第4話 独仏第4帝国双頭会談

2021年9月12日(日)

パリ・エリゼ宮フランス大統領官邸


「あら、エマニュエル。しばらくぶりね。貴国の方々には辛いことになってしまったけれど、3年後のパリでは素晴らしいオリンピックが見られることを確信しているわ」

「それはどうも、アンゲラ。我々こそドイツ選手団の活躍に改めて賛辞を贈りますよ。

 ですが、今夜の用件はオリンピックの話ではないのです」

「……というと、例の件ですね」


 いわゆるホットライン直通回線の歴史は、20世紀の前半に米英の官邸を結んだ専用線にはじまる。


「ええ、我々のパリ。そして、あなた方のベルリンとハンブルク。

 さらには北欧諸国……東欧……スペインやポルトガルまで……あまりにも多数の国で次々と発見されている、例のCOVID-19新型コロナウィルス培養コンテナの件ですよ」


 それからおよそ80年を経た2021年のヨーロッパにおいても、各国首脳をつなぐ直通回線が存在しているが、それは誰もがイメージする有線の電話ではない。

 今、パリのエリゼ宮フランス大統領官邸執務室で悠然と長い足を組むエマニュエル・マクロン大統領も。そして、ベルリンの連邦首相府執務室で物憂げに視線を落とすアンゲラ・メルケル首相も。

 手に持っているのは大仰な有線電話の受話器ではなく、一般的なスマートフォンであった。すなわち、21世紀のホットラインとは首脳同士をつなぐ有線電話ではなく、各国通信会社によって提供される専用アプリケーションを介して高度に暗号化された、インターネット電話である。


 もっとも、夢を壊してしまうならば、そもそもホットラインの始まりとは電話ですらなかった。それはテキストやイメージデータをやりとりするテレタイプやファクシミリに始まった。少なくとも音声通話ではない。

 つまり『データ』で始まったのがホットラインの歴史と言える。ならば、音声を『データ』に変換してやりとりするインターネット電話は、ある意味でホットラインの先祖返りとも言えるものだった。


「我が国の分析結果をお聞き頂けますか、アンゲラ」

「ええ、聞くわ、エマニュエル。それが恐ろしいものであることは分かっています。

 でも、今だけは神に祈らせてもらうわ。我がドイツの分析結果が気まぐれなミスであることを。そして、あなた方フランスがまったく正反対の結果を出したことを」

「ありがとう。では、我がフランスの分析結果をお伝えします。

 パリで発見されたコンテナは、まぎれもなく新型コロナウィルスの培養を目的とした高度自動化プラントです。

 それは細胞組織を使った養液を……つまり、ウィルスが長期にわたって存在し、増殖できる『海』とでも言うべき液体を使って、想像するも恐ろしいレベルの新型コロナウィルスを培養します。

 冷凍コンテナに見せかけていますが、電源を確保するためのフェイクです。恐ろしいことに無人でウィルスを培養し、そして冷凍機の排気にみせかけて任意の地点でウィルスを散布する仕組みが備わっています」


 マクロンの声は冷戦時代にソ連の侵攻を告げる時ほどに真剣だった。西ドイツへ向けてT-72の大軍団が突進していると宣告するかのようだった。


「ああ……」


 そして、メルケルが応じる声もまた、あまりにも憂鬱だった。東西ドイツに戦術核の雨が降ることを想像した時のようだった。


 むろん、どちらも仮定の過去であり、史実ではない。西ドイツへソ連の戦車軍団が侵攻することはなかったし、戦場となることはなかった。つまり、第二次世界大戦後、最悪といってもよい事態が2021年のフランスとドイツには到来しているのだ。


「そう……やはりそうなのね。我々ドイツの分析結果も同じです。

 続きはこちらから言わせてもらうわ。そのウィルスの『海』の話ですけれど」

「ええ、結構ですとも。考えてみればあなたは物理学者でしたね。私よりよほど理解が深いはずだ」

「ありがとう、エマニュエル。

 ウィルスは……ご存じの通り、細菌とは違うものよ。細菌は条件さえ合えば、自己増殖ができるけれど、ウィルスは何かの細胞に寄生しなければ生きていけない……増えることもできない……」

「そうですね。つまり、キノコのように人工の培地で増やすことはできません」

「通常の研究ではラットを使うそうです。でも、一番向いているのは……私たち自身の細胞。つまり、人間自身の細胞です。

 当たり前のことね。多かれ少なかれ、人間に対してどのように作用するか調べるために、ウィルスを増やすのだから」

「そして、今回の発見されたウィルスの『海』は……」

「ええ、人間の細胞が使われています。

 DNAデータが示唆するところでは、恐らくウイグル少数民族の細胞……人体実験の結果なのか、あるいは死者から抽出したのか、もしくはクローンなのか分からないけれど……どちらにしても、養液に使われていた細胞のDNAデータは同一でした」

「ただちにデータの交換を行うこと提案します。恐らくフランスとドイツで同一のDNAデータが得られるはずです」

「ええ、そうね。直ちに行いましょう。ああ……ああ、エマニュエル……」

「……どうしました、アンゲラ? ご気分が優れないので?」

「いいえ、違うのよ。違うわ……ああ……悩むのよ、苦しいのよ、私は」


 罪の告白をするようなアンゲラ・メルケル首相の口調に、エマニュエル・マクロン大統領は思わず絶句した。


(会うたびにずいぶんと疲れているとは思っていたが……これほどとは)


 アンゲラ・メルケル首相は先進国首脳の中でもっとも長く政府を率いている人物である。

 第一次メルケル内閣が成立したのは、リーマン・ショックより遙か以前の2005年11月。この時点でほぼ16年間、ドイツの━━つまりEUのトップに君臨し続けたのが彼女だった。


(だというのに、今の彼女はどうだ)


 もはやその弱り切った声からは『鉄のお嬢さん』と呼ばれた強さは感じられない。マクロンには今のメルケルが、相次ぐ戦乱に打ちひしがれ、途方にくれている農婦のように感じられた。


「こんなことを言ってすまないわね、エマニュエル。ドイツ連邦を代表して言うのではないのよ。友として……国家を率いる長として……同じ立場のあなたに弱音を吐くのよ。

 ああ……どうしてこの世界は……我々の欧州はこんなことになってしまったのかしら……」

「アンゲラ、あなたは……」

「ソ連がなくなって……東ドイツもなくなって……やっと自由と平和を手に入れたのよ、私たちは。

 どこにでも行ける。何を言うこともできる。どんなに素晴らしいと感じたことでしょう。

 もちろん困難もたくさんあったわ。それでも……私たちは手を取り合って乗り越えて来たつもりだった……すばらしい私たちのEU……もう争うことなんてない欧州……それを夢見ていたわ」

「今だってそれは存在し続けていますよ、アンゲラ。

 我々フランスは、このエマニュエル・マクロン大統領は、あなた方ドイツと、そしてアンゲラ・メルケル首相と手を取り合って、欧州の発展に尽力してきたではありませんか」

「そうかもしれないわね。

 けれど、私は……ああ……あの人達を……シリアの人々を受け入れたことは……正しかったのかしら……」


 やはりそれか、とマクロンは思った。言うまでもなく、シリア難民のことである。


 内戦状態が続く中東のシリアで発生した、実に1000万人を超える難民が欧州へ大規模に押し寄せたのは今から6年前のことだった。


(アンゲラは彼らを受け入れようと先頭に立った)


 その頃、まだマクロンはフランス大統領ではなかった。だが、アンゲラの人道的な姿勢に感銘をおぼえたことは忘れていない。


(だが、彼女の進もうとした道は……あまりに多難だった)


 難民たちのうち、幸運な数十万人は欧州各国に移民として定住することを許された。

 しかし、その過程では異質な共同体がぶつかりあう時に起こるあらゆる問題━━そう、犯罪も含めたあらゆる問題が発生した。

 殺人や強盗ですら例外ではなかった。人類のあらゆる歴史が示している通り、まったく違う文化をもつ異民族が他国に定住することは、それだけ難しいことなのだ。


「新型コロナウィルスでシリアから来た難民の人々がどれだけ犠牲になったか、貴国には統計がありますか、エマニュエル」

「いいえ、私の知る限りではまったく。

 欧州にその統計を持っている国はないでしょう。調べようがありませんとも……確かに重篤な症状になって、検査を受けた人もいるでしょうが……」

「医療費が安い、あるいは無料の国ばかりではないですからね。

 1つの推計によれば、2020年の初頭の第1次流行で5000人以上が亡くなったと見積もられるそうです。冬の第2次流行では1万人……今年も流行があるとすれば、さらに犠牲者が増えるかもしれないと報告を受けました」

「想像するだけで胸が痛みますよ、アンゲラ」

「こんなことになるくらいなら━━いいえ、そう思いたくはないけれど」


 アンゲラ・メルケルが何を言おうとしたのか、エマニュエル・マクロンには容易に察しがついた。

 ━━難民の受け入れなどしなければ、と。

 メルケルは言おうとしたのだ。


(だが、忘れよう。この時だけは国益のためでなく、悩める我が友人のために)


 マクロンは己の誇りと魂に賭けて、永劫に忘れ去ると決めた。いつか自分が老い果て、曖昧の中でインタビューを受ける時でさえ、決して口にするまいと誓った。


「……あなたもよく知っている通り、半月後に我が国では選挙が行われるわ」

「そうですね、アンゲラ。それはあなたの花道だ。アンゲラ・メルケル引退後のドイツを決める選挙です。

 最後の仕事を立派に務められることを願ってますよ」

「ああ……出来るものかしら……」


 ━━何を、と。

 マクロンは問いたくなった。彼女自身が2年以上前に表明していたではないか。任期の限りで政界を引退すると。

 つまり、2021年の連邦議会選挙までが自分の政治家人生であると。


「ああ……出来るかしら……私は……解放されるのかしら……」

「………………」


 それから彼らは簡単なおやすみの挨拶だけをして、通話を終了した。


「ミシェル、1つのシミュレーションを頼みたい」

『なんなりと。大統領』


 そして、エマニュエル・マクロン大統領は傍らにずっと控えていた彼の側近へ1つの命令を下した。


「ドイツ連邦首相アンゲラ・メルケルが急死した際に、我がフランスとEU、そして世界に起こりえる影響について、だ」

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