第3話

 血まみれの祖父が運びこまれてきたのは、夜おそくのことであった。


 その日、ニヌムは農作業にかり出されたため、鷹狩りにはサンシュだけで出かけた。


 一日の作業を終え、くたくたになった体を、ガマの葉で編んだむしろ(敷きぶとん)と、コウゾの樹皮からとった繊維で作ったふすま(かけぶとん)との間に滑りこませる時間になっても、祖父はまだ帰ってこなかった。


 山の天気や狩りの状況によっては、野宿をして帰ることもある。だから、家族はそれほど心配していなかった。


 母やきょうだいたちの寝息が聞こえ、ニヌムもウトウトと夢の世界に旅立とうとしたころ、村がにわかにさわがしくなった。



(……なんだろう)



 かすかに聞こえてくる喧噪にあせりが混じっているような気がして、ニヌムはどことなくいやな胸さわぎがした。


 ニヌムは毛皮を引っかぶると、物音で目をさました母の制止も聞かずに、家を飛び出した。


 村の入り口に人が集まっている。その中心に、誰かが倒れている。


 あれは――祖父だ。


 サンシュがぐったりと横たわり、村人の肩を借りて起き上がろうとしている。その胸に、相棒のイモギを抱えこんで。



「――じいちゃんっ!」



 ニヌムが叫ぶと、みな振り返った。サンシュは、のろのろと重たそうな動きで、心配いらないとでも言いたげに手をあげた。不器用な、引きつった笑みだった。



「じいちゃん、どうして……どうしてこんな」


「ちいっと、ドジ踏んじまった。猛獣には気をつけてたつもりだったんだがなぁ」


「猛獣って……もしかして、トラ?」


「いんや、クマだ。ふつうなら冬眠してる時期なんだが、デカかったからな。あの巨体が入る穴となると、そうそうないだろ」


「〈穴持たず〉……」



 これには村人からも、悲鳴のような声があがった。


〈穴持たず〉とは、巣穴を見つけることができずに、冬眠しそこなったクマのことだ。空腹で気が荒くなった危険な存在である。そんなものが村の近くにいるとなれば、彼らの身もあぶない。


 だが、サンシュは首を横にふった。



「いいや……おそらくは、だいじょうぶだろう。イモギが追い払ってくれた。両目をつぶしたから、長くはあるまい。だが、イモギが……」



 サンシュは目に涙をうかべながら、腕の中にいるイモギに視線を落とした。



「イモギも、片目をやられちまった。ふつう、野生のタカは、自分より強い相手に立ち向かったりしない。それなのに、イモギは勇敢にもクマの顔に飛びかかって、おれを逃がしてくれた。おれが〈逸物鷹いちもつだか〉だ、りっぱな〈弟鷹だい〉だともてはやしていたせいで、イモギを〈独眼竜どくがんりゅう〉にしちまった」



 ポロポロと涙をながす祖父を見て、ニヌムはびっくりした。


 これまでサンシュはどんなことがあっても、決して涙を見せたことはなかった。今までも、けがや寿命でいのちを落とす鷹はいたが、いつも凪いだ水面みなものように、静かに見送っていた。


 その祖父が、まるで子どものようにわんわんと泣いている。


 なんだかとんでもないことが起こってしまったようで、ニヌムは凍りついたように、その場に立ちつくしてしまった。



「まあ、まあ! ひどいケガ。血まみれじゃないの!」



 いつの間にかかけつけていた母は、とても冷静だった。



「とにかく、家まで運んでちょうだい。ゴザを敷くから、その上に乗せて。まずはケガのていどを見なくっちゃ」



 テキパキと指示を出して、治療の準備をするために、さっさと家へ戻ってしまった。


 しばらくぼうぜんとしていたニヌムだったが、はっと我にかえると、あわてて母のあとを追った。



「ねえ、なにか手伝うことはある?」


「そうね。じゃあ、お湯をわかして、きれいな水を用意してくれる? ついでに、この針と糸も煮てちょうだい」


「わかった」



 ニヌムは転げそうになりながらかまどへ向かうと、ふるえる手でどうにか火をたいた。



(……じいちゃんが死んじゃったらどうしよう……)



 頭の中でいやな予感が、ぐるぐると回っている。それを振りはらうように、火吹き竹をふうふう吹いた。


 ただごとじゃない空気に目をさましたのだろう、きょうだいたちが不安そうに、



「ねえ、なにがあったの?」


「じいちゃん、死んじゃうの?」



と、しきりに母にたずねる声がする。



「だいじょうぶ。死んだりしないよ。さ、おまえたち、もう寝なさい。あんまりさわぐと、じいちゃんの傷にさわるよ」



 なだめる母の声を聞きながら、ニヌムはじんわりとうかんだ涙を、服のそででゴシゴシぬぐった。



(じいちゃんはだいじょうぶ。お姉ちゃんなんだから、わたしがしっかりしなきゃ!)



 姉がおろおろと泣いていたら、きょうだいたちも不安になるだろう。みっともない姿は見せられない。



(それに、鷹使いはつねに冷静じゃなきゃいけないんだ。狩りでいちいち動揺してたら、獲物に逃げられるし、いずれ大きな事故になる。じいちゃんに教わったじゃないか)



 脳裏に、イモギの姿がよみがえる。決して相対しないはずのクマに立ち向かい、片目をつぶされたクマタカの姿が。


 その勇気を思うと、ニヌムは腹のそこに気力という気力がたまり、ずんっと肝がすわったような気がした。


 お湯をわかし、煮沸した針と糸を持っていくと、母のほかに数人の村人が集まり、横たわる祖父を囲っていた。みな、心配そうにサンシュの顔をのぞきこんでいる。



「おかあさん、これ」


「ありがとう。じゃあ次は、かめから水をくんできて。こぼさないように、ゆっくりね」


「うん」



 台所に向かおうとして、ふとニヌムは思いいたって振り向いた。


 大人たちのすき間から、祖父の姿が見える。彼らは、サンシュの口に猿ぐつわ代わりの竹を噛ませて、その体を数人がかりで押さえつけていた。


 母が、祖父の体をきれいな水でザブサブ洗い、酒精の強い酒を傷口にかけた。よほどしみるのか、竹を噛んだ唇のすき間から、くぐもったうめき声がもれた。


 次に母は、針と糸で、傷口をぬっていった。


 祖父の体は、まるで鉄でできたサナギのようだった。ぎゅっと縮こまり、あぶら汗をかきながら、じっとたえている。



(ああ、これを見せたくなかったから、おかあさんは「こぼさないように、ゆっくりきなさい」なんて言ったんだな)



 そう理解してしまうほどには、ニヌムは聡(さと)い子どもだった。


 言われたとおり、彼女は甕から水を桶(おけ)にうつすと、汗を拭くための手ぬぐいを用意して、ゆっくりと戻った。


 そして、少し遠くから、



「おかあさん、お水だよ」



と、声をかけた。



「ありがとう、そこに置いておいて。それと、〈鷹部屋たかべや〉にケガをしたじいちゃんのタカがいるから、ようすを見てきて」


「わかった」



〈鷹部屋〉というのは、ふだん飼育したり、〈とや〉と呼ばれる、古い羽が新しい羽に生えかわる換羽かんうのための部屋だ。


 鷹部屋の中は真っ暗だった。ニヌムは、松脂まつやにをたっぷりとふくんだ松の根を燃やして、あかりをとった。


 暗闇の中に、ぼんやりと一羽のクマタカが浮かびあがる。



「……ああ…………」



 ニヌムの口から、ため息のような声がもれた。



(ひどい。目が血だらけだ)



 左目のまわりが真っ赤に染まっている。このままでは、血のりで目が膿んでしまうだろう。


 早くぬぐってあげなくてはいけない。でも、どうやって。


弓架ゆみぼこ〉(弓なりに曲がった止まり木。クマタカなど体重のある鷹に使う)にとまったイモギは、ダン、ダン、と〈架木ほこぎ〉を踏み鳴らしている。気が立っている証拠だ。


 これでは近づくこともできない。近づかなければ、血はぬぐえない。


 ――祖父なら。


 祖父なら、この状態の鷹でも、うまくなだめられるだろう。以前、〈爪嘴つめはし〉(鷹のくちばしと爪を丸くすること)をしたときも、とても手際よくこなしていた。まるで流れる水のような手つきで、タカを〈伏せ〉て――。


 そこまで思いいたって、ハッとした。



(そうだ。あのとき、〈伏せ〉のやり方を教わったんだった。小さなハシタカ〈ハイタカのこと。全長約三十から四十センチほどの小型の猛禽〉だったけど、最後にはひとりで爪嘴できた)



〈伏せる〉とは、タカの手入れや治療のため、動かないよう押さえておくことだ。


 これを成功させれば、イモギの目をぬぐってやることができるかもしれない。


 サンシュにはむりだろう。あれほどのケガだ、しばらくは動けまい。だが、祖父の回復を待っていては、イモギの目は膿んで、傷口から病気になるかもしれない。最悪の場合、落鳥らくちょう――いのちを落とす可能性もある。そんなに時間はかけられない。



「わたしが……」



 口に出してしまえば、決意が固まるのは早かった。



「わたしが、やらなきゃ」


 すばやくきびすを返し、道具を取りに母屋へとかけ戻った。

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