に頷いたことを、今では軽く後悔している。


 話は数時間……長くても数日で終わると思っていたし、話だけだと思っていた。

 眼前にあった二つの分かれ道を、あの時一心に進もうとしていた方角……消失の方角へ向かって進むのは……。


 ──そう、朦朧とする日々の中、奥底で微かにくすぶり続けた疑問の答えを聞いてからでも、まだ遅くはないかと、ふと思ったんだ。


 思ってしまったんだ。




「策士め……」


 夜明け前の薄闇に染まった宿の一室で、シェーナは無意識に微笑んでいた。

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で、寝言を呟く。


 ルーアンが意図していたことはもちろん、話そのものだけではなくて──

 結局、今現在も、その話とやらが終わっていないのが笑えるところだ。


「──ん」


 毛布の中、うっすらと眼を開いたシェーナは、先ほどまで見ていた夢を思い出して目尻を緩めた。


 ゆっくりと立ち上がると、机の上に置いてある、いつかルーアンから渡されたシエラねえさんのリボンを手の平にのせてみる。


 そっと握ると、少しの間黙祷した。





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